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2010/09/28(火)
『浄土三部経の研究』(藤田宏達著 岩波書店刊)480-482pp.より

 上来、<無量寿経>と<阿弥陀経>における「」の原語を取り上げてみたが、これによって、その特徴的な形態を明らかにすることができよう。まず五種の原語の中で(一)の「」と(四)の「順」の二種の原語は両経に共通しているが、(二)の「浄」と(三)の「解」は<阿弥陀経>に用いられず、他方(五)の「受」は<無量寿経>に用いられていない。この事実から判断すると、両経の信の形態には相違点があることを認めなければならない。もちろん、これは原語の上から見たものであり、両経の説相・分量などを勘案すると、本質的な相違というわけではないが、ともかくこれによって両経の成立事情が異なっていることを窺うことができよう。
 ところで、(一)の原語のシュラッダーというのは、インド一般で信を表す語であり、バラモン教やヒンドゥー教あるいはジャイナ教などインドの各宗教すべてが用いるものであるから、この語の上からだけでは、仏教における信の特徴を汲みとることはさしあたり困難であろう。もっとも、前記のように、<無量寿経>ではシュラッダーを慧と並べて説いており、これは原始仏教に遡及して顕著に認められるものである。ただ、原始仏教では信と慧とがいかに相即するかという点について種々な考察を行っているが、<無量寿経>では何も触れていない。したがって、シュラッダーの語に関する記述だけによって、浄土経典における信の特徴的な形態を解明することは困難である。
 ところが、(二)の原語プラサーダと(三)の原語アディムクティという語をもって信を表すのは、インドの各宗教ではほとんど認められないから、仏教独自の用法であると言ってよい。また、(四)と(五)に出る動詞のうちで、(五)の用法はインド一般の信と相通ずる点があるが、(四)の用法は仏教特有のものと見てよい。したがって、こうした原語の用法の中に仏教における信の特徴的な形態を見出すことが可能である。それは、まとめて言えば、次の二つになるであろう。
 第一の特徴的な形態は、プラサーダによって示されるように、心が澄みきって浄らかとなり、静かな喜びや満足が感ぜられる境地をさす、ということである。これは、仏教の信が、決して熱狂的、狂信的なものではなく、むしろ沈潜的、静寂的な特徴を備えていることを表している。<無量寿経>には、後にも触れるように、プラサーダが三昧(samādhi)と結びつけて説かれる用例があるが、これはすでに原始仏教に見出される用法であり、仏教の信が内面的な三昧・禅定の境地に連なる静寂的性格を持っていることを示している。
 第二の特徴的な形態は、アディムクティによって示されるように、知性的な性格を示していることである。前述のように、アディムクティは、対象に対して明確に了解して信ずることを表しているから、知性的なはたらきに即応した信の形態をとっている。<無量寿経>と<阿弥陀経>に共通して用いられる(四)の「信順する」という動詞も、もとは整理・思惟・領解の意を含んでいるから、「信解する」というアディムクティの動詞形と同義語的に用いられたのであろう。こうした信の原語の用法は、仏教における知性のはたらき、すなわち真理を正しく見る智慧を離れてあるものではないことを示している。いわゆる「不合理なるが故にわれ信ず」という信ではなく、むしろ「知らんがためにわれ信ず」という言葉に相通ずると言ってよい。このように、盲目的な信を排し、知性的な性格を持つ信が第二の特徴として指摘されるのである。
 以上のような二つの特徴をもつ仏教の信の形態は、浄土経典が原始仏教以来の伝統を受けていることを示しているが、このことをさらに裏づけるものとして、インド思想一般において熱狂的な信を表すバクティ(bhakti,信愛)という語を一度も用いていない事実をあげることができる。バクティは仏教では原始経典から知られていた語であり、特にバクティを説くヒンドゥー教の代表的文献『バガヴァッド・ギーター』は、初期大乗経典と歴史的・思想的に最も接近した文献と見られるから、<無量寿経>や<阿弥陀経>の編纂者たちがバクティを知らなかったはずはない。とすれば、この語を用いなかったのは、これを殊更に無視もしくは採用しなかったと見ることができよう。バクティに相当するパーリ語bhattiは、原始経典でも、わずかであるが現れているが、しかしこれを重視した形跡はない。後代の仏典になると、バクティの使用例はふえるけれども、ヒンドゥー教のように重視して説いてはいない。仏教において、熱狂的なバクティが積極的に受け入れられなかったのは、原始経典以来、信の形態が静寂的な性格と知性的な性格という特徴を持っていたことによるものと考えられる。この意味で<無量寿経>や<阿弥陀経>においてバクティをまったく用いていないのは、原始仏教以来の信の伝統を受けた形態を示していると言うことができるのである。
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タグ : 藤田宏達 信心

