化身土文類

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2009/10/30(金)
『教行信証を学ぶ -親鸞教義の基本構造-』より
村上速水著 永田文昌堂 ISBN4-8162-5036-0 C1015)

化身土文類」の置かれる意味(P225-)
 「化身土文類」がここにおかれるのには二つの意味がある。第一には近く前の「真仏土文類」に対照する意味であり、第二には遠く「教文類」以下の真実五巻に対応する意味である。第一の意味というのは「真仏土文類」の終わりに「仮之仏土者、在下応知(仮の仏土とは、下にありて知るべし)」とあらかじめ示されたように、光寿無量の真仏に対してここでは方便の化身土をあらわすという意味である。第二の意味とは単に果についてのみならず、前五巻に説く四法(教・行・信・証)に対して、今は方便の行信因果をあらわすという意味である。すなわち真実の教義こそが浄土真宗の本質であるからこれを詳しく説かねばならないが、今は権仮方便の教義であるからこれを一巻にまとめて説かれるのである。そして方便の教義を示すのは、非なるものを簡びすてる意味(簡非)であって、これは阿弥陀仏の本意でないことをあらわして、いよいよ第十八願の真実なることを明らかにする意味である。あたかも白の白たることを説明するために、黒をもち来たって白をきわだたせるようなものである。だから親鸞聖人が方便の教義を示すといっても、これに誘引するためではなく、かえってこれに陥ることを誡められるのである。
 方便とは古来暫用還廃(暫く用いて還って廃す)の意味といわれ、真実に対して誘引をあらわす言葉である。すなわち仏願(弥陀)仏教(釈尊)についていえば、阿弥陀仏が方便の願を設けられ、釈尊がこれを経典に開説されるのは、衆生の根機に応じて誘引される意趣に外ならない。しかし今、親鸞聖人がこれをあらわされるのは誘引のためではなく、仏の本意にあらざることを示してこれを廃捨させるためなのである。このことは前の「真仏土文類」に対して真仮対弁の釈をおかれる意趣が、仮を捨てて真に入らしめんがためであったことでも知られるが、また本巻の内容がそうであって、要門釈の結びには
 此皆辺地胎宮懈慢界業因。故雖生極楽、不見三宝、仏心光明不照摂余雑業行者也
  これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども、
  三宝を見たてまつらず、仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり
とあり、真門釈の結びに
 真知専修而雑心者、不獲大慶喜心。
  まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
とあり、「三宝を見たてまつらず」、「大慶喜心を獲ず」と、要門・真門の失を示されていることなどによって明らかである。
 つまり『教行信証』六巻は、前五巻では真実を直接あらわし(表顕)、第六巻では非なる方便を示すことによって真実をあらわす(遮顕)のであって、全六巻ただ真実をあらわすのみである。したがって坂東本の終わりには第六巻の尾題として「顕浄土真実教行証文類六」と、第六巻も顕真実の書であることを示しておられるのである。

著者紹介(発刊時)
 大正8年1月20日 岡山県生
 龍谷大学研究科(真宗学科)卒
 本願寺勧学 龍谷大学名誉教授
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タグ : 村上速水 化身土文類

2009/10/16(金)
第19願および観経が説かれた理由は、親鸞聖人が『浄土三経往生文類』の中に書いておられます。

 観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。
註釈版聖典630-631頁)

このように、いまだ浄土門を知らない人々の心を浄土に向けさせるために方便とした説かれたのです。

なお、大事なのは「行」ではなく「信」です。
第19願の願文でいうならば「至心発願」が重要です。
つまり、諸善万行が「浄土の方便の善」になりうるのは、至心発願するからなのです。


これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
(教行信証化身土巻本 註釈版聖典392頁

ここで観無量寿経の教説や第19願が「方便」と言われているのは「権仮方便」のことです。
「善巧方便」のことではありませんので、くれぐれもお間違いのないようにして下さい。

「信」が大事であることは、
教行信証化土巻の標挙
 [無量寿仏観経の意なり]
 至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}

とあるように、いろいろな呼び名のある第19願を「至心発願の願」と言われていることからも伺えます。

タグ : 観無量寿経 三経往生文類 化身土文類 第十九願

2009/10/15(木)
定散二善ができがたいこと、廃すべきことについて、親鸞聖人と善導大師はそれぞれ教えておられます。

《親鸞聖人》
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
(教行信証化土巻 註釈版聖典394頁

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版 488-489頁)
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を感じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。

善導大師
六に「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代(かだい はるか後の世)に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
(観無量寿経疏 散善義 流通分 註釈版聖典七祖篇500頁)

【現代語訳】(聖典セミナー 観無量寿経 梯實圓著 375頁)
 釈尊が、阿難に、「阿弥陀仏の名をたもて」といわれたのは、弥陀の名号を付属して、はるかに後の世まで伝えようとされているのである。すなわち釈尊は上来、定善と散善による往生の因と果をくわしく説いてこられたが、称名念仏の一行を往生の行として選び定められた阿弥陀仏の本願に望めあわせると、ただひとすじに阿弥陀仏の名を称えよと衆生にすすめることを御本意とされていることがわかる。その意を明らかにされたのがこの一段である。

タグ : 化身土文類 善導大師 定散二善

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