国語

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2009/11/11(水)
A いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた
B いままでも、いまも、いまからも、極悪最下の絶対に救われることのない私であった、とハッキリ知らされた

この2つの文章の違いについて説明します。
共通部分(“いままでも、いまも、いまからも”と“であった、とハッキリ知らされた”)を省き、違う部分だけを抽出します。
A’ 救われることの絶対にない極悪最下の私
B’ 極悪最下の絶対に救われることのない私

この2つのフレーズの違いをたとえます。

「救われることの絶対にない」-日本からアメリカまで自分で泳いで行けない
「極悪最下」-カナヅチ


これを挿入します。

A’’ 日本からアメリカまで自分で泳いで行けないカナヅチの私
B’’ カナヅチで日本からアメリカまで自分で泳いでいけない私


この2つの違いは分かりますでしょうか。

A’’は私はカナヅチであることを示しています。
B’’は日本からアメリカまで自分で泳いで行けないことを示しています。カナヅチであることはその理由です。


ですから、もっと縮めれば

A’’’ カナヅチの私
B’’’ 日本からアメリカまで自分で泳いで行けない私


となります。
A’’’とB’’’は明らかに違いますね。

さてここでアメリカまで自分で泳いで行けないのはカナヅチの人だけでしょうか。
アメリカという国がどこにあるのか知っている人は、カナヅチかどうか関係なく、泳いで行けないことは分かりますので、泳いで行こうとはしません。
故古橋廣之進氏や入江陵介さん、北島康介さんのような泳ぎの上手な人から、普通に泳げる人、カナヅチの人、歩行さえ困難な人、寝たきりの人、意識の無い人まで、泳いで行ける人はいません。
では、日本からアメリカまで泳いで行こうと思っている人はどんな人かというと、
①アメリカがどこにあるか知らない人
②アメリカがどこにあるか知ってはいるが、飛行機や船などの手段があることを知らない人
③アメリカがどこにあるか知ってはいるし、飛行機や船などの手段があることも一応は知っているが、飛行機や船に乗るには、まずある程度泳いで、死にかけないと乗ることができないと思っている人。
などではないでしょうか。
現実的には②はほとんど考えられませんが、これはたとえですので御了承下さい。
また、③の場合はやっかいですね。


ここで元の文章のAとBをもう一度読めば、「極悪最下」ということと「絶対に救われることのない」こととは無関係ではないけれども、違うことを表していると分かるのではないでしょうか。

ところで

①自分はアメリカがどこにあるのか知っていながら、カナヅチほどではなくても泳ぎが苦手な人に「泳げ、泳いでみて泳げないと分かったら別の方法を教えてやろう」と言う人がいれば・・・
→この人は無慈悲な人です

②アメリカがどこにあるのか知っているから、とても泳ぎ着くこともできないと分かっているが、①の人が「泳げ、泳げ」と言うから泳いでいる人は・・・
→この人は可哀そうですとも言えますが、アメリカまで行く気のない人とも言えます。本当に行きたい気持ちがあれば、別の手段を探すでしょう。

なお、機の深信を説明する文章として「絶対に救われることのない」は誤解を招きますのであまりよくないでしょう。
取り上げたのは、違いを示すためだけです。
「生死を出離することのできるものを全く持っていない」
などとした方がよろしいと思います。
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2009/11/07(土)
具体例を出せば分かりやすいかと思います。
ある寿司屋があるとします。
そこの寿司の特徴は「値段は安い」「あまりおいしくない」というものです。

○「あの寿司屋は安いんだけど、あまりおいしくないんだよね」
 この場合は、
 「私はおいしい寿司を食べたいから、あの店には行きたくない」
 という気持ちがくみ取れます。

○「あの寿司屋はあまりおいしくないんだけど、安いんだよな」
 この場合は、
 「私は味にはさほどこだわらない。とにかく寿司を食べたい。しかも安くすんでおなかが一杯になればいい。だからあの店へ行こう」
 という気持ちがくみ取れます。

