観無量寿経「散善顕行縁」の後半には三福が説かれ、その三福を行じて往生する姿を、「正宗分の九品段」で教えられています。
散善三福の行は、定善のできない人に説かれたものです。
上上品から上下品までは行福(大乗仏教の善)を励んでいる凡夫の善人
中上品・中中品は戒福(小乗仏教の善)を励んでいる凡夫の善人
中下品は世福(世俗の善)を励んでいる凡夫の善人
下三品は三福のできない悪人
下三品の悪人は本来は定善も散善もできないのですが、念仏の教えで往生します。
散乱の心で念仏を称えますので、一応、散善の機とされていますが、念仏は定善でも散善でもない、本願他力の行です。
一方、三福は釈尊が韋提希夫人に
「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」
とおっしゃっていますように、自力によって仏覚をひらこうとする行=聖道門の成仏の行です。
(なお、福とは善という意味です)
要門=聖道門ではありませんが、行は非往生行ですから、善導大師はこれらを「雑行」と名づけられました。
このように観無量寿経は、自力執着の強い行者に対して、定善・散善という自力の修行法を仮に説かれますが、そのことによって、煩悩具足の凡夫の自性を思い知らされるはたらきをもった経典です。
このことから、観無量寿経は機の真実を顕そうとする「顕機の経」と言われます。
それはそのまま、定善・散善という自力の行は、自力を捨てさせる為の方便の行であることを示します。
なお、観無量寿経の「定善示観縁」を読めば分かることですが、韋提希夫人は定善を実行したのでもありませんし(要門は基本的には出家の法ですので、韋提希夫人にできるはずはありませんが)、実行しようとしたのでもありません。
散善にしても同様です。
「やってみなければ、できるかどうか分からない」という人も時々いますが、これは「何の為に」「何を」ということが抜けています。
どれほど若田光一宇宙飛行士が優秀でも、国際宇宙ステーションから一人で地球には戻ってくることはできません。
スペースシャトル・エンデバー号が迎えに行ってはじめて戻ることができました。
国際宇宙ステーションが隣の町にあると思っている人は、自分の力でも行ったり来たりできると思うでしょうが、どこにあるか分かった人は、二度とそんなことは思いません。
阿弥陀仏の極楽浄土へ行くには、阿弥陀仏(法蔵菩薩)がなされたことと同じことをしなければなりません。
オリンピックで金メダルをとる、のど自慢でカネを3つとる、希望大学に合格する等とは、わけが違うのですから。
阿弥陀仏が極楽浄土をつくられる時にどのような御苦労をされたかを聞かせて頂けば分かることです。
もちろん、「俺はやる!」と言っている人を引きとめたりはしませんが・・・。
【九品】
散善三福の行を励む人を九種類に分けて教えられたものです。
大無量寿経に説かれている三輩の内、上輩は定善の機を含んでいると言えますので、厳密に言えば違いますが、浄土往生人のすべてを九品に分類する場合は、定善の機を上品に含めます。
その場合は、大無量寿経の三輩を開いたのが観無量寿経の九品ということになります。
善導大師はこの九品をすべて凡夫と見られ、観無量寿経は聖者の為に説かれたのではなく、煩悩具足の凡夫の為に説かれたのだと教えられました。
ただこの『観経』は、仏、凡のために説きたまへり、聖のためにせず。
(観無量寿経疏 玄義分 註釈版聖典七祖篇316頁)
如来(釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせずといふことを証明す。
(観無量寿経疏 玄義分 註釈版聖典七祖篇321頁)
観無量寿経には九品が説かれているのですが、これは方便であり、法然上人や親鸞聖人は九品の差別はないと教えられています。
問。極楽に九品の差別の候事は。阿弥陀佛のかまへたまへる事にて候やらむ
答。極楽の九品は弥陀の本願にあらず。四十八願の中になし。これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはば、悪業のものとも慢心をおこすべきがゆゑに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし云云
(法然上人 西方指南鈔「十一箇条問答」[親鸞聖人筆])
横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
(教行信証信巻 横超釈 注釈版聖典254頁)
つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもって付属流通せず。ただ念仏一行をもって、すなわち後世に付属流通せしむ。知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐(とうえん むなしいこと)せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり、行者知るべし。
(選択本願念仏集 念仏付属章 注釈版聖典七祖篇1273~4頁)
定散二善の法門は、聖道門→定善→散善三福→弘願念仏へと導く為の方便なのです。
ここで「方便」という言葉に気をつけなけれななりません。
方便についてはいろいろ教えられていますが、私達に関係あるものとしては「善巧方便」と「権仮方便」があります。
