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21世紀の浄土真宗を考える会 SNS(期間限定)

「21世紀の浄土真宗を考える会」のSNSを作りました。
(先ほど作ったばかりなので、中身はありません)
招待制です。
参加ご希望の方は、ご一報下さい。
(参加していることが分かっているお友達に招待メールを依頼してもいいです)
とりあえずスタートしたばかりで、只今現在、近藤と宮田(山も山)です。
あとは自由にどうぞ。

SNSですので、ニックネームだけが公開されます。(その他は任意です)
なお、会の所属とかは全く関係ありません。

追加情報
 今日SNSを作ったばかりなのに、so-netから重要なお知らせが来まして、so-netのSNSサービスは今年の6月3日朝10時で終了するということで、このSNSは期間限定とします。それまでにはHPを作って、掲示板なども設けたいと思います。
 なお日記等に書いたことは、各自ダウンロードできるそうですし、コンテンツはきちんと引っ越しをしたいと思っています。
 その後、SNSを別のところで続行するかどうかは検討致します。

法蓮房信空ってどんな人

教義・安心のことではないですが……
親鸞会発行の『顕真』平成22年1月号の13頁に、信行両座の諍論について書かれている箇所に
「蓮生房は、源氏の一方の旗頭であった豪傑でしたが、信後、一体何をしていたのか。信空も、全く記録がありません」
とあります。

ウソばっかりです。

ウィキペディアの「信空 (浄土宗)」の項やことばんくの「信空」の項や、浄土宗のHPの「法蓮房信空」の項を読まれてもいいですが、『法然上人行状絵図』第43条には、次のように書かれています。
(なお、この本には法蓮房信空に関する記述はたくさんあります)

 白川の法蓮房信空(又号称弁)は、中納言顕時の孫、左大弁行隆朝臣の長男也。かの朝臣の室懐妊の時、父中納言顕時卿申されけるは、「汝が妻室のうめらんところ、もし男子ならば、かならず我養子とすべし」と、かの室家つきみちて、久安二年に男子を生ず。中納言これをよろこびて、乳母に酒肉五辛を禁ぜしめて、養い育てらる。
 保元二年十二歳のとし、墨染の布の衣・袈裟を、くるまのなかにいれて、黒谷の叡空上人にをくりつかわす状云、「面謁の時令申候、小童登山候、剃髪して、この法衣を着け、名利の学道をへずして、速かに出離の要道を授けたまえ」。仍登山の翌日に出家して、薫修功つもりにければ、道徳三塔にきこえ、名誉九重にをよぶ。二条院ことに御帰依をあつくしましましけり。
 叡空上人入滅の後は、源空上人に奉事して、大乗円戒を相承し、又浄土の経門をならひ、念仏を修して、まのあたり白毫を拝す。このひじり、毘沙門堂の法印明禅に対面のことありけるに、法印たづね申さるること、内外典にわたりて、いづれも分明にこたへ申されければ、所学の程ゆかしくおぼえて、「いかなる明師達にか、あひ給へりし」ととひ申されけるに、「幼稚のむかしより、たゞ法然上人の教訓をかうぶれるほか、きけるところなき」よし申されけり。
 「このひとの才学の程をおもふに、師範上人の恵解の分おもひやられて、いみじくおぼえ侍し」と、法印のちにかたられけるとなむ。さればにや、法印但馬宮へ進ぜられける状にも、「このひじりの事をば、内外博通し、智行兼備せり。念仏宗の先達、傍若無人といふべし」とぞ、のせられて侍る。行年八十三、安貞二年九月九日、九条の袈裟をかけ、頭北面西にして、上人の遺骨をむねにをき、名号をとなへ、ねぶるがごとくして、往生をとげられにけり。

〔語句の説明〕
道徳………仏道のほまれ
恵解………知恵をもって物の道理を了解する
内外博通…内典・外典にわたって広く知る
傍若無人…肩を並べる人がいない

どうせ調べる人は誰もいないだろうと、読者を馬鹿にして、自分に都合が悪いとウソをついてごまかすことは、この顕真の編集者にとっては善のようです。

十方衆生とはいうものの…

 第十八願の十方衆生と第十九願・第二十願の十方衆生は異なるということを、エントリー“生因三願の「十方衆生」についての考察”にて、述べましたが、まだ分かっていない人がおられるようですので、『真宗大辞典』(永田文昌堂)の「十方衆生」の項の説明を引きます。

 四十八願中の第十八・第十九・第二十の三願には十方衆生とある。十方世界に棲息する無数の生類を総称して十方衆生という。即ち人類・天衆・禽獣・虫・魚等を総括してかく呼んだのである。第十九・第二十の両願には共に十方衆生とあって、広く一切衆生を救わんと譬える如くなれども、立願の精神を究れば、第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り、第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る故に、漏らす所多々あれども、第十八願は十方衆生智愚善悪を問わず修行の堪不を論ぜず、皆ひとしく全く仏力にて救わんとする誓願なるが故に、一の衆生として漏るることがない。そこで第十八願の十方衆生の言は一衆生をも漏らすことなくその意が至極広いが、第十九・第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、その意は狭いとする。


 引用は以上です。
 さらに、別の言い方をしましょう。

 第十八願には「唯除五逆誹謗正法」とあります。これは「抑止門(抑止文)」の意と言われていますが、抑止する必要があるからこのように言われているのです。
 もし、第十八・第十九・第二十の三願の十方衆生が同じ意味ならば、三願ともに「唯除五逆誹謗正法」となければならないのです。ところが、第十九願・第二十願にはありません。必要が無いからです。
 『真宗大辞典』の「第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り、第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る」というのが、このことを表わします。

デジャヴ

今日の夕食は某カレーチェーン店で済ませました。
ビーフカレーを注文しました。
やがて持って来られたビーフカレーを食べようとしたところ、ビーフが入っていないのです。

私 「これビーフカレーですか」

店員Aが店員Bに「これビーフカレーだよね」(Bさんがこのカレーを作った人です)

店員Bが店員Aに「ハイ、ビーフカレーです」

私 「そう?僕はあちこちの○○(チェーン店の名前)でビーフカレー食べてるけど、ビーフの入っていないビーフカレーって無かったですよ」

店員Aが店員Bに「君、ビーフ入れた?」

店員Bが店員Aに「あっ!忘れました。すみません」

ということで私は何とか、ビーフカレーを食べることができました。

スゴイの話

センター試験の国語の第2問の問6は、
「この文章(問題になっている小説の文章)の叙述の説明として適当でないものを、次の 銑Δ里Δ舛ら二つ選べ。ただし、解答の順序は問わない。」
というものでした。
 正解はとい任靴燭里如↓´↓キΔ蓮崚当な叙述」ということなのですが、このうち,連でした。

 本文では、「スゴイ学校は他にいくらでもあった」「スゲェナ」「サムイ」などをカタカナで表記することで、これらの表現に話し言葉らしさや若者言葉らしさを与えている。


 つまり「すごい」という言葉は「話し言葉」であり「若者言葉」だということなのです。
 歎異抄第1章の「摂取不捨の利益」を「凄い弥陀の救い」と表現している人がいますが、「スゴイ弥陀の救い」とした方が良かったかもしれません。

深いみ心 徒然草236段より

センター試験も終わりましたが、教養として古文の勉強でもしましょう。
徒然草236段は試験によく出るのではないかと思いますし、皆さんの中にも中学・高校時代に習った人もいるのではないでしょうか。

【原文】
丹波に出雲と云ふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだの某とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その他も人数多誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信起したり。
御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

