二種深信

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2010/09/01(水)
石田慶和教授の『教行信証の思想』の中から「二種深信」について言及されている部分を抜書きしました。
石田教授は本派本願寺の論題研究について一家言ある方です。
著作もいくつか市販されていますので、興味のある人は読まれたらいいと思います。

以下引用

 「三心一心」等の論題に対して、「二種深信」という論題はやや異なった意味をもつ。「二種深信」とは、信心の相状を明らかにするものであり、善導の『観経疏』の「深心釈」によるものである。そこには『観経』の三心(至誠心・深心・廻向発願心)の中、第二の「深心」について、「深心といふは、すなはちこれ深信の心なり」と言い、それに二種ありとして「機の深信」と「法の深信」が説かれている。「機の深信」とは、「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」ということであり、衆生のありのままのありさまを言い、「法の深信」とは、「决定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂取して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、定めて往生を得と信ず」とあり、衆生を摂取する教法を言うとされる。この二種の深信は、信心の相状を言うものにほかならず、一般的に言えば、浄土教における「信心」という宗教的意識の内容を示すものと言える。
 『教行信証』では、「信巻」に、大信釈として善導の三心釈の一つとしての深心釈が七深信として引用され、その初めに「二種深信」があるが、ここでは至誠心釈や廻向発願心釈のように、親鸞独自の訓点が施され解釈が試みられることはない。親鸞の問題意識としては、それほど大きな意味はもたなかったと考えられる。しかし宗学では「二種深信」は重要な論題として、多くの論者によって慎重に論じられている。それは、この二種深信こそ浄土真宗における「信心」ということの独自性を表していると考えられているからであろう。その意味では、「二種深信」を論題としたことは、宗学の大きな寄与と言える。その主眼とするところは、二種の深信といっても別々のものではなく、二種は一具であり、一深心、すなわち真実信心にほかならないとするところにある。

 たとえば、甘露院慧海(1798~1854)は、
「この深信と云ふは、本来弥陀の仏智を見きはめ給へる機法両実が、われらが心中に印現したる相を信機信法と云ふ、弥陀は無有出離之縁の機の為に他力法を成じ給ふ、依って本願には十方衆生、成就には諸有衆生と云うて、所被の機をあらはす、この機の為に成じ給へる本願なれば、之を高祖は本願の生起本末との給ふ、生起とは無有出離之縁の機なり、本末とは他力摂生なり、すなはち是が六字の由なり、之を心得たが機法二種の信なり、われらが信体即機法両実を照らし給へるは仏智なれば、信法も亦機法両実なり、かく談ずるときは、信機信法は一具にして離るべきものにあらず」(『真宗百論題集』上、147頁)という。

 また老謙院善譲は、
「此二種は即ち弘願信楽にして一心中の二義、二而不一なり、信機は乃ち自力を捨つることを顕し、信法は乃ち他力に帰することを示す。……当流的伝の深信は明了決択、堅固不動、機法の心相全うじて無碍光の仏智なり、仏智を以て機を照す、是れ信機、仏智を以て法を照す、是れ信法、能所不二信即仏智の故に、一点の疑なく、所謂(聞も他力よりきき、思ひさだむるも他力よりさだまるなれば、ともにもって自力のはからひちりばかりもひよりつかざるなり)と、是れなり」(同150頁)と言っている。

 あるいは浄満院園月(1818~1902)は、
「他力回向の信心なれば二種なくんばあるべからず、此二種の信は只是れ一信心の妙味なり、自力を捨つる時は必ず信機具する、他力に帰するは即ち信法なり」(同151頁)と言い、

 願海院義山は、
「深心とは本願の信楽なり、故に仏願の生起本末を聞いて疑心あることなき、是れ深信二種という所以なり、生起を信ずるを信機といひ本末を信ずるを信法とす」(同160頁)と論じ、またその信相について、
「自力を捨つるを信機といひ、他力に帰するを信法といふなり、……信機とは我が身心の出要に於て毫も用に立たざるを信知するの謂いなるが故に……信法の帰他力なることは蓋し弁を俟たざるべし、此義に由って古老は信機信法とは捨機托法の謂なりと云ひ、或は捨自帰他とす、或は捨情帰法の用なりと記し遺さるるなり」(同162頁)と述べている。

 いずれも、「二種深信」という場合、とくに「機の深信」のみを立てて、それが衆生の起こすべき罪の自覚というように誤解されることをおそれて、あくまで捨帰托法をいうものにほかならないことを強調し、二種一具の深信として一信心の相状をいうことを説くのである。その意味で「二種深信」は「信機自力」の異安心に対して、浄土真宗の「信心」は、自ら罪悪生死の凡夫と思い込むことではなく、また衆生救済の教法を理解するということにとどまるものでもなく、捨機托法として、自己を捨てて全面的に仏願に帰することをいうことを明らかにしようとするものである。