2010/09/28(火)
『浄土三部経の研究』(藤田宏達著 岩波書店刊)475-480pp.より

浄土三部経の研究浄土三部経の研究
(2007/03)
藤田 宏達

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注:
・一部特殊な文字は正しく表記されていません。
・<>でくくられた経典は全体を表します。
 (例えば、<無量寿経>は、平等覚経、大阿弥陀経、無量寿経、如来会、荘厳経、サンスクリット本、チベット訳その他を表します)
・『』でくくられた経典は、個別のものです。
・原文にある傍点などの強調は省略しました。
-----------------------------------------以下引用

 <無量寿経>と<阿弥陀経>のサンスクリット本に現れる「」の原語としては、次のように五種の語をあげることができる。

(一)(śraddhā,etc.)
 まずあげられるのは、śrad√dhā(真実を置く)という語根から作られたシュラッダー(śraddhā)という名詞とその類語である。<無量寿経>では、この名詞のほかに動詞形のśraddhatteと、これに接続辞abhi-(対して、勝れて)を附したabhiśraddhāiも用いられている。<阿弥陀経>では、名詞形は現れないが、形容詞のśrāddhaと動詞形śraddhādhvam(2.pl.Imperative)が用いられている。シュラッダーとその類語はインドでは最古の『リグ・ヴェーダ』以来、頼の意で最も広く使われている語であり、仏教においても、その最初期からこの語(パーリ名詞形、saddhā)を用いるのが最も普通である。それゆえ、<無量寿経>や<阿弥陀経>はそのような一般的用法に従ったものにほかならない。『無量寿経』では、たとえば東方偈には「人、慧あること難し」とあるが、これはサンスクリット本の「(śraddhā)と慧(prajñā)も、非常に長い時間を経て得られるであろう」に相当する。このように「信」と「慧」を並説するのは『平等覚経』『如来会』の相当句を見ても同じである。また、『阿弥陀経』の後段(「発願不退」の段)には「もろもろの善男子・善女人、もし信ある者は……」とあるが、「信ある」の言語はśraddhaである。玄奘訳では、これを「浄信ある」と訳している。

