加茂仰順

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2010/01/08(金)
さらに再び加茂師からです。
『真宗の御法義』(加茂仰順師)より

真宗の信心

 阿弥陀さまの方から言えば「タノメ助ける」「マカセヨ助ける」です。
 私の方から言えば「弥陀をタノム」というのです。
 それで、つまり私は「弥陀の仰せ」を「はい」と頂くということしかないのです。
 「はい」と頂いたとき、助けられたのです。これが「信の一念」です。


 つまり、「そのまま助けるぞ」を、「はい」「ああ、ありがたや」と、頂いたのです。
 これが、「弥陀をタノム」ということです。つまり信心です。


 それが、「お浄土参り」は弥陀に「マカセタ」ということにしていただいたことになります。それですから、私がお浄土へ参らせていただくことは、まちがいないのです。


 そのあとは、称名を大切に退転なく相続させてもらうのです。これだけです。


 「わが口に 称ふる御名を わが耳に 聞いてよろこぶ ほかなかりけり」です。


 以上、このことは、鮮妙和上が仰せられていることです。
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2010/01/07(木)
再び加茂師からです。
『親鸞〈信〉 ―本願の念仏―』(加茂仰順師)より

 私たちは、とかく「タノムモノヲ助ケル」のお言葉に迷って私がこの心でタノンデ助けてもらうように思っています。そんなことにこだわってはなりません。
 そしてまた申します。「自力ダノミは悪いが、他力のタノミの心はなくてはなるまい」と。
 それが、ご化導の逆さ聞きであります。自力・他力にかかわらず、私の方からタノムのではありません。それならば、どうして助かるのでしょう。
 私は、たのむどころの話ではない。まるきり逃げることにかかりはてているこの私を、大悲の親様は、そなたが参ってくれないと四十八願も水の泡、極楽浄土も立ち腐れになるから、いやでもあろうが来てくれよ。参るもとではこれこの通り名号六字と仕上げたゆえ、是非にの御たのみに、参る気のない、往く気のない私が往かねばならぬことに、させられてしまうが他力の往生であります。
 親様は恩にきるぞよ、礼もいうぞよ、後生一つはこの弥陀にはからわせてくれよと仰せられます。たとい他力のタノミでも、私の方からタノンダリ、まかせたりして参るなら、タノミ心や、まかせ方が少しでも違っていたら参ることにはなるまいに、今は大願業力の親様にタノマレテ参らねばならぬ身の上と知らせて頂いたら、私の方のタノミ心や、まかせぶりに違っていても、助かることと参ることは、いやでもやめにならぬとは、何とした確かなことでございましょう。何とした嬉しいことでございましょう。ほんにご恩のやり場がありません。


引用はここまで

「ご化導の逆さ聞き」という表現が素晴らしいですね。
いろいろな人の話をうかがいますと、だいたい「逆さま」です。

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2010/01/05(火)
 本派には安心論題というものがあり、その中に「タノム・タスケタマヘ」という論題があります。
安心論題についての本は、以前紹介しましたように、
『新編 安心論題綱要』(勧学寮編)
安心論題を学ぶ』(内藤知康著)
『やさしい安心論題』(灘本愛慈著)
『講座 真宗の安心論題』(桐溪順忍著)

の4冊を持っております。
著者・編者はいずれも勧学さん方なのですが、今一つ分かりにくいです。
(間違っていると文句を言っているのではなくて、もう少し説明してほしいと思うということです)
論題そのものが難しいといえば難しいのですが・・・

そこで、今日は加茂師の著作から引用します。

『親鸞の世界 ―信の領解―』(加茂仰順師)より

 御一代記聞書に「信心・安心といへば、愚痴のものは文字もしらぬなり。信心・安心などいへば、別のやうにも思ふなり。ただ凡夫の仏に成ることををしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。なにたる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし。」とあって、蓮師御再興の功勲は全く当流安心の一義を、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」ことであると示されることにあります。だから真宗安心をあらわす言葉として大切なものと言い得ます。ところが、この言葉の解釈に本如上人の時代に異説が出て、遂に三業惑乱を来すことになりました。それ以来この教語の研究が安心研究の中心になってまいりました。
 御一代記聞書に「聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。」とあります。
 タノムの語は、御文章の中に133カ所出ています。しかもこの語は横川法語に源して、法然上人や宗祖の釈文にも見えています。
 タノムの漢字は、恃、怙、憑、頼などがありますが、今は帰命と信とが真宗教義をあらわすにふさわしいものです。帰を「たのむ」という例は、行巻、真仏土巻、和讃等にあり、御文章(2帖目第7通)に「その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。」とあるのがそれです。
 また、信の字を「タノム」と訓ずるのは、疑惑讃に「不思議の仏智をたのまねば」或は「仏智不思議をたのむべし」とあり、また、唯信鈔文意にも同じようなお示しがあります。御文章(5帖目第6通)には「一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、『和讃』(正像末和讃・三一)に聖人(親鸞)のいはく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば」等とあります。
 この故に、「たのむ」とは帰命のことであり、信のことです。だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。
 「たすけたまへ」は、御文章の中で25章、29カ所に亘って示されています。
 文法の上から言えば、命令の語です。この語は相手によって請求とも、許諾ともなります。真宗の信は、名号聞信の信心歓喜であります。即ち、「一心正念直来、我能護汝」という先手の勅命に向かって、「たすけたまへ」と言うのでありますから、許諾の意です。
 要するに、「後生たすけたまへとたのむ」という意味は、必ず助けんの勅命に向かって御意の如くお助け下さいと信順するのみであります。だから、御裁断の御書には「ただこれ大悲の勅命に信順する心なり」と、はっきりお示し下されてあるのです。
 殊に蓮師の上で、「疑いなく信ずる」となされる文証は、「阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて」(御文章5帖目第4通)とあるのがそれであります。