 このことは、浄土真宗における「信心」の独自な意味を明らかにするものと考えられる。そこに、「二種深信」が論題として立てられる意味があると言えよう。しかし同時に他方では、「二種深信」は、後に示すように、一般に「信」ということの在り方についての深い洞察を示しているように思われる。しかし、そういう点に着目せず、論題としてのみそれを論じ、真宗教学の中に位置づけようとしたところに、論題研究そのものの問題点があり、親鸞の宗教思想全般に対する寄与を明らかにし得なかった理由があると考えられる。それについては、後に『教行信証』各巻をめぐって考えるときに、改めて論じることにしたい。

以上引用

『教行信証の思想』pp47-50
石田慶和著 法蔵館刊 2005年11月20日発行 ISBN4-8318-3828-4)
※『真宗百論題集』からの引用部分は改段してあります。
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タグ : 石田慶和 二種深信

2010/08/30(月)
 善導大師が『観無量寿経』を解釈されました『四帖疏』の第四巻散善義に、『観経』の三心のうちの第二の深心の意を述べられたましたそのお釈の中に、

 「二には深心」と。 「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。 一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。


とあるのご文が、この論題のよりどころであります。
 ところで宗祖聖人のお釈によりますと、『観無量寿経』には顕説と隠彰の両様の意味があるといわれます。その顕説というのは経文の上に顕著に示されてある側の法義であって、第十九願の要門の義であり、隠彰というのは経文の上ではさかんに説かれてなく隠微に示されてあるが、それは第十八願の法義であるとされてあります。したがって三心の意義もこの隠顕の両方の義にわたってくるのであります。そこで深心も両様にうかがわれるのでありますが、いまこの二種深信という場合はその隠彰の義すなわち第十八願の法義に限るものとするのであります。
 『散善義』の釈文の初めに、まず、

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。


とあるのは、『大無量寿経』の第十八願成就の文に「聞其名号信心歓喜」とあるその信心の語をもって『観経』の深心を解釈されるのであって、深心の本義は第十八願の意にありとされる意味であります。
 そこで次に「また二種あり」といわれる「二種」は第十八願の信心すなわち純粋なる他力の信心を両方に開いて示されるのであって、二種とあっても別のものでないことがわかるのであります。
 その「二種あり」といわれるうちの初めはいわゆる「機の深信」というのであって、お名号の至りとどいた人すなわち信心を得た人にあっては自分の本来のすがたを知らされた側をあらわすのであります。自分本来のすがたというのは無始よりこのかた生死の境界をめぐって来て、今日只今も妄念の心しばらくも止むことなく貪欲・瞋恚の思いがいつも起こっており、したがって未来永劫迷いをでることのできぬのが自分の実情であると知らされるのであります。知らされるというのは「聞其名号信心歓喜」の「信心」の内容であってみれば、名号の到り届いたところにあらわれるものでありますから、機の深信といっても自分が知るのではなくして知らしめられるのであります。過去・現在・未来にかけて三界生死を離れることのできぬ自分ということを知らしめられることを機の深信とするのであります。その三世にわたって生死を出られぬと知らしめられた心の内容というのは、自分では生死を出られるような行のできぬこと、すなわち自分の力の役に立たぬことを知らされることであり、自力の心を全く離れること、自力心のすたったことをいうのであります。
 次に法の深信というのは如来の法のありのままを知らしめられることであります。その如来の法というのは名号のいわれであり、名号は本願の成就した果号であります。いまのご文では「阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと」と示されるのであります。「四十八願」とありましても実は第十八願のことであります。深心釈のうち宗祖の申される第七深信の文に「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて」などと申されるところに「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」とある仏願と同じでありますから第十八願のことであります。その「法」は我ら衆生を摂めとってくださる願力の独用、名号のはたらきで往生させてくださることを「衆生を摂受したまふこと」といいます。「疑なく慮りなく」というのは「かの願力に乗じて」という乗の意味でありまして如来の願力に対していささかの疑いもなく慮りもなくうちまかせた心ぶりを「疑なく慮りなく」といいます。「かの願力に乗じて」の「乗」の意味は『行文類』に「駕なり」「登なり」とお示しなされてありまして、駕に乗れば駕にまかせ、船に載せられたら船の運びにまかせるごとく、何ら気がかりもなくうちもたれた心ぶりをいうのであります。
 そこで信機・信法二つになっていましても一つの信相を示されるのであります。自己の本来の相を知らしめられたところに己の力を用いんとする心がすたり、本願のありのままを知らしめられるから願力にうちもたれるのであります。そこで己の功を用いんとする心のすたったままが願力にうちまかせたのであり、願力にうちまかせたままが自力心のすたったのであります。これを「捨機託法」といいます。「捨機」とは機の功を用いんとする自力の心のすたったことをいうのであり、「託法」というのは法に乗託する、すなわちうちまかせた心でありますから、この二つは願力を仰ぐ喜びの心を両方から述べたことであります。
 また願力の法というものは三世にわたって出離の縁のない機のために成就されたもので、『信文類』に聞其名号の「聞」の意味を解釈されて、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。


