(ISBN4-88483-682-0 C0015)
三輩段は、人天の機類を上輩・中輩・下輩の三種類に分けて、それぞれに往生のための因行と往生の姿が示されています。
上輩には、因行は「家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して」という諸行と「ただひたすら無量寿仏を念じ」という念仏が挙げてあります。往生の姿は、臨終来迎と彼土不退転と神通力が説かれてあります。
中輩には、因行は「この上ないさとりを求める心を起し」「八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べ物を供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして」という諸行と、「ただひたすら無量寿仏を念じる」という念仏が挙げてあります。往生は、化仏の来迎と彼土不退転等が説かれています。
下輩には、因行は「この上ないさとりを求める心を起し」という発菩提心という諸行と、「十念」の念仏を挙げています。往生は、夢のごとくに仏を見て往生と説かれています。
この三輩段は、このように三輩ともに諸行と念仏とを挙げてあります。これを法然上人は「選択集」三輩章に、「三輩念仏往生の文」と標挙して引用されてありますから、この三輩を念仏往生の文と解釈されたということができます。つまり三輩は第十八願の十方衆生、諸有衆生を開いたと見られたのです。
これに対して、御開山さまは、『本典化巻』に第十九願を引用して、後、「此の願成就の文は、すなわち三輩の文これなり」として「『大経』にいはく」として三輩の文を引用されていますので、三輩段は十九願諸行往生の文と見られたということになります。
なぜこのような異なった解釈が出てくるかということは、法然上人の三輩章の解釈に、諸行と念仏の取り扱い方を三種類に分けてあるところから来るのです。その三種類の立場とは「廃立・助正・傍正」です。
第一に、廃立とは、念仏は本願の行であるから立て、諸行は非本願の行であるからこれを廃するという立場です。この場合、念仏一法を修するのですから、諸行が示されてあるのは、機類を示すだけであって、実際に修するのではないということになるのです。すなわち、かつて諸行を修していた機類に上中下の差別があることを表し、これらの差別の機類もみな念仏の一法によって救われることを説いているのです。この立場は非本願の諸行を廃し、本願念仏を立てるのですから、三輩段の文は弘願の念仏往生を示すことになるのです。
助正とは、諸行をもって念仏を助け、この助けをもって往生の因行に擬するのです。この立場は要門に属することとなり、三輩段の文は自力諸行往生となります。
傍正とは念仏と諸行を相い並べて、いずれも往生の行として取り扱いつつ、その中に傍正を分ける扱いです。この場合、念仏は諸行と同格で、万行超過の弘願念仏ではなく、万行随一の念仏ということになります。この立場でいうと傍正とは要門諸行往生となるわけです。
以上、三輩の廃・助・傍の扱い方に従えば、廃立の立場では、弘願念仏往生となり、助正、傍正の立場では、要門諸行往生となります。三輩段の取り扱いを法然上人が念仏往生の文とされるのは廃立の立場であり、宗祖がこれを諸行往生の文とされるのは真仮をたてるからにほかなりません。
(以上)
これをまとめますと
【廃立の立場 弘願念仏往生】
上輩 諸行 捨家棄欲而作沙門発菩提心→廃
念仏 一向専念無量寿仏→立
中輩 諸行 当発無上菩提之心
多少修善奉持斎戒起立塔像飯食沙門懸燃燈散華焼香→廃
念仏 一向専念無量寿仏→立
下輩 諸行 当発無上菩提之心→廃
念仏 一向専意乃至十念念無量寿仏→立
これが分かりにくければ、並び変えると次のようになります。
どちらがいいでしょうか。
諸行→廃
上輩 捨家棄欲而作沙門発菩提心
中輩 当発無上菩提之心
多少修善奉持斎戒起立塔像飯食沙門懸燃燈散華焼香
下輩 当発無上菩提之心
念仏→立
上輩 一向専念無量寿仏
中輩 一向専念無量寿仏
下輩 一向専意乃至十念念無量寿仏
【助正・傍正の立場 要門諸行往生】
三輩とも念仏は万行随一の念仏で、諸行と同格
となります。
七祖の文は註釈版聖典七祖篇所収のものはそちらを参照しました。
一向に専ら南無阿弥陀仏の名号を称念するを云う。大経下巻の三輩往生を説く文には「一向専念無量寿仏」とある。彼の三輩往生段の経文は多義を含むが、故に列祖の経文解釈は一様ではない。解釈の如何によって一向専念の意義も相違点を生ずるのである。
先ず曇鸞大師は浄土論註下に「王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。」と言って、三輩ひとしく無上菩提心に由って往生を得ることを示されてある。
次に善導大師は観念法門に「またこの経下巻(意)の初めにのたまはく、仏説きたまはく、〈一切衆生の根性不同にして上・中・下あり。その根性に随ひて、仏(釈尊)、 みな勧めてもつぱら無量寿仏の名を念ぜしめたまふ。その人、命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接して、ことごとく往生を得しむ〉」と言えり。是は三輩往生段の経文に拠って専念仏名を以て往生を得ることを述べたものである。
次に源信和尚は往生要集下本の念仏証拠文に「双巻経の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな一向専念無量寿仏と云えり」と述べ、又諸行往生を説く中に観経の九品往生を列ね終わって「双巻経の三輩の業もまたこれを出でず」と言い、
源空聖人は選択集上に「三輩念仏往生之文」と票章して三輩往生段の経文を引き「これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。二には念仏を助成せんがためにしかも諸行を説く。三には念仏・諸行の二門に約して、おのおの三品を立てんがためにしかも諸行を説く」と言い、又同聖人は大経釈(漢語燈録一)に「今の三輩の文に但念仏往生の輩あり、助念仏往生の義ありまた諸行往生の義あるなり」と言う。
次に宗祖は曇鸞の解釈を稟承して信巻にその文を引き、又善導源信の三輩念仏往生の釈を稟承して行巻の往生要集の念仏証拠門の文を引き、又源信源空の三輩諸行往生の釈を稟承して化土巻に第十九願の文を引いて「この願成就の文は即ち三輩の文これなり」と言い、三経往生文類に至る。
要するに三輩往生段の経文には第十八願の他力念仏往生の意味と、第十九願の諸行往生の意味とを含むものとするのである。これ即ち一文両義の例である。
よってもし他力念仏往生を説いた経文として一向専念の語を解すときは、一向とは阿弥陀如来一仏を信仰して他仏を信仰せず、彼の如来の願力に乗じて往生をうることを深信して諸行諸善に心意を向けざることであり、専念とは専一称念の義で専ら南無阿弥陀仏の名号を称えることである。
もし諸行往生を説く経文として一向専念の語を解するときは、一向とは心意を阿弥陀如来一仏に向けて他の諸仏に向けざること、専念とは専ら彼の名号を称えその称功を積んで自分の往生の因にそえることである。然るに諸行往生の人は、専ら仏名を称うといえども、その称名は諸行と同等価値とみなすものである。故に古来先輩はこの種の称名を呼んで万行随一の念仏と名づけてある。