『阿含経典による 仏教の根本聖典』(増谷文雄著)より
南伝 相応部経典 45-2後半と3 舎利弗
漢訳 雑阿含経 27-726
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、釈迦族のサッカラという村にあられたことがった。その時、アーナンダ(阿難)は世尊のあられる処にいたり、世尊を拝し、世尊にもうして言った。
「大徳よ、私どもが善き友、善き仲間を有するということは、これは、聖なる修行のすでに半ばを成就せるにひとしいと思うが、いかがであろうか。」
かく問われて、世尊は答えて言った。
「アーナンダよ、そうではない。そのような考えをしてはならぬ。アーナンダよ、善き友、善き仲間を有するということは、これは聖なる修行のなかばではなくして、そのすべてであるのである。アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間の中にある比丘においては、八つの聖なる道を修学し、成就するであろうことは、期してまつことができるのである。
アーナンダよ、このことによっても、それを知ることができるではないか。
アーナンダよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ身にして老いより解脱し、病まねばならぬ身にして病より解脱し、死なねばならぬ人間にして死より解脱することを得ているのである。このことによっても、アーナンダよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである。」
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なる祇孤独の園にあられた。その時、サーリプッタ(舎利弗)は世尊のもとにいたり、世尊を拝し、世尊にもうして言った。
「世尊よ、私どもが善き友、善き仲間を有するるということは、これは聖なる修行のすべて成るにひとしいと思うが、いかがであろうか。」
かく問われて、世尊は答えて言った。
「よいかな、サーリプッタよ、その通りである。善き友をもち、善き仲間にあるということは、これは、聖なる修行のすべて成るにひとしいということができる。サーリプッタよ、善き友をもち、善き仲間の中にある比丘にありては、八つの聖なる道を修め習い、これを成就するであろうことは、期してまつことができるのであろう。
サーリプッタよ、それは、この理によっても知ることができるであろう。
サーリプッタよ、人々はわたしを善き友とすることによって、老いねばならぬ人間でありながら、老いより解脱する。病まねばならぬ人間でありながら、病より解脱しておる。死なねばならぬ人間にして、死より解脱することを得ているのである。このことによっても、サーリプッタよ、善き友をもち、善き仲間にあるということは、聖なる修行のすべてであると知るべきである。」
-真宗における知識帰命説の源流-
梯 實圓
この論文の書き出しを紹介します。
先日購入しました、『親鸞教学論叢 村上速水先生喜寿記念』(永田文昌堂 ISBN4‐8162-3028-9 C3015)所収の論文です。
梯師の文章は非常に分かりやすく素晴らしいと思います。
仏道において善知識が重要な意味を持っていることはいうまでもない。既に天台大師(538-597)も『小止観』のなかに、教授の善知識、同行の善知識、外護の善知識の三種善知識を挙げて詳しく述べられていた。親鸞聖人(1173-1262)も聞法における善知識(知識)の役割を極めて重要視されていることは、『化身土文類』や、『高僧和讃』等に明らかなところである。ことに、法然聖人(1133-1212)という真の知識に遇い得たことを深く喜び、法然を阿弥陀仏の化身、勢至菩薩の化身と仰いでおられた。しかし法然自身は、「十悪の法然房」「愚痴の法然房」と自謙し、親鸞に至っては愚禿と自称し、臨終の一念まで煩悩具足の凡夫でしかあり得ない身であるといい、決して戒師・人師として振る舞うことはなかった。『歎異抄』第六条や、『口伝鈔』第六条などに、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」といわれたことはあまりにも有名である。
ところが親鸞のご在世のころから、その門弟教団の中に自らを知識と称し、有縁の念仏者を「わが弟子」として自専するものがいたようであるが、そうした風潮は親鸞滅後いよいよ激しさを加えていったようである。そうしたなかから、時宗の知識帰命説の影響もあってか、教団の指導者である知識を仏とみなして帰命の対象とし、阿弥陀仏に帰命するといっても知識をたのみ帰命することのほかにないとする知識帰命説が発生していった。こうした知識絶対主義とでもいうべき信仰形態は、必然的に、現身の仏である知識を中心とした排他的な、閉鎖的な信仰集団を作っていったのである。
〈+α〉
「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで
~本願寺と類するものの批難に答える~
(16)無条件服従について(親鸞会への大きな誤解3)より
善知識の言葉(仏説)に無条件に「ハイ」と従ったときが、弥陀の本願を聞いて助かったときです。ここが決勝点であり、ゴールです。
(中略)
求道とは、本当の仏教を説く善知識の言葉を「ハイ」と聞かせて頂くところまで進む道程です。