と述べられてあります。その生起本末という「生起」とは本願の起こらねばならぬ「もと」ということでありまして、その「もと」とは生死輪廻のはてなき我ら衆生のことであります。「本末」というのは法蔵因位の願と行とを「本」とし、十劫の正覚の成就を「末」とします。そこで「生起」は機であり、「本末」は法のことになります。したがって法は機のためにあるので、機を離れた法はないことになります。このように機と法とは離れられぬ一具のものでありますから、信機・信法の二種も一具ということになります。捨機託法といえば捨機即託法であり、信機・信法といえば二種一具ということになります。いずれの言い方にしましても二種深信は他力の信心、第十八願の信楽のすがたをあらわされたものにほかならぬのであります。
 『往生礼讃』の前序の文にまた三心のご解釈がありまして、その第二の深心の釈が二種となっております。その文というのは、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。


とあります。初めに「深心すなはちこれ真実の信心なり」とあるのは『散善義』の釈と同じく本願成就文の信心をもって『観経』の深心を解釈されて深心の本義は第十八願の義にありとされるのであり、そこでそれを開いて信機・信法の二種とされるのであります。「信知」という語が二度置かれてあるのは、その意であります。
 その初めの機の深信の文において、「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず」とあって『散善義』の方に「現にこれ罪悪生死の凡夫」などとあるのと文の相が少し異なるように見えますが、その意は同一であります。「出離の縁あることなし」というのも「三界に流転して火宅を出でず」というのも同一のことであります。『礼讃』の方には「善根薄少」といい、『散善義』の方に「罪悪生死」とあるのは、ただこれ言葉の緩急の別だけであります。その法の深信の文にあっても『礼讃』の方には「本弘誓願は、名号を称すること下十声」などといって称名を出してあるが、『散善義』では後の方にある、いわゆる第七深信のうちの就行立信の文に「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて」などといって称名をあげ、次に「これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」と第十八願に順ずるの行としてあるのと何ら異なるところはありません。『散善義』は『観経』の文を釈せられるものであるから深心についても広く解釈せられ、『礼讃』は序文の中であるから簡単に示され、『散善義』のいわゆる第七深信の「順彼仏願」の称名を第二の深信の中に摂めて示されるのであります。
 次に、この二種深信は第十八願の信心についてのみいわれるので、方便の願である第十九の願や第二十願の信にはいわれません。『二巻鈔』の下巻に宗祖聖人は初めに二種深信の文のみをあげて、

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。


と示され、その後に「文意を按ずるに」などといって、七深信をあげられてあります。それで信機・信法の二種深信は弘願の信に限るとされるのであります。
 次にこの二種深信は勿論初起・後続に通ずるのであって一生涯にわたって相続する心相であります。かの二河白道の解釈において貪瞋煩悩は一生涯にわたって続いているのであり、白道の信心ももとより一生相続の信とされてあります。白道の行者となった他力信心の人でも、その性得の根性は一生涯にわたって同じことであって地獄一定のものであります。あたかも石の重さが、その陸上にあるとき百貫のものは、船の上に載せてからでも同じく百貫の石であります。すなわち石でそれ自体は水に沈むのがその性質であります。その船上に載せて沈まぬのは沈む石の重さより浮き上がらしめる船の力が勝るからであります。それがごとく行者の自性は生死の海に沈むべきものでありますが、阿弥陀仏の大願業力の押し上げる力が勝るものであるから地獄一定の性得の凡夫が彼岸の浄土に到るのであります。
 このように性得の機の無功であって、ただ願力の法のみによるの意義は初起も後続も一貫して変わりがないのであります。

タグ : 大江淳誠 安心論題 二種深信

2010/08/04(水)
 第一、機の深信。
 現にこれとは、三世の中の現在。過去を受けた現在である。次の曠劫以来現在までの過去に対する語である。従って又、後の出離の縁なしとは未来に属する。過去、現在、未来に亘っての罪重のことを述べる。罪悪生死とは、罪悪によって生死を流転するので、罪悪の凡夫、生死の凡夫である。凡夫とは愚痴闇冥であって、我身、我見に執するを性とする者。『一念多念文意』多念章に

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

といわれる。曠劫以来とは『信巻』至心釈には無始以来とある。以来というよりも、凡夫としての存在そのものの本質であるから浄土教ではこうあらあすのである。常没とは沈没であって、三悪道に沈没する。流転とは、六道を輪廻転生すること。疏主大師の『法事讃』に、

もつぱらにしてもつぱらなれと指授して西路に帰せしむれども、他のために破壊せられてまた故のごとし。曠劫よりこのかたつねにかくのごとし。これ今生にはじめてみづから悟るにあらず。まさしく好き強縁に遇はざるによりて、

