「まず諸善万行をしなさい」ということについて

2009年11月25日 05:47

 インフルエンザの患者に医者が、タミフルやリレンザなどの抗インフルエンザウイルス剤を服用するように言ったにもかかわらず、患者のほうが勝手に、他の風邪薬(パブロンやルルや葛根湯など)をのんでみて、効かなかったらタミフルをのもう、と思っていたら治るものも治りません。
 ましてや「あなたは、他の風邪薬が効くか効かないかのんでみなければ分からないから、まず風邪薬をのんでみて、それが効かないことが分かってからタミフルをのみなさい」などと言う医者がいるはずが無い。もしそんな医者がいるとすれば、ヤブ医者でしょう。

機法一体

2009年11月24日 03:40

先日、ある方と「二種深信」について話しておりましたら、どうもかみ合わないと感じました。
いろいろうかがってみると、「機法二種一具の深信」と「機法一体」そして「仏凡一体」が混乱していることに気が付き、それぞれ簡単にお話ししました。
「二種深信」と「機法一体」は西本願寺の「安心論題」の中にありますので、ネットで検索すれば説明しているサイトがあると思います。
「仏凡一体」は新「安心論題」からは外れましたが、旧「安心論題」にありますので、やはりネット上に説明されているサイトがあると思います。
検索が可能な方は、ご自分で調べて下さい。
当然のことながら、安心論題を説明した本にも書かれています。

ところで、なぜこのようなことになったのか考えてみますと、親鸞会の「教学聖典」中に

3−39 
問 法体成就の機法一体とはどんなことか。
答 阿弥陀如来の御手元に十劫の昔から完成しているところの南無阿弥陀仏の大功徳のことを言う。

3−47
問 信念冥合の機法一体とは、どんなことか。
答 信心決定して身も心も南無阿弥陀仏と一体になったことを言う。

という問と答があるからだと思います。

「法体成就の機法一体」「信念冥合の機法一体」という言葉は、私の持っている
 『真宗大辞典』(永田文昌堂)
 『真宗新辞典』(法蔵館)
 『真宗辞典』(同)
 『親鸞辞典』(東京堂出版)
のいずれにも出ていない言葉でした。
ネットで検索しても、この言葉を使っているのは親鸞会と大沼法龍師だけでした。
(ネットが全てではありませんので、一応参考まで)

確かに、この教学聖典の説明では、「機法一体」「仏凡一体」それに「願行具足」の意味が混乱するでしょうし、「機法」という言葉の入っている「機法二種一具の深信」とも混同が生ずることも致し方ないと思いました。
「機法一体」という言葉にはいろいろな意味・説相があり、そのうちの一つが「仏凡一体」に当たりますが、浄土真宗ではこれらは別の意味をあらわしますので、きちんと押さえておきたいと思います。

暖簾の話 こうも違います

2009年11月21日 18:06

『親鸞と人生』(加茂仰順師)より


 必ず仏にならせていただく身の幸せを喜び」ということはどういうことなのでしょうか。


 あまり時間が無いようですので、簡単にお話し致しますと、ある人が宿屋に泊り、夕食後その客は散歩に出て酒を呑んで帰ったとみえて、相当に酔ってよい気分で寝ました。ところが翌朝起きてきて、昨夜は大変に蚊に刺されたと言いますので、女中さんが客に、あなたはどこにお休みになりましたかと尋ねますと、客は蚊帳の中に寝たと言いますが、実際は、暖簾がありましたので、暖簾と蚊帳の間に寝たものであることが分かって大笑いをしたそうです。翌晩も同じ宿に泊まり、また酒を呑んで夜遅く帰ってきて、蚊帳に入りましたが、その晩は女中が気をきかして、暖簾を巻き上げておきましたので、今度は二回くぐって蚊帳の外に出て寝て、一晩中蚊に刺されたという話です。
 阿弥陀仏の救いを過去に片付けて安心したり、未来に眺めて喜んでいて、現在の救いにあずかることのできない人はお客さんの類であります。
 まじめな気持ちで深く聞法に心を入れて「ただ今、阿弥陀如来の本願のわれらを助けたまうことわり」を聞き得させていただかねばなりません。そこには、その信の利益として、必ず浄土に生れ、仏にならせていただくことを得るのであります。

強調は私がしました。

聴聞ということ

2009年11月21日 09:20

『安心座談 お救いのみち』(加茂仰順師)より

 蓮如上人も「心易いと思えば必ず仕損ずるぞ」とくれぐれも仰せられてあり、先徳も「必ず必ず早合点して済ましてはならない」とさとされています。
 とかく大様一往の聴聞であったり、または邪見憍慢の気づまし安心、或はかかる者をお助けという押しつけ安心に陥ったりして、もうこれでよいと自分の心に落ち着いてまぎれていることがよくありがちです。随分と骨は折りながら、骨の折り場が違って、この心に聞かせることにかかるのは骨折り損です。だから少しでも心が聞いてくれたら、それに心を休め、それにだまされてとりかえしのつかないことにしてしまいます。
 悪いことにはだまされないが少しのよい心がとかく自分をだますものなのです。つまり聞くことと、如来のお助けを別のことのように思いますから、聞いてはいるがそれほどに思われないということになるのです。
 真宗は今直ちにお助けにあずかるのですから、今までの聴聞につぎ足してゆくのではなく、今ここで聞かせてもらうのです。聞いたことの上につぎ足して助けてもらうのであれば、願力成就の他力ではないことになります。この私の心がきばって聞いて、それがちょっとでも間に合うのであれば、機法一体の成就はいらなくなります。それかといって聞くことはどこまでも肝要ですが、暴風の中に残るものは天上の月一つでありますように、聞いた心が当てになるのではなく、仰せだけがまことであります。そこには自分の分別心がすべてぬぐい去られて、お助けのままに助けられてゆくほかはないわけです。

難しいのか 易しいのか

2009年11月21日 08:33

自分で聞き開こうとするから 難しい
聞こえて下さるから 易しい
仏法は聴聞に極まるのです


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