石田教授は本派本願寺の論題研究について一家言ある方です。
著作もいくつか市販されていますので、興味のある人は読まれたらいいと思います。
以下引用
「三心一心」等の論題に対して、「二種深信」という論題はやや異なった意味をもつ。「二種深信」とは、信心の相状を明らかにするものであり、善導の『観経疏』の「深心釈」によるものである。そこには『観経』の三心(至誠心・深心・廻向発願心)の中、第二の「深心」について、「深心といふは、すなはちこれ深信の心なり」と言い、それに二種ありとして「機の深信」と「法の深信」が説かれている。「機の深信」とは、「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」ということであり、衆生のありのままのありさまを言い、「法の深信」とは、「决定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂取して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、定めて往生を得と信ず」とあり、衆生を摂取する教法を言うとされる。この二種の深信は、信心の相状を言うものにほかならず、一般的に言えば、浄土教における「信心」という宗教的意識の内容を示すものと言える。
『教行信証』では、「信巻」に、大信釈として善導の三心釈の一つとしての深心釈が七深信として引用され、その初めに「二種深信」があるが、ここでは至誠心釈や廻向発願心釈のように、親鸞独自の訓点が施され解釈が試みられることはない。親鸞の問題意識としては、それほど大きな意味はもたなかったと考えられる。しかし宗学では「二種深信」は重要な論題として、多くの論者によって慎重に論じられている。それは、この二種深信こそ浄土真宗における「信心」ということの独自性を表していると考えられているからであろう。その意味では、「二種深信」を論題としたことは、宗学の大きな寄与と言える。その主眼とするところは、二種の深信といっても別々のものではなく、二種は一具であり、一深心、すなわち真実信心にほかならないとするところにある。
たとえば、甘露院慧海(1798~1854)は、
「この深信と云ふは、本来弥陀の仏智を見きはめ給へる機法両実が、われらが心中に印現したる相を信機信法と云ふ、弥陀は無有出離之縁の機の為に他力法を成じ給ふ、依って本願には十方衆生、成就には諸有衆生と云うて、所被の機をあらはす、この機の為に成じ給へる本願なれば、之を高祖は本願の生起本末との給ふ、生起とは無有出離之縁の機なり、本末とは他力摂生なり、すなはち是が六字の由なり、之を心得たが機法二種の信なり、われらが信体即機法両実を照らし給へるは仏智なれば、信法も亦機法両実なり、かく談ずるときは、信機信法は一具にして離るべきものにあらず」(『真宗百論題集』上、147頁)という。
また老謙院善譲は、
「此二種は即ち弘願信楽にして一心中の二義、二而不一なり、信機は乃ち自力を捨つることを顕し、信法は乃ち他力に帰することを示す。……当流的伝の深信は明了決択、堅固不動、機法の心相全うじて無碍光の仏智なり、仏智を以て機を照す、是れ信機、仏智を以て法を照す、是れ信法、能所不二信即仏智の故に、一点の疑なく、所謂(聞も他力よりきき、思ひさだむるも他力よりさだまるなれば、ともにもって自力のはからひちりばかりもひよりつかざるなり)と、是れなり」(同150頁)と言っている。
あるいは浄満院園月(1818~1902)は、
「他力回向の信心なれば二種なくんばあるべからず、此二種の信は只是れ一信心の妙味なり、自力を捨つる時は必ず信機具する、他力に帰するは即ち信法なり」(同151頁)と言い、
願海院義山は、
「深心とは本願の信楽なり、故に仏願の生起本末を聞いて疑心あることなき、是れ深信二種という所以なり、生起を信ずるを信機といひ本末を信ずるを信法とす」(同160頁)と論じ、またその信相について、
「自力を捨つるを信機といひ、他力に帰するを信法といふなり、……信機とは我が身心の出要に於て毫も用に立たざるを信知するの謂いなるが故に……信法の帰他力なることは蓋し弁を俟たざるべし、此義に由って古老は信機信法とは捨機托法の謂なりと云ひ、或は捨自帰他とす、或は捨情帰法の用なりと記し遺さるるなり」(同162頁)と述べている。
いずれも、「二種深信」という場合、とくに「機の深信」のみを立てて、それが衆生の起こすべき罪の自覚というように誤解されることをおそれて、あくまで捨帰托法をいうものにほかならないことを強調し、二種一具の深信として一信心の相状をいうことを説くのである。その意味で「二種深信」は「信機自力」の異安心に対して、浄土真宗の「信心」は、自ら罪悪生死の凡夫と思い込むことではなく、また衆生救済の教法を理解するということにとどまるものでもなく、捨機托法として、自己を捨てて全面的に仏願に帰することをいうことを明らかにしようとするものである。
このことは、浄土真宗における「信心」の独自な意味を明らかにするものと考えられる。そこに、「二種深信」が論題として立てられる意味があると言えよう。しかし同時に他方では、「二種深信」は、後に示すように、一般に「信」ということの在り方についての深い洞察を示しているように思われる。しかし、そういう点に着目せず、論題としてのみそれを論じ、真宗教学の中に位置づけようとしたところに、論題研究そのものの問題点があり、親鸞の宗教思想全般に対する寄与を明らかにし得なかった理由があると考えられる。それについては、後に『教行信証』各巻をめぐって考えるときに、改めて論じることにしたい。
以上引用
『教行信証の思想』pp47-50
(石田慶和著 法蔵館刊 2005年11月20日発行 ISBN4-8318-3828-4)
※『真宗百論題集』からの引用部分は改段してあります。