とされる。この意味を『高僧和讃』善導讃に、

西路を指授せしかども
 自障障他せしほどに
 曠劫以来もいたづらに
 むなしくこそはすぎにけれ

と和讃される。法蔵因位の願行は罪重流転の衆生を生起とし、その第十七願には諸仏の咨嗟称が誓われ、その成就の相たる諸仏証誠は『小経』に詳しい。あれが諸仏無倦の指授である。今、曠劫流転という時、自ら障碍し、他を障碍して、空しく過ぎて来たわれらの過去を顕す。出離之縁とは弥陀の強縁に遇わないならば、未来もまら流転であろうという。これを『源空讃』に用いられる。

曠劫多生のあひだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし

 この機の深信を知る者は決して自己ではない。如来は一切衆生の実態を思惟して四十八願を選択されたのであるから、四十八願所被の機がここに示される。過去、現在、未来のわれらの実態であると、弥陀如来によって案ぜられ、諸仏によって告げられる。
 『往生礼讃』前序には、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

と。『散善義』深心釈の解釈に大層な示唆を与えるものである。それは、ここでは深心釈が二項目しかない。即ち第一、機の深信と、第二、法の深信の二つだけであるということである。これは七深信でなくても、機法二種深信で足りておるということである。即ち七深信はこの二種に収まるということである。この機の深信では、善根薄少として、一見表現が軽いようであるが、流転の果報の因として信受するものであるから、『散善義』と変わらない。これを信受信知するのが第一、機の深信である。それは次の法の深信の四十八願を離れては成立し得ないものである。

 ついで出離の縁たる四十八願等の法を標して二者とする。いわゆる法の深信である。この一には、二にはについて「機法二種の深信」といったのは『六要鈔』である。西山の証空上人は『観門義鈔』に信機信法の語を使ってある。さきに、七深信の相互の関係を述べ、第二深信を『大経』深信であるといった。それでも四十八願とあって、『大経』とはない。そこで『礼讃』の二種深信が教えてくれるといった。第二深信には『三部経』が収まるというよりも、四十八願の法義が『三部経』に開説されていて、いま四十八願という。『礼讃』では「弥陀の本弘誓願」と言った。出離の縁あることなしという自身の出離の縁が四十八願の法である。『法事讃』には「正しく好き強縁」とある。『源空讃』では「出離の強縁」と使われ、『本典』総序にも「弘誓の強縁」とされる。この「強縁」とは縁の字を使うけれどもこれは因、強因、正因の意である。深信釈でいう出離の縁とは出離の強縁であって、正因である。
 衆生を摂受してとは第十八願の意である。衆生とは第一深信に示された、無有出離の縁である。摂取の語は『大経』五劫思惟段に、荘厳仏国清浄之行を摂取とあるが、今は『観経』第九観の、念仏衆生摂取不捨の摂取を取っての摂受であろう。第十八願の意を述べるのに四十八願はと出すのは、四十八願の主意は、仏身、仏土、聖聚の三厳を誓うけれども、それはただ一筋に迷いの衆生を来生させる意に基づく。従ってその意を『玄義分』には「一一願言」といい、『般舟讃』には一一誓願為衆生と讃ずる。今は逆に四十八願の語を標して、第十八願の意を述べるのである。この第二深信の文は、前半が約仏、後半が約生の仕立てになっている。疑い無くはその中間にあるので、仏の無疑か、衆生の無疑か、二義あり得る。次に無慮と続くので、無疑の前に「衆生」を入れて、これは以下を約生の文とするのがよい。即ち無疑とは下の彼の願力に乗じてである。『六要鈔』は、

若不生者不取正覚。正覚すでに成ず。ゆえに疑無く、即得往生住不退転。一念誤り無し。ゆえに無慮という。

とする。願が成就した。仏願は因願から果成に至るまで、仏の思慮周到であるから、衆生においては信受するだけで、慮り無用である。彼の願力とは『論註』下、不虚作住持功徳釈に、

いふところの「不虚作住持」とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに「成就」といふ。

とあって、願力とは、因願に相苻の果成の名号である。即ち乗彼願力とは聞其名号信心歓喜である。いま彼の願力に乗じて定んで往生を得というのは、『礼讃』の二種深信では、「名号を称すること下至十声一声に至るまで、定んで往生を得しむ」とされるに当たる。今は経の疏釈であるから、深信を列する。第二では乗彼願力といい、第七では一向専念弥陀名号、順彼仏願といわれる。『礼讃』は行儀の書に置く短い前序であるから弘願義を略示するもので、両書の所顕に差異はない。定んで往生を得とは『六要鈔』の示唆するように本願成就文の即得往生住不退転である。
 宗祖は『愚禿鈔』に七深信の整理をするについて、まず、第一と第二とを引用して、

