もちろん、「世間の因果の道理」は倫理道徳の範疇であり、仏教で説かれる因果の道理は「出世間の因果の道理」なのですが、阿弥陀仏の救いはこの2つを超えた「超因果」の救いなのです。
故に善導大師は「別意(別異)の弘願」と教えられました。
超因果というと因果の道理ではないと思われるかもしれませんが、凡夫には分からないということであって、因果の道理から外れているということではありません。
「非因非果」とか「浄法界の因果」という言葉もあります。
下に、安心決定鈔から引きます。
WikiDharmaのページに飛べば、註釈版聖典の註も引けますので、読んで下さい。
まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。
(安心決定鈔 註釈版聖典1389頁)
うちまかせては機よりしてこそ生死のきづなをきるべき行をもはげみ、報土に入るべき願行をも営むべきに、修因感果の道理にこえたる別異の弘願なるゆゑに
(安心決定鈔 註釈版聖典1402頁)
タグ : 因果の道理
『仏教の基礎知識』(春秋社 ISBN978-4-393-10608-2 C0015)
『仏教要語の基礎知識』(春秋社 ISBN4-393-10604-0 C0015)
があります。
私は大学生時代から『仏教要語の基礎知識』は持っていたのですが、どちらも新版になっていたので、改めて購入しました。
水野氏はパーリ仏教の権威ですので、浄土真宗の学者ではありませんが、両書は仏教の基礎を知るにはいい本だと思います。
『仏教の基礎知識』から業報説に関する一文を引きます。強調は私がしたものです。
仏教においても常識的な穏健説として業報思想を採用した。この常識的な業報説を受けいれないならば、仏教独自の四諦や縁起の教えに入ることはできないとして、仏教独自の学説に入るための準備として業報説が用いられたのである。三世因果の業報説を疑ったり否定したりすることを、仏教では邪見といっている。仏教では邪見がもっともいけないものであって、これがあるかぎりは、決して仏教信仰に入ることはできないとされる。邪見は善も悪も否定し、善悪の報果も認めないものである。
業報説は、仏教を通じてインド以外の東アジア諸地域にも伝えられ、仏教のあるところには必ず業報説が信奉された。しかしこれは前述のように、仏教にとってはあくまでも初歩的な通俗説であって、極めて低い教えにすぎず、業報説からさらに進んで仏教独自の四諦や縁起の説に向かうべきものである。
この文を読んで分かるように、親鸞会で教えられている因果の道理というのは「業報説」であって、仏教独自の四諦八正道の教え、縁起の説に入る前の導入部分の教えです。もっと言えば、仏教が説かれる以前から一般に信じられていることを取り入れたものです。仏教に教えられていることのように思えるのは以上の経緯によるものであり、せいぜいが仏教で説かれる因果の初歩的なごく一部を教えているにすぎません。
前々回のエントリーで述べましたように、善をしようとするのは当たり前であり、いつまでも通俗的な因果の道理に止まっているということは、かろうじて仏教に入ったかなという程度で止まっているということです。聖道門以前であり、とても浄土門と言えるようなものではありません。
すでに今、阿弥陀仏の救いを求めている人は、聖道門に入る必要はありません。すみやかに弥陀の救いに遇って下さい。
どうしてこうなるのかというと、「因果」という言葉ですべてひとくくりにして考えているからでしょう。
非常に大雑把ですが、一口に因果といっても
1.科学的因果
2.倫理・道徳で言う因果
3.仏教以外の宗教でも説く因果
4.仏教一般の因果(六因五果四縁、四諦、八正道・六波羅蜜など)
5.浄土門の因果(阿弥陀仏の救い)
などに分けられるでしょう。
1,2,3の間には順番はないですし、これらの中にはさまざまな説が含まれますが、(1,2,3)と(4)と(5)とは全く違います。
親鸞会の人は2や3のレベルで話をすすめており、4までもいっていないように感じます。