【現代語訳】
 京都の丹波地方にも出雲というところがある。島根の出雲大社の流れをひく立派な社が造営されている。しだ某という者の領地で、ある年の秋、聖海上人など大勢の人を招待して「是非当地の出雲神社にお参り下さい。おはぎでもご馳走いたしましょう」と(しだ某が言ったので)連れだって出かけ、おのおの拝殿でお祈りをして、大いに信仰心を起した。
 拝殿の前の獅子と狛犬が反対に向いて背中合わせになっているのを、聖海上人が見て感心し、「おお、この獅子の立ち方はなんと素晴らしいことだ。きっと深いいわれがあるのだろう」と涙ぐみながら「皆さん方にはこのすばらしさがお分りにならんのですか。それではあんまりだ」と言ったので、他の者たちもみな不思議がって「そう言えば本当に変っていますな」とか、「これは都への土産話としましょう」とか言うと、上人は、もっとそのいわれを知りたいと思って、かなりの年配の、いかにもこの神社のことに詳しそうな神官を呼んで、「ちょっとお伺いしたいのですが。このお社のお獅子の立て具合にはきっと何かいわれがあるのでございましょうな」と言うと、「それなんですよ。あれはいたずらな子供たちの致しました事で、けしからんことでございます」と言いながら近寄って向き合うように置きかえて、去って行ったので、上人の感動の涙は無駄になってしまった。

【読後感想】
「深いみ心」といっても、こういうことがよくあります。

「君達は何もわかっていないのだ」という言葉について考える

「君達は何もわかっていないのだ」
とよく言う人がいます。
 通常こう聞くと、そう言った本人は
「私はわかっている」
または「私は少しはわかっている」
または「私は全てわかっている」
ということを暗に示しているものと受け取ります。
 この場合、何について「わかっている」のか「わかっていない」のかが問題なのですが、「君達は何もわかっていないのだ」と言われると、字(言葉)の通り「何もわかっていない」と思ってしまうようです。
 しかし、よく考えると、「君達は何もわかっていない」と言っている人は、実は、法律のことも医学のことも建築のことも教育のことも経営のことも料理のことも漢字の書き順も「何もわかっていない」のです。そして「君達は何もわかっていない」と言われている人達の方が、「わかっている」ことが多いのです。

 では「君達は何もわかっていないのだ」という言葉は間違いなのかというと、そうではないのです。これが仏教のことについて言っているという前提で話をしているならば、正しいのです。
 しかし、一番最初に戻りまして、「君達は何もわかっていないのだ」と言った本人は、
「わかっている」のか
または「少しはわかっている」のか
または「全てわかっている」のか
といいますと、実は、やはり「何もわかっていない」のです。

 では阿弥陀仏に救われたと人とそうでない人と同じなのかと言いますと、一つだけ違うのです。
それが
「ただ念仏(南無阿弥陀仏)のみぞまこと」
なのです。

 たぶん「君達は何もわかっていないのだ」という言葉は、「迷情の四句は四句皆非なり 悟情の四句は四句皆是なり」という有名な仏教の言葉を現代風にアレンジして使っているのではないかと思います。
 この「迷情四句四句皆非 悟情四句四句皆是」という言葉は慈恩大師基(基というのが名前です)の書いた、『大乗法苑義林章』という書物に出ています。慈恩大師基は西遊記でも有名な玄奘三蔵の一番弟子で、法相宗を開いた人です。法相宗というのは簡単にいえば、唯識学を勉強する宗派です。
 もちろん「迷情四句四句皆非 悟情四句四句皆是」が、間違いだと言っているのではありません。これは正しいです。この場合「迷」「悟」というのは「凡夫」「仏さま」ということです。四句というのは自・他・共・離(無因)ということですが、私は専門ではありませんので、説明は省きます。
 この言葉は(特に「迷情四句四句皆非」は)、浄土真宗の学者の人達も使っていますので、それはそれでいいです。

 しかし、「迷情四句四句皆非」を「君達は何もわかっていないのだ」と言い換えて、まるで「水戸黄門の印篭」や「遠山の金さんの桜吹雪」や「暴れん坊将軍の顔のアップ」のように、相手を黙らせるために使ってはいけないと思います。

 ではどういうべきなのかといいますと、あくまでも一例ですが、
「君達は何もわかっていないのだ。そう言っている私も何もわかっていないのだ。ただ念仏だけがまことだと知らされるではないか」
と言ってもらいたいと思います。

 親鸞聖人のお言葉を聞かせていただきましょう。

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」(歎異抄第2章)

「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄後序)

※歎異抄第2章についての説明は「用管窺天記」の「歎異抄の仮定法」中の梯和上の文をお読み下さい。

御文章を拝読するにあたって

 法友のhiromiさんや皆友さんが『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)を読んでおられると聞きましたので、私も少し目を通しました。
 帖内・帖外のすべての御文章を現代語訳にされたものでなかなかのものです。
 ただ、読む際に気をつけなけらばならないところを、とりあえず一つ指摘しておきたいと思います。

【原文】
 このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。(御文章四帖目第八通 八カ条 最後の一カ条の後半)

【『蓮如の手紙』p121】
 このゆえに、南無とお従いするわたくしどもの「機(救われる側の信心)」と、阿弥陀仏のおたすけくださる「法(阿弥陀仏の本願)」とが一つとなるところをさして、「機法一体の南無阿弥陀仏(救われる側の信心と、その者を救う阿弥陀仏の本願のはたらきとが一つであるところの南無阿弥陀仏)」といいます。

【私の指摘・補足】
 上の文章の「一つとなる」という箇所が間違いです。
 その後のフレーズの中では、きちんと「一つである」と書かれています。
 「一つとなる」と「一つである」とは全く違います。
 原文は「一体なる」であり「一体になる」ではありません。「一体である」という意味なのです。
 難しい言葉でいえば「一つとなる」だと「転成一体」であり、「一つである」は「本来一体」です。
 蓮如上人が機法一体とおっしゃるのは「本来一体」ですので、あとのフレーズが正しいのです。

 このように、「タノム」「タスケタマヘ」「タスケタマヘトタノム」「タノムタスケタマヘ」や「機法一体」についての箇所は注意して読んでください。
 理由
 ・タノム等は現代と意味が異なる。
 ・機法一体はいろいろな意味がある。

信仰という言葉

興味深い論文がありましたので、ご紹介します。
稲城師の強調は下線、私の強調はボールド体で示します。
末尾に稲城師の説をまとめておきました。

『蓮如への誤解の誤解』所収の論文
 『蓮如への誤解』の問題点(稲城選恵師述) 三、信仰について より
 信仰という言葉も元来仏教の言葉である。『大宝積経』三十五巻「菩薩会開化長者品」第一によると、……、また同八十八巻の「摩訶迦葉会」にも、……、「大正蔵経」索引によると、「阿含部」から「蜜教部」まで、この『大宝積経』以外には出ていない。前の文の信仰は正しく信心とはその意を異にする。後の文も信心とも解せられるが、おの経典の意味は尊崇を意味するようである。それ故、宇井博士の『仏教辞典』では、
「三宝を信じてこれを欽仰するをいふ」
とある。また中村元博士の「辞典」にも同様に釈されている。この意味においては信仰は初起の信心というよりは後続に属する用語といわれる。あたかも『教行信証』総序の結尾にある。
「……遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。……」
とあり、更に「化身土巻」後序の結尾に、
「しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり、知るべし。 」
とある敬信や信敬の意味に通ずるようである。
 浄土真宗の上でも三経、七祖の上ではこの用語は存しない。更に宗祖の聖教の中にも見あたらないが、蓮如上人の『帖外御文章』や『聞書』には存する。−但し「帖内」には一ヶ所もない−『帖外』二十八通には、
「……しかりといへども、この当山にをひてはいよいよ念仏信仰さかりにて、一切の万民等かやうにまうすわれらにいたるまでも、……」
とあり、この場合の信仰は信心にも通じ、後続の尊崇の意味にも通じる。また「御一代記聞書」十三条にも、
「……まして、御一流を御再興にて御座候ふと申しいだすべきと存ずるところに、慶聞坊の讃嘆に、聖人の御流義、「たとへば木石の縁をまちて火を生じ、瓦礫のをすりて玉をなすがごとし」と、『御式』(報恩講私記)のうへを讃嘆あるとおぼえて夢さめて候ふ。さては開山聖人の御再誕と、それより信仰申すことに候ひき。 」
とあり、最も具体的にいわれている「拾遺聞書」ー一期記ーによると、……、この場合の信仰は正しく尊崇という意味である。それ故、仏教では信仰という用語は信心にも通じる場合もあるが、多くは法を尊崇する意味に用いられている。