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

といわれる。即ち「文の意」を七深信と理解した上で、なお深信は第一と第二に尽きるとされたのである。こう見込まれるには、『礼讃』の深心釈が大きな参考であったと思われる。金剛心は具さには金剛の真心。『信巻』では「金剛の真心は無碍の信海なり」という。広大な大慈悲の救済世界である。これは他力至極である。至極というのは自力の残滓の一片もない。純他力の義である。『行巻』行一念釈に選択易行の至極という。易の至極である。他力の至極は純他力にして自力なしの意を顕わした。一乗無上とは『行巻』に一乗海を釈して、「ただこれ誓願一仏乗なり」というように、仏教界唯一成仏法であって、即ち無上功徳を体徳に持つ真実信の世界である。この真実は、近くは次上至誠心釈に宗祖のいう利他真実であるから、仏辺に真実心中作の行徳を体とする信心である。
 このように名づけるのが第一深信と第二深信とを一つにまとめての名である。逆に言えば、一つの深信の心を開いたものである。この意味を解するには、次の七深信の標列を見ねばならない。そこには、第一深信から第七深信まで列ねてあり、第一、いわゆる機の深信には、「自利の信心なり」とあり、第二、法の深信には「利他の信海なり」とある。第二にこうあるのは、第二深信単独で利他の信海ならば、この前の機法二種を一つにしての他力至極の金剛心というのと同じである。第一、機の深信単独では自利信心というのは、機法二種を一つにしての真実信海というのとは逆である。単独では自力信心であるが、機法二種を一つにした時は他力信心である。法の深信は単独でも他力信心である。
 機の深信を第一深信釈として、深心釈に組み入れたのは、疏主においては如何なる意であろうか。十一門科は九品に通ずるとしたので、第四門、三心を弁定して正因となす項も当然九品に通ずる。第六門にはそれぞれの行について、受法の不同を明かすとし、行には品毎に差があるが、これを因とはしない。ひたすら三心を正因とする。この正因の中心は深心である。それは深信である。深信とは唯信仏語(第五深信)である。順彼仏願(第七深信)である。それに機の善悪、智慧は関係ない。
 仏願建立の正所被の機は賢聖の智人ではなくて、罪重の凡夫である。第十八願所誓の行である念仏が与えられているのは下三品の機である。下三品の機こそ本願の正所被であると示してあるのが『観経』である。散善三輩九品は、『観経』である。散善三輩九品は、韋提の所謂にはないものを、釈迦自ら開説して、四十八願、即ち第二深信の機は、これであるとして第一深信の機、即ち下品の機をこの深心釈に明らかにされたのである。こう疏主は示して下されたものである。
 法然聖人は善導大師のこの釈意を『往生大要鈔』(『和語灯録』)に、

 善導和尚は未来の衆生の、この疑を起さん事をかえりみて、この二種の信心をあげて、我らが如き煩悩をも断ぜず、罪悪をも作れる凡夫なりとも、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声一声にいたるまで決定して往生するむねをば釈し給える也。

と窺われた上で、この実践の行者に示して、

正しく弥陀の本願の念仏を修しながらも、なお心にもし貪欲、瞋恚の煩悩をもおこし、身に自ら十悪・破戒等の罪業をもおかす事あらばみだりに自身を怯弱して返りて本願を疑惑しなまし。まことに此弥陀の本願に、十声・一声にいたるまで往生するいう事は、おぼろげに人にてはあらじ。妄念をもおこさず、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこし、強盛の心をもちて申したる念仏にてぞあるらん。われらごときのえせものどもの、一念・十声にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。

といわれる。罪深く、救いがたき汝をこそ救いたまう法なるぞということである。

 宗祖が二種一具を他力信とし、第一機の深信単独は自力信、第二法の深信単独は他力信とする点を整理すれば、
 第一は第二から開き出したもの
 第一は第二の中に含まれるべきもの
という解釈である。即ち、罪重の機は如来の願意の中に籠められているものである。われら衆生の罪重にして一点の出離の縁もないということは、われら自身で知るべくもないのである。知られる側の私は、私によって知ることが出来るが、その、知る側の私を知る私は居ない。知られる側の私は、罪深い者であると、私の側の私によって知られるだろうが、罪が深いと知れば知る程、知る側の私は賢く、憍慢の自力である。知る側の私を捨てようとすれば、なお捨てようとする自身が残っている。自己の内省、自己否定、求道などということを立てる限り、解くことの出来ない矛盾であり、自分では克服することは出来ない。それが出来るのは、他者に依らねばならない。そこに、他力の如来があって、汝は罪重し、無有出離之縁と私を徹見し、その故にこそ超世希有の願を建立されたのである。衆生としては唯信仏語という。仏語の中に機の深信を聞信するのである。それが第二深信である。機の深信は法の深信から開いて示したので、法の深信に内包されるものである。疏主が四十八願をもって出す所の『大経』弥陀分、即ち弥陀の因果を説示する中には、一語も衆生に罪重と告げる所はない。ないけれども、七高僧、殊に曇鸞大師が『浄土論』の二十九種荘厳を註解するに当って、後に末註諸家のいう所為の境、能為の願、成就の相という項目でもって示したことの中、所為の境が、迷界の依報、正報の救いがたい苦悩の姿である。更に道綽禅師は時に約し機に被らしめて、唯有浄土一門、可通入路と見られた。このような先賢の卓見を受けて、ここに至って浄土教の中心問題である深信の構造が、二種深信という形で明示されたのである。
 『大経』本願成就文の聞其名号を宗祖は。仏願の生起本末を聞くと釈した。如来は如より来生して因位の大乗菩薩を現じた。その現ずる所以は一切衆生にこの大乗菩薩の本末を示現呈示するにある。そこを一切衆生に説示したのが、釈尊の『大経』教説であり、それが釈尊出世の本懐であった。釈尊は『大経』に従如来生の、弥陀の因果を説いた後、釈迦分に、三毒段、五悪段を説いて衆生に勧信した。この三毒五悪の段に七高僧が仏願の「生起」即ち四十八願の正所被の機を見た。無有出離之縁の衆生であると見抜く示唆が、三毒五悪の所にあるのであろう。疏主に至っては、本願及び成就文の唯除五逆、誹謗正法の文の中に、むしろ能被の慈悲と所被の機を見、機の深信にいう無有出離之縁の者と顕された。
 法然聖人は機の深信の独立単行を案じて、『往生大要鈔』に、

