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タノムタスケタマヘ

2010/01/15(金)
五十嵐大策師の論文から引用します。
特に、源左さんや才市さんの言葉に注目されるといいでしょう。

『蓮如への誤解の誤解』所収の論文
 蓮如教学と『安心論題』 (五十嵐大策師述)より

 周知の如く、むかし西本願寺の教団で三業惑乱(一七九七-一八〇六)が起こりました。本如上人の『御裁断申明書』『御裁断御書』(以上の二消息は、『原典版』『註釈版』所収)に示されてあります様に、希願請求の義はあやまりで無疑信順の義が正しいと説かれております。この事は、大衆伝道の場でも大きな影響をおよぼしました。日常親しんでおります『領解文』の「たのむ一念のとき」や『御文章』にたくさん出てきます“タノムタスケタマヘ”の領解が、こちらからの三業によるタノムの義なのか、あるいは本願招喚の勅命に信順し許諾(きょたくとも読む。先方の弥陀の救いを許し承諾するの意)するの義なのかに、ともするとわかれる事になるからであります。その点、妙好人の中に「こっちがたのむのぢゃござんせえで」(源左)、「三業は人(私註自力)の安心」(才市)等と言って、信楽帰命、無疑信順の領解が示してあります。



また、才市さんの言葉もつけ加えておきます。

「胸にさかせた信の花、弥陀にとられて今ははや、信心らしいものはさらになし、自力というても苦にゃならぬ、他力というてもわかりゃせぬ、親が知っていれば楽なものよ。」

「弥陀にとられて」というのが「弥陀をたのむ」ということです。
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タグ : 五十嵐大策 タノムタスケタマヘ 妙好人 才市

2010/01/13(水)
さて、これまで「タノムタスケタマヘ」について何回かにわたって、書いてきましたが、まとめたいと思います。

【タノムについて】
基本:「タノム」は請求ではなく、許諾である

1.蓮如上人が『御文章』等に使われている「タノム」は「お願いする」という意味ではない。蓮如上人時代には一般でも「タノム」は「お願いする」という意味では使われていない。

2.では「タノム」は「あてにする」という意味なのかというと、『御文章』に133カ所ある「タノム」のうち、「あてにする」という意味の「タノム」は5カ所であり、それ以外は「よりたのむ(憑託)」「よりかかる」という意味である。別の言葉で言えば、「おまかせする」ということである。
 「あてにする」という意味の「タノム」は、たとえば「かねてたのみおきつる妻子も財宝も」の「タノム」である。ここの「たのむ」を「あてにする」に換えても、「かねてあてにしてきた妻子も財宝も」となり、意味は変わらないが、「おまかせする」に入れ換えると、「かねておまかせしてきた妻子も財宝も」となり、意味が通じない。
 つまり「あてにする」と「おまかせする」では意味が異なる。

3.ところが「おまかせする」といっても、「私がおまかせする」ということになると自力になるが、そういう意味ではない。つまり、「おまかせする」という行為ではなく、「おまかせしている」状態である。