善巧方便とは、仏が人々を真実へ導く為に、真実の教えそのものとなって説かれることを言います。
「阿弥陀仏の方便方身」の方便がそれに当たります。
この意味では、善巧方便そのものは「真実」です。
それに対して、権仮方便とは真実を理解できない人の為に仮に説き与えられたものを指します。
観無量寿経に説かれている定散二善の法門は権仮方便です。この権仮方便は「暫用還廃の法」とも言われます。
つまり、外道の人を仏教に導く為に権仮方便である聖道門が説かれ、聖道門の人を浄土門へ導く為に定散二善の法門(要門)が説かれました。「聖道門は方便である」と分かっている人に聖道門を説く必要はありません。
さらに、要門の人を弘願(第18願)へと導かれるのですが、「要門は方便である」と分かっている人に要門を説く必要はありません。
「阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。」のです。
では、観無量寿経は何の為に説かれたのでしょうか。
善導大師は「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。」と観無量寿経には二つのことが教えられていると説かれました。
親鸞聖人は観無量寿経には「顕」の義と「隠彰」の義があると教えられました。
親鸞聖人が、それまで「三経一論」を所依とされていたものを、あえて、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」とおっしゃったことを伺うに、観無量寿経を読む時には注意する必要があるでしょう。
なお、親鸞聖人の御和讃に
釈迦・弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり
とあります。
この御和讃は善導大師の般舟讃をもとにつくられたもので、般舟讃には単に「方便」とあるだけです。
般舟讃の意味から言えば「権仮方便」ということになるでしょう。
それを「善巧方便」とおっしゃったのは、阿弥陀仏や釈尊に対する親鸞聖人の尊崇の念からと拝します。
王宮会の場合は、釈尊が韋提希夫人に説かれています。
耆闍会の場合は、阿難尊者が釈尊の代理で、耆闍崛山で釈尊のお帰りを待っていた、無量の諸天および竜・夜叉(釈尊のその他の弟子や菩薩、天人)に対して説法しておられます。
[序分 証信序]
かくのごとくわれ聞きたてまつりき。ひととき、仏、王舎城の耆闍崛山のうちにましまして、大比丘の衆千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千ありき。文殊師利法王子を上首とせり。
(観無量寿経 註釈版聖典第二版 87頁)
[耆闍会 耆闍分]
そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説くに、無量の諸天および竜・夜叉、仏の所説を聞きて、みな大きに歓喜し、仏を礼して退きぬ。
(観無量寿経 註釈版聖典第二版 117頁)
[観無量寿経疏より]
耆闍会のなかにつきて、またその三あり。
一に「爾時世尊」より以下は、耆闍の序分を明かす。
二に「爾時阿難」より以下は、耆闍の正宗分を明かす。
三に「無量諸天」より以下は、耆闍の流通分を明かす。
上来三義の不同ありといへども、総じて耆闍分を明かしをはりぬ。
(観無量寿経疏 註釈版聖典七祖篇 500頁)
菩薩の階次はいろいろ説かれていますが、『華厳経』や『菩薩瓔珞本業経』に説かれている52位の階位でいうならば、
52 仏
41~51 聖者(なお、仏も聖者です)
ーこれより下を「凡夫」というー
11~40 賢者(=内凡)
1~10 外凡(この中に善凡夫と悪凡夫があります)
となります。
正信偈の「凡聖逆謗斉回入」の「凡」と「聖」の意味はこういうことです。
(お詫び:↓書体によって文字がずれる場合があります)
[善凡夫]
遇大の凡夫 上輩(上品上生、上品中生、上品下生)…行福を励む人
遇小の凡夫 中輩(中品上生、中品中生)………………戒福を励む人
〃 (中品下生) …………………………世福を励む人
[悪凡夫]
遇悪の凡夫 下輩 下品上生…十悪
下品中生…出家の三罪(破戒、盗僧物、不浄説法)
下品下生…十悪・五逆
○いずれもこれらの悪を造って懺悔のない者ということです。
○三輩は観無量寿経に説かれているもので、大無量寿経の三輩ではありません。
○盗僧物とは、仏教教団(サンガ)の共有財産を私物化することです。
○不浄説法とは、以下のようなものをいいます。
・金銭を得るために法を説く
・見返りを期待して法を説く
・相手を打ち負かすために法を説く
・保身の為に法を説く
・自分は信じてもいないのに法を説く
観無量寿経の説法が2回されているということは、阿弥陀仏の救いは「汝是凡夫 心想羸劣」と言われた韋提希夫人のような「悪人」を救うことを本意とし、「善人」(聖者・賢者・善凡夫)は悪人に随伴して救われると教えられているのです。
なお、悪人正機の正機ということについては、「凡聖相対」と「善悪相対」とがあります。
正機は傍機に対します。
凡聖相対…凡夫と聖者を比べる。凡夫が正機で聖者が傍機。
善悪相対…善凡夫と悪凡夫と比べる。悪凡夫が正機で善凡夫が傍機。
観無量寿経では、王宮会の対機は悪凡夫の韋提希夫人、耆闍会の対機は善凡夫ということになります。
この観無量寿経の教説が「悪人正機」の教えにつながるのです。