『妙好人のことば』(梯 實圓著 法蔵館 ISBN978-4-8318-2313-7 C0015)
もいい本です。
さきに紹介した市原栄光堂の妙好人物語の梯師のもので、この本と同じ人物の場合は、梯師はこの本の文章を朗読している形を取っているのもあります。(全部ではないです)
ではCDはいらないではないかと思いもしますが、
本は目を開けていないと読めませんが、CDは目を閉じて聞けます。
(↑これは非常に大事。途中で目を開けていられなくなるのです)
本は一人でしか読めませんが、CDは多くの人と一緒に聞けます。
本はそれに集中しなければなりませんが、CDはこうやって原稿を書きながらでも聞けます。
CDを携帯プレイヤーに落とせば(やってませんけど)、どこででも聞けます。
など、CDの利点はあります。
持っていない人もおられるでしょうから、ちょっとだけ抜き書きします。
その頃の事情を、現道師の「日記」には、
「今日もおかるがたずねてきて、いろいろと話をしたが、お慈悲がわからんと、泣きながら帰っていった。私に力がないばっかりに、なっとくのいくように教えてやることができない、すまんことだ」
という意味のことが記されているそうです。「お慈悲がきこえません」と悲痛なさけびをあげて帰るおかるのうしろすがたに、合掌しながら自分の力なさをあやまっている住職の姿もまた、こよなく美しいものでございます。妙好人のうしろには、世間的には知られていなくても、尊い善知識がいたことを忘れてはなりません。
(六連島のおかる P58)
現道師みたいな人を「善知識」っていうんですね。
これを聞といふなり。
(親鸞聖人)
「仏願の生起本末」については以前書きましたので、今日は「疑心あることなし」についてです。
これを「疑いの心が全く無くなった」と解釈するのも一概に間違いとは言えないのですが、よくよく親鸞聖人のお言葉を読んでみると、「疑いの心が無い」と書かれています。
つまり“「疑心」という物があったのだが、それが無くなった、これが聞である”という言い方もできなくはないのですが、それよりも“「疑心」が無いのが聞なんだよ”と仰っていると言った方が正確なんですね。
聞いて疑いが無くなるのというよりも、疑いが無いのが聞なのですね。
(疑いが無くなるというのが間違いと言っているのではないですよ)
さらに言うと、
疑いの無い法(南無阿弥陀仏)を聞かせて頂くから、疑いが無いのです。
弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ
聞くより先のお助けよ
聞くに用事はさらにない
用事なければ聞くばかり
(お軽同行)
おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
関東の門弟たちは、親鸞聖人に「往生極楽の道」を聞きに行ったのであり、「おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ」たことが「往生極楽への道」ではありません。
「仏法は聴聞に極まる」と教えられますように、親鸞聖人や蓮如上人は、信心獲得を目指している人(未信の人)に、真剣な聞法を、勧めておられます。
(なお、聞法は信前信後を通して大切なことです。信後は信前と心は違いますが、ある意味、信後の聞法の方が重要かもしれません。)
何を聞くのかというと、
本願成就文に「聞其名号」とあり、
教行信証に「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」とありますように、阿弥陀仏のみ心を聞かせて頂くのです。
何を聞くのかが忘れられ、「話を聞くこと」「どこかへ参詣すること」が大切なのだと誤解し、仏法を聞いておればそのうち信心獲得できると思っているならば、それは親鸞聖人や蓮如上人が勧められた「聴聞」ではないでしょう。
ましてや、「どこかへ参詣することは悪いことではないから、とにかく苦労して聞いていれば、今生は信心獲得は無理でも、次生、次々生・・・での御縁になるだろう」などと思っている(思わせている)ようでは、浄土真宗とは言えません。
もちろん、何もしないでボーっとしていればいいとか、求道しなくてもいいということでは決してありません。(十劫安心、無帰命安心は正意の安心ではないことは言うまでもないですし)
しかし、しつこく繰り返しますが、「恰好」や「形」だけしか問題にせず、「一生懸命やっていればそれでいいのだ」では、まさに「木に縁りて魚を求む」ことになります。
(「縁木求魚」と「コペルニクス的転回のすすめ」を参照)
【参考1 お聖教より】
浄土和讃 讃阿弥陀仏偈和讃
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり
この御和讃は曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈」の翻訳にあたる御和讃ですので、讃阿弥陀仏偈の原偈を挙げます。
讃阿弥陀仏偈(聖典 七祖篇 170頁)
たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。
阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。
(設満大千世界火 亦応直過聞仏名 聞阿弥陀不復退 是故至心稽首礼)
さらに大無量寿経の該当する経文はご存じとは思いますが、書いておきます。
仏説無量寿経 流通分
このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。
(是故弥勒、設有大火充満三千大千世界、要当過此聞是経法、歓喜信楽、受持読誦、如説修行)
仏説無量寿経 往覲偈
たとひ世界に満てらん火をもかならず過ぎて、要めて法を聞かば、かならずまさに仏道を成じて、広く生死の流れを済ふべし
(設満世界火 必過要聞法 會当成仏道 廣済生死流)
【参考2 おかる同行の歌より】
聞いてみなんせまことの道を 無理なおしへじゃないわいな
まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみだあるぞいな
(この2首はおかる同行35歳の時の歌です)
しんくさしたりかんなんくろう こゝろむつれのわしゆえに
(辛苦) (艱難苦労)
こうも聞こえにゃ 聞かぬがましよ
聞かにゃおちるし 聞きゃ苦労
今の苦労は 先での楽と
気やすめいえど 気はすまぬ
すまぬこゝろを すましにかゝりや
雑修自力とすてられゝ
すてゝ出かくりゃ なほ気がすまぬ
思えば有念 思わにゃ無念
どこにお慈悲があるのやら
どうで他力になれぬ身は
自力さらばとひまをやり
わたしが胸とは手たたきで
たった一声聞いてみりゃ
この一声が千人力
四の五の云うたは昔のことよ
ぢゃとて地獄は恐ろしや
なんにも云わぬが こっちのねうち
そのまま来いのお勅命
いかなるおかるも 頭がさがる
連れて行かうぞ 連れられましょぞと
往生は投げた投げた
おかるさんは「無理な教えじゃないよぉ」と言っていますね。
そのおかるさんの別の歌からは、道を求めるのに苦労したかということも分かりますね。
この2つのことはけっして矛盾ではないのです。
さて、関係ないついでに、歎異抄とは全く関係ないですが、蓮如上人御一代記聞書から引用します。
総体、人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふなり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。理をみて情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。
このお言葉は信前の人におっしゃったのでしょうが、信前信後通じて大切なことだと、自戒してゆきたいと思います。
以上で「歎異抄第2章を読む」を一旦終了し、次に何故か第1章に戻ります。
気まぐれなもので・・・すいません。じゃなかった、済みません。