4.「タノム」は南無・帰命の和訓であり、自力ではない。帰命とは「恭順教命」「帰順教命(勅命)」であり、「信順二尊意」である。

5.「タノム」は阿弥陀仏に摂取せられていることをいう。

【タスケタマヘについて】
基本:「タスケタマヘ」は「タノム」と同義である

1.「タスケタマヘ」とだけ聞くと「助けてください」という意味にとるかもしれないが、これは間違い。

2.『御文章』に29カ所ある「タスケタマヘ」はすべて「タノム」と同じ意味で、阿弥陀仏の先手の勅命に対する許諾の意味である。

3.信順無疑の意味である。

タノムタスケタマヘ
基本:同じ意味の言葉をつづけて言われたもの

【タスケタマヘとタノム】
基本:同じ意味の言葉を「と」でつなげて言われたもの

補足:『領解文』(『改悔文』)の「御たすけ候へとたのみまうして候ふ」も同じ意味である。

タグ : タノムタスケタマヘ

2010/01/11(月)
たすけたまへとたのむの出処の続きです。
『救済論序説』(稲城選恵師)からの後半部分です。

 次にたすけたまへの用語を『御文章』にはしばしば出されているが、既述の如くこの言葉がご再興の用語となっている。蓮如上人はこの用語は既述の如く、法然上人や劉寛律師によられてはいないようである。
(中略)
 しかればこのたすけたまへの用語は蓮師は何れによられたものであろうか。
(中略)
 蓮如上人の『御文章』に最も影響を与えたのはこの(浄土宗一条流の)『三部仮名鈔』といわれる。
 「たすけたまへ」もまさしくこの『三部仮名鈔』をうけたものといわれる。
(中略)
(蓮如上人は)この一条流のたすけたまへをそのまま(用語はそのまま、意味は逆に)用いて浄土真宗義とされたのである。というのは『御文章』の上ではたすけたまへを帰命の和訓とされている。八十通の『御文章』の中で、帰命の和訓には三つある。即ち「たのむ」「たすけたまへとたのむ」「たすけたまへ」である。たすけたまへを帰命の和訓とされているのは五の十三通―無上甚深の章―には

「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこゝろなり」

とあり、『帖外』一三一通にも

「また帰命といふはたすけたまへと申すこゝろなり」

とある。更に「たすけたまへとたのむ」は四の十四通には

「帰命といふは衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこゝろなり」

とある。それ故、たのむたすけたまへも全く同義である。等しく帰命の和訓である。帰命は宗祖の上では「本願招喚の勅命」もあるが、蓮師の上では『尊号真像銘文』にあるがごとく

「帰命とまふすは如来の勅命にしたがひたてまつるなり」

とある信順勅命の義である。
 しかるに一つのたすけたまへ請求にも信順にも用いられることは、この私が先行するとたすけたまへは、まさしく請求の義となり、逆に仏のたすけたもう法が先行すると無疑信順の義となり、宗祖の帰命の義となるのである。この転換に注意すべきである。特に「たすけたまへとたのむ」の「と」の一字は現代でも用いられている「二度と再び」の「と」といわれ、前句と後句との同一なることを意味するものといわれる。それ故、「たのむ」「たすけたまへ」も等しく帰命の和訓になっているのである。しかも特に注意すべきはたすけはたへはこの私が先行すると鎮西義の如く請求となり、逆にこの私が後手になるとたのむと同義になるのである。ここに真宗教義の根本義を明らかにされたのである。

〔訂正記録〕
H22.2.2
 『三経仮名鈔』⇒『三部仮名鈔』
 ※本文訂正済みです。

タグ : 稲城選恵 タノムタスケタマヘ

2010/01/08(金)
さらに再び加茂師からです。
『真宗の御法義』(加茂仰順師)より

真宗の信心

 阿弥陀さまの方から言えば「タノメ助ける」「マカセヨ助ける」です。
 私の方から言えば「弥陀をタノム」というのです。
 それで、つまり私は「弥陀の仰せ」を「はい」と頂くということしかないのです。
 「はい」と頂いたとき、助けられたのです。これが「信の一念」です。


 つまり、「そのまま助けるぞ」を、「はい」「ああ、ありがたや」と、頂いたのです。
 これが、「弥陀をタノム」ということです。つまり信心です。


 それが、「お浄土参り」は弥陀に「マカセタ」ということにしていただいたことになります。それですから、私がお浄土へ参らせていただくことは、まちがいないのです。


 そのあとは、称名を大切に退転なく相続させてもらうのです。これだけです。


 「わが口に 称ふる御名を わが耳に 聞いてよろこぶ ほかなかりけり」です。


 以上、このことは、鮮妙和上が仰せられていることです。

タグ : 加茂仰順 利井鮮妙 タノムタスケタマヘ

2010/01/07(木)
再び加茂師からです。
『親鸞〈信〉 ―本願の念仏―』(加茂仰順師)より

 私たちは、とかく「タノムモノヲ助ケル」のお言葉に迷って私がこの心でタノンデ助けてもらうように思っています。そんなことにこだわってはなりません。
 そしてまた申します。「自力ダノミは悪いが、他力のタノミの心はなくてはなるまい」と。
 それが、ご化導の逆さ聞きであります。自力・他力にかかわらず、私の方からタノムのではありません。それならば、どうして助かるのでしょう。
 私は、たのむどころの話ではない。まるきり逃げることにかかりはてているこの私を、大悲の親様は、そなたが参ってくれないと四十八願も水の泡、極楽浄土も立ち腐れになるから、いやでもあろうが来てくれよ。参るもとではこれこの通り名号六字と仕上げたゆえ、是非にの御たのみに、参る気のない、往く気のない私が往かねばならぬことに、させられてしまうが他力の往生であります。
 親様は恩にきるぞよ、礼もいうぞよ、後生一つはこの弥陀にはからわせてくれよと仰せられます。たとい他力のタノミでも、私の方からタノンダリ、まかせたりして参るなら、タノミ心や、まかせ方が少しでも違っていたら参ることにはなるまいに、今は大願業力の親様にタノマレテ参らねばならぬ身の上と知らせて頂いたら、私の方のタノミ心や、まかせぶりに違っていても、助かることと参ることは、いやでもやめにならぬとは、何とした確かなことでございましょう。何とした嬉しいことでございましょう。ほんにご恩のやり場がありません。