 この信仰を浄土真宗の他力の信心の信心と同義とされたのはおそらく大谷派の清沢満之師によるものであろう。清沢満之の著作『精神主義』によると、「信仰問答」ー明治三十五年五月ーには、
信仰は自力であるといふお考へで差しつかへないと申しておきましょう。……しかるに信仰のためには自己をば内観反省して、信仰の必要を感じ、信ずべきものとあるからは何でも信ずるといふ決定がなければならないといふことであります……」
とあり、また「信仰と疑惑」「理解と信仰」によると、
信仰と理解は必ず調和すべきものとして、決して衝突すべきものにあらざるなり」
とある。また明治三十二年三月のものには「信仰の進歩」「他力信仰の発得」とあり、明治三十四年四月のものに「信仰の余瀝」を出されている。しかしこの用語はキリスト教の『聖書』にはじまる。明治の初年に出された『聖書』にも「信心」という用語は用いず、「信仰」を出されている。現在の『聖書』でも新約、旧約等しく『信仰』とあり、信心という用語は用いていない。それ故、キリスト教のどの辞典をみても信仰という語彙はあるが、信心という語彙はない。(略)「さて信仰とは望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とある。特に確信という言葉を出されている。(略)ここに信仰はしばしば用いている確信ということである。宗祖の信心の解釈にはこのようなものはみられない。
 宗祖の上では信の対句は疑である。それ故、信心を無疑といわれるのである。
(中略)
信仰と浄土真宗の信心とは全く似而非なるものである。

引用はここまで

【稲城師の説のまとめ】
・一切経の中で「信仰」という言葉が使われているのは、『大宝積経』だけであり、その場合でも信心の意味ではない。
・七祖、親鸞聖人は「信仰」という言葉は使われていない。
・蓮如上人が『帖外御文章』『御一代記聞書』の中で使っておられるが、主として法を尊崇する意味に用いられている。
・「信仰」を他力信心の意味で使ったのは清沢満之師である。
・また、「信仰」という言葉はキリスト教に由来する。
・確信するという意味の「信仰」は自力の信であり、親鸞聖人はそれを「疑」と言われた。
・そういう意味で、「信仰」は浄土真宗の信心とは似て非なるものである。

「タノムタスケタマヘ」 補足

五十嵐大策師の論文から引用します。
特に、源左さんや才市さんの言葉に注目されるといいでしょう。

『蓮如への誤解の誤解』所収の論文
 蓮如教学と『安心論題』 (五十嵐大策師述)より

 周知の如く、むかし西本願寺の教団で三業惑乱(一七九七−一八〇六)が起こりました。本如上人の『御裁断申明書』『御裁断御書』(以上の二消息は、『原典版』『註釈版』所収)に示されてあります様に、希願請求の義はあやまりで無疑信順の義が正しいと説かれております。この事は、大衆伝道の場でも大きな影響をおよぼしました。日常親しんでおります『領解文』の「たのむ一念のとき」や『御文章』にたくさん出てきます“タノムタスケタマヘ”の領解が、こちらからの三業によるタノムの義なのか、あるいは本願招喚の勅命に信順し許諾(きょたくとも読む。先方の弥陀の救いを許し承諾するの意)するの義なのかに、ともするとわかれる事になるからであります。その点、妙好人の中に「こっちがたのむのぢゃござんせえで」(源左)、「三業は人(私註自力)の安心」(才市)等と言って、信楽帰命、無疑信順の領解が示してあります。



また、才市さんの言葉もつけ加えておきます。

「胸にさかせた信の花、弥陀にとられて今ははや、信心らしいものはさらになし、自力というても苦にゃならぬ、他力というてもわかりゃせぬ、親が知っていれば楽なものよ。」

「弥陀にとられて」というのが「弥陀をたのむ」ということです。

「タノムタスケタマヘ」のまとめ

さて、これまで「タノムタスケタマヘ」について何回かにわたって、書いてきましたが、まとめたいと思います。

【タノムについて】
基本:「タノム」は請求ではなく、許諾である

1.蓮如上人が『御文章』等に使われている「タノム」は「お願いする」という意味ではない。蓮如上人時代には一般でも「タノム」は「お願いする」という意味では使われていない。

2.では「タノム」は「あてにする」という意味なのかというと、『御文章』に133カ所ある「タノム」のうち、「あてにする」という意味の「タノム」は5カ所であり、それ以外は「よりたのむ(憑託)」「よりかかる」という意味である。別の言葉で言えば、「おまかせする」ということである。
 「あてにする」という意味の「タノム」は、たとえば「かねてたのみおきつる妻子も財宝も」の「タノム」である。ここの「たのむ」を「あてにする」に換えても、「かねてあてにしてきた妻子も財宝も」となり、意味は変わらないが、「おまかせする」に入れ換えると、「かねておまかせしてきた妻子も財宝も」となり、意味が通じない。
 つまり「あてにする」と「おまかせする」では意味が異なる。

3.ところが「おまかせする」といっても、「私がおまかせする」ということになると自力になるが、そういう意味ではない。つまり、「おまかせする」という行為ではなく、「おまかせしている」状態である。

4.「タノム」は南無・帰命の和訓であり、自力ではない。帰命とは「恭順教命」「帰順教命(勅命)」であり、「信順二尊意」である。

5.「タノム」は阿弥陀仏に摂取せられていることをいう。

【タスケタマヘについて】
基本:「タスケタマヘ」は「タノム」と同義である

1.「タスケタマヘ」とだけ聞くと「助けてください」という意味にとるかもしれないが、これは間違い。

2.『御文章』に29カ所ある「タスケタマヘ」はすべて「タノム」と同じ意味で、阿弥陀仏の先手の勅命に対する許諾の意味である。

3.信順無疑の意味である。

【タノムタスケタマヘ】
基本:同じ意味の言葉をつづけて言われたもの

【タスケタマヘとタノム】
基本:同じ意味の言葉を「と」でつなげて言われたもの

補足:『領解文』(『改悔文』)の「御たすけ候へとたのみまうして候ふ」も同じ意味である。

たすけたまへとたのむの出処 続き

たすけたまへとたのむの出処の続きです。
『救済論序説』(稲城選恵師)からの後半部分です。

 次にたすけたまへの用語を『御文章』にはしばしば出されているが、既述の如くこの言葉がご再興の用語となっている。蓮如上人はこの用語は既述の如く、法然上人や劉寛律師によられてはいないようである。
(中略)
 しかればこのたすけたまへの用語は蓮師は何れによられたものであろうか。
(中略)
 蓮如上人の『御文章』に最も影響を与えたのはこの(浄土宗一条流の)『三部仮名鈔』といわれる。
 「たすけたまへ」もまさしくこの『三部仮名鈔』をうけたものといわれる。
(中略)
(蓮如上人は)この一条流のたすけたまへをそのまま(用語はそのまま、意味は逆に)用いて浄土真宗義とされたのである。というのは『御文章』の上ではたすけたまへを帰命の和訓とされている。八十通の『御文章』の中で、帰命の和訓には三つある。即ち「たのむ」「たすけたまへとたのむ」「たすけたまへ」である。たすけたまへを帰命の和訓とされているのは五の十三通―無上甚深の章―には

