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唯信鈔文意

2009/12/09(水)
高森顕徹先生の独言 より
http://yaplog.jp/takamori-word/archive/16

(15) 方便
「仏について二種の法身まします。一には法性法身と申す、二
には方便法身と申す。
 法性法身と申すは、色もなし形もましまさず、然れば心もお
よばず語もたえたり。この一如より形をあらわして方便法身と
申す、その御相に法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の四十
八願を発しあらわし給うなり」
                   (唯信鈔文意

 無上仏は法性法身といって色も形もない宇宙の真理。
 それでは我々の認識にのらないから、形を現わして方便法身
となり、右の手を挙げて、十方衆生を招喚する、光明無量の智
恵を顕示し、左の手を下げて三世を貫いて堕としはせぬぞの、
寿命無量の慈悲を現わす。
 真実の仏さまは見えないから、見えるようにニセて現われた
のが方便法身である。
 ないものをあるように言うのは「ウソモノ」で論外だが「ニ
セモノ」より「ホンモノ」へ、方便からしか真実へ入れないの
だ。
※下線部は原文では傍点


高森氏の文章の前半は正しいですが、後半の

 真実の仏さまは見えないから、見えるようにニセて現われたのが方便法身である。
 ないものをあるように言うのは「ウソモノ」で論外だが「ニセモノ」より「ホンモノ」へ、方便からしか真実へ入れないのだ。

は間違っています。

これが以前から述べている「善巧方便」と「権仮方便」との混同です。
「方便法身」を「ニセモノ」と言う浄土真宗の人はいないでしょう。
(○価の人なら言うでしょうけど)
この理屈ですと、方便法身の阿弥陀仏を廃捨しなければならないことになり、浄土真宗でなくなってしまうのです。
また、読みようによっては、“真実に入ったならば「法性法身」の阿弥陀仏が分かる”ともとれますので、一益法門に陥る危険性もあります。
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タグ : 方便 唯信鈔文意

2009/10/09(金)
唯信鈔文意の第2章 法照禅師『浄土五会念仏略法事儀讃』巻本中漢讃4句の最後の句「観音勢至自来迎の説明部分
原文は長いので「註釈版聖典701-703頁」をご覧下さい。
“「観音勢至自来迎」といふは、~すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。”

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
「観音勢至自来迎」というのは、南無阿弥陀仏は如来の智慧のはたらきとしての名号であるから、この不可思議光仏の名号を疑いなく信じ心にたもつとき、観音菩薩と勢至菩薩は、必ず影がその姿に付き添うように離れないでいてくださるのである。この無礙光仏は、観音菩薩としてあらわれ、勢至菩薩として姿を示してくださる。ある経典には、観音菩薩を宝応声菩薩と名づけ、日天子と示している。この菩薩は無明の闇を払ってくださるという。また、勢至菩薩を宝吉祥菩薩と名づけ、月天子とあらわしている。この菩薩は迷いの長い夜を照らして智慧を開いてくださるというのである。
「自来迎」というのは、「自」は「みずから」ということである。阿弥陀仏の化身である化仏や観音・勢至の化菩薩など、数限りない聖者がたが、自ら常にどのような時も嫌ったりすることなく、どのような所も避けたりせず、真実の信心を得た人に付き添われお護りになるから、「みずから」というのである。また「自」は「おのずから」ということである。「おのずから」というのは「自然」ということである。「自然」というのは「そのようにあらしめる」ということである。「そのようにあらしめる」というのは、念仏の行者があらためてあれこれと思いはからわなくても、過去・現在・未来のすべての罪を転じるのである。「転じる」というのは、罪を善にかてしまうことをいうのである。求めなくても、すべての善根功徳を、仏の誓願を信じる人に得させてくださるから、「そのようにあらしめる」という。あらためて思いはからうのではないから、「自然」というのである。本願に誓われた真実の信心を得た人は、摂取不捨と誓われたその本願のうちに摂め取って阿弥陀仏がお護りになるのであるから、行者が思いはからうのではなく、決して壊れることのない他力の信心を得ることにより、おのずと本願を心にたもつことができるのである。この信心がおこることも、慈しみあふれる父である釈尊とあわれみ深い母である阿弥陀仏の手だてによるのである。これは本願のはたらきによっておのずから得る利益であると心得なさいということである。
来迎」というのは、「来」は浄土へ来させるということである。これはすなわち若不生者と誓われた本願をあらわすみ教えである。この迷いの世界を捨てて真実の浄土に来させるというのである。すなわち他力をあらわすお言葉である。また「来」は「かえる」ということである。「かえる」というのは、本願の海に入ったことにより必ず大いなるさとりに至ることを、「法性の都へかえる」というのである。法性の都というのは、法身という如来のさとりを本願のはたらきによっておのずと開くとき、そのことを「都へかえる」というのである。これを真如実相を証するともいい、無為法身ともいい、滅度に至るともいい、法性の常楽を証するともいうのである。このさとりを得ると、すなわち大いなる慈悲の心が極まり、再び迷いの世界にかえり入ってあらゆるものを救うのである。このことを普賢の徳を得るという。この利益を得ることを「来」といい、このことを「法性の都へかえる」というのである。「迎」というのは、「おむかえになる」ということであり、待つという意味である。如来が選び取られた不可思議の本願、この上ない智慧の尊号を聞いて、ほんの少しも疑う心がないのを真実の信心というのである。この心を金剛心とも名づける。この信心を得るとき、阿弥陀仏は必ずその人を摂め取って決してお捨てになることがないので、すなわち正定聚の位に定まるのである。このようなわけで、信心は破られることなく、衰えることなく、乱れることがない。それが金剛のようであるから、金剛の信心というのである。このことを「迎」というのである。『無量寿経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生ぜんと願ぜば、すなわち往生を得、不退転に住せん)」と説かれている。「願生彼国」とは、阿弥陀仏の浄土に生れようと願えというのである。「即得往生」は、信心を得ればすなわち往生するということである。すなわち往生するというのは、不退転に住することをいう。不退転に住するというのは、すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。このことを「即得往生」というのである。「即」は「すなわち」というのである。「すなわち」というのは、時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。