引用は以上

何だ同じではないかと思わずに、
タノムの漢字は、恃、怙、憑、頼などがありますが、今は帰命と信とが真宗教義をあらわすにふさわしいものです。(中略)この故に、「たのむ」とは帰命のことであり、信のことです。だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。

先手の勅命に向かって、「たすけたまへ」と言うのでありますから、許諾の意です。

「後生たすけたまへとたのむ」という意味は、必ず助けんの勅命に向かって御意の如くお助け下さいと信順するのみであります。
のところが大切ですので、分かって頂きたいと思います。

更に言うと、
だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。

あてたよりにする心に名づけるのであって
の表現がおもしろいと思います。

つまり、ここを
だから本願の勅命に帰順乗託すること・あてたよりにすることであって、祈願や請求ではありません。
とは書いておられないということです。

この違いは分かられますでしょうか。

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2009/12/23(水)
 本願に相応するとは、こうして、ああしてと考え工夫して相応するのではなく、向こうから私に相応するような本願をこしらえて、この本願にすがれとあります。いわゆる先手かけてのおよび声に、ただすがればよいのであります。だから本願に相応するとは、本願が私に相応して下されてあることの尊きことを、ただいただくことであります。私から本願に相応するのではなく、本願がすでに私に相応して下されてあることをお受けするばかりであります。
 『本願〈信〉-本願の念仏-』(加茂仰順著)より

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2009/12/04(金)
加茂仰順師の『親鸞教学研究』より(若干変更)

第1項 法然聖人の事蹟
法然聖人は崇徳天皇の長承3年(1133年、源信僧都没後116年)
 美作国久米の稲岡に生まれる。
②9歳の時、父の横死に遭い、遺言により出家する。
 15歳の時、比叡山にのぼり、はじめ源光につき学び、(次いで皇円)、
 後黒谷の叡空の門に入る。
③黒谷の報恩蔵にて散善義の文により念仏往生の妙旨を体得し、余行を捨てて念仏一行に帰す。
 (43歳、親鸞聖人誕生後3年)
④後、東山の吉水にて有縁の人々に念仏の教えを説く。
 諸種の難題起こり、遂に念仏停止となり、四国に流される。
 4年を経て帰洛したが、翌年、順徳天皇の建暦2年(1212年)、
 東山大谷にて自寂す。年80。

第2項 著書
①西方指南抄
  法然上人の法語や行状を記す。27章より成る。
②漢語灯録 10巻
  望西樓了慧の編集
   大経釈
   観経釈
   小経釈
   選択集
   往生要集大綱
   往生要集略料簡
   往生要集詮要
③和語灯録 2巻
   三部経釈
   往生大要抄
   念仏往生要義
   七ヶ条の起請文
④一枚起請文
  勢観房源智の請によって臨末に書きのこされたといわれる一枚法語。
  一代仏教の本意を略述し、門弟への遺誡ともなる。
⑤選択本願念仏集
  選択本願の行である念仏について諸師の要文を集め、他力本願のみ心をあらわし、
  念仏一法が超勝であるという選択本願の念仏をあらわしたもので、立教開宗の要典である。
  この書は種々説があるが、建久9年(法然聖人66歳)、藤原兼実公の懇望によって、
  念仏の要文を撰集したものである。
  16章より成り、各章始めに経釈の文を挙げ、後に私釈を加う。
  (1)特に標宗の文 南无阿弥陀仏 往生之業 念仏為本
  (2)三選の文は本集の精髄にして、法然教学の骨目である。
  本集は法然聖人入滅の年(建暦2年)印行出版される。

第3項 教義の大要(以下項目のみ)
 1 浄土宗独立
 2 選択本願念仏
 3 信疑決判
 4 難易勝劣
 5 三選の文


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2009/12/03(木)
『名號不思議の信心』(加茂仰順師)より

親鸞聖人は現世利益のことをお示しになっていますが、これは一口にいえば正定聚の人となるということであります。つまり、仏の光明が私の心に届かせられ、名号が私の中へ入って下されたのであります。それで、私は仏の光明に摂め取られ、名号を賜って願も行も円になったのですから、お浄土へ参らせて頂くことに定まり、仏になることに決まったわけで、それでこれを正定聚というのであります。そして、その正定聚の中に含まれている内容を取り出してみると、たくさんな利益となります。親鸞聖人はこれを現生十種の益として示されてあります。(教行信証信巻)
(一)冥衆護持の益
(二)至徳具足の益
(三)転悪成善の益
(四)諸仏護念の益
(五)諸仏称讃の益
(六)心光常護の益
(七)心多歓喜の益
(八)知恩報徳の益
(九)常行大悲の益
(十)入正定聚の益
です。
この中で、第十が正定聚に入るということで、これが全体をのべたもので、前の九がその内容としての利益であります。
(中略)
これらの九つはいずれも入正定聚の者の利益であります。この中には、自分に知られることもあり、心やすがたの上にあらわれることもあれば、あらわれないこともあります。すなわち至徳具足の益や、転悪成善の益などは私の心の上にはっきりと見えるようにあらわれることではありませんが、心多歓喜の益や、知恩報徳の益や、常行大悲の益などは、わずかながらでも知らせて頂けるものであります。この現世利益は、世間でよく言われている現世利益とその趣が異なるのは、殊にこうした心多歓喜や、知恩報徳や、常行大悲というようなことがあげられていることであります。つまり、私たちは毎日とかく不平不満で暮らしていますが、これが心多歓喜と転換されるのであります。そうした私たちが、知恩報徳の人とならして頂くということは、大きな変わり方であります。また、すぐに利己的に動こうとする私たちでありますが、それが常行大悲の生活へと転換してまいります。これらのことが、普通よく言われている現世利益とは異なるところであります。今ここでいう現世利益は、信心による人格の変化であります。つまりこのように人格の高められてゆく信心ですから冥衆は護持し、諸仏は護念され給うのであります。


