内藤知康

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2009/11/01(日)
『わかりやすい名言名句 親鸞聖人のことば』より
村上速水内藤知康著 法蔵館刊 ISBN978-4-8318-2312-0 C0015)
※この本は簡単に手に入れることができます。税別1,456円です。

38 はからいなき世界 『末灯鈔』第2通(御消息6)

 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。


 「笠間の念仏者の疑ひとはれたること」と最初に示されてあり、この御消息は、親鸞聖人が関東で布教された頃の中心地である笠間(常陸の国、現在の茨城県笠間市)の門弟の疑問に答えられたものである。この御消息の書かれた建長7年(1255年)は聖人の長男の慈信房善鸞義絶の前年に当たり、笠間の門弟の疑問の背景には慈信房の異義があったと推測される。

 まず、最初に自力・他力についての説明がある。自力・他力は世間でもよく用いられる言葉であるが、どのような場で用いられる言葉なので阿あろうか。聖人はここで、自力・他力とは浄土往生という場で用いておられる。広く見ても、迷いから悟りへという場において自力・他力という言葉が用いられるのであって、これは聖人の他の箇所の解釈を見ても同様である。決して、この迷いの世界の中で自らの欲望を満足させる場で用いられるべき言葉ではない。

 ここで聖人は自力・他力を具体的にどのように理解すべきかについて、端的に示される。すなわち、自力とは、「わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふ」ことをいうのであり。他力とは、「弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽する」ことをいう。この迷いの世界から悟りの世界へ進むについて、自らの営みによって自らを立派に造り変えてゆくことを自力というのであるが、考え方としてはまことに立派なものであると言わねばならない。

 しかし、いくら考え方として立派なものであっても、その道を歩む自分自身がどのような存在であるかということが忘れ去られたならば、砂上の楼閣となってしまう。聖人が、「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよ」(化身土文類)「今の時の道俗、おのれが分を思量せよ」(同)と再三誡めておられるように、まず、自らの能力に対する過信がないかという点を洗いなおさねばならないであろう。「七仏通誡の偈」に「諸の悪を作すこと莫れ、衆ての善を奉行せよ」とあるが、これはまた、「三歳の童児これを知ると雖も、八十の老翁これを行うこと難し」と言われるように、まことに実行困難な教えであると言わねばならない。

 仏教は単なる理念ではなく自らのすべてをかけての営みである。如来の光に照らし出されて、自らの行う善は雑毒の善であり、行は虚仮の行にすぎないと知らされたものにとっては、いくら高邁な哲理に基づく自力修行の道であっても、絵に描いた餅に過ぎない。そこに残された道は、一切の生きとし生けるものを必ず救うという阿弥陀如来の本願に信順する道のみであろう。

 聖人はまた、「行者のはからひ」を自力として示される。「はからひ」とはまた、我々の知性・感情・意志等すべてを含むものであろう。我々は、如来の本願を知性や感情や意志でとらえようと試みてはならない。「本願を信楽する」とは、知性で納得することでもなく、有り難いという感情でもなく、決して疑わないという決意でもない。そのようなものは浄土往生に何一つとして役に立たないと、一切をふりすてて、ただ阿弥陀如来の本願力に全託することこそが信楽である。そこで、聖人は、「他力には義(はからひ)なきを義とす」との法然聖人の言葉を引かれて、他力について懇切に説明されるのである。
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タグ : 村上速水 内藤知康 御消息

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