ほとけの本願をうたがわねども、わが心のわろければ往生はかなわじと申あいたるが、やがて本願をうたがうにて侍る也。

として、信機の単行は『大経』に説かれる信罪の心を意味する本願疑惑に発する義を説かれた。『愚禿鈔』に機の深信が単独であることは、自力の信であるという意味がここにある。
 先に述べたように、自分による自分の反省、内省は不可能であるとしたが、それが可能であるとして、自身を罪重と見る自身の誤りに着眼出来ず、むしろ自己を罪重と見ることの出来る自己の力を信じているのであり、これは信罪の心である。即ち、自利の信心とする所以である。機の深信単立では自己の完全否定は到底不能である。
 念仏は如来の法である。そのことをあらわすのが第二深信、法の深信である。七深信の列標の第二には、即ちこれ利他の信海なりとある。機の深信は法の深信に含まれるものである。如来が衆生の性を無有出離之縁と見られた上に四十八願は立てられている。如来によって「汝は出離の縁なき者なり」と告げられ、同時に「汝を必ず救う」と告げられているのである。文に衆生を摂受すという衆生とは出離の縁なき一切衆生である。如来の生起本末といわれる五兆の願行は、衆生救済の到徹せる計らいであって、仏智不思議である。この法のはたらきかけにすべてを挙げて託するということは、自己のすべてを捨てるということである。自己を捨て切るには法の摂受が信受されなばならない。この如来の法を願力名号に於いて信受するのを乗じてといった。自力を捨てて他力に乗託するの義であるから、捨自帰他、捨機託法という。如来の、衆生の自力無功という前提を信受することが自力を捨て、自己を捨てる、自己を忘れる、自己の如来による否定を受け入れることである。行き届かざるなき如来の計らいを宗祖は仏智の不思議という。この仏智不思議に帰するのである。
 われわれの受法とは、大慈悲の如来あってこそ自己の全否定が信受するされるのであり、自己の全否定であって大慈悲の如来を信受することが出来る。この二つには前後はなく、二つの事実もない。本願の信楽を機法両面から顕したものである。『愚禿鈔』に、信受本願、前念命終という。信受本願とは成就文の信心歓喜であり、本願に乗託することである。前念命終とはその時に自己のすべてを本願海中に投託するので、曠劫流転の業命は命終する。即得往生は後念即生なりとは、本願成就文の即得往生住不退転というのは、信益同時に、往生成仏への念仏者の命が始まるという程の義である。正定聚の命が始まったのである。前念後念の語は『礼讃』前序に、前念命終、後念即生とあるものの、語を借りたのである。『礼讃』では命終と往生と間髪を入れないことを顕したが、『愚禿鈔』ではそれを信の初際に当てたのである。従って前念後念といっても、信受本願同時に即得往生住不退転であって、いわゆる信益同時である。
 以上第一信機に対して、第二だけを取り切って信法とされたのはなぜか。第三『観経』深信、第四『小経』深信をも含めて、少なくとも信法を大観小の深信としないのは何故かといえば、さきに触れたように『礼讃』前序の深心釈に信機、信法の二項目とし、『観』『小』両経は出ていない。もっとも法の深信とされる第二項にも『大経』とは出ていない。このことは当『散善義』も同じである。『大経』は『三部経』の中でも特別であるという取扱いである。宗祖に至っては『大経』は真実の経であって、『観経』『小経』は第十九願、第二十願開説の経であると見られるので、三経が同等の価値ではない。『観』『小』両経は『大経』法義の持っている慈悲方便の面が説き出されるのであるから、その根本である四十八願を挙げれば、すべての法義を持しているものである。即ち第三深信、第四深信には隠顕があるので今は両経は出さない。その点で『愚禿鈔』に第一と第二とを一組として真実信海とされてあることは、宗祖の研究の成果である。これは深々と釈家の意を尋ねられた答えである。
 以上、宗祖の二種一具の深信義を窺って来た。『選択集』三心章には、『散善義』の三心釈を二河譬まで引用されるが、その釈は誠に簡略であり、深心釈にも宗祖に示唆したものはない。もっとも語としては宗祖には二種深信はない。第一深信と第二深信を合して「二種」と呼ぶことを拒否するものを考えておいでたのが宗祖であろうか。