「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこゝろなり」

とあり、『帖外』一三一通にも

「また帰命といふはたすけたまへと申すこゝろなり」

とある。更に「たすけたまへとたのむ」は四の十四通には

「帰命といふは衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこゝろなり」

とある。それ故、たのむたすけたまへも全く同義である。等しく帰命の和訓である。帰命は宗祖の上では「本願招喚の勅命」もあるが、蓮師の上では『尊号真像銘文』にあるがごとく

「帰命とまふすは如来の勅命にしたがひたてまつるなり」

とある信順勅命の義である。
 しかるに一つのたすけたまへ請求にも信順にも用いられることは、この私が先行するとたすけたまへは、まさしく請求の義となり、逆に仏のたすけたもう法が先行すると無疑信順の義となり、宗祖の帰命の義となるのである。この転換に注意すべきである。特に「たすけたまへとたのむ」の「と」の一字は現代でも用いられている「二度と再び」の「と」といわれ、前句と後句との同一なることを意味するものといわれる。それ故、「たのむ」「たすけたまへ」も等しく帰命の和訓になっているのである。しかも特に注意すべきはたすけはたへはこの私が先行すると鎮西義の如く請求となり、逆にこの私が後手になるとたのむと同義になるのである。ここに真宗教義の根本義を明らかにされたのである。

〔訂正記録〕
H22.2.2
 『三経仮名鈔』⇒『三部仮名鈔』
 ※本文訂正済みです。

雨だれ安心

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)⑾所帰人法 より
 真宗にあっては、その所帰・所信は仏体でも名号でも示されていることは、すでにうかがった通りであります。それならば、仏体を所帰とする場合の帰命には、仏の仰せを受けて、私の方から仏に向かってお助けくださいとお願いする心相がある、という領解は正しいのでしょうか。
 このような領解を「雨だれ安心」だというのを聞いたことがあります。雨だれは上から落ちてきて、地面に当たってはね返ります。「必ず助けるぞよ」という如来のおよび声を受けて、「それではどうかお助けくださいませ」と、如来に向かってお願いするというのは、ちょうど雨だれの「はね返り」に似ているということでしょう。
 このような領解は誤っています。願いを求めるということは、まだ現に得ていない将来のこと(往生成仏の果)についていわれるもので、それは欲生・願生の意味であります。いま現に与えられている仏の勅命に対しては、仰せの通り信受して喜ばせていただくほかはありません。その心相を示すのが帰命であります。
 たとえば、空腹のとき、眼の前に食事を出されて、「さあ、おあがりなさい」といわれたならば、「有難うございます」と喜んで頂戴するばかりであります。その場合、「それでは、どうか食事をだしてくださいますようお願いします」という応答のしかたはありません。
 このことは、⑶「信願交際」における信と願との関係、⑽「タノム・タスケタマヘ」における「たのむ」と「ねがう」との相異について、すでにうかがった通りであります。
 宗祖は『尊号真像銘文』に、『浄土論』の「帰命……願生安楽国」を解釈されて(真聖全二―五六四)、

「帰命」ともうすは、如来の勅命にしたがいたてまつるなり。……
「願生安楽国」というは、世親菩薩、かの无㝵光仏の願行を信じて(信楽・帰命)、安楽国に生まれんとねがいたまえるなり。(欲生・願生)。

と示され、同じく『銘文』に『玄義分』の六字釈の「即是帰命」と「亦是発願廻向之義」を解釈されるところ(真聖全二―五六七)にも、右と同様の解釈が示されています。
 以上の通り、帰命は仏勅に信順する心相を示すものであって、名号を信楽する心相と全く変わるところはありません。したがって、仏体を所帰とする場合の帰命には、私の方から仏の方に向かってお願いする心相があるという説は、誤りであるといわねばなりません。

[くさい補足]
 「http://labo.wikidharma.org/」からのコピペではないかと思われ人もあるかもしれませんが、「http://labo.wikidharma.org/」の『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)の25論題中、⑵「三心一心」⑸「二種深信」⒁「五重義相」以外の22論題は、私が入力したものですから、手を抜いているわけではありません。
 なお、この本の著作権は切れてはいませんので、その点はお忘れにならないようお願いします。
 できれば、購入されたらよろしいかと思います。
 【ISBN】978-4-89416-413-0 【定価】\1,050(本体\1,000+税)
 です。

「機法一体」と「たすけたまへとたのみ」と「二河白道」との関係

【蓮如上人 『御文章』】
〈4帖目第14通 一流安心〉
一流安心の体といふ事。
 南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)といへり。まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。
さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず。このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。
註釈版聖典 1186頁

〈4帖目第8通 八か条〉
当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
註釈版聖典 1179頁

[補足]
 4帖目第14通は、二字四字分釈による機法一体のご文です。
 4帖目第8通は、青字が六字皆機の釈、ボールド体が二字四字分釈、赤字が六字皆法の釈です。
 大事なことは「衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころ」は「南無」であり、阿弥陀仏から与えられるということです。

【善導大師『散善義』 『教行証文類』信文類の引文より】
白道=機=信心という説明
〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
註釈版聖典 225頁

白道=法=願力という説明
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。
註釈版聖典 226頁

[補足]
 二河白道の譬の「白道」は、信心であり、また願力であるということです。
 つまり機法一体なのです。
 この一体という意味は、二つのものが一つになるという一体ではなくて、本来一体であるということです。
 間違えないようにしましょう。

 また、「二尊の意に信順」が「タスケタマヘトタノム」に当たります。

マカセヨ助ける

さらに再び加茂師からです。
『真宗の御法義』(加茂仰順師)より

真宗の信心

 阿弥陀さまの方から言えば「タノメ助ける」「マカセヨ助ける」です。
 私の方から言えば「弥陀をタノム」というのです。
 それで、つまり私は「弥陀の仰せ」を「はい」と頂くということしかないのです。
 「はい」と頂いたとき、助けられたのです。これが「信の一念」です。


 つまり、「そのまま助けるぞ」を、「はい」「ああ、ありがたや」と、頂いたのです。
 これが、「弥陀をタノム」ということです。つまり信心です。


 それが、「お浄土参り」は弥陀に「マカセタ」ということにしていただいたことになります。それですから、私がお浄土へ参らせていただくことは、まちがいないのです。


 そのあとは、称名を大切に退転なく相続させてもらうのです。これだけです。


 「わが口に 称ふる御名を わが耳に 聞いてよろこぶ ほかなかりけり」です。


 以上、このことは、鮮妙和上が仰せられていることです。

さらにしつこく「タノム」について

再び加茂師からです。
『親鸞〈信〉 ―本願の念仏―』(加茂仰順師)より

 私たちは、とかく「タノムモノヲ助ケル」のお言葉に迷って私がこの心でタノンデ助けてもらうように思っています。そんなことにこだわってはなりません。
 そしてまた申します。「自力ダノミは悪いが、他力のタノミの心はなくてはなるまい」と。
 それが、ご化導の逆さ聞きであります。自力・他力にかかわらず、私の方からタノムのではありません。それならば、どうして助かるのでしょう。
 私は、たのむどころの話ではない。まるきり逃げることにかかりはてているこの私を、大悲の親様は、そなたが参ってくれないと四十八願も水の泡、極楽浄土も立ち腐れになるから、いやでもあろうが来てくれよ。参るもとではこれこの通り名号六字と仕上げたゆえ、是非にの御たのみに、参る気のない、往く気のない私が往かねばならぬことに、させられてしまうが他力の往生であります。
 親様は恩にきるぞよ、礼もいうぞよ、後生一つはこの弥陀にはからわせてくれよと仰せられます。たとい他力のタノミでも、私の方からタノンダリ、まかせたりして参るなら、タノミ心や、まかせ方が少しでも違っていたら参ることにはなるまいに、今は大願業力の親様にタノマレテ参らねばならぬ身の上と知らせて頂いたら、私の方のタノミ心や、まかせぶりに違っていても、助かることと参ることは、いやでもやめにならぬとは、何とした確かなことでございましょう。何とした嬉しいことでございましょう。ほんにご恩のやり場がありません。