引用はここまで

「ご化導の逆さ聞き」という表現が素晴らしいですね。
いろいろな人の話をうかがいますと、だいたい「逆さま」です。

タグ : 加茂仰順 タノムタスケタマヘ

2010/01/06(水)
タノムタスケタマヘ」について書いていますが、今日は稲城師の文を引きます。
非常に大切です。

『救済論序説』(稲城選恵師)より 長いのでまず前半を書きます

「たすけたまへとたのむ」の用語は『御文章』にはしばしば出されているが、この言葉は『御一代記聞書』一八八条には
「聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。 」(真聖全 歴代部五七七頁)
とあり、この言葉がご再興の言葉といわれ、『御文章』を一貫して最も重要であることが知られる。しかし御再興は多くの人は本願寺教団の再興の如く思われるが、蓮如上人までは本願寺よりも他派の仏光寺や高田派が勢力があったといわれ、教団の復興が再興ではない。宗祖聖人の教義、浄土真宗の教義を一言にしてつくされた言葉といわれるのである。しかし江戸時代に至り、この「たすけたまへとたのむ」の誤解により、本願寺未曾有の法難が生じたのである。即ち本如宗主の時の三業惑乱である。それ故、この言葉が何故、御再興の言葉といわれるかを明らかにしなければならない。まずたすけたまへの出処を求めると、現代までの多くの学者は法然上人の『黒谷上人法語』―二枚起請―に
「……阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたおみて名号をはばかりなく唱べきなり。これを本願をたのむ…憑…とはいふなり。すべて仏たすけたまへと思て名号をとなふるに過たることはなきなり……」(真聖全 拾遺部上四五頁)
とあり、更に法然上人の門弟、隆寛律師の『後世物語聞書』にも
「……たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑ……」
とある。これらの文を文証として出されている。たのむも既述の『二枚起請』には
「阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたのみて名号をはばかりなく唱ふべきなり。これを本願を憑とはいふなり……」
とあり、たのむは法然上人も随所にいわれているが、『和語燈録』巻二にも
「……他力といふは、ただ仏のちからをたのみたてまつりるなり。……」(真聖全 拾遺部上六二二頁)
とある。親鸞聖人もしばしば『教行信証』、その他、和語の聖教にも出されている。
まず『教行信証』の上でみると、
①行巻の六字釈 帰命の帰説の左訓に「ヨリタノムナリ」とある。
②行巻、行信利益の文 「仰いで憑むべし……」
③行巻 元照律師の引文「須憑他力」
④信巻末『涅槃経』引文の結尾「難化の三機、難治の三病者憑大悲の弘誓……」
とあり、たのむは憑の字を多く用いられている。更に和語の聖教にみしばしば用いられ、今、二、三の文を出すと、
①高僧和讃曇鸞讃 「本願力をたのみつゝ」
②正像末和讃誡疑讃 「善本徳本たのむひと」
③正像末和讃誡疑讃 「仏智の不思議をたのむべし」
④一念多念証文 「自力といふはわがみをたのみ」
⑤唯信鈔文意 「本願他力をたのみて」
⑥末灯鈔 「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」
 これらの宗祖の用いられているたのむは現今用いられているような「お願いする」という意味は全くみられない。所謂あてにすることを意味する。但し「行巻」の帰のたにむの和訓は帰の字義は「説文」には女嫁なりとあり、女性が一度嫁入りすると、もう二度とわが家に帰ることの出来得ないことを意味する。仰せから逃げることの出来得ない身になる、悦服することをいう。いずれにしても宗祖の上では現在用いられているようなお願いするという意味は全くない。
 次に蓮如上人の上でたのむの意をみると、六字釈の南无、帰命の和訓とされる。『御文章』五の九にも
「……これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに……」(真聖全 歴代部五〇六頁)
とある、南无はたのむであり、更に帰命の和訓である。しかし、たのむの意は六字釈の場合と別義のものもある。蓮如上人の時代のたのむは現在用いられているような「お願いする」という請求の意味には用いられていない。恐らく現代用いられている請求の義は江戸時代からではなかろうか。蓮如上人の教学に最も関係の深い浄土宗一条流の『三部仮名鈔』にもしばしばたのむは用いられているが一度として現代用いられているような請求の義はない。すべてアテニスルの意である。この意味が当時の一般に用いられていたものと思われる。それ故、蓮如上人の『御文章』八十通にも五ヶ所ほど、あてにする意で用いられている。
①一の四「……かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。」
②一の十一「……まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。」
③二の三「末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。 」
④二の七「……それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。……」
⑤二の九「……このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。……」
とあり、この五通の内容をみると、現代用いているようなお願いするという義とは異なる。
 それ故、たのむの当時の意はアテニスルという意味であり、請求の義は全く存しない。既述の如く『御文章』に最も関係の深い一条流の『三部仮名鈔』にも一ヶ所としてたのむを請求の義には用いていない。更にたのむをアテニスルという意味も「一心に弥陀をたのむ」という場合はその意を異にする。というのは弥陀の法は未現前の彼方におかれているものでないからである。古来より先哲は現前の仏勅という言葉を用いられている。それ故、たのむは憑託の義である。このたのむの語義は「岩波」『古語辞典』によると―七九六頁―第一に次の如くある。
「全面的に信頼して相手の意のまゝにまかせる……」
とある。