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2010/02/23(火)
「法の深信」とは、「助かるに間違いなし」と阿弥陀仏の本願(法)に疑い晴れたことである。
と言う人がいます。
これが間違いなのです。
もし、こういう言い方をどうしてもしたいのならば、
助けるに間違いなし」
と書くべきなんですね。

助かるか助からないかを問題にする人がいます。
助かるか助からないかはこっちのことなのです。
「仏かねてしろしめして」おられるのです。
疑い無く助ける法を聞くのです。

ひっくり返っているのです。

タグ : 二種深信

2009/11/10(火)
理解するんじゃないと言っておきながら何だ!とつっこみはなし。
信心と教学は別の話です。
ただ二種深信は信心そのもので、これを間違っているとまずいです。
(知らないとまずいということではありません。間違っているより知らない方がいいとも言えます)
というわけで、二種深信について勉強しましょう。
今日のサンプルは

㈱チューリップ企画と田中一憲氏の論戦
【第13回】一念は真実信心の信相 より
次に聖人は、「信相の一念」についてこう教えられている。
「一念と言うは、信心二心無きが故に一念と曰う、是を一心と名づく、一心は則ち清浄報土の真因なり」 (教行信証)
この意味は、「信相の一念」とは「二心無きこと」とも「一心」とも言い、「清浄報土の真因」である、と聖人は云われている。
即ち「信相の一念」とは「二心」のなくなったことだ、と教えていられるのである。
では、「二心」とは何か。
弥陀の本願に対する「二心」であり「本願の疑惑心」のことである。故に「信相の一念」とは、弥陀の本願にツユチリほどの疑心も無くなったことを云う。
弥陀の本願に疑心がなくなれば、弥陀が救わんとなされた者(真実の自己)とはどんな者か、ということと、そんな者を必ず救うと誓われた弥陀の本願真実が、ハッキリと知らされる。
ハッキリ知らされたことを「深信」といわれるから、弥陀の本願に全く疑心がなくなれば、「真実の自己」と「弥陀の本願真実」の二つが同時にハッキリ知らされるのである。これを「二種深信」といわれる。
これでお分かりのように、「信相の一念」とは「二種深信」のことである。
仏法では自己のことを「機」といい、真実の自己を「実機」という。弥陀の本願は真実の「法」だから「真法」とも言う。
二種深信」とは「真実の自己」の「実機」と、「弥陀の本願」の「真法」がハッキリしたことだから、「機法二種深信」とも言われる。然もこれが、同時にあるから「機法二種一具の深信」とも言われるのである。
以上で明らかなように「信相の一念」とは、弥陀の本願に全く疑心がなくなったことであり、「真実の自己」の「実機」と、「弥陀の本願」の「真法」とが同時にハッキリする「二種一具の深信」のことであると、聖人は仰っているのである。

【第14回】機法二種深信とは より
「信相の一念」とは、弥陀の本願に全く疑心がなくなったことである。それは、二つのことがハッキリすることだ。
真実の自己の「実機」と、弥陀の本願の「真法」とである。
真実の自己の「実機」をハッキリ知らされたのを「機の深信」といい、弥陀の本願の「真法」をハッキリ知らされたのを「法の深信」という。
真実の信楽には、この二つの「深信」が同時にあるから「二種一具の深信」と言われることを先回明らかにした。
そこで先ず、「機の深信」でハッキリ知らされる真実の自己とは、どんな者か。善導大師は、こう仰っている。
『一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す』
いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた、と仰っているお言葉である。

この中にはいくつかの間違いがあるのですが、決定的な間違いは、
「二種深信」とは「真実の自己」の「実機」と、「弥陀の本願」の「真法」がハッキリしたことだから、「機法二種深信」とも言われる。然もこれが、同時にあるから「機法二種一具の深信」とも言われるのである。
の箇所です。
特に
然もこれが、同時にあるから「機法二種一具の深信」とも言われるのである
が間違いです。
二種深信とは2つのことが同時にあるのではありません。
一つの信心の2つのすがたを示されたものです。


また「機の深信」を
いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた
と表現しているのも間違いです。
この間違いはすぐには分からない人もいるかもしれませんが、使っている言葉を全く変えずに言い換えますと、
いままでも、いまも、いまからも、極悪最下の絶対に救われることのない私であった、とハッキリ知らされた
となります。
ん?同じでないの?と思う人は何度もよく読んで下さい。

何箇所も出てくる「なくなった」という表現については、先のエントリーですでに述べました。

[補足]
私も勉強不足で、「弥陀の本願」を「真法」という言い方は聞いたことがないのですが、どなたか教えて下さらないでしょうか。

タグ : 二種深信

2009/08/18(火)
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

捨自帰他であり、二種深信です。

「自力のこころをひるがへして」
=「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」と深信・信知する。
=機の深信
=自力無功・捨自
※機の深信についてはくれぐれも誤解のないようにして下さい。

