fc2ブログ

利井鮮妙

2010/06/05(土)
『認められた人生』(豊島學由著 自照社出版刊 平成20年)47頁より
(強調は私がつけました)

 利井鮮妙和上が
  ああ辛と言うは後なり唐辛子
と言って、真宗のご信心を表しておられます。舌の上に唐辛子が乗った時が確かにあるのです。けれども私が辛いと思ったのは、乗ったその後なのです。
 しかし、辛いとわかったときに救われるのだと、時刻に固執する聴き方、説き方をした人が、以前、和上さんにおられたのです。そういうことを「一念覚知」といって騒がれた時代があったのです。それほど人間というものは、「異安心」と呼ばれようとも、確かなものがほしいという心があるのです。
「たすかるか、たすからないかわからないような教えを聴いていて、そのまま死んでいくのでは心もとない」という人があるのですけれども、それは確かなお六字をお留守にして、聴き心のほうに確かなものをもたなければ救われないと思っているからです。
スポンサーサイト



タグ : 豊島學由 利井鮮妙 一念覚知

2010/01/08(金)
さらに再び加茂師からです。
『真宗の御法義』(加茂仰順師)より

真宗の信心

 阿弥陀さまの方から言えば「タノメ助ける」「マカセヨ助ける」です。
 私の方から言えば「弥陀をタノム」というのです。
 それで、つまり私は「弥陀の仰せ」を「はい」と頂くということしかないのです。
 「はい」と頂いたとき、助けられたのです。これが「信の一念」です。


 つまり、「そのまま助けるぞ」を、「はい」「ああ、ありがたや」と、頂いたのです。
 これが、「弥陀をタノム」ということです。つまり信心です。


 それが、「お浄土参り」は弥陀に「マカセタ」ということにしていただいたことになります。それですから、私がお浄土へ参らせていただくことは、まちがいないのです。


 そのあとは、称名を大切に退転なく相続させてもらうのです。これだけです。


 「わが口に 称ふる御名を わが耳に 聞いてよろこぶ ほかなかりけり」です。


 以上、このことは、鮮妙和上が仰せられていることです。

タグ : 加茂仰順 利井鮮妙 タノムタスケタマヘ

2009/10/22(木)
加茂仰順師『親鸞<信> -本願の念仏-』(永田文昌堂)より
 それは、昔、鮮妙和上さんがある所でお手洗いにゆこうと思って、その入口の戸を右に引いても左に引いても開かないので、こまっていられました。幸い主人が来たから、戸が開かぬと申されたら、むこうに開く戸ですから、おいでなさればひとりでに開くと申しますから、その言う通りにされたら何の事もなく通れたということであります。
 自分の計らいを、右に引いたり、左に引いたり、こちらへ引っ張ったりしておれば、難中の難これにすぎたるはなしであります。そのまま来いよのお言葉に従うて、はいと従えば、どうして戸が開いたやら、どこで疑いが晴れたやら、往生一定、たしかな信心の戸が開いて、何の様もなく参れる。ささいなたとえでありますが、和上さんの身にふかく感じられたということであります。

タグ : 加茂仰順 利井鮮妙

2009/09/07(月)
先回梯師の紹介をしましたが、梯師は現在「行信教校」の名誉校長です。
行信教校の創始者の一人が利井鮮妙師(1835‐1914)ですが、その鮮妙師の言われたという言葉に
「ああ辛というはあとなり蕃椒(とうがらし)」
というものがあります。
但し、この言葉の意味は、どこかで使われているものとは違います。
この言葉の意味を簡単に言いますと、
「阿弥陀仏に救われた一念」と「意業」の違いを示されたものです。
つまり「ああ辛という」とは、口業だけではなく、意業を含めた三業すべてを表すのです。

歎異抄は第3章まで書いたのですが、少しずつ続けていきたいと思います。
頭がピーマンにならないように、勉強中です。

タグ : 利井鮮妙

 | Copyright © 21世紀の浄土真宗を考える会 All rights reserved. | 

 / Template by パソコン 初心者ガイド