このように、どちらを先に言うかで、気持ちも行動も変わってくるのです。

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2009/11/07(土)
これは仏法のことではなく、国語の問題です。
接続語にはいろいろあります。
接続語とは接続詞・接続的副詞・接続的副詞句を指します。
このうち、「だが」「しかし」「けれども」などは逆接の接続語です。
さて、
 AしかしB
という文の場合、どちらに重点が置かれるかというと、Bなのです。
論者の主張は、AではなくBということになります。
国語の表記としては不適切ですが、数学の不等号を使うと、
 AしかしB
という文の作者の重点は
 A<B
なのです。

昨日のエントリーであげた「高森先生の独言(67)」の文でいいますと、
Aが

 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
“雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決する

であり
Bが

暮らしの実態面はどうか。
 仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。
 在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。

です。
従って、この文では「阿弥陀仏の浄土に往生すること」よりも、「いい暮らしをすること」の方に作者の主張の重点があります。
浄土真宗の教え、往生極楽の道を教えるならば、
「Aだけ書いてBを書かない」か(これは先に書いた通りです)、「BしかしA」と書かなければなりません。(上のBの文のままではだめですが)
誤解を与える恐れがありますので、Aだけ書く方がいいでしょう。

参考となるサイトをあげておきます。
逆接と論理http://blog.goo.ne.jp/fujipom/e/677d2b2bacea7634e9c6fb18e41c341d

さて、後半部分が同じで順接と逆説の違いがある次の2文。この両者にはどういった意味合いの違いがあるだろうか。
 晴れてよい天気だ <?> 外出した
 雨が降り出した <?> 外出した
もちろんシチュエーションが違うのだが、両者では「外出した」ことの重みが変わってくる。上は<だから>で繋がれる順接の文。つまり晴れてよい天気であれば一般的、常識的にお出かけ日和であるから、外出することに違和感を感じることはない。至極もっともな論理の流れだ。このことは逆に、外出したことに対して特別な印象を与えることがない。お出かけ日和だから、何となく散歩に出たのかも知れないし、思い立って買い物に出たのかもしれない。いずれにせよ、「晴れてよい天気」であることが「外出した」ことの理由なのであれば、別にその日その時でなくてもよい外出の可能性が高い。この文の主体は前半にある。
下は<しかし>で繋がれる逆接の文。雨が降り出せば外出をためらうのが一般的、常識的な論理の流れだ。逆接の論理構造では、この一般的な判断に逆らう行動を取るのだから、外出したことに特段の事情があったと考えなければならない。そこには話者なり行動の主人公の強い意志があり、天候に関わらず出かけることが必要であり大切なことであったと理解できる。この文の主体は後半にある。
順接で繋がっていく文の流れは、共通理解の上に立った一般的、常識的な内容の確認である。誰もが納得できる因果関係で続く順接の文は、論理的に安定し、強い説得力を持つ。ただしそこには新しさや叙述する者の意見、問題提起は入りにくい。「わかっていること」の繋ぎ合わせが基本だからだ。
これに対し、逆接で繋がる文の流れは、一般的、常識的な判断に疑問を差し挟んだり、特段の事情や必要性を説いたり、新しい意見や問題を提示したりする。安定した論理をあえて崩す形になるから、そこに自然と注目点が生まれ、読者は注意して未知の内容であるその先の論理を追うことになるわけだ。逆接の後には、内容的に重要なパートが続く。
これは論文の基本形でもある。提示する論点は、読者にとって未知のものでなければ価値がない。コラムならば既知の組み合わせから「そうだよねぇ」と共感を引き出すだけでもよいが、論文は意見の陳述である。これを論理的にきちっと伝えるには、まず読者の了解事項を順接で丁寧に繋いで前提条件を作り、そこへ逆接で主張を切り込む「型」が大切になるのだ。「型」などというとマニュアル的に感じるが、そうではない。上に述べてきたように、接続語の役割と、そこから生まれる論理を考えると、これがコトバの力を引き出す順序なのだろう。

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