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2009/12/03(木)
『名號不思議の信心』(加茂仰順師)より

疑いのある間ではいけないから、よく聞いて間違いないという心になろうとしますが、それは案外計らい心を固めにかかる場合があるものです。もしそうだとすれば、聞かしてもらう暇さえ無くなってしまいます。ながい間のお育てで信心ができたとよろこび、疑いが除かれたというが、計らい心が固まったものであってはなりません。仰せを信じよう、安心しようの心が除かれて仰せが素直に聞こえたのです。仏智不思議によって廻向されるのであり、如来に見抜かれた私が救われたのです。この私を問題として成就されたお助けが聞こえて下されるのです。これが疑心あることなしです。決定の法が与えられるのです。私の計らいを一点も加えることはありません。それは私の計らいを借らない法が聞こえて下さるからです。つまり弥陀のお助けがこの自分の上ではたらき給うて信心となって下さるのです。それゆえ名号(仰せ)にわが思いを加えて聞くのでもなく、またそれから差し引いて聞くのでもありません。名号(仰せ)のままを聞き、お助けの仰せのままが聞こえて下さるのです。如来のお助けに助けられるのであり、仰せのままに私の全体が計らわれてゆくのです。

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2009/12/02(水)
『名號不思議の信心』(加茂仰順師)より

 あるお同行がその師に向かって「私の胸のうちは薄紙一重が取れかねて困り果てております」とうったえますと、師の仰せには「誰でも、ここまではやっと仕おおせたが、ここで薄紙一重が取れたならばといつも思う。しかし、それは思いちがいである。助かる身になって助かるのではない。助からぬ者を如来様が助けて下さるのである」と。
 この薄紙一重が取れかねるのも、自分で取ろうとするからです。それが取れないのも、取ったら如来から助けてもらうと思うからです。自らで何事かを為し得ると思うからです。如来にたよることが、いかに正しいかを知らないからです。助からない者をこそ助けようとする如来の求めに思い当たらないからです。弥陀のなされるままにせしめられるのが当流です。お三部経のおこころはこれよりほかはないのです。
 私たちの眼からみれば、こんなことでは私というものは救われる筈がないと思われるでしょう。しかし如来の御心には、こんなことというようなものはないのです。


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2009/12/01(火)
『名號不思議の信心』(加茂仰順師)より

 ときたま耳にすることですが、自分の罪悪がよく知られなければ、お救いは分からんということがときたまあるのです。理屈からすればなるほどと思えないこともありませんが、これは知った世界以外のものではないのです。「知った世界」と「聞かされた世界」はまったく違うものです。真宗は「聞かされた世界」のものです。知った世界は罪悪感を前提とするものですが、この知った世界をどれほど延長しても聞かされた世界には入られません。聞かされた世界は、知った世界の罪悪感に対して信機のすがたをとります。そしてこの信機は信法と二種一具となって、まことの信心のすがたをあらわすのです。

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2009/12/01(火)
『名號不思議の信心』(加茂仰順師)より

 弥陀タノムとは、あてにするとか、たよりにするとか、たのみにすることでありません
 あて、たよりにすることのたよりにないことであるからです。
 弥陀にまかすというが、弥陀に何をまかすのか。
 それは手をまかすでない。足をまかすではない。心をまかすのでもない。心をまかせば勝手につかわれないことになります。いま、まかすとは、往生をまかすのであります。それは臨終にまかすのか。いやそうではありません。
 まかすとは、後生の大事をまかすのであります。心配をまかすのであります。
 タノムとはあてにすることでもない。力にすることでもない。そうではない。タノムとは弥陀の勅命を受けとるのであります
 「御助け候へ」「タスケタマヘとタノム」は、我能く汝を護るの摂取不捨のお言葉を聞思した。信受したこころであります。

