例えば平成21年10月号では
第3回 「急ぎ仏になりて」は、死に急がせているのか
と題して、数冊の解説書と比較しています。
比較しているのは、
・『初めての歎異抄』 山崎龍明著
・『歎異抄 全購読』 安良岡康作著
・『歎異抄 その批判的考察』 石田瑞麿著
・『歎異抄論註』 佐藤正英著
の4冊で、「急ぎ仏になりて」の解釈の比較に5頁を割いています。
他、顕正新聞でもこの部分の解釈の違いにかなりの紙面を割いていました。
このうち、「急ぎ仏になりて」を死に急がせていると書いているのは石田瑞麿氏の本のみです。
顕真の記事の作者は上記4冊だけが歎異抄の解説書だと思っているということはないでしょうが、あたかも『歎異抄をひらく』が古今楷定の解釈をしているかのような(ある意味そうなのですが)、記述をしているのはいかがかなものかと思います。
この「急ぎ仏になりて」に限定していえば、
『講座 歎異抄』(中西智海 永田文昌堂)の説明では、
とあります。(念仏して)ただちに仏に成って。「いそぎ」は即刻、ただちに意。何よりも急がねばならないことはひとりひとりが本願を信じ、念仏申す身となることである。「急いで死んで」という意味ではない。
これは2001年6月20日発刊で、発刊当時、著者の中西智海師は西本願寺司教でした。今は勧学です。
(ちなみに『歎異抄をひらく』の発刊は2008年3月3日です)
なお、佐藤正英氏の解釈を
「念仏」と「諸善」を比較して言われたのだという珍解釈
と批判していますが、これは別に珍解釈ではなく、「竪超」「竪出」「横出」などの自力の教えに対して、「横超」の意味を表すということで、解釈としては正当なものだと思います。
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いま第4章と第5章を通して読んでいると、個人的には『いそぎ=この順次生に』と聞けます。
(根拠)は第5章の以下の文章です。
『一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。』
第4章
●浄土の慈悲といふは、念仏して、『いそぎ=この順次生に』仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
(全文)
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。
しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。
浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。
今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。
第5章
●一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、『いそぎ=この順次生に』仏に成りてたすけ候ふべきなり。
●ただ自力をすてて、『いそぎ=この順次生に』浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと
(全文)
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。
ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと[云々]。
親鸞会はお聖教を断章して会員を惑わせていますが、会員はまず断章主義から離れてお聖教に親しんでほしいと思います。
>いま第4章と第5章を通して読んでいると、個人的には『いそぎ=この順次生に』と聞けます。
それと、
一番『いそいで』
わたしたちが『仏に成れる』のは
『この順次生』