『大無量寿経の現代的意義』(早島鏡正著 pp148-149)より親鸞聖人は「三毒段」に入る直前、「総誡」の一部分を『本典』「信巻」に、「横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢん。道に昇るに窮極なし云々」と引用しておられます。ところが、この文に続く「三毒・五悪段」は全く引用しないのです。思うに、聖人にとって「三毒・五悪段」は、中国の儒教的な考え方から仏教の業論を見ており、また人間をとらえるのに、倫理的に人間悪の面で見ているため、それでは不充分だと考えられたのかもしれません。また、宗祖は梵本をお読みになったということはありません。それでも不審に思われたのでしょうか。あまりにも儒教的な要素があるというお考えの上から、ほとんど「三毒・五悪段」を引用なさらなかったのではないでしょうか。そういうご見識を我々は知らされることであります。
〔補足1〕
上記の「ほとんど」ということの意味
広義の「三毒・五悪段」から『教行証文類』に親鸞聖人が引いておられるのは2文です。
1.「かならず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢん。道に昇るに窮極なし。 往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり」(総誡の文)
2.「それ至心ありて安楽国に生ぜんと願ずれば、智慧あきらかに達し、功徳殊勝なることを得べし」(狭義の三毒段が終わった後に、釈尊が弥勒菩薩・諸天人等に往生浄土をすすめておられる文)
しかし、「三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の文」「五悪の文」からは引いておられません。
〔補足2〕
無量寿経下巻の「釈迦勧誡(釈迦指勧分)」は大きく分けると、三毒・五悪段(悲化段)と胎化段(智慧段)となります。
この内「悲化段」は、現存する漢訳5本、サンスクリット本1本、チベット訳1本の7種類の無量寿経中、初期無量寿経(二十四願経)の「大阿弥陀経」「平等覚経」2本と「無量寿経(大無量寿経)」の3本で、無量寿如来会などその他の後期無量寿経(四十八願経)にはありません。また、その他のサンスクリットの断片にもありません。
一方「胎化段」にあたる文ははすべての無量寿経にあります。
無量寿経で大事なのは「四十八願」「念仏往生(成就文)」であることは当然ですが、「胎化段」も非常に重要なところです。
〔参照〕
註釈版聖典第二版「補註5」を読んで下さい。
とりあえず「まとめ」
「十念誓意」という論題は阿弥陀仏の第十八願に「乃至十念」と誓われている意をうかがうというものです。
それは、浄土真宗で「信心正因・称名報恩」と言われますが、信心正因と信一念で往生が決定するのならば、何故第十八願に「乃至十念」の称名念仏が誓われているかということです。
確かに、どこかの会のように称名念仏を軽視している説をとっていきますと、阿弥陀仏の第十八願は
「設我得仏 五逆誹謗正法 十方衆生 至心信楽欲生我国 若不生者不取正覚」
とでも書きなおさねばならないでしょう。
(某会の「本願異解の文」「本願断章取義の文」「本願いい加減の文」とでも名づけましょうか)
ちなみに、善導大師の場合は「本願自解の文」「本願取意の文」「本願加減の文」です。
さて、まず大江和上の「十念誓意」に書かれていることをまとめましょう。
○「念」は称名念仏
○「十」はとりあえずある数を書かれた
○「乃至」には4つの意味がある。(これはどの本にも書かれてありますね)
文釈2-兼両略中、乃下合釈
宗釈2-一多包容、総摂多少
また従少向多、従多向少の2義あり
○親鸞聖人が称名について述べられる場合、3通りがある。
1、往生成仏の因行の法・出離解脱の因法の意味
聖道門・自力・難行道に対して、浄土門・他力・易行道のあらわす。
この場合「称名正定業」「念仏為本」の意。
2、信心正因称名報恩の中の称名
この場合は、称名正因の異義に対する言葉である。
信心正因は称名報恩であり、称名報恩は信心正因である。
称名報恩は信心正因からの必然である。
また「報恩」は称名に限るわけではなく、信後の三業は皆「報恩・報謝」であり、
それを「称名」で代表させている。
蓮如上人がすべて報謝と言われるのはこういう意味。
3、信相続の易行という意
信心がすがたにあらわれたものが称名。
その意味では信心そのものと言ってもよい程。
この場合の「易行」は易行道の易行(=無作)とは異なり、「持ち易い」という意味。
(ISBN4-88483-682-0 C0015)
三輩段は、人天の機類を上輩・中輩・下輩の三種類に分けて、それぞれに往生のための因行と往生の姿が示されています。