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2009/11/27(金)
御安心(加茂仰順師)より

問い は本如上人
答え は広如上人

(1)
問い、どのようにご安心を自督なされたか。
答え、雑行雑修自力の心をすてて、後生の一大事御助け候へとたのみ、御助け一定うれしやうれしやとよろこびまする。しかしその雑行とはどういうものであるか存じませぬ。
(2)
問い、そなたは知らぬものをどうして捨てなされたのか。
答え、どうして捨てましたやら、あんまりはやいお助けゆえ、その捨てようも存じません。
(3)
問い、それならば、阿弥陀様にはどのようにたのんだのか。
答え、後生一大事、御助け候へとたのみました。
(4)
問い、雑行の捨てもようも、雑修の離れもようも知らぬくらいで、弥陀のたのみようをどうして知られたのか。
答え、これは蓮如様のおかげで、聴聞いたしました。
(5)
問い、雑行も雑修も捨てたやら、捨てぬやら知られぬのに、弥陀をどのようにしてたのんだのか。
答え、ご教化を聴聞いたしましたゆえに、仰せの有難さに、捨てぶりも離れようも知らずにたのみました。
(6)
問い、近来阿弥陀様をたのむについて心得ちがいのことを聞いたが、お前は口でたのんだのか、心でたのんだのか。
答え、つねづねのご教化に、口でたのんだの心でたのんだのと、仰せらるるご教化をまだ聴聞いたしませんので、そのようなことは存じませぬ。
(7)
問い、それならば、なんとたのんだのか。
答え、なんとたのんでも安堵ができませんでしたので、仰せを聞いてたのみました。
(8)
問い、そのたのみましたとは、なにをたのんだのか。
答え、阿弥陀如来の仰せ一つをたのみました。
(9)
問い、仰せをたのむとはどういうことか。
答え、私を助くると仰せられる仰せのままを聞いて、お助けうれしやとよろこぶばかりでございます。
(10)
問い、御文章にはたすけたまへとふかく心に疑いなくともあり、また元祖(法然聖人)は心に助けたまへと思うばかりとも仰せられてあるが、要するに心で助けたまへとたのむのではないか。
答え、心でたのむこととは、聴聞いたしませんぬ。心に疑いなく、お助けをお受け申すことと聞きました。
(11)
問い、それならば、心にすこしも疑いはないかや。
答え、私のような疑い深い者を助けようとして、たびたび願を発してくだされたと聞いては、地獄へは堕ちようもなくて、うれしうございます。
(12)
問い、罪もさわりも往生の邪魔にはならねども、疑いばかりは、大きな往生のさわりと仰せられる。それゆえ御文章にも、つゆちりほども疑いなければと仰せられるのである。もしやそのさわりになる疑いがおこったならばどうするぞ。
答え、さわりになるべき疑いのおこるもおこらぬも、少しも屈託はいたしませぬ。疑いのおこるやらおこらぬやら、実は一寸先はやみの夜であり、それを知らないことほどうれしいことはございませぬ。
(13)
問い、それならもしや疑いがおころうかしらぬと、一生が間、安堵がならぬではないか。
答え、何事も知らぬほどの安堵はないと存じまする。
(14)
問い、もしやもし、そのさわりになる疑いがおこったらばどうじゃ。
答え、疑いがおこるおこらぬは、みな阿弥陀様の方でのお世話と存じまする。
(15)
問い、阿弥陀様の方でのお世話とは、一向に分からぬではないか。
答え、さようならば申しましょう。闇を晴らすは日輪のお世話、日のはたらきと存じます。ただお助けのかわらぬことがうれしうございます。
(16)
問い、助けたまへとたのむと、疑いないのと、信ずるのとは、二つか三つか。
答え、助けたまへとたのむ一念のとき、一つと聴聞いたしました。
(17)
問い、そのたのむ一念のときとは、どういう時であるか。
答え、弥陀の仰せを聞きうるときと存じまする。
(18)
問い、聞きうるときがたのむときとは、どういうときじゃ。
答え、助けてやるとの仰せを聞きましたれば、たのんで助かる世話をやめて、仰せのままをたのみました。
(19)
問い、それならば、仰せのまま、そのままというばかりでは、南無の二字が無いようではないか。
答え、南無の二字が無いゆえに、南無阿弥陀仏と六字ながらをこしらえて、助くると仰せられる阿弥陀様をたのみました。
(20)
問い、それならば、仰せを聞いたのじゃない。たのんじゃのじゃ。
答え、聞いたも、たのむも同じことと聞きました。
(21)
問い、聞いたと、たのむと同じことではつまらぬ。聞いてたのめとこそ仰せられ、たのんで聞けとはのたまわぬ。さあこれはどうじゃ。
答え、今までは聞かずに弥陀をたのみましたゆえに、たのんでその力にて助けてもらおうと、はたらきましたが、助けてやるの仰せを聞いてたのみましたれば、世話のいらぬ他力のままが知れました。
(22)
問い、弥陀をたのんで、凡夫が助かるならば、そのままとはいわれぬがどうか。
答え、たのんで助かるのなれば、たのむ世話がいりますが、願行共に成就して、そのまま助けると仰せらるるが先手ゆえ、いよいよ弥陀如来を後生の親とたのみました。
(23)
問い、そなたは、弥陀をたのみました、たのみましたと言うが、それはいつごろにたのんだのか。
答え、たのむというもいつごろたのんだのやら、あまり心易きゆえに存じませぬ。
(24)
問い、いかに心易きことなればとて、後生の一大事をいつたのんだのやら知らずにたのんだとは聞えぬ。どういうことぞ。
答え、聞いてみましたれば、いつのまにやらたのめてございました。妙なことでござります。
(25)
問い、いつのまにやらたのめたとはいかに。
答え、どうでも、こうでも助けねばおかれぬと仰せらるる御真実ゆえに、ただ助けてもらうよりほかに仕様はござりませぬ。
(26)
問い、それでは、たのむということが抜けてあるではないか。
答え、抜けるも抜けぬも、私が仕事ではございませぬゆえ、一向に存じませぬ。
(27)
問い、それならば、お前はたのまなんだのか。
答え、いやいや、たのみました。
(28)
問い、たのんだのであれば、私の仕事ではないとはどうで云えるのか。
答え、たのむ機までもないやつゆえ、彼尊の方に成就して下されたと聴聞いたしました。
(29)
問い、それならば、聞いたばかりではないか。
答え、悪いことの仕様のないようにして下されたことを聞きましたれば、たのむも信ずるも一緒に頂きました。
(30)
問い、聞いたれば、たのむ信心も一緒に頂くとはどうじゃ。
答え、たのむの機までもこしらえて、ただ助けるとの仰せを聞きましては、どうも首の振りようがございませぬ。
(31)
問い、それならば、首の振りようのないのが、たのんだのか。
答え、首の振りようがないゆえに、仰せに順いました。
(32)
問い、仰せに順うたのがたのんだのか。
答え、助くるとある仰せに順うばかりゆえに、助けたまうは弥陀のはからいかと存じます。
(33)
問い、たのめとある仰せに順うなれば、助けたまへというのじゃないか。
答え、全体たのめと仰せらるることは、自力のはたらきをすてよ。弥陀が願行成就して助くるぞよと仰せらるる仰せの通り、自力の世話をすてることと存じまする。
(34)
問い、それならば、すててたのめと仰せらるるはどうしたものじゃ。
答え、世話をやめて、彼尊の仰せにまかずばかりと存じまする。
(35)
問い、それでも雑行雑修自力の心をふりすてて、弥陀をたのめと仰せらるるからは、すててからたのめではないか。
答え、もとよりよいように仕上げたからには、役に立つ世話をやめよ。そちが往生は成就したぞよと仰せらるるご教化を聴聞いたし、一向に弥陀にまかせて、あらあらうれしやと安堵してございます。
(36)
問い、そのように、その方は、何もかも心得たで、それが安心というのか。
答え、心得たのが助けて下さるるとは存じませぬ。ただ助けて下さるると心得ました。
(37)
問い、ただということは、どういうことじゃぞ。
答え、どういうことやら知らずに、お助けにあずかることと存じます。
(38)
問い、信機信法ということは、どうじゃ。
答え、自力をすてて、彼尊様をたのむことと聴聞しました。
(39)
問い、それならば、自力をすてたのが信機か。
答え、すてまいと思うても役に立たねばすたります。それゆえ、私は役に立たず、彼尊のお慈悲一つと、ただ弥陀のお手元に目のつくようになったのが信機信法かと存じます。
(40)
問い、心をひとつにせよと仰せられるのが一つになったのか。
答え、参らるるように思ううちは、二つも三つも、参られぬ一つよりほかにござりませぬで、ひとりでに心が一つになりました。
(41)
問い、助けたまへと申すとは、口で申すことではないのか。
答え、口で申してらちあけようとするのが自力の心じゃと聞きました。
(42)
問い、そんなら何で申すのじゃ。
答え、聴聞申し訳候とは、私は口では申しませなんだ。
(43)
問い、同業者の三業と、弥陀の三業と一体になると仰せらるるとはどういうことじゃ。
答え、煩悩だらけの心中へ、助けるぞよとの勅命を申し受けたら、もう彼尊がよいようにしてお助け下さるるぞと聴聞いたしました。
(44)
問い、仏の広大なお慈悲が、いよいよ実と受け取られて、喜びづめになろうものか。
答え、いや、忘れたり、よろこんだりであります。
(45)
問い、忘れていたときの心持ちはどうじゃ。
答え、そりゃ何ともない。色も香りもなし。また思い出したときは、あらうれしやとほんのりいたしまする。
(46)
問い、とんとお慈悲を忘れてしもうたらどうする。
答え、とんと忘れてしまう私がいるで、ご教化が絶えて下さりませぬと存じます。
(47)
問い、思い出したときは丈夫なのか。また忘れたときはどうじゃ。
答え、思い出せば丈夫なことを思い出し、忘れているのでいよいよ丈夫な味が知れまする。
(48)
問い、そんならいつもうれしいか。
答え、うれしうなったで、もう悲しいところは少しもございませぬ。
(49)
問い、なにがそのようにうれしいぞ。
答え、ただ助けて下さるるお手元一つがうれしうござります。はい。
(50)
問い、そちもよくよく、御開山の腹中をのみこんだのお。
答え、いや、私は知らねども、彼尊のおかげでのみこましてもらいましたで、ひとえに御開山聖人御出世の御恩といただかれます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