「他力をたのみたてまつれば」
=「あはれみたまひて願をおこしたまふ本意」と深信・信知する。
=法の深信
=他力全託・帰他

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞
(または○○)一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
(歎異抄 後序)

以上です。
今回は短いです。
○○にあなたの名前が入るよう「頑張って」下さい。
(頑張ってをカッコでくくったのは、廃悪修善の意味ではないとの意です)

タグ : 捨自帰他 二種深信

2009/08/11(火)
歎異抄第1章を読むのですが、書き出しについては以前少し書きましたので、今日は他の文について考えたいと思います。(書き出しの文については、あらためて書きたいと思っております)

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

「往生極楽の一段」であるということをはずさなければ、難しい文章ではありません。
しかし、第3章や第13章と同様、読み間違えて「造悪無碍」になる危険性はあります。
その点は注意したいものです。

一方、「ただ信心を要とすとしるべし」という文をもって、「称名正因」を否定されたものであるという人もいますが、この文はそのようなことを言わんとしてのものではありません。あくまでも「老少善悪」などの差別はないということを示されたものです。ここでは「老少」と「善悪」とあげられていますが、「出家在家」「男女」「賢愚」・・・など一切の差別のない救いです。世の中のこのような差別はいろいろあるのですが、それらは「善悪」におさまるでしょう。それで、この後の文には、善悪に左右されないということが書かれているのであり、歎異抄全体を通して善悪の問題に多く言及されています。
「ただ信心を要とすとしるべし」は「善悪」が問題ではなく「信疑」が問題なのだということをおっしゃったもので、称名念仏と比較してのことではありません。

このような流れの中で、「信」とは疑いのなくなった「二種深信」であると説明するのならいいのですが、「二種深信」だから「悪をもおそるべからず」というのは、二種深信(特に機の深信)の正しい理解とは言えません。

二種深信については、私の「ともだち」の運営している「安心問答」でも議論されていました。
そこで「あほうどり」のハンドルネームでコメントしていたのが私ですので、そのコメントをまとめて、若干手直しして再掲したいと思います。(主に機の深信について述べています)

二種深信は、善導大師が観無量寿経の「深心」を表されたものです。
善導大師の「二種深信」のお言葉と言われるものは次の2つです。

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (観無量寿経疏 散善義)

二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、いまし一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 前序)

この場合、観無量寿経の「深心」と言っても、隠彰弘願の意味ですので、大無量寿経の「信楽」のことであり、真実信心のことです。
従いまして、二つの心があるのではありません。
真宗学の学者や哲学者の表現の中に「矛盾的」とか「矛盾性」とか「矛盾のように感じる」というものはあっても、それがそのまま矛盾であると言うのは間違いです。

上にあげた善導大師の2つのご文を読んで分かることは何でしょうか?
何を深く信ずるのか、何が信知させられるのでしょうか?
散善義のご文を使って縮めて言いますと、
「自身は無有出離之縁の者なり」
となります。
では「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」は何を表しておられるのかというと、「自身」の様を表して、「無有出離之縁」の理由を示されたものです。
往生礼讃はその部分が、「善根薄少」となっています。
極悪最下とは書かれていません。
ところが、「散善義」のご文で「無有出離之縁」よりも「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」に重点を置いた読み方をしますと、罪悪観の極まりが機の深信であると誤解するのです。
重点は「無有出離之縁」にあります。

機の深信についてのよくある間違いは、「自己の罪悪を掘り下げていき、徹し切ったところに、いわゆる機の深信が立ち、救いがある」といった類のものです。
簡単に言えば罪悪観と機の深信との混同です。
浄土真宗の異安心の歴史で言いますと、江戸時代、近江(滋賀県)の光常寺で起きた「地獄秘事」などはその典型です。

機の深信とは
煩悩具足・罪悪深重の私は、迷いの世界から出離するのに間に合うものは一つも持ってはおらず、過去も現在も未来も、生死流転から抜け出せる自分でない、と信知する。
となります。
機の深信とは極悪最下の者とすべての人が知らされることではありません。

「二つの正反対のことが一念同時に知らされる」という人がいますが、二種深信は二つの心ではなく一つの心であり、前後があるのでも、並んで起きるのでも、いずれか一方が他方の条件であるのでもありません。

二種深信は機法二種一具の深信であり、図示しますと
 機の深信=自力無功=捨自
 法の深信=他力全託=帰他
となります。
そして、初起の一念より臨終まで一貫します。

親鸞聖人の正信偈の源空章の四句を読まれると、二種深信の意(こころ)がお分かりになると思います。
 還来生死輪転家
 決以疑情為所止
 速入寂静無為楽
 必以信心為能入
この前二句が機の深信の意、後二句が法の深信の意と思われたらよいでしょう。

タグ : 歎異抄 二種深信

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