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善導大師

2010/06/04(金)
久堀弘義師の著作から引用します。
久堀師は人間魚雷回天の特攻隊長出身だそうです。
本願寺出版社や自照社出版からの本があります。
自照社の本は梯和上との共著が多いですね。
村上速水師と同様、大江淳誠和上の薫陶を受けられたようです。

『阿弥陀仏と浄土 ――曇鸞大師にきく――』
久堀弘義著 本願寺出版社刊 昭和59年 ISBN4-89416-108-7)
失礼な言い方になってしまいますが、なかなかいい本です。

二 教材について
(3)伝統と己証
 宗祖の教義が形成されていく中で、宗祖の思考に大きな影響を与えた二つの流れがあった。七祖を上三祖と下四祖に分け、上三祖をもって「大経ずわり」といい、下四祖をもって「観経ずわり」とすることについては、かなりの異論があることも知っている。
 しかし、私は、この見方は正しいと思っているので、あえてこれに従えば、二つの流れとは、この上三祖と下四祖の流れである。曇鸞は竜樹・天親の思想を統一的に継承しているので、上三祖を代表するものと考えていい。
 又、宗祖にとての面受の師であるから、法然をもって下四祖の代表と考えられるけれども、法然自らが、「偏依善導一師」といっているのであるから、下四祖は善導に代表されるといえるだろう。
 端的にいえば、宗祖の思想が形成されるに当っては、この曇鸞の思想と善導の思想が、大きな影響を与えている。しかも、その二つの流れが、宗祖において巧に綜合されて、真宗教義が形成されていると考えられる。
 しかし、その与えた影響については、曇鸞と善導とは、いささかその趣を異にしているようである。曇鸞教義においては、後に詳述するように、「一如顕現」という一点に立ち、「阿弥陀仏」も「浄土」も、又、「信心」も「念仏」も、すべて一如に還源せしめ、その本体論的解釈をもって、その特質とする。
 これに対して、善導教義においては、「専修念仏」という一点に立ち、すべてを実践論的(行信論をも含めて)に解釈することを、その特質としている。この二つの流れが宗祖の思想に影響を与え、しかも、それが巧に宗祖によって融合されていったことに、大きな意味がある。
 すべてのものごとは、ただその現象にのみに心を奪われて、その本音を見究めることを忘れてはならない。そこに、本体論的解釈に思考を集中した曇鸞の教学が、評価される。けれども、本質を論ずる場合、それはともすれば抽象論、もしくは観念論へ傾斜していく危険性をはらんでいるようである。
 曇鸞の教学をもって、観念論といっているのではない。その教学を教学するわれわれの側のことをいっているのである。現に、『二種法身』のあの解釈を、「法性法身」にのみに捉われて、阿弥陀仏信仰を持って偶像崇拝であるなどと誇らしげにいった学者もいる。又、阿弥陀仏も浄土も信心の上に現成する世界であるなどと、観念論をまき散らした学者もいる。
 曇鸞の思考の方向においては、全く考えられないことが、それを教学する側に結果として出てくることを思うとき、本体論的解釈の持つ危険性は、充分意識しておくべきである。
 ともあれ、この曇鸞の本体論的解釈は、もろに宗祖の中に受けつがれていった。このことは、やがて明らかになる筈であるが、しかし、ただそれだけであるならば、宗祖は思想家としての親鸞ではあっても、宗教家としての親鸞ではあり得なかったにちがいない。
 宗祖が宗祖たり得たのは、曇鸞を受けつぐとともに、法然との出あいを通して、善導との出あいを果たしたからである。単なる思想としての浄土教ではなくて、専修念仏というひたすらなる実践において、万人の救いを成立せしめるという浄土教が、善導によって開かれていた。
 法然を通して、この善導教学を受け容れた宗祖は、曇鸞の教学における本体論的解釈の持つ観念論への傾斜を、見事に克服し、浄土真実の教えを開顕していったのである。
 曇鸞の「一如顕現」に立つ本体論的な解釈と、善導の「専修念仏」に立つ実践論的な解釈が、宗祖において巧に統一されて、浄土真宗が開かれているのであるから、私たちは教えを説き、法を伝えんとするとき、宗祖教義におけるこの特質を、先ず確実に押さえておくべきである。
(中略)
 今、私たちにとって、必要なことは、現代人に向かって、胸を張って阿弥陀仏を説き、浄土往生を説くことのできる自信を回復することである。そのためにこそ、先に述べた宗祖教義の原点に帰らねばならない。それは又、曇鸞・善導の教学に帰ることであろう。
 両者は中国における、又、千年から千三百年以前の思想である。それでいて、現在なお私たちに、新鮮さと躍動感をもってせまってくるのを覚える。『往生論註』と『観経四帖疏』は、現代の書であり、現代の思想であり、現代の宗教である。両書から与えられる深い宗教的感動にゆり動かされた宗祖は、『高僧和讃』曇鸞讃に三十四首、善導讃に二十六首、その感動をうたいあげている。
 私たちは、この宗祖と感動を共にしたとき、初めて自信をもって教えを説くことができるだろう。阿弥陀仏不在、浄土不在の伝道から脱却すること、信心・念仏の原理的立場を回復することは、何をおいても今、伝道者としての私にとって最も必要なことではないか。
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タグ : 久堀弘義 曇鸞大師 善導大師