[解説]
 この安心五十問答は、滋賀県坂田郡入江村大字磯第百二三番地椋田与市氏(世間に有名な与市同行)が施主となって、伝えるところの本願寺第十九世本如上人と同第二十世広如上人御父子のご問答を拝写して遺して下さったものであります。いまそれを拝借して皆さまの法味の助縁にと思い、誌すものであります。

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2009/11/27(金)
『真宗安心』(加茂仰順師)より

 どうも信心が頂かれない。どうもお念仏がよろこべないとなげきますが、これは一面からいえば尊い悩みであります。しかし、そこに誤解が入ってはなりません。どうも信心が頂けないということは、自分が工夫してゆくように思ったり、よろこべないということは、自分の心掛けようが足りないからと思うならば、きわどいところで道をふみはずすことになります。

 信心をよろこぼうとか、はっきりさせようとか、しっかりしようとかいうように、力んでゆくよりも、すなおに法を聞く。「つれてゆくぞ」の仰せを頂いたのが信であり、つれてゆくぞよを頂いたのがお念仏である。お念仏をよろこばせていただくのが、私の生活であります。

 ここでよく申させて頂きたいことは、私たちは、真理というようなものを信ずるのではないのです。むしろ生命を信ずるというべきでしょう。正しく言えば名号を信ずるのであります。

 名号を頂くには、私の思案やこちらの手で加工をすることではありません。

 名号は消化されきった活きた生命であります。名号を聞けばそれがひとりでに思となり、修となってゆきます。名号を頂くには「聞く」だけです。名号という「法」は、それ自身生きている完全なもの、私の手で加工したり料理したりする必要のないものですから、如実に名号をそのままお受けするということが最初であり、最後であります。如実に名号を頂いたら、名号が私を生かして下さいます。私の料理で生きるような死んだ名号などありません。