引用はここまで

「ご化導の逆さ聞き」という表現が素晴らしいですね。
いろいろな人の話をうかがいますと、だいたい「逆さま」です。

たすけたまへとたのむの出処

「タノムタスケタマヘ」について書いていますが、今日は稲城師の文を引きます。
非常に大切です。

『救済論序説』(稲城選恵師)より 長いのでまず前半を書きます

「たすけたまへとたのむ」の用語は『御文章』にはしばしば出されているが、この言葉は『御一代記聞書』一八八条には
「聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。 」(真聖全 歴代部五七七頁)
とあり、この言葉がご再興の言葉といわれ、『御文章』を一貫して最も重要であることが知られる。しかし御再興は多くの人は本願寺教団の再興の如く思われるが、蓮如上人までは本願寺よりも他派の仏光寺や高田派が勢力があったといわれ、教団の復興が再興ではない。宗祖聖人の教義、浄土真宗の教義を一言にしてつくされた言葉といわれるのである。しかし江戸時代に至り、この「たすけたまへとたのむ」の誤解により、本願寺未曾有の法難が生じたのである。即ち本如宗主の時の三業惑乱である。それ故、この言葉が何故、御再興の言葉といわれるかを明らかにしなければならない。まずたすけたまへの出処を求めると、現代までの多くの学者は法然上人の『黒谷上人法語』―二枚起請―に
「……阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたおみて名号をはばかりなく唱べきなり。これを本願をたのむ…憑…とはいふなり。すべて仏たすけたまへと思て名号をとなふるに過たることはなきなり……」(真聖全 拾遺部上四五頁)
とあり、更に法然上人の門弟、隆寛律師の『後世物語聞書』にも
「……たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑ……」
とある。これらの文を文証として出されている。たのむも既述の『二枚起請』には
「阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたのみて名号をはばかりなく唱ふべきなり。これを本願を憑とはいふなり……」
とあり、たのむは法然上人も随所にいわれているが、『和語燈録』巻二にも
「……他力といふは、ただ仏のちからをたのみたてまつりるなり。……」(真聖全 拾遺部上六二二頁)
とある。親鸞聖人もしばしば『教行信証』、その他、和語の聖教にも出されている。
まず『教行信証』の上でみると、
々坿の六字釈 帰命の帰説の左訓に「ヨリタノムナリ」とある。
行巻、行信利益の文 「仰いで憑むべし……」
9坿 元照律師の引文「須憑他力」
た巻末『涅槃経』引文の結尾「難化の三機、難治の三病者憑大悲の弘誓……」
とあり、たのむは憑の字を多く用いられている。更に和語の聖教にみしばしば用いられ、今、二、三の文を出すと、
々眩力損焼潁損勝 嵋楷衫呂鬚燭里澆帖機
∪義末和讃誡疑讃 「善本徳本たのむひと」
正像末和讃誡疑讃 「仏智の不思議をたのむべし」
ぐ貲安診鮎敲検 崋力といふはわがみをたのみ」
ネ信鈔文意 「本願他力をたのみて」
λ灯鈔 「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」
 これらの宗祖の用いられているたのむは現今用いられているような「お願いする」という意味は全くみられない。所謂あてにすることを意味する。但し「行巻」の帰のたにむの和訓は帰の字義は「説文」には女嫁なりとあり、女性が一度嫁入りすると、もう二度とわが家に帰ることの出来得ないことを意味する。仰せから逃げることの出来得ない身になる、悦服することをいう。いずれにしても宗祖の上では現在用いられているようなお願いするという意味は全くない。
 次に蓮如上人の上でたのむの意をみると、六字釈の南无、帰命の和訓とされる。『御文章』五の九にも
「……これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに……」(真聖全 歴代部五〇六頁)
とある、南无はたのむであり、更に帰命の和訓である。しかし、たのむの意は六字釈の場合と別義のものもある。蓮如上人の時代のたのむは現在用いられているような「お願いする」という請求の意味には用いられていない。恐らく現代用いられている請求の義は江戸時代からではなかろうか。蓮如上人の教学に最も関係の深い浄土宗一条流の『三部仮名鈔』にもしばしばたのむは用いられているが一度として現代用いられているような請求の義はない。すべてアテニスルの意である。この意味が当時の一般に用いられていたものと思われる。それ故、蓮如上人の『御文章』八十通にも五ヶ所ほど、あてにする意で用いられている。
^譴了諭屐帖弔るがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。」
一の十一「……まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。」
F鵑了亜嵋代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。 」
て鵑亮掘屐帖弔修譴睿珪不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。……」
テ鵑龍紂屐帖弔海里罎颪某祐屬砲いても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。……」
とあり、この五通の内容をみると、現代用いているようなお願いするという義とは異なる。
 それ故、たのむの当時の意はアテニスルという意味であり、請求の義は全く存しない。既述の如く『御文章』に最も関係の深い一条流の『三部仮名鈔』にも一ヶ所としてたのむを請求の義には用いていない。更にたのむをアテニスルという意味も「一心に弥陀をたのむ」という場合はその意を異にする。というのは弥陀の法は未現前の彼方におかれているものでないからである。古来より先哲は現前の仏勅という言葉を用いられている。それ故、たのむは憑託の義である。このたのむの語義は「岩波」『古語辞典』によると―七九六頁―第一に次の如くある。
「全面的に信頼して相手の意のまゝにまかせる……」
とある。

引用はここまで。

更にたのむをアテニスルという意味も「一心に弥陀をたのむ」という場合はその意を異にする。というのは弥陀の法は未現前の彼方におかれているものでないからである。古来より先哲は現前の仏勅という言葉を用いられている。それ故、たのむは憑託の義である。
というところが大切です。

タノムタスケタマヘの義

 本派には「安心論題」というものがあり、その中に「タノム・タスケタマヘ」という論題があります。
安心論題についての本は、以前紹介しましたように、
『新編 安心論題綱要』(勧学寮編)
『安心論題を学ぶ』(内藤知康著)
『やさしい安心論題』(灘本愛慈著)
『講座 真宗の安心論題』(桐溪順忍著)

の4冊を持っております。
著者・編者はいずれも勧学さん方なのですが、今一つ分かりにくいです。
(間違っていると文句を言っているのではなくて、もう少し説明してほしいと思うということです)
論題そのものが難しいといえば難しいのですが・・・

そこで、今日は加茂師の著作から引用します。

『親鸞の世界 ―信の領解―』(加茂仰順師)より

 御一代記聞書に「信心・安心といへば、愚痴のものは文字もしらぬなり。信心・安心などいへば、別のやうにも思ふなり。ただ凡夫の仏に成ることををしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。なにたる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。」とあって、蓮師御再興の功勲は全く当流安心の一義を、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」ことであると示されることにあります。だから真宗安心をあらわす言葉として大切なものと言い得ます。ところが、この言葉の解釈に本如上人の時代に異説が出て、遂に三業惑乱を来すことになりました。それ以来この教語の研究が安心研究の中心になってまいりました。
 御一代記聞書に「聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。」とあります。
 タノムの語は、御文章の中に133カ所出ています。しかもこの語は横川法語に源して、法然上人や宗祖の釈文にも見えています。
 タノムの漢字は、恃、怙、憑、頼などがありますが、今は帰命と信とが真宗教義をあらわすにふさわしいものです。帰を「たのむ」という例は、行巻、真仏土巻、和讃等にあり、御文章(2帖目第7通)に「その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。」とあるのがそれです。
 また、信の字を「タノム」と訓ずるのは、疑惑讃に「不思議の仏智をたのまねば」或は「仏智不思議をたのむべし」とあり、また、唯信鈔文意にも同じようなお示しがあります。御文章(5帖目第6通)には「一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、『和讃』(正像末和讃・三一)に聖人(親鸞)のいはく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば」等とあります。
 この故に、「たのむ」とは帰命のことであり、信のことです。だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。
 「たすけたまへ」は、御文章の中で25章、29カ所に亘って示されています。
 文法の上から言えば、命令の語です。この語は相手によって請求とも、許諾ともなります。真宗の信は、名号聞信の信心歓喜であります。即ち、「一心正念直来、我能護汝」という先手の勅命に向かって、「たすけたまへ」と言うのでありますから、許諾の意です。
 要するに、「後生たすけたまへとたのむ」という意味は、必ず助けんの勅命に向かって御意の如くお助け下さいと信順するのみであります。だから、御裁断の御書には「ただこれ大悲の勅命に信順する心なり」と、はっきりお示し下されてあるのです。
 殊に蓮師の上で、「疑いなく信ずる」となされる文証は、「阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて」(御文章5帖目第4通)とあるのがそれであります。


