(梯 實圓著 大法輪閣 ISBN4-8046-4102-5)より
他力とは何もしないことではなくて、真剣に聞法し、念仏し、敬虔に礼拝していることを「如来われを動かしたまう不可思議の徳の現われ」と仰いでいることをいうのであった。念仏を励むことが自力なのではなくて、念仏しないことが自力のはからいに閉ざされていることなのである。また、たまわった念仏を自分が積んだ功徳と誤解していることを自力というのであって、念仏する身にしていただいていることを喜ぶのを他力というのである。それを親鸞は、「他力と申し候ふは、とかくのはからひなきを申し候ふなり」(聖典・七八三頁)といわれたのであった。
------引用はここまで
この梯和上の本は分かりやすいですよ。
上の文章などは素晴らしいですね。
7月29日のエントリー「御和讃を読む」で取り上げた御和讃(高僧和讃 善導讃 註釈版聖典592頁)から。
利他の信楽うるひとは
願に相応するゆゑに
教と仏語にしたがへば
外の雑縁さらになし
御和讃の意味は先のエントリーを読んで頂くことにして、今日は「利他」について考えます。
この御和讃の「利他」とは「他力」という意味です。
親鸞聖人が利他を他力の意味で使っておられることは他にも何箇所もあります。
・利他深広の信楽(教行信証信巻 註釈版聖典211頁)
・すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。(教行信証信巻 註釈版聖典231頁)
・これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻 註釈版聖典235頁)
・利他円満の妙位(教行信証証巻 註釈版聖典307頁)
・行といふは、すなはち利他円満の大行なり。(浄土文類聚鈔 註釈版聖典478頁)
・定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし(浄土和讃 註釈版聖典570頁)
親鸞聖人は
他力といふは如来の本願力なり。(教行信証行巻 註釈版聖典190頁)
とおっしゃっています。
親鸞聖人の「他力」についての御自釈はこの1文だけで、このあと、曇鸞大師の論註の言葉を説明に充てておられます。
その中に「覈求其本釈」(註釈版聖典192頁)があります。
しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。
※覈は「まこと」と読みます。
過去のエントリー(歎異抄第1章と第2章の書き出しを読む、要門考)で述べたように、主語・主体が、阿弥陀仏なのか私・衆生なのかが重要です。
阿弥陀仏の救いは阿弥陀仏が主であり、私・衆生が従(受け手)なのです。
「利他」=「他力」の場合、「利他」の「他」が衆生であり「他力」の「他」が阿弥陀仏というのではありません。それだと「他」の意味が異なってきてしまいます。
どちらの「他」も衆生であり、「利他」は「自(阿弥陀仏」利他(衆生)」の「自」が省略されているということです。
つまり「利他」とは「自利他」であり、
「阿弥陀仏が衆生を利益される」ということです。
他力とは「利他力」の「利」が省略されたもので、
「阿弥陀仏が衆生を利益される力」なのです。
注:あくまでも「本来は」という意味です。「他」を「阿弥陀仏」と説明されている場合もあります。