2010/06/03(木)
 村上師は末尾に「今後さらに親鸞教義を深く研究される場合には…」と書いておられますが、親鸞聖人の教えを理解する時に、曇鸞大師善導大師の教えられたことの学習は欠かせないと思います。
 以下、『親鸞教義とその背景』(村上速水著 永田文昌堂刊 昭和62年)からです。

第二節 七祖の教え
 序 七祖の選定

  七祖選定の基準
 (略)

  七祖の著作
 (略)

  七祖の発揮
 (途中まで略)
 また、昔の学者の講録などには、「終吉」という言葉が出てくることがありますが、これは善導大師と源空上人との教義が非常に類似しているところから、「終南」と「吉水」とを一連にして、簡略に呼んだものであります。

  曇鸞大師善導大師の地位
 以上、七祖に関する全体的な、そして基本的な事柄について述べてきましたが、次に親鸞教義における七祖の教学の位置づけを考えてみたいと思います。私の率直な気持ちを申しますと、親鸞教義の骨格を形成するものは、曇鸞大師善導大師の教義であるといってよいと思います。このことは『高僧和讃』において、曇鸞大師を讃えられる和讃は三十四首あって最も多く、次いで善導大師の二十六首であることに端的にあらわれていると思いますが、殊に『教行信証』において重要な解釈のところには、必ずといってよいほど曇鸞大師の『往生論註』、善導大師の『観経疏』が引用されているという事実、またその引用の回数が多いことによって論証することができると思います。
 『教行信証』は親鸞聖人における仏教概論であるといってもよい書物ですから、全体にわたって大乗仏教の原理が説き述べられています。しかもその原理を踏まえて、他宗とちがった浄土真宗独自の教義が説かれています。このように見る時、親鸞聖人は、仏教の原理的な面は主として曇鸞大師の『往生論註』によって説かれ、真宗独自の実践的な面を述べられるところは、善導大師の『観経疏』によっておられるといってもよいと思います。もしこれを喩えるならば、『往生論註』という縦糸と、『観経疏』という横糸とで織りなされた一反の織物が、『教行信証』であるということができましょう。そういう意味で、今後さらに親鸞教義を深く研究される場合には、『往生論註』と『観経疏』との研究が、特に重要であることを心得ていただいたらと思います。

タグ : 村上速水 曇鸞大師 善導大師

2010/03/24(水)
『親鸞聖人と建学の精神』p8~(永田文昌堂 林 智康著)より

 そして『往生礼讃』の文では、親鸞聖人は「信巻」と「化身土巻」の二箇所に引かれていますが、「仏世はなはだ値ひがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもつとも難しとす。みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し。大悲弘くあまねく化する。まことに仏恩を報ずるになる」と。 この『往生礼讃』の言葉は「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」というのが、元々の言葉ですが、親鸞聖人は「信巻」と「化身土巻」のどちらにも直接、善導大師の『往生礼讃』を引かれていません。智昇大師の『集諸経礼懺儀』という『往生礼讃』等を集めた書をですね、そのお言葉の方を間接的に引かれておられます。「大悲伝へてあまねく化する」という言葉をですね、「大悲弘くあまねく化する」となっております。たった一字であります。「大悲普化」、伝えるという言葉を「大悲普化」、弘くという言葉に変えてあります。ここはどうしてこんなふうに親鸞聖人は直接『往生礼讃』を引かないで、智昇大師の『集諸経礼懺儀』を引かれたのでしょうか。いろいろな先生方の本を読ませていただいたり、私なりに考えさせていただきました。