 ややもすれば、私がしっかりしないと名号は生きないと申します。また私が精進して名号を生かさねばならないと思います。これが常識ですが、この常識は実は私の高あがりであります。そういうことではなく、私がすなおにその法さえ受けいれたら、ひとりでに法によって私が生かされます。だから私が名号を生かそうなどというように考えるのではなく、すなおに名号を受けいれることが非常に大切であります。名号を受けいれたら、ひとりでに信心となり念仏となります。

 一般のときは、名号を聞いて、それから考えたり批判したりして信心をかまえて、それからさらに念仏というものをしぼり出す。つまり名号を聞いてそれを自分の考えの中へ入れ、これは大丈夫であると決めたときが信心であるという。その信心ができたら、その上に立って生活する。それが念仏の行である。これは私の手で加工されている。名号を受け取ってきて自分で加工する。即ち料理する。そして信心したり、念仏したりする。こういうように在来は考えていました。

 ところが親鸞聖人はそのようには仰せられなかったのです。名号を頂くばかりである。名号を聞くばかりである。名号が信心になる。その信心が念仏になる。このあいだに私の計らいの加工は少しも入りません。私が加工することはいりません。小細工することがいりません。それならば私としては何かといえば、私はすなおに名号を聞かせて頂くほかはありません。すなおに聞かせて頂くところに、名号の全体を頂く。これが全部であります。


タグ : 加茂仰順

2009/11/26(木)
『真宗安心』(加茂仰順師 百華苑刊)より

真宗のかなめは、安心であります。安心とは何でしょうか。
安心とは、私が救われたことであります。助けられたことであります。
真宗では、そのことを「信心をとる」とか、「信心獲得」とか申されています。
「信心をとる」とは、計らいの心の捨ったことであります。「自力の心をすてて」、「弥陀をたのんだ」のであります。
そのことを一口で言えば、真宗は、間違いないお助けがえられたのであります。
如来に助けられたのです。
人はみな、親心を頂こうと思うて苦心しますが、それは方角違いです。頂くことに苦心するのではありません。苦心されている親心を聞かせて頂くのであります。
頂くというのは、物をもらうようなことではありません。聴聞のところに、親心の全体があらわれて下さったのであります。
なぜかと言えば、弥陀の正覚のそのままが、私を救うためであるからです。
弥陀の正覚のありったけが、私の救い(往生)であります。
つまり仏智のままが宿ったのが安心であります。その大悲の宿って出るのが念仏です。
大悲がいつも通って下さるから、それを味わって念仏するのであります。大悲のあらわれたのが念仏です。
如来に生かされている一杯が如来の名号であります。
名号を頂くのであると云うても、名号を私が所有するのではありません。
名号のはたらきに、わが身全体が生かされるのであります。

 忘れて暮らす私に
 ナモアミダブツが先に出て
 思い出すときは
 いつでもあとよ
 わたしゃ つまらん あとばかり
 わたしの心が先ならだめよ
 親の慈悲が先にある
 親の慈悲が先ばかり
 わたしの返事はあとばかり
             (才市


タグ : 加茂仰順 才市 妙好人

2009/11/25(水)
 機法一体について調べておりましたら、加茂仰順師の『真宗の法義』(永田文昌堂 昭和42年発行)の中に次のような文がありました。(なお『真宗の御法義』とは別の本です)
 たしかに「法体成就の機法一体」という言葉はあります。
 ただ、これは「法体成就の上で語られる機法一体」の意味であり、これに対するものは「名号を領受した機の上で語られる機法一体」です。
 なお、下の文章は参考のためにあげたのであり、勉強していないと難しいですので、無理して読まれなくてもよいと思います。
 機法一体については、安心論題関連の書籍やサイトを見て下さい。

一、機法一体について
 いま申しますように、蓮如上人のおさとしの法義の特色は、機法一体、仏凡一体、タスケタマヘの義、信因称報の義を明らかにされたということにあります。
 しかるに機法一体の御釈は、六字釈に基づく機法不二を以て、他力廻向の信であることを示されるのであります。
 即ち善導大師の六字釈は、機法一体義と、願行具足の法義を示されるものです。しかし機法一体義は他力廻向義とその扱いを異にしています。また願行具足義は信心正因を示すものであります。
 しかして善導大師の上に於いて、玄義分に示される機法一体義は、法体名号の成就の上で示されるのです。また散善義の三心釈は、三心発起の所に於いて、一切願行成就することを示されるもので、衆生領受の上に機法一体がさとされてあります。
 宗祖にあっては、行巻六字釈は、機法一体を法体の上で語り給うてあります。即ち帰命の釈が、勅命に帰せしむる力を成就せりとされるのです。信巻ではこの法体成就の機法一体が、衆生に領受されて、機の上の機法一体義を成ずると釈されています。
 蓮如上人は、宗祖の行信不二の釈を承けて、機法一体の名目で語ってゆかれるのであります。そのことを御文章の三帖目の第七通には「されば南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく心得わけたるをもて信心決定の体とす云々」と示されてあります。また御文章の四帖目第八通、同第十二通、同第十四通にもそのことがさとされてあります。