引用は以上

何だ同じではないかと思わずに、
タノムの漢字は、恃、怙、憑、頼などがありますが、今は帰命と信とが真宗教義をあらわすにふさわしいものです。(中略)この故に、「たのむ」とは帰命のことであり、信のことです。だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。

先手の勅命に向かって、「たすけたまへ」と言うのでありますから、許諾の意です。

「後生たすけたまへとたのむ」という意味は、必ず助けんの勅命に向かって御意の如くお助け下さいと信順するのみであります。
のところが大切ですので、分かって頂きたいと思います。

更に言うと、
だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。

あてたよりにする心に名づけるのであって
の表現がおもしろいと思います。

つまり、ここを
だから本願の勅命に帰順乗託すること・あてたよりにすることであって、祈願や請求ではありません。
とは書いておられないということです。

この違いは分かられますでしょうか。

謹賀新年

 このブログを作ったのが昨年の1月5日でした。
 当初は「僕はここにいる」というメッセージであり、「21世紀の浄土真宗を考える会」の設立準備のためのブログの予定でした。
 つまり、ここで教義について述べるはずでは無かったのですが、要請によって7月末からその時その時に「重要だ」と思うことを書き連ねました。系統的になっているわけでもありませんし、うまく説明できなかったところも多々あったかと思います。
 今年は、ホームページを作りたいと思いますし、平行してブログでも少しずつ書いていきたいと考えています。

 それにしても昨年はすばらしい年であったと思います。そして今年はもっとすばらしい年にしたいと、関係者一同(といいますか、あまりいないんですけど)思っております。
 本年も多くの方々のご教示、ご叱責をたまわること思いますが、よろしくお願い申し上げます。

思案の頂上

「機法一体」について、御一代記聞書242条を『蓮如上人聞書新釋』(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)から引用します。
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと[云々]。
註釈版聖典1311頁

【意訳】
 「思案の最上」というのは阿弥陀如来が我等をたすけるために五劫思惟の本願にすぎたものはない。この御思案の道理に同心すれば仏になるのである。同心というても別にあるのではない。機法一体の道理――すなわち、五劫思惟の本願というもただわれらをたすけ給うためである。弥陀をたのむ一念のときそのたのむ衆生の機と阿弥陀仏の法とが一体になる。その機法一体の道理を聞信することである。

【解説】
 仏の思惟をさしのけて、自分のはからいを容れる余地はない。五劫に思惟された本願の名号を信受(まうけ)するのである。名号は機法一体である。南無というたすかる信心と阿弥陀仏というたすける法体(おみのり)と互具互成する名号を信受する、これが仏智におまかせする同心である。

-----ここまでが引用

【私の補足】
 上の意訳中「弥陀をたのむ一念のときそのたのむ衆生の機と阿弥陀仏の法とが一体になる」のところは注意して読む必要があります。
 『やさしい 安心論題 ⑿「機法一体」』や上の解説を読めば分かりますように、「たのむ衆生の機」というのは私がおこした心ではありません。機法ともに南無阿弥陀仏なのです。

機法一体 『やさしい安心論題』より 非常に大切です

『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p137〜

(12)機法一体

 「機法一体」という言葉は『安心決定鈔』の中に多く見られ、覚如上人の『願願鈔』(真聖全三―四六)や、存覚師の『六要鈔』(真聖全二―二八二)、『存覚法語』(真聖全三―三六六)などにも出ています。それらの文にあっては、救われる衆生(機)と救う如来(法)とが一体である、あるいは一体になるという意味で、次のようなさまざまな宗義を「機法一体」として示されています。
⑴往生正覚不二の義
 衆生往生せずば正覚を取らじと誓いたもうて、その本願を成就されたのが果成の南無阿弥陀仏である。すなわち南無阿弥陀仏は衆生の往生(機)と仏の正覚(法)とを不二一体に成就されているということ。これは『安心決定鈔』(真聖全三―六一五等)に多く示されています。
⑵信の法徳として一体になる義
 信心をうれば、仏の功徳の全体が衆生の上にそなわって、仏の功徳に一体となること。『安心決定鈔』に(真聖全三―六二二)、
信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なり。
等と示され、『願願鈔』に(真聖全三―四六)、
信心歓喜すれば機法一体になりて、能照所照ふたつなるににたれどもまったく不二なるべし。
とある。『六要鈔』(真聖全二―二八二)に示されている機法一体も、これと同じ義であります。このような信の法徳のことを、蓮如上人は「仏凡一体」としてお示しくださっています。
⑶彼此三業不離一体の義
 阿弥陀仏の身口意三業によって成就せられた名号を衆生が領受するのであるから、衆生の信後の称名(口業)、礼拝(身業)、憶念(意業)は、仏とあい離れないということ。『安心決定鈔』(真聖全三―六二五等)に出ています。
 このように、「機法一体」という言葉は、さまざまな宗義を示す用語として使われています。
 しかしながら、いま「機法一体」という論題でうかがうのは、主として蓮如上人の『御文章』にお示しくださった「機法一体」の意味についてであります。
 蓮如上人のいわれる機法一体の「機」とは南無帰命の信心であり、「法」とは阿弥陀仏の摂取の願力であります。したがって、衆生の上に発起せしめられる信心と、阿弥陀仏の摂取の願力とは一つの体である、という意味を「機法一体」として明らかにせられます。つまりこれは行信不二の義であります。
 これを仏辺成就の上でいうならば、衆生を南無せしめて摂取したもうのが南無阿弥陀仏であるということになります。またこれを衆生領受の上でいうならば、私どもの南無帰命の信心は阿弥陀仏の摂取の法が届いてくだされたすがたにほかならないということであります。


 「機」というのは法に対する語で、可発の義であるといわれます。これは法によって救われるべき者(衆生)を意味します。けれども、蓮如上人の仰せられる機法一体の「機」とは、南無帰命の信心を指して機といわれます。なぜ信心のことを機というのかと申しますと、南無の信心は救われる衆生(機)の側に発起せしめられるものであるから、この信心を機といわれるのです。宗祖親鸞聖人にあっても、『本典』行巻の念仏諸善比校対論の二機対のところに(真聖全二―四一)、
しかるに一乗海の機を按ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり。
と示されています。これも信心のことを機といわれた用例であります。
 次に「法」というのは、これは機に対する法のことで、阿弥陀仏の救いの法、すなわち衆生を摂取したもう願力のことであります。
 「一体」とうのは、一つの体である、体は一つであるということであります。衆生の南無の信心は、助くる法とは別に、衆生がおこすものではありません。助くる法のおんはたらきによって発起せしめられる信心であります。いいかえますと、衆生に南無せしめて摂取したもうのが阿弥陀仏の法であります。このゆえに機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのです。『御文章』四帖目第十四通に(真聖全三―四九七)、
南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたもうかたの法なるがゆえに、これすなわち機法一体の南無阿弥陀仏ともうすこころなり。
と仰せられています。


