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信空

2010/01/27(水)
教義・安心のことではないですが……
親鸞会発行の『顕真』平成22年1月号の13頁に、信行両座の諍論について書かれている箇所に
「蓮生房は、源氏の一方の旗頭であった豪傑でしたが、信後、一体何をしていたのか。信空も、全く記録がありません」
とあります。

ウソばっかりです。

ウィキペディアの「信空 (浄土宗)」の項やことばんくの「信空」の項や、浄土宗のHPの「法蓮房信空」の項を読まれてもいいですが、『法然上人行状絵図』第43条には、次のように書かれています。
(なお、この本には法蓮房信空に関する記述はたくさんあります)

 白川の法蓮房信空(又号称弁)は、中納言顕時の孫、左大弁行隆朝臣の長男也。かの朝臣の室懐妊の時、父中納言顕時卿申されけるは、「汝が妻室のうめらんところ、もし男子ならば、かならず我養子とすべし」と、かの室家つきみちて、久安二年に男子を生ず。中納言これをよろこびて、乳母に酒肉五辛を禁ぜしめて、養い育てらる。
 保元二年十二歳のとし、墨染の布の衣・袈裟を、くるまのなかにいれて、黒谷の叡空上人にをくりつかわす状云、「面謁の時令申候、小童登山候、剃髪して、この法衣を着け、名利の学道をへずして、速かに出離の要道を授けたまえ」。仍登山の翌日に出家して、薫修功つもりにければ、道徳三塔にきこえ、名誉九重にをよぶ。二条院ことに御帰依をあつくしましましけり。
 叡空上人入滅の後は、源空上人に奉事して、大乗円戒を相承し、又浄土の経門をならひ、念仏を修して、まのあたり白毫を拝す。このひじり、毘沙門堂の法印明禅に対面のことありけるに、法印たづね申さるること、内外典にわたりて、いづれも分明にこたへ申されければ、所学の程ゆかしくおぼえて、「いかなる明師達にか、あひ給へりし」ととひ申されけるに、「幼稚のむかしより、たゞ法然上人の教訓をかうぶれるほか、きけるところなき」よし申されけり。
 「このひとの才学の程をおもふに、師範上人の恵解の分おもひやられて、いみじくおぼえ侍し」と、法印のちにかたられけるとなむ。さればにや、法印但馬宮へ進ぜられける状にも、「このひじりの事をば、内外博通し、智行兼備せり。念仏宗の先達、傍若無人といふべし」とぞ、のせられて侍る。行年八十三、安貞二年九月九日、九条の袈裟をかけ、頭北面西にして、上人の遺骨をむねにをき、名号をとなへ、ねぶるがごとくして、往生をとげられにけり。

〔語句の説明〕
道徳………仏道のほまれ
恵解………知恵をもって物の道理を了解する
内外博通…内典・外典にわたって広く知る
傍若無人…肩を並べる人がいない

どうせ調べる人は誰もいないだろうと、読者を馬鹿にして、自分に都合が悪いとウソをついてごまかすことは、この顕真の編集者にとっては善のようです。
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