タグ : 加茂仰順 機法一体

2009/11/21(土)
『親鸞と人生』(加茂仰順師)より


 必ず仏にならせていただく身の幸せを喜び」ということはどういうことなのでしょうか。


 あまり時間が無いようですので、簡単にお話し致しますと、ある人が宿屋に泊り、夕食後その客は散歩に出て酒を呑んで帰ったとみえて、相当に酔ってよい気分で寝ました。ところが翌朝起きてきて、昨夜は大変に蚊に刺されたと言いますので、女中さんが客に、あなたはどこにお休みになりましたかと尋ねますと、客は蚊帳の中に寝たと言いますが、実際は、暖簾がありましたので、暖簾と蚊帳の間に寝たものであることが分かって大笑いをしたそうです。翌晩も同じ宿に泊まり、また酒を呑んで夜遅く帰ってきて、蚊帳に入りましたが、その晩は女中が気をきかして、暖簾を巻き上げておきましたので、今度は二回くぐって蚊帳の外に出て寝て、一晩中蚊に刺されたという話です。
 阿弥陀仏の救いを過去に片付けて安心したり、未来に眺めて喜んでいて、現在の救いにあずかることのできない人はお客さんの類であります。
 まじめな気持ちで深く聞法に心を入れて「ただ今、阿弥陀如来の本願のわれらを助けたまうことわり」を聞き得させていただかねばなりません。そこには、その信の利益として、必ず浄土に生れ、仏にならせていただくことを得るのであります。

強調は私がしました。

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2009/11/21(土)
『安心座談 お救いのみち』(加茂仰順師)より

 蓮如上人も「心易いと思えば必ず仕損ずるぞ」とくれぐれも仰せられてあり、先徳も「必ず必ず早合点して済ましてはならない」とさとされています。
 とかく大様一往の聴聞であったり、または邪見憍慢の気づまし安心、或はかかる者をお助けという押しつけ安心に陥ったりして、もうこれでよいと自分の心に落ち着いてまぎれていることがよくありがちです。随分と骨は折りながら、骨の折り場が違って、この心に聞かせることにかかるのは骨折り損です。だから少しでも心が聞いてくれたら、それに心を休め、それにだまされてとりかえしのつかないことにしてしまいます。
 悪いことにはだまされないが少しのよい心がとかく自分をだますものなのです。つまり聞くことと、如来のお助けを別のことのように思いますから、聞いてはいるがそれほどに思われないということになるのです。
 真宗は今直ちにお助けにあずかるのですから、今までの聴聞につぎ足してゆくのではなく、今ここで聞かせてもらうのです。聞いたことの上につぎ足して助けてもらうのであれば、願力成就の他力ではないことになります。この私の心がきばって聞いて、それがちょっとでも間に合うのであれば、機法一体の成就はいらなくなります。それかといって聞くことはどこまでも肝要ですが、暴風の中に残るものは天上の月一つでありますように、聞いた心が当てになるのではなく、仰せだけがまことであります。そこには自分の分別心がすべてぬぐい去られて、お助けのままに助けられてゆくほかはないわけです。

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2009/11/20(金)
『親鸞の世界 -信の領解-』(加茂仰順師)より

宿善の「宿」は本来「自覚以前」という意味です。つまり「気がつく前」ということで、弥陀のご本願は私が気がつく前にすでに起こされていたのであります。気がついた時はすでに手遅れなのであります。その意味からすれば、気がついた時は、たとえ私が今までに行ったとしても、私のものではなかったのであります。また「宿」の中にはただ今までの過去のすべてが入り、善とは法性にかなう浄業のことであります。そうした浄業は如来のなさしめ給うはたらきのほかにはないわけであります。だから、宿善とはどこまでも、信の上の反省と言わねばなりません。信を通さないと宿善は出てきません。そこには永い間、聞かせていただきながらはねつけていた私が出てまいります。お与えものをはばんでいました。邪魔をしていました。深い恵みが与えられていました。如来から計らわれていた私であります。自分のすべてが如来のはたらきかけの中にいたのであります。たとえ無駄をしたようでも、無駄ではなかったのであります。ともかく、現在の信の反省において、如来の計らいであったといただくのが、遇い難くして今遇うことのできたこの身いっぱいの喜びであります。今素直に掌を合わさせていただく幸せであります。要するに、宿世の善根というほどの善は私には有ることが無いわけで、宿善は如来から私たちへのはたらきかけの善ということになります。わが後生の問題に大事にかかってきたのがすでに宿善到来したしるしであります。


タグ : 加茂仰順 宿善

2009/11/20(金)
『親鸞の世界 -信の領解-』(加茂仰順師)より

 まず救いとは私の求め心がとり去られ、如来の救いの御力がわがものになって下さったことです。

 たとえば自分は百万円欲しい。それゆえ一生懸命に努力してやっとのことで百万円を手にすることができたとします。それであるから私は満足して幸福でありうるかといえば決してそうではありません。むしろ寂しさを味わいます。つまり私たちが最も寂しさを感じますのは、自分の目的が果たされたその瞬間です。それはなぜかといえば、百万円のお金、それは自分の一部分にしかすぎないからです。その部分の中に自分の全体を打ち込んでいたものですから、得た瞬間に寂しさを味わうのです。私たちはいつも部分を全体と見誤り、絶えず求め心を燃やし続けております。これが人生の苦しみの原因となっているとも言えましょう。

 ところが仏法の上では聞名のご誓願によって私のものとなって下さった時、求める心が用事がなくなって私自体が如来のものによって満たされてしまうのです。これが救いです。つまりそれを詳しく言えば、如来のみさとりが名号となって現れて下されてありますが、私としてはその名号を聞かしていただくことそのことにあるわけです。聞くといっても私の方で工面するのではなく、名号のはたらきの現れたのが「聞」です。たとえばミカンの種子は手段ではありませんように、聞もお助けの手段ではなく、「聞」それ自体がお助けの届いたすがたであり、いただかれたことです。それゆえ如実の聞を「信」と言います。それはお浄土のさとりの因となるものです。またそのさとりを得るほどの価値内容を今この身に獲させていただくわけです。これが救いです。