(二)浄信(prasāda,etc.)
 信の原語として次にあげられるのは、プラサーダ(prasāda)である。これは<阿弥陀経>には出ないが、<無量寿経>では、名詞形prasādaのほかに、過去分詞形prasannaもかなり用いられている。語根pra-√sad(しずめる、浄化する、喜悦する、満足する)に由来する語で、漢訳(新訳)で「澄浄」と訳しているのは、よくその原義を表したものと言ってよい。「清浄な心」(citta-prasāda;prasanna-citta)というのは、心が澄み、浄化され、喜悦し、満足する状態をさすのである。ゆえに、この語には、元来、信の意味は含まれていない。しかるに、<無量寿経>ではこれをもって信を表しうると見なしたのである。われわれは、以下この語に漢訳経典に出る「浄信」の訳語を当てるが、これは右記のようにシュラッダーに当てる場合もあるけれども、やはりプラサーダの訳語として最もふさわしいものと考える。もちろんプラサーダを用いるのは<無量寿経>特有のものではなく、もとは釈尊の時代からこの語(パーリ語でpasāda;pasanna)をしばしば用いていたのを受けたものである。たとえば、原始経典では仏・法・僧の三宝に対する「信」を表すのに、この語を用いているが、<無量寿経>のサンスクリット本詩句でも、「諸仏の法に対して浄信(prasāda)を得ることができない」とあり、三宝の法に対する「信」にプラサーダを用いる点は同じである。『無量寿経』の相当句では「以てこの法を信じ難し」とあって「信」の訳語を与えており、『平等覚経』『如来会』の相当句でも同様である。
 <無量寿経>におけるプラサーダの用例をあげると、このほかにもいろいろある。念仏と信心との関係を示す用例については後述するとして、たとえば先に取り上げた『無量寿経』第三十五願(女人往生願)についてみると、「それ、女人ありて、わが名字を聞きて歓喜信楽し、……」とある文は(第二節第二項二)、サンスクリット本(第三十五願)では「女たちが、わたくしの名を聞いて、浄信(prasāda)を生じ、……」とあって、「歓喜信楽」がプラサーダに当たることが分かる。同じく前に触れた『無量寿経』の流通分に「歓喜踊躍乃至一念」、「一たびでも心の浄信を」(antaśa ekacittaprasādam api)に当たるから、「歓喜踊躍」がプラサーダに対応している。こうしてみると、「信楽」はプラサーダに相当することは明らかであるが、また「歓喜」とか「踊躍」というのもプラサーダの一面を表出した訳語であり、信の内容を表したものと見ることができるのである。
 なお、『無量寿経』には相当語がないけれども、サンスクリット本を見ると、「王が恵み(prasāda)を示さない限りは」という文脈に出るプラサーダは、「恵み」「恩寵」の意味を表すインド一般の用法に従っている。これは、<無量寿経>において信を表す場合にプラサーダを用いるのが、決して不用意なものではなく、原始仏教依頼の伝統用法を明確に意識していた事実を示している。

(三)信解(adhimucatye,etc.)
 右のプラサーダと同じく<阿弥陀経>には出ないが、<無量寿経>に出る信の原語として、アディムクティ(adhimucatye)の類語があげられる。アディムクティという名詞そのものは現れないが、この語から作られた形容詞adhimuktikaが用いられ、また動詞adhimucyate,過去分詞adhimuktaが用いられている。これらは、語根adhi-√muc(その上に〔心を〕解放する、その上に心を傾注する)に由来するもので、漢訳では「信解」とか「勝解」という訳語を与えている。このような訳語からも窺われるように、仏教の伝統的解釈によると、アディムクティ(パーリ語でadhimutti)とは、対象に対して明確に決定し了解し判断する心作用をさすものと解されている。したがって、これが信の原語として用いられることは、信を知性的なはたらきに即応するものと見たことを表しているが、その用法はすでに原始経典にさかのぼって顕著に認められる。たとえば、一切諸法が無常であることを「信じ信解する」(saddahati adhimuccati)というように、信と信解とを同義語として用いているが、無常法というのは「知る」(√jñā,√via)とか「見る」(√paś,√drś)とか言われるべきものであり、換言すれば「慧」(paññā)の対象となるのであるから、ここで示される信の内容は、智慧に極めて接近したもの、いわば知性的なはたらきに即応すべきことを表しているのである。
 信と信解の同義語的用法は<無量寿経>では「諸仏世尊のとらわれのない智を信順し、信じ、信解する」(avakalpayanty abhiśraddadhaty adhimucyante)という文脈に見出されるが、「信順し」の原語については次に述べるとして、ここでは「信じ」と「信解する」とあわせて三つの動詞(いずれも三人称・複数形)が同義語として用いられている。この文に相当する『無量寿経』では「明らかに仏智ないし勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心廻向せん」とあり、これら三つの語を区別して訳していない。思うにこれらは、いずれも「信」もしくは「信心」の意を示すために、区別して訳出する必要を感じなかったものであろう.