 蓮如上人の仰せられる機法一体の釈相をうかがいますと、二字四字分釈のいい方と、六字皆機皆法とされるいい方とが見られます。
 二字四字分釈というのは、「南無」の二字はたのむ機のかた、すなわち衆生の信心とし、「阿弥陀仏」の四字はたすくる法のかた、すなわち摂取の願力、というふうに分けて示され、その南無の機と阿弥陀仏の法とが一体に成就されているのが機法一体の南無阿弥陀仏である、といういい方であります。四帖目第八通(真聖全三―四九)に示される機法一体の釈も、この二字四字分釈にされています。
 これは六字の中で、一応その主たる意味によって、南無を機、阿弥陀仏を法というふうに分けて示されたので、、古来このようないい方を拠勝為論(勝れたところによって、論をなす)といわれています。
 六字皆機皆法というのは、南無阿弥陀仏の六字全体がたすくる法であり、また六字全体がたのむ信であるといういい方です。
 阿弥陀仏のたすくる法は、衆生に南無の信をおこさせて、これを摂取したもう法でありますから、南無を抜きにした阿弥陀仏ではありません。南無を具する阿弥陀仏であります。ですから、南無阿弥陀仏の六字全体がたすくる法であります。これを六字皆法といわれます。一帖目第十五通に(真聖全三―四二三)、
この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたもうという道理なり……これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまえるすがたぞとこころうべきなり。
と仰せられ、五帖目第八通には(真聖全三―五〇五)、
ただわれら一切衆生をあながちにたすけ給わんがための方便に、阿弥陀如来御身労ありて、南無阿弥陀仏という本願をたてましまして、……弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚とらじとちかいたまいて、南無阿弥陀仏となりまします。
等と仰せられています。これは南無阿弥陀仏の六字全体をもって、たすくる法とされるものであります。
 また南無の信は、阿弥陀仏のたすくる法が到り届いてくだされた信であって、阿弥陀仏の法と別なる信心ではありません。衆生に南無せしめて摂取したもう阿弥陀仏の法、すなわち南無阿弥陀仏をその体とする信心であります。これを六字皆機といわれます。三帖目第二通に(真聖全三―四五二)、
さてその他力の信心というは、いかようなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり。
と仰せられ、四帖目第八通には(真聖全三―四九〇)、
当流の信心決定すという体は、すなわち南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとこころうべきなり。
と示され、五帖目第九通にも(真聖全三―五〇六)、
されば、他力の信心をうるというも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字の心なり。
と仰せられています。「しかしながら」とは、すべてそのままという意味です。これらの文は、南無阿弥陀仏のがそのまま衆生の信心となるといういい方で、六字全体をたのむ信の体とされています。
 六字皆法のたすくる法なるがゆえに、その法が衆生に届いて六字皆機の信心となってくださるのです。このように、六字皆機皆法といういい方を古来、尅実通論といわれています。尅実通論というのは実を尅して通論すればという意味で、実義をつきつめていえば、南無阿弥陀仏の全体がたすくる法であり、その南無阿弥陀仏の全体がたのむの信となる、というのであります。
 前の二字四字分釈のいい方は、この六字皆機皆法の宗義をわかりやすく二字と四字とに分けてお示しくださったものといえましょう。
 先哲の歌に、
左文字おせば右文字たすくるの ほかにたすかるこころやはある
というのを聞いたことがあります。判は左文字に彫ってあって、それを紙に押すと、そのまま右文字が現れます。必ず助けるぞよの願力が私に届いたすがたが、お助けを喜ぶ信心であって、仏の助くるのほかに私の助かる心(信)があるのではないという意味でありましょう。
 また、他家の娘が嫁入りしてきて自家の嫁となる。娘と嫁と呼び方は変わっても体は一つです。如来の名号願力が私に届いて信心となってくださるので、名号願力のほかに別に信心があるわけではありません。


 善導大師は『玄義分』の六字釈に(真聖全一―四五七)、
「南無」というはすなわちこれ帰命なり。またこれ発願廻向の義なり。「阿弥陀仏」というはすなわちこれその行なり。この義をもっての故に必ず往生をう。
と解釈せられ、願行具足の故に次の生には必ず浄土に往生できる旨を明らかにしてくださいました。
 親鸞聖人は善導の釈義を承けて、『本典』行巻に六字釈を示され(真聖全二―二二)、南無阿弥陀仏の名号は阿弥陀如来の智慧と慈悲とをまどかにそなえて(悲智円具)、たのみにせよ、よりかかれよ、必ず救う、とよびかけつつある法である旨を顕わしてくださいました。
 蓮如上人はそれらの釈義を承けて、阿弥陀仏の摂取の願力が衆生の信心となるのであって、衆生のたのむの信は阿弥陀仏のたすくるの法のほかにはない。たのむの信(機)とたすくる法とが一南無阿弥陀仏に成就せられているという意味で、機法一体の南無阿弥陀仏ということをお示しくださいました。これによって、他力廻施の信心ということをいよいよ明らかにされたのであります。


コメントに反応したおまけ

↓大沼法龍師の図です。(『法界』より)
 下の方で切れている言葉は「教判の龍法」(右から読むと思います)
CA390011.jpg

御再興の上人

「弥陀をタノム」ということがとても大切ですので、今回はまず、御一代記聞書188条を『蓮如上人聞書新釋』(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)から引用します。
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。
註釈版聖典1290頁

【意訳】
 親鸞聖人の御一流は弥陀をたのむ一念の信心が大切な要点である。この故に、たのむということをば宗祖已来代々の善知識が仰せ遊ばしたのであったが、たのむとはどんな風にたのむかということを、一般の人々はくわしく知らなかったのである。それを蓮如上人の御世代に御文章をおつくりなされて、雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめと、あきらに御しらせくだされた。してみれば、蓮如上人は一宗を御再興になった上人であらせられる。

【解説】
 真宗の根本要義は唯信の救いである。そこで「聖人の御流はたのむ一念のところ肝要なり」とのべられたのである。この「たのむ」ということは、一般に使われた大衆の言葉であるだけ、平易ではあるが、諸種の意味に解釈されるおそれもある。そこで蓮如上人はたのむ一念の信相をくわしく示して「雑行をすてて後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」と教示された。雑行をすてて正行に帰する廃立を基底とし、正行は南無阿弥陀仏であって、南無とたのめば阿弥陀仏のおたすけぞと聞きひらいたのが正行に帰するすがたである。適確に一宗の肝要をわかりやすく普及せしめられたので、真宗は繁昌した。御再興の上人として崇敬される所以である。

-----ここまでが引用

【私の補足】
 たぶんこれでも現代人には分かりにくいのではないかと思います。
 上の解説の中で、大事なのは「南無とたのめば阿弥陀仏のおたすけぞと聞きひらいたのが正行に帰するすがたである」というところですが、ここを間違えないようにしなければなりません。
 南無は私が作った心ではありません。
 ここのところをもう少し考えてみたいと思います。

浅原才市と第十八願

○十八願があらわれて
 なむあみだぶの声がする
 これを聞く人まれな人
 疑いもって聞くからよ
 疑いやめて聞きなされ
 六字の月がさしますぞ
 機の水に月がさしこむ
 なむあみだぶの影がうつろう


○ありがたい末代無智には橋がない
 十八願の橋かけて
 なむあみだぶにだかれわたるぞ
 御恩うれしやなむあみだぶつ


○十八願はじきの法
 十九二十はじきの前なり


 ※これは三願真仮のことわり

三業惑乱と本願寺・妙好人

 親鸞会では“江戸時代に起きた「三業惑乱」によって、西本願寺は信一念を説かなくなった”と言っておりますが、下の年表をも見ても分かりますように、そんなことはありません。
 もちろん、三業惑乱が真宗学に及ぼした影響は甚大ですが、それによって宗学はますます発展したと言ってもいいのではないかと思います。
 また、三業惑乱後に正しい教えが説かれなくなったのならば、妙好人が出るはずがありません。
 教えが受け継がれてきたからこそ、これらの人達が出たのです。

