今回とりあげるカルトの特徴は
宗教は個々人を助け、その人の信仰的な求めを充たそうとする。
カルトは信仰的な求めを搾取する。
カルトといわれるものが、なぜ問題化するのかといえば、一言で言えば「救われない」からです。一般論的に、カルトといわれるものは、人の信仰心からくる行動を要求するばかりで、あたえられるモノが無いからです。
貨幣経済ではないですが、取られるばかりで受け取るものが少ないから「搾取する」と特徴にあげられています。
搾取するというもののなかには、種々の行動の自由を制限するということも入りますが、プライバシーの自由を奪うということも入ります。宗教における教えと言うことと、その人のプライバシーのことの区別がつかなくなるからです。
教義と私生活は、分けられないという人もあるでしょうが、この社会で生活する上では、区別として分けていかねば種々混乱を来すからです。なぜなら、法治国家の社会に生活する現代人にとって、法律というルールは厳然として存在し、それに反すれば犯罪者ということになってしまうからです。
教義というのは、信仰面での話で、教義がこうだから、法律や社会のルールは無視して良いとか、教義に反するからという理由で、犯罪者(法律的な意味で)呼ばわりしてよいということでもありません。教義上の理由で輸血を拒否して子供を死なせたという事件が以前ありましたが、カルト化がすすむと、教義と私生活が完全に混同され、状況においてはどのルールが優先されるかということがわからなくなるからです。
教義に反するという善悪と、法律に反する善悪と、世の中には全く別の物差しがあるということが、区別できなくなるところにカルトといわれるものの問題があるのです。
カルトといわれるものは、その団体の利益不利益が善悪の基準となり、それ以外のものを考えられなくなるので、社会と対立しがちです。それは、善悪の物差しが、1つしか無く、物事をすべて敵か味方か、白か黒かでしか判断できなくなってしまうからです。
結果的にカルトといわれるものが搾取するというものは、種々の自由の中で、いろいろな角度から物事を考えるという思考力なのです。思考力が奪われれば、その教義のなかでしか、世の中のすべてのことを考えられなくなってしまいます。
しかし、親鸞聖人は、世の中すべてが敵であるとか、正しい信仰を持っていればなんでもしよていと教えられたのではありません。
われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも言いなどすることは、あるべくも候わず(末灯鈔)
私は極楽往生できる身になったのだからと言って、やってはならないことをしたり、思ってはならないことを思ったり、言ってはならないことを言ったりするとことは、あってはならないと言われています。
ここで「為まじきこと」「言うまじきこと」というのは、当時の決まりや倫理道徳的なことも含めていわれていることです。
国所にあらば、守護・地頭に向きては疎略なく限ある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもって本とし(御文章3帖目13通)
蓮如上人は、それぞれのすんでいる国では、守護・地頭にむかって決められた年貢を怠りなく納め、仁義を本として暮らしなさいといわれています。
いずれも、教義は「どんな人でも救われる」という教えですが、「法律や社会のルールを破ってもよいのではない、社会には社会のルールがあるのだ」と戒められたものです。
どんな人でも救われると言うところで、考えることを放棄してしまえばカルトになってしまうでしょうが、それは浄土真宗の教えがそうだからではありません。
それを信じる人間の問題なのです。
タグ : カルト
引用元:
http://www.geocities.jp/recoverycult2005/shukyotocult.html
宗教カルトを経験して以来、宗教なんてどれもうさんくさいと思うようになった、と思う人は少なくないようです。その一方で、1つのカルトを出た後、また似たようなタイプのカルトに入り、そのパターンを繰り返す人も、やはり少なくないようです。カルトは人間の「信じる」力を破壊するので、入ってしまった人は何をどの程度、どんな風に信じたらいいのかという、微妙な調節感覚を失いがちなのです。
ここでは、「宗教もカルトも同じようなものだ」という極論から冷静に身を引いて考えるために、カルトではない宗教とカルトとの違いを示します。
宗教は個人の自立を尊重する。
カルトは服従を強いる。
宗教は個々人を助け、その人の信仰的な求めを充たそうとする。
カルトは信仰的な求めを搾取する。
宗教は問いや自立した批判的な考え方を許し、また奨励しもする。
カルトは問いや自立した批判的な思考をさせない。
宗教は心理上のことと信仰上のことを統合する。
カルトは信者を「カルトの中でのよい自分」と「過去の悪い自分」に分裂させる。
宗教の改宗は一個人のアイデンティティに関わる内的プロセスの展開を伴う。
カルトの改宗は、一個人のアイデンティティに顧慮することない外的力に、知らないうちに投降してしまう。
宗教は金銭を倫理的抑制に従いつつ、崇高な目的を果たすための手段の1つとしてみなす。
カルトは金銭を、目的として、また権力を手に入れ、リーダーたちの利己的な目的を果たすための手段としてみなす。
宗教は、信者と宗教家とのセックスは非倫理的であると見なす。
カルトはしばしば、信者をリーダーたちの性的欲求のはけ口とする。
宗教は批判する人に丁寧に応答する。
カルトはしばしば、物理的あるいは法的脅迫で批判する人々を脅す。
宗教は家族、家庭を大切にする。
カルトは家族、家庭を敵と見なす。
宗教はある人が入信しようとする時には、よく考えてから決断するよう勧める。
カルトはほとんど情報を与えないまま、即断するように求める。
どうですか?違いが把握できましたか?
あなたが今後、宗教に関わる時、指標にすることをお勧めします。
参考文献:
志村 真 編訳 「カルト・カウンセリング問題資料集Ⅰ」より
リチャード・L・ダウハゥアー著
「牧師/神父(宗教家)のための指針」
タグ : カルト
(引用元:カルトに傷ついたあなたへ)
カルトの特徴
カルトがどのような方法で人を縛り上げていくのか、以下の一覧で確認していきましょう。
1. あなたをカルト以外の他の人たちから引き離し、環境を操作します。
2. カルト以外の他の人たちと話したり、カルト以外からの情報が入らないようにします。
3. 不十分な食事やカルト内での過剰な活動によって、あなたを衰弱させます。
4. 精神的に萎縮させたり、自尊心を砕かせたりします。
5. 不安、恐怖、混乱をかきたて、あなたがカルトへ服従することによってのみ、喜びや確信が与えられるようにします。
6. 訓練の中で誉めたりけなしたりというように、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
7. 儀式化された集会で仲間からの糾弾、問い詰めなどの圧力を与え、あなたに罪悪感を起こさせたり、人前で懺悔するように仕向けます。
8. リーダーはあなたやカルト全体を支配しているように見せかけ、あなたが心身ともにカルトに服従することで運命が決まると主張します。
9. 祈祷や印刷物の書き移しなど、単調な作業や同じことを繰り返す活動に従事させます。
10. 自分自身、家族、以前の価値観に決別するよう仕向け、それまでの生き方を否定します。
(http://www.geocities.jp/recoverycult2005/teigi.html)
これらがすべて当てはまるカルトもあれば、部分的に当てはまるものもあります。しかし、大半に心当たりがあるのでしたら、カルトである可能性は十分でしょう。
大半に心当たりがあれば、カルトとよばれるものだということです。このように思われる団体にならないように気をつけたいと思います。
自戒の意味もこめて皆さんに紹介しました。
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