(信楽の機無釈の一部です)
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
(教行信証信巻 註釈版聖典235頁)
[現代語訳]
ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
(浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語版 203頁)
私たち迷える衆生は、無始よりこのかた、法爾として清浄真実の信楽がなかったことを明かされています。すなわち、因からいえば真如に背く根源的な無知に閉ざされ、果からいえば生死の苦界を輪廻し続けて、生死を離れることができなかったのは、もともと清浄真実の信楽をおこすことができなかったからです。信楽がないということは、疑心しかないということです。その疑心は真実を覆い隠し、如来より回向されている無上の功徳、すなわち大行に遇うことができず、最勝の浄信、すなわち大信を獲ることができません。往生成仏の因である行信に遇うことができなかったから、無始よりこのかた流転輪廻を続けなければならなかったのです。如来は、このような法爾として信ずる力のないものに、信心を与えて救おうと誓願し、清浄真実な信楽を与えるという不可思議力を成就されたといわれるのです。
なお、ここで「法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし」といわれている文章は、一見すると「もともと信心がないから、最勝の信心を得ることができない」といわれているようにも読める不思議な文章です。しかしこれは、「私たちには、疑いなく法を受け容れるような心(信心)が本来存在しないから、如来が回向されている成仏の因となるような最勝の浄信(仏心)を得ることができない。それゆえ無始以来今日まで迷い続けてきたのである」といわれているのです。いいかえれば、私たちにはもともと如来を信じる能力(真実を真実と認知し、受け容れる能力)がないといわれているのです。その信ずる能力がないはずの私が、いま本願を聞いて疑いなく受け容れるという事実が厳然として存在している、そのことに対する深い感動を表された言葉なのです。それはありえないことが在っているのであって、それはまったく本願の不可思議がしからしめたしかいいようのない事実であるということを知らそうとされている文章です。その不可思議力を説明されるのが、如来が成就された信楽が私のうえに実現しているという本願力回向の教説だったのです。
「急いでおられるのは阿弥陀仏です」も読んで下さい。
悪人正機とは「○○正機」(○○はあなたの名前)なのです。