引用はここまで。

更にたのむをアテニスルという意味も「一心に弥陀をたのむ」という場合はその意を異にする。というのは弥陀の法は未現前の彼方におかれているものでないからである。古来より先哲は現前の仏勅という言葉を用いられている。それ故、たのむは憑託の義である。
というところが大切です。

タグ : 稲城選恵 タノムタスケタマヘ

2010/01/05(火)
 本派には安心論題というものがあり、その中に「タノム・タスケタマヘ」という論題があります。
安心論題についての本は、以前紹介しましたように、
『新編 安心論題綱要』(勧学寮編)
安心論題を学ぶ』(内藤知康著)
『やさしい安心論題』(灘本愛慈著)
『講座 真宗の安心論題』(桐溪順忍著)

の4冊を持っております。
著者・編者はいずれも勧学さん方なのですが、今一つ分かりにくいです。
(間違っていると文句を言っているのではなくて、もう少し説明してほしいと思うということです)
論題そのものが難しいといえば難しいのですが・・・

そこで、今日は加茂師の著作から引用します。

『親鸞の世界 ―信の領解―』(加茂仰順師)より

 御一代記聞書に「信心・安心といへば、愚痴のものは文字もしらぬなり。信心・安心などいへば、別のやうにも思ふなり。ただ凡夫の仏に成ることををしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。なにたる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。」とあって、蓮師御再興の功勲は全く当流安心の一義を、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」ことであると示されることにあります。だから真宗安心をあらわす言葉として大切なものと言い得ます。ところが、この言葉の解釈に本如上人の時代に異説が出て、遂に三業惑乱を来すことになりました。それ以来この教語の研究が安心研究の中心になってまいりました。
 御一代記聞書に「聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。」とあります。
 タノムの語は、御文章の中に133カ所出ています。しかもこの語は横川法語に源して、法然上人や宗祖の釈文にも見えています。
 タノムの漢字は、恃、怙、憑、頼などがありますが、今は帰命と信とが真宗教義をあらわすにふさわしいものです。帰を「たのむ」という例は、行巻、真仏土巻、和讃等にあり、御文章(2帖目第7通)に「その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。」とあるのがそれです。
 また、信の字を「タノム」と訓ずるのは、疑惑讃に「不思議の仏智をたのまねば」或は「仏智不思議をたのむべし」とあり、また、唯信鈔文意にも同じようなお示しがあります。御文章(5帖目第6通)には「一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、『和讃』(正像末和讃・三一)に聖人(親鸞)のいはく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば」等とあります。
 この故に、「たのむ」とは帰命のことであり、信のことです。だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。
 「たすけたまへ」は、御文章の中で25章、29カ所に亘って示されています。
 文法の上から言えば、命令の語です。この語は相手によって請求とも、許諾ともなります。真宗の信は、名号聞信の信心歓喜であります。即ち、「一心正念直来、我能護汝」という先手の勅命に向かって、「たすけたまへ」と言うのでありますから、許諾の意です。
 要するに、「後生たすけたまへとたのむ」という意味は、必ず助けんの勅命に向かって御意の如くお助け下さいと信順するのみであります。だから、御裁断の御書には「ただこれ大悲の勅命に信順する心なり」と、はっきりお示し下されてあるのです。
 殊に蓮師の上で、「疑いなく信ずる」となされる文証は、「阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて」(御文章5帖目第4通)とあるのがそれであります。