 善導大師はやはり、自らが伝えていくという立場に立っておられますね。いわゆる、「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し」と、これほどまた難しいことはありません。自ら浄土真宗のみ教えを信じる、そしてそれを他の人々に伝えていくということは大変に難しいことです。そして、大悲を伝えてあまねく化する、すなわちあらゆる人々を救うことは仏恩を報ずることになるんだ。これは素晴らしいことです。しかし親鸞聖人はですね、皆さんご存知のように「煩悩具足の凡夫」、「罪悪深重の凡夫」、「無慚無愧のこの身にて」と、いわゆる「機の深信」と言いまして、私たちのありのままの姿を赤裸々に表現されて、とても自分が人々を救うような力を持った者ではない。自らの力では人々を迷いの世界から救うことはできない。しかし私を通して大悲が弘くあまねく化するのである。元々「大悲が弘くあまねく化する」と読むんでしょうけれども、親鸞聖人はそこを「大悲が弘くあまねく化していく」と、如来の大悲がすなわち自ずから人々を救っていく。このように読み替えられたのではないかと思います。
(以下略)

引用は以上です。

林先生とは電話でお話ししたことがあります。
といいましても、去年私が龍谷大学の『真宗学』のバックナンバーを注文した時に、あまり遅いのでメールで催促したら、直接責任者の林先生が電話をかけてこられただけなんですけど。
申し訳のないことでした。
ちゃんと『歎異抄講讃』等を読ませていただいていますとは言いました。

タグ : 林智康 善導大師 自信教人信

2010/01/09(土)
【蓮如上人 『御文章』】
〈4帖目第14通 一流安心〉
一流安心の体といふ事。
 南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)といへり。まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。
さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず。このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。
註釈版聖典 1186頁

〈4帖目第8通 八か条〉
当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
註釈版聖典 1179頁

[補足]
 4帖目第14通は、二字四字分釈による機法一体のご文です。
 4帖目第8通は、青字が六字皆機の釈、ボールド体が二字四字分釈、赤字が六字皆法の釈です。
 大事なことは「衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころ」は「南無」であり、阿弥陀仏から与えられるということです。

善導大師『散善義』 『教行証文類』信文類の引文より】
白道=機=信心という説明
〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
註釈版聖典 225頁

白道=法=願力という説明
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。
註釈版聖典 226頁

[補足]
 二河白道の譬の「白道」は、信心であり、また願力であるということです。
 つまり機法一体なのです。
 この一体という意味は、二つのものが一つになるという一体ではなくて、本来一体であるということです。
 間違えないようにしましょう。

 また、「二尊の意に信順」が「タスケタマヘトタノム」に当たります。

タグ : 機法一体 御文章 善導大師 二河白道

2009/12/23(水)
観彼世界相 勝過三界道
(中略)
仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖(しゃっかく)[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭(さんけん)[蚕衣なり]の自縛するがごとし。
曇鸞大師 往生論註 註釈版聖典七祖篇57頁

浅井成海師の訳(三界~)
 我々の世界は偽りに満ちており、その偽りの世界を生きる苦しみや悲しみは、繰り返し生じて絶えることがない。ちょうど尺取り虫が丸い輪をまわり続けるように、あるいは蚕が、自らの口から糸を出して自分の身体をがんじがらめに縛って身動きができなくなり、やがて熱湯につけられるようなものである。

善導大師の「機の深信」にあてはめるならば、
 虚偽の相=現にこれ罪悪生死の凡夫
 輪転の相=昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して
 無窮の相=出離の縁あることなし
となります。

タグ : 曇鸞大師 善導大師

2009/10/15(木)
定散二善ができがたいこと、廃すべきことについて、親鸞聖人と善導大師はそれぞれ教えておられます。

《親鸞聖人》
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
(教行信証化土巻 註釈版聖典394頁

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版 488-489頁)
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を感じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。

善導大師
六に「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代(かだい はるか後の世)に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
(観無量寿経疏 散善義 流通分 註釈版聖典七祖篇500頁)

【現代語訳】(聖典セミナー 観無量寿経 梯實圓著 375頁)
 釈尊が、阿難に、「阿弥陀仏の名をたもて」といわれたのは、弥陀の名号を付属して、はるかに後の世まで伝えようとされているのである。すなわち釈尊は上来、定善と散善による往生の因と果をくわしく説いてこられたが、称名念仏の一行を往生の行として選び定められた阿弥陀仏の本願に望めあわせると、ただひとすじに阿弥陀仏の名を称えよと衆生にすすめることを御本意とされていることがわかる。その意を明らかにされたのがこの一段である。

タグ : 化身土文類 善導大師 定散二善

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