(つまり、親鸞会の人の言っていることは、他の宗教でも語っているということです。)
ましてや5の阿弥陀仏の救い、超因果・非因非果の名号法とは全くかけ離れた話になっているように思います。
タグ : 因果の道理
「書けば書くほど浄土真宗から離れていきますので、ほどほどになされた方がいいでしょう。」と警告を発しましたが、懲りずに続けておられます。
梯實圓師の著書から引用させて頂きますので、これでも読んで勉強して下さい。
ともあれ信と疑をもって、迷悟を分判するということは、従来の仏教の因果論を超越した、新しい仏道領域の枠組みを提供されているとしなければならない。生死の苦果は、無明煩悩に縁って起こっている。それゆえ、生死の苦を滅して、涅槃の果をうるためには、八正道(あるいは六波羅蜜等)の行を実修して無明煩悩を断じなければならないというのが、苦集滅道の四諦の教説が示す迷悟の因果論であった。それはたしかに迷悟の事実を示していた。従来の仏教体系はこの四諦の因果を座標軸として成立していたのである。それを法然は自力断証の聖道門と名づけられたのであった。
しかし阿弥陀仏の本願力によって一毫未断の凡夫が報土に往生し涅槃を証せしめられるという本願力の救済体系が成就している以上、凡夫が生死海にとどまっているのは、必ずしも煩悩があるからではなくて、本願を信じないからであるといわなければならない。それは自力断証の四諦の因果を認めながらも、それを包んで越えるような思議を絶した救済の因果であった。法然によれば阿弥陀仏の成仏の因果の徳は、すべて名号に摂在せしめられ、それを称える衆生の往生成仏の因となっていくように選択されており、それが本願の念仏であった。いいかえれば本願の不思議力によって如来の成仏の因果が、衆生の往生の因果を成就していくのであって、このような法門を法然は浄土門と名づけられたのであった。
ー中略ー
こうして自力の断証という自行の因果を座標軸として構築されていた聖道門に対して、本願他力の不思議を信じて念仏するという本願他力の信を座標軸の原点とする新しい宗教的世界観を樹立していかれたのであった。聖道門的世界観にあっては、自己の行為の善悪によって宗教的世界が形成されていくのであるから、善悪が価値の基準となっていたが、浄土教的世界観においては、不可思議なる本願を信ずるか疑うかという信疑が価値観の基準となっていた。
ー中略ー
(正如房に与えられた法語)
(唯信鈔の言葉)
(歎異抄の言葉)
かくて法然、聖覚、親鸞によって確立し展開せしめられた浄土教においては、行為の善悪よりも本願への信疑が最大の問題となっていたことがわかる。如来に対する最大の反逆は、仏智をうたがうことであった。親鸞が「誡疑讃」において「仏智うたがふつみふかし、この心おもひしるならば、くゆるこゝろをむねとして、仏智の不思議をたのむべし」といわれた所以である。
(梯實圓著 永田文昌堂刊 『法然教学の研究』pp298-300 ISBN8162-2108-5 C3015)
親鸞会の講師ならば「亦因亦果」「非因非果」「仏因仏果」などの言葉くらいは知っているはずです。
今日は、そんな難しいことは書かず、梯 實圓師の著作から引用致します。
しかし親鸞聖人によれば、たとえ四聖諦という自力成仏の因果を信じていても、自力の因果を超えた阿弥陀仏の願力不思議の法を信受しないかぎり、その信は疑惑であるといわれていたのです。すなわち「善因楽果 悪因苦果」という自力の因果を信じていても、そのような思議の領域に止まって、善人も悪人も、知者も愚者も分け隔てなく救いたまう絶対平等の救いを受けいれないものを、疑心自力の行者といわれたのです。『無量寿経』では、そのような疑心を「信罪福心」(罪福を信ずる心)といい、善悪無礙の救いを説く「不思議の仏智」を疑う疑惑の行者とされています。
(聖典セミナー 教行信証[教行の巻] 208頁
梯實圓著 本願寺出版社 ISBN4-89416-500-7 C3015)
なお、梯師の著作はたくさんあり、以前も言及しました。
ちょっと難しいものもあるかもしれませんが、読まれることをお薦めします。