【三業惑乱の経緯概略】
和暦の年号はややこしいので、西暦で書きます。
1762年 第6代能化 功存が『願生帰命辯』を刊行
      これに道粋が序文を書く。
1763年 道粋が『疑問六章』で『願生帰命辯』を批判
1783年 越中善巧寺の明教院僧鎔師歿す ※空華轍の祖
1784年 大麟が『真宗安心正偽論』で『願生帰命辯』を批判
1786年 崇廓が『旁観記』で『願生帰命辯』を弁明
      大麟が『正偽編後編』で論難
1787年 三河の善永が『興復記』で『願生帰命辯』を批判
1789年 讃岐の宝厳が『帰命本願訣』で『願生帰命辯』を批判
1796年 第7代能化に智洞が就任
1801年 安芸の大瀛が『横超直道金剛錍』を刊行
      ※真実院大瀛師は芿園轍の祖
       尚、大瀛師の3歳年下の従弟が勝解院僧叡師で石泉轍の祖
      智洞(新義派・三業派・学林派)と道隠(古義派・聞信派・在野派)を閉門
      ※道隠師は空華三師の一人。堺空華の祖
1802年 古義派の信徒が美濃で蜂起
1803年 京都所司代が関係者を取り調べ
1804年 幕府が智洞と大瀛・道隠を江戸に呼び出す。(1月)
      大瀛歿す(5月)
      幕府の裁定(寺社奉行は龍野藩主脇坂安董)
      新義派を処罰(6月)
      智洞歿す(7月)
      本如上人『御裁断御書』を出す。

 空華轍が今日の西本願寺の教学の中心。それと並ぶのが石泉轍。
 轍とは学派ということ。

【三業惑乱後の妙好人】
庄松  1799年〜1871年
お軽  1801年〜1856年
吉兵衛 1803年〜1880年
源左  1842年〜1930年
才市  1850年〜1932年

本如上人 1778年〜1826年
広如上人 1798年〜1871年
南渓   1790年〜1873年
原口針水 1806年〜1892年
利井鮮妙 1835年〜1914年

人生の目的・多生の目的

 親鸞会では「人生の目的」という言葉をよく使います。使ってはいけないということではないですが、使い方がおかしいと思います。
 親鸞会では「何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、なぜ生きねばならないのか」と説明します。
 問題はこの中の「なぜ生きねばならないのか」というフレーズで、この言葉があるために「平生業成」でなくなってしまう危険があるのです。
 言葉そのものは間違いではないように感じますが、これ聞いた人は、人生の目的を「今から死ぬまでの目的」と考えます。さらに「人生の目的どころではなく多生の目的なのだ」と聞くと、達成を先に延ばします。多くの親鸞会の会員が信心決定をあきらめているのはそのためです。ほとんどの会員は「信心決定は自分には無理だが、教えられることは悪いことではないから、その通りやっていれば次生・次々生には救われるかもしれない」と浄土真宗とは似ても似つかぬ考えを持っていると感じます。
 「多生の目的」という言葉を使うのも結構ですが、それは振り返ってのことであり、先に延ばすものではありません。

会員の頭の中を図示しますと、

 [生まれて来た時]→→[今]→→(人生の目的)どこかで達成できれば万々歳
   →→[死] 達成できなければ持ち越し(多生の目的)→→[多生]


しかし、本来はこう考えるべきです。
(あくまでも同じ言葉を使ってのことです)

 [過去](多生の目的)→→[生まれて来た時]
   →→(人生の目的)[今][死]〈現生正定聚〉
     →→往相→→[死]〈往生即成仏〉→→還相


「人生の目的」「多生の目的」が書いてある位置が違います。
人生の目的は今の問題であり、今は常に死と触れ合っているということをあらわしたかったのです。
なぜ、図,法峺柔言議裝棔廖岷相」「往生即成仏」「還相」の文字を書かなかったというと、図,旅佑┐鬚靴討い討狼澆錣譴覆いらです。
(うまく書けませんでしたが、分かって頂けましたでしょうか)

方便といふこと 6

 方便についてもう一度考えてみましょう。
『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』(梯 實圓著)380頁の【語註】から引用します。

 方便とは、梵語ウパーヤupāyaの訳語で、「近づいていく」という意味の言葉であるが、教義的には如来が真実の大悲をおこして衆生に近づき、巧みな方法を講じて救済していくことを善巧方便という。それにひきかえ、真実の教えをただちに受け容れることのできない未熟なものを育て、真実へと誘い引く(調機誘引)ために、その理解能力に合わせて程度を下げて説かれた教えを権仮方便という。それは暫く用いるが、真実の教えを受け容れるところまで理解能力が育てば、捨てて、真実の教えを与えていくから、暫用還廃(暫く用いるが還って廃する)の教法と呼んでいる。


 今までも述べたように、方便には「善巧方便」「権仮方便」とがありますが、この2つは「方便」の意味が違うのです。
 ウパーヤには「近づく」「到達する」という意味があります。どこに近づくのかというと、「さとり」に近づくというのが本来の意味です。
 私→→→→→さとり
ということです。
 しかし、善巧方便の場合の「近づく」というのはそうではなくて
 阿弥陀仏→→→→→私
なのです。
 権仮方便は
 私→→(権仮方便,鮖箸Α
    →→(権仮方便△鮖箸Α
      →→(権仮方便を使う)→→真実

という図式になります。(「使う」の主語は仏、知識)

 善巧方便と権仮方便との区別が混乱している人は、このように考えてはどうでしょうか。

仏願の生起

観彼世界相 勝過三界道
(中略)
仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖(しゃっかく)[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭(さんけん)[蚕衣なり]の自縛するがごとし。
(曇鸞大師 往生論註 註釈版聖典七祖篇57頁

浅井成海師の訳(三界〜)
 我々の世界は偽りに満ちており、その偽りの世界を生きる苦しみや悲しみは、繰り返し生じて絶えることがない。ちょうど尺取り虫が丸い輪をまわり続けるように、あるいは蚕が、自らの口から糸を出して自分の身体をがんじがらめに縛って身動きができなくなり、やがて熱湯につけられるようなものである。

善導大師の「機の深信」にあてはめるならば、
 虚偽の相=現にこれ罪悪生死の凡夫
 輪転の相=昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して
 無窮の相=出離の縁あることなし
となります。

本願に相応するとは

 本願に相応するとは、こうして、ああしてと考え工夫して相応するのではなく、向こうから私に相応するような本願をこしらえて、この本願にすがれとあります。いわゆる先手かけてのおよび声に、ただすがればよいのであります。だから本願に相応するとは、本願が私に相応して下されてあることの尊きことを、ただいただくことであります。私から本願に相応するのではなく、本願がすでに私に相応して下されてあることをお受けするばかりであります。
 『本願〈信〉-本願の念仏-』(加茂仰順著)より

コペルニクス的転回のすすめ(再)

親鸞会の講師部の人の某ブログを見ての感想
よく分かっていないのに難しいことを書く暇があったら、
↓の歌を聴いた方がいいと思う。

コペルニクス的転回のすすめ

作詞 岡林信康
作曲 岡林信康
編曲 はっぴいえんど

何をやっても やることなすことが
見抜かれているのだ みんな裏目に出てしまう
奴らを倒そうと 身をすり減らして
やればやるだけ 奴らを太らせてしまう

もともと無理な話さ 勝てる訳がない
俺達の脳ミソは 奴らに作られたんだから
脳ミソを入れ替えるんだ つらいことだけど
頭にノミをつきたてて 自分の手で切り刻むんだ

当たり前のことだと疑いもしないで
信じてきたことがみんな
ひっくり返ってしまうかもしれないけど


脳ミソを入れ替えるんだ
奴らに作られた
無茶苦茶なことをして
奴らの頭を 破裂させてやるんだ
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