(四)信順(avakalpayati)
 これは、<無量寿経>において、右の「信解」とともに「信心」の同義語としてあげられる動詞avakalpayanty(3.pl)である。『無量寿経』では三つの同義語を区別する訳を与えていないが、同様なことは『阿弥陀経』にも認められる。六方段が終った後(「諸仏護念」の段)に「汝らみなまさに我が語及び諸仏の所説を信受すべし」と説かれるが、サンスクリット本によると、「ここで〔そなたたちは〕わたくしとかれら仏・世尊たちとを信ぜよ、信受せよ、信順せよ(śraddhādhvam pattīyathāvakalpayatha)」とある。ここに命令形のāvakalpayatha(2.pl)が三つの同義語の一つとして出てくるが、羅什訳ではこれらを合わせて「信受」という一語で訳している。玄奘訳では「信受領解」と訳しており、「領解」という語を加えている。注意すべきは、サンスクリット本でも、マックス・ミューラー刊本によると、右の句は「信ぜよ、信受せよ、疑ってはならない」(śraddhādhvam prattīyathā mākānksayattha)となっていることである。しかし諸悉曇本を参看すると、マックス・ミューラー氏の読み方は採用しがたく、「信順せよ」の読みを採るべきである。avakalpayatiという語は、ava-√klpから作られた使役動詞で、インド一般では「準備する、整理する、思惟する」という意味を持つものであるが、仏教サンスクリット語としては、これを信の同義語と見なし、「信順する」「信頼する」というほどの意味に用いられるのである.この語はパーリ語のokappati,okappeti(準備する、いsん順する)に当たり、部派文献では信の同義語として用いられているから、<無量寿経><阿弥陀経>の用法は、こうした伝承に対応したものであろう。<法華経>など他の初期大乗経典でも、同様にこの語を信の意味で用いている。

(五)信受(pattīyati)
 これは<阿弥陀経>において、右の「信順」と同様に、命令形pattīyatha(2.pl)として用いられている語である。マックス・ミューラー刊本ではprattīyathaとなっているが、諸悉曇本にもとづいてpattīyathaの読みに改める。この語は<無量寿経>には現れないが、<阿弥陀経>では、右の用例のほかに、六方段の一々において、「そなたたちは、この“不可思議な功徳の称讃、一切の仏たちの摂受”と名づける法門を信受せよ(pattīyatha)」という文に用いられている。『阿弥陀経』ではこの語を「まさに信ずべし」(当信)として「信」の訳語を与え、玄奘訳では「信受」の語を当てている。pattīyatiという語は、語根prati-√i(or √yā)(受け入れる、許す、信ずる)に由来すると見られるが、この語根から作られた古典サンスクリットの動詞pratyetiあるいは名詞pratyayaは、インド一般においても信の意味で用いられている場合がある。仏教サンスクリットとしてのpattīyati(or prattīyati)は、北伝の部派文献や<般若経><法華経>などの初期大乗経典にも信の意味で用いられており、南方上座部でもpattiyāyati(信受する、依止する)というパーリ語が使われているから、<阿弥陀経>の用法は、これらと共通したものであることが知られる。
 ちなみに、『阿弥陀経』末尾(「釈迦讃歎」の段)には釈尊が五濁悪世において「この一切世間難信の法を説く」とあるが、サンスクリット本によると「難信」は「信じがたい」(vipratyayanīya)という語に当たる。玄奘訳ではこれを「極難信」と訳しているが、vipratyayanīyaという語の由来については幾つかの解釈がある。その中でこれをvipratyaya(不信用)に由来する語と見れば、pattīyatiと語源的に相通ずると言うことができるであろう。

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