 そしてまた真実の救いは自分の眺めた自分が救われるのではなく、如来の見抜かれた私が救われてゆくのであります。それについて、この自分が地獄必定だとか、無有出縁とかの思いは何ゆえに弥陀の本願、すなわち絶対の智光はこの私たちの人生や人間を否定されるのか。また何ゆえに必堕無間とか無有出縁とかいって、自分を見限らせられるのかということについて。それは如来は私たちの迷いをもって自らの迷いとし、私たちの不完全をもって自らの責任とされるからと言わねばなりません。すなわち一切を自らとし、一切の責任を負うて立つものが弥陀の本願であるからです。

 さらに言えば、必堕無間の私ということは、如来のみ知り給う姿です。私の自覚で見届けたくらいの罪を救おうという浅い如来の力ではありません。だから罪悪感のどん底に自覚した時お慈悲が聞こえるなどということの誤りであることが明らかであります。もしそれが聞こえたのであれば、それは如来の勅命が聞こえたのではなくして、自分の心の休まる声を聞いたのであると申さねばなりません。

 要するに真宗のお救いとはこれを押えて言えば、如来のご廻向ということです。私たちには如来は身口意の三業の造作は一切用いさせて下さらずに、願力ひとつで助けて下さるのがそのことです。しかもその廻向の勅命ですが、私たちはとかくすると如来の勅命に向かわず、勅命を持ち直してしまいますから、その誤りについてよく聞かせていただかねばなりません。

 それについて自力の行者は「深く信ずる」ということを聞いて、自分が励んで深く信じようと努力します。だから深信になりません。他力の信は勅命のままがわが心に届いたのですから深信です。また自力の行者は深信しようとわが心の信じぶりをたのみますからいつも疲れます。他力信の者は摂取不捨の願力を仰ぎますから、動揺しようとしても動揺はありません。

  「我能く汝を護らん」とある弥陀の「汝を護る」をいただいていますから、金剛堅固です。すなわち「この心なおし金剛のごとし」とは、護り給う如来の力が金剛ですから、深信もまた金剛です。とにかく勅命を持ちかえるところに不如実になってまいります。

 以上のことをまとめて言えば、今の私に如来の真実が与えられ無疑受楽の満足を与えられたものが救いであるということになります。そしてその内容を名号全領によって私の全てが転成されることです。

タグ : 加茂仰順 必堕無間

2009/11/20(金)
『親鸞の世界 -信の領解-』(加茂仰順師)より

 よく言われることであるが、どうしても安心ができぬというてくやむ者がある。これは安心したい心持ちであるが、その安心したいという態度がまちがっている。
 また、この胸が聞いてくれないというてくやむ。聞いてくれないというのは、聞いてものにしようとする心である。しかし、ものにしようとする心がなければ聞くこともないであろうが、ものにしようとすることで解決するのではない。
 しっかりとよく聞いたら助かるように思う。これはお助けを信じものにしているのである。如来のお助けは私の向こうにながめて、信じにかかるものではない。信心の対象ではない。信じものにしてみるのが第二十願である。それがひっくり返されたのが第十八願であり、本願成就のすがたをあらわす。第二十願はお助けの法を向こうに置いているのである。とかく聞いて助かるように思うから、聞くところに力が入る。お助けが先手である。如来に計らわれていてもこちらがはねつけている。
 また、罪悪がはっきりせねば、お助けにあずかられないとする者がある。大きな感動は、救われない私がはっきりして、お助けの法にあうとする。だから、そこに大きな変化がおこるのである。これも間違い。私のことは私が問題にするのではない。「仏かねてしろしめして」であって、仏の方に問題にされたのである。私の助かる証拠は、私にはない。ナマンダブが証拠である。
 助かるにまちがいないとなったので助かるのではない、助けるにまちがいないお助けで助かるのである。助ける法のままが助かるのである。助くる法以外に助かる法はないのである。聞いてまちがいないことになるのではない。如来のまちがいないことが、私のまちがいないのである。先手の法を聞かせてもらうばかりである。


タグ : 加茂仰順

2009/11/19(木)
『親鸞の世界 -信の領解-』(加茂仰順師)より

金銭のことで困っているところへ他から貸してもらったときや、海にはまっているところを引きあげてもらうというような世間の救いと同じように真宗の救いを聞いておれば間違いです。これでは第十八願の思召ではありません。つまり助かりたいの腹一ぱいのところへ、お助けを聞くのですから、ありがたい思いの出るのは当然です。だからこうしたことからすれば、聞いてさようさようとうなずくのを押えて「助けたまえ」の思いだとしたり、凡夫の上から出たものを「信」とするようなあやまりをいたすことになってゆくわけです。いわば買い手と売り手が一致して手が打てたのですから、ここではこれを「にらめっこの安心」と申しておきます。
「無有出離」と読み破られたこの私という屍にはさようと手を打つ力はないはずです。屍の思い心を信じゃとか「たすけたまえ」の思いであるとしてはとてもだめなことです。私の思いが役に立つくらいなら、「無有出離」と見抜かれたはずはありません。ともかくも如来の願力が無有出離のこの私におはたらきになるまま、私はいま助けられるのです。如来に喚ばれるまんま、そのおよび声に救われるのです。如来の救いのはたらきにうちはからわれるのです。

タグ : 加茂仰順

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