【補足】
親鸞聖人までは臨終来迎の意味ととられていたものを、
・冥衆護持の益、諸仏護念の益
・自然
・転悪成善の益
・往相回向と還相回向
・名号法の信受
・信益同時
・現生正定聚
など、浄土真宗で重要な教えを説くところにしておられます。

特に自然の説明部分を読んで頂きたいと思います。

タグ : 唯信鈔文意 来迎

2009/10/08(木)
唯信鈔文意の第2章 法照禅師の『浄土五会念仏略法事儀讃』巻本中漢讃4句の第3句を説明されたところです。

【原文】
「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。
註釈版聖典 701頁

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
「但有称名皆得往」というのは、「但有」とはひとすじに名号を称える人だけが、みな往生するといわれているのである。このようなわけで「称名皆得往」というのである。

【補足】
・この部分に限りませんが、『唯信鈔』のご文を読んだ方がいいです。

国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
 これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せ られんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。
註釈版聖典 1340-1341頁

・唯信鈔で聖覚法印が第17願を引いておられるところが重要です。

・「称名」の「称」はただ口に「となえる」だけではありません。「唱」も「となえる」ですが、念仏の場合は「唱」ではなく「称」です。それは「称」は「称揚」の称であり、「ほめたたえる」という意味があるからです。

タグ : 唯信鈔文意 称名

2009/10/05(月)
唯信鈔文意の第2章 法照禅師の『浄土五会念仏略法事儀讃』巻本中漢讃4句の2番目の句です。
この句については、2箇所に書かれている、2箇所目です。後ろの方に書かれています。

【原文】
おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。証誠護念の御こころは『大経』にもあらはれたり。また称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。
註釈版聖典 703-704頁

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
如来の尊号がすべての世界のすみずみにまで広く行きわたるということは、法蔵菩薩の四十八願のなか、第十七願に「すべての世界の数限りない仏がたに、わたしの名号をほめたたえられ、となえられよ」とお誓いになった、一乗大智海の誓願を成就されたことによるのである。それは『阿弥陀経』に、あらゆる仏がたが念仏の法を真実であると証明し、念仏の行者をお護りになると示されていることによって明らかである。そのおこころは『無量寿経』にもあらわされている。また、称名念仏が誓われた第十八願は、阿弥陀仏が選びとられた浄土往生の正しい因であることが、この第十七願にあらわされている。