引用は以上

何だ同じではないかと思わずに、
タノムの漢字は、恃、怙、憑、頼などがありますが、今は帰命と信とが真宗教義をあらわすにふさわしいものです。(中略)この故に、「たのむ」とは帰命のことであり、信のことです。だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。

先手の勅命に向かって、「たすけたまへ」と言うのでありますから、許諾の意です。

「後生たすけたまへとたのむ」という意味は、必ず助けんの勅命に向かって御意の如くお助け下さいと信順するのみであります。
のところが大切ですので、分かって頂きたいと思います。

更に言うと、
だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。

あてたよりにする心に名づけるのであって
の表現がおもしろいと思います。

つまり、ここを
だから本願の勅命に帰順乗託すること・あてたよりにすることであって、祈願や請求ではありません。
とは書いておられないということです。

この違いは分かられますでしょうか。

タグ : 安心論題 加茂仰順 タノムタスケタマヘ

2009/12/26(土)
「弥陀をタノム」ということがとても大切ですので、今回はまず、御一代記聞書188条を『蓮如上人聞書新釋』(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)から引用します。
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。
註釈版聖典1290頁

【意訳】
 親鸞聖人の御一流は弥陀をたのむ一念の信心が大切な要点である。この故に、たのむということをば宗祖已来代々の善知識が仰せ遊ばしたのであったが、たのむとはどんな風にたのむかということを、一般の人々はくわしく知らなかったのである。それを蓮如上人の御世代に御文章をおつくりなされて、雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめと、あきらに御しらせくだされた。してみれば、蓮如上人は一宗を御再興になった上人であらせられる。

【解説】
 真宗の根本要義は唯信の救いである。そこで「聖人の御流はたのむ一念のところ肝要なり」とのべられたのである。この「たのむ」ということは、一般に使われた大衆の言葉であるだけ、平易ではあるが、諸種の意味に解釈されるおそれもある。そこで蓮如上人はたのむ一念の信相をくわしく示して「雑行をすてて後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」と教示された。雑行をすてて正行に帰する廃立を基底とし、正行は南無阿弥陀仏であって、南無とたのめば阿弥陀仏のおたすけぞと聞きひらいたのが正行に帰するすがたである。適確に一宗の肝要をわかりやすく普及せしめられたので、真宗は繁昌した。御再興の上人として崇敬される所以である。

-----ここまでが引用

【私の補足】
 たぶんこれでも現代人には分かりにくいのではないかと思います。
 上の解説の中で、大事なのは「南無とたのめば阿弥陀仏のおたすけぞと聞きひらいたのが正行に帰するすがたである」というところですが、ここを間違えないようにしなければなりません。
 南無は私が作った心ではありません。
 ここのところをもう少し考えてみたいと思います。

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2009/12/01(火)
『名號不思議の信心』(加茂仰順師)より

 弥陀タノムとは、あてにするとか、たよりにするとか、たのみにすることでありません
 あて、たよりにすることのたよりにないことであるからです。
 弥陀にまかすというが、弥陀に何をまかすのか。
 それは手をまかすでない。足をまかすではない。心をまかすのでもない。心をまかせば勝手につかわれないことになります。いま、まかすとは、往生をまかすのであります。それは臨終にまかすのか。いやそうではありません。
 まかすとは、後生の大事をまかすのであります。心配をまかすのであります。
 タノムとはあてにすることでもない。力にすることでもない。そうではない。タノムとは弥陀の勅命を受けとるのであります
 「御助け候へ」「タスケタマヘとタノム」は、我能く汝を護るの摂取不捨のお言葉を聞思した。信受したこころであります。

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