【補足】
“そのおこころは『無量寿経』にもあらわされている。”について
これは大無量寿経下巻の諸仏称歎の文です。

仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神極まりなし。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称歎せざることなし。東方恒沙仏国の無量無数の諸菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養して、もろもろの菩薩・声聞の大衆に及ぼさん。経法を聴受し、道化を宣布す。南・西・北方・四維・上・下〔の菩薩衆〕、またまたかくのごとし」と。
註釈版聖典 43頁
[現代語訳](浄土真宗聖典 現代語版より
釈尊が阿難に仰せになった。
 「無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。そのため、ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏がたの国々から、数限りない菩薩たちがみな無量寿仏のおそばへ往き、その仏を敬って供養するのであって、その供養は菩薩や声聞などの聖者たちにまで及んでいる。そうして教えをお聞きして、人々にその教えを説きひろめるのである。南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々の菩薩たちも、また同様である」


“一乗大智海の誓願を成就された”について
親鸞聖人の教えで重要な誓願一仏乗について学びましょう。(教行証文類行巻 「一乗釈」「海釈」 註釈版聖典195頁

タグ : 唯信鈔文意 大無量寿経

2009/10/01(木)
唯信鈔文意の第2章 法照禅師の『浄土五会念仏略法事儀讃』巻本中漢讃4句の2番目の句です。
この句については、2箇所に書かれています。その1箇所目です。

【原文】
 「十方世界普流行」といふは、「普」はあまねく、ひろく、きはなしといふ。「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり。しかれば大小の聖人・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもつては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。
註釈版聖典 700頁

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
 「十方世界普流行」というのは、「普」はあまねく、ひろく、果てしないということである。「流行」とは、数限りないすべての世界のすみずみまで広く行きわたり、南無阿弥陀仏の名号を勧め、念仏させてくださるのである。そのようなわけで、大乗・小乗の聖人も、善人・悪人すべての凡夫も、みな自力の智慧では大いなるさとりに至ることがなく、無礙光仏のおすがたは智慧の光でいらっしゃるから、この仏の智慧からおこった本願の海に入ることをお勧めになるのである。無礙光仏はすべての仏がたの智慧を集めたおすがたなのである。その光明は智慧であると心得なさいというのである。

【補足】
唯信鈔文意を読む時は、唯信鈔の該当箇所を読まれた方がいいと思います。
この場合は(註釈版聖典 1340-1341頁)です。
阿弥陀仏の十二光でいえば「無辺光」「無礙光」にあたりましょうか。
善悪の凡夫が等しく救われる教えであることが分かります。
問題は私が「大乗・小乗の聖人、善人・悪人」のいずれであるかということではなく、「自力の智慧では大いなるさとりに至ることがない」ということなのです。
歎異抄で言えば、
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。
なのです。

タグ : 唯信鈔文意 唯信鈔

2009/09/30(水)
唯信鈔文意の第2章 法照禅師の『浄土五会念仏略法事儀讃』巻本中漢讃4句のさらに最初の1句を説明されたところです。

【原文】
「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」
(五会法事讃)
 「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。
註釈版聖典 699-700頁

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
 『五会法事讃』に、「如来尊号甚分明 十方世界普流行 :但有称名皆得往 観音勢至自来迎(如来の尊号は、はなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ)」といわれている。
 「如来尊号甚分明」について、この文の意味は、「如来」というのは無礙光如来である。「尊号」というのは南無阿弥陀仏である。「尊」は尊くすぐれているということである。「号」は仏になられてからの後のお名前をいい、「名」はまだ仏になっておられないときのお名前をいうのである。この如来の尊号は、たたえ尽すことも、説き尽すことも、思いはかることもできないのであって、すべてのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせてくださる、大いなる慈悲のお心があらわれた誓願の名号なのである。この仏の名号は、あらゆる如来の名号よりもすぐれている。なぜなら、この名号は、誓願そのものだからである。「甚分明」というのは、「甚」は「はなはだ」ということであり、すぐれているという意味である。「分」は「わける」ということであり、あらゆる凡夫を一人一人見分けて救うという意味である。「明」は「あきらかである」ということである。すべてのものをことごとく助けてお導きになることが、明らかであり、一人一人を見分けて救うのであり、それがすぐれているというのである。

【補足といいますか、味わいといいますか】
ここで、親鸞聖人は「甚分明」について詳しく説明しておられます。(青の強調箇所)
歎異抄「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」のお言葉に通じるものがあります。
阿弥陀仏は十方衆生を助けるという本願を建てておられますが、それは「私一人」を助けるための本願なのです。
その本願・名号を「私が」聞くことを、本願成就文には「聞其名号」と言われ、親鸞聖人は「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と釈されたのであって、他人のことを言われたのでありません。
歎異抄の先程の言葉の少しあとにある
「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり」

をかみしめたいと思います。

タグ : 唯信鈔文意 歎異抄

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