上輩には、因行は「家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して」という諸行と「ただひたすら無量寿仏を念じ」という念仏が挙げてあります。往生の姿は、臨終来迎と彼土不退転と神通力が説かれてあります。
中輩には、因行は「この上ないさとりを求める心を起し」「八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べ物を供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして」という諸行と、「ただひたすら無量寿仏を念じる」という念仏が挙げてあります。往生は、化仏の来迎と彼土不退転等が説かれています。
下輩には、因行は「この上ないさとりを求める心を起し」という発菩提心という諸行と、「十念」の念仏を挙げています。往生は、夢のごとくに仏を見て往生と説かれています。
この三輩段は、このように三輩ともに諸行と念仏とを挙げてあります。これを法然上人は「選択集」三輩章に、「三輩念仏往生の文」と標挙して引用されてありますから、この三輩を念仏往生の文と解釈されたということができます。つまり三輩は第十八願の十方衆生、諸有衆生を開いたと見られたのです。
これに対して、御開山さまは、『本典化巻』に第十九願を引用して、後、「此の願成就の文は、すなわち三輩の文これなり」として「『大経』にいはく」として三輩の文を引用されていますので、三輩段は十九願諸行往生の文と見られたということになります。
なぜこのような異なった解釈が出てくるかということは、法然上人の三輩章の解釈に、諸行と念仏の取り扱い方を三種類に分けてあるところから来るのです。その三種類の立場とは「廃立・助正・傍正」です。
第一に、廃立とは、念仏は本願の行であるから立て、諸行は非本願の行であるからこれを廃するという立場です。この場合、念仏一法を修するのですから、諸行が示されてあるのは、機類を示すだけであって、実際に修するのではないということになるのです。すなわち、かつて諸行を修していた機類に上中下の差別があることを表し、これらの差別の機類もみな念仏の一法によって救われることを説いているのです。この立場は非本願の諸行を廃し、本願念仏を立てるのですから、三輩段の文は弘願の念仏往生を示すことになるのです。
助正とは、諸行をもって念仏を助け、この助けをもって往生の因行に擬するのです。この立場は要門に属することとなり、三輩段の文は自力諸行往生となります。
傍正とは念仏と諸行を相い並べて、いずれも往生の行として取り扱いつつ、その中に傍正を分ける扱いです。この場合、念仏は諸行と同格で、万行超過の弘願念仏ではなく、万行随一の念仏ということになります。この立場でいうと傍正とは要門諸行往生となるわけです。
以上、三輩の廃・助・傍の扱い方に従えば、廃立の立場では、弘願念仏往生となり、助正、傍正の立場では、要門諸行往生となります。三輩段の取り扱いを法然上人が念仏往生の文とされるのは廃立の立場であり、宗祖がこれを諸行往生の文とされるのは真仮をたてるからにほかなりません。
(以上)
これをまとめますと
【廃立の立場 弘願念仏往生】
上輩 諸行 捨家棄欲而作沙門発菩提心→廃
念仏 一向専念無量寿仏→立
中輩 諸行 当発無上菩提之心
多少修善奉持斎戒起立塔像飯食沙門懸燃燈散華焼香→廃
念仏 一向専念無量寿仏→立
下輩 諸行 当発無上菩提之心→廃
念仏 一向専意乃至十念念無量寿仏→立
これが分かりにくければ、並び変えると次のようになります。
どちらがいいでしょうか。
諸行→廃
上輩 捨家棄欲而作沙門発菩提心
中輩 当発無上菩提之心
多少修善奉持斎戒起立塔像飯食沙門懸燃燈散華焼香
下輩 当発無上菩提之心
念仏→立
上輩 一向専念無量寿仏
中輩 一向専念無量寿仏
下輩 一向専意乃至十念念無量寿仏
【助正・傍正の立場 要門諸行往生】
三輩とも念仏は万行随一の念仏で、諸行と同格
となります。
七祖の文は註釈版聖典七祖篇所収のものはそちらを参照しました。
一向に専ら南無阿弥陀仏の名号を称念するを云う。大経下巻の三輩往生を説く文には「一向専念無量寿仏」とある。彼の三輩往生段の経文は多義を含むが、故に列祖の経文解釈は一様ではない。解釈の如何によって一向専念の意義も相違点を生ずるのである。
先ず曇鸞大師は浄土論註下に「王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。」と言って、三輩ひとしく無上菩提心に由って往生を得ることを示されてある。
次に善導大師は観念法門に「またこの経下巻(意)の初めにのたまはく、仏説きたまはく、〈一切衆生の根性不同にして上・中・下あり。その根性に随ひて、仏(釈尊)、 みな勧めてもつぱら無量寿仏の名を念ぜしめたまふ。その人、命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接して、ことごとく往生を得しむ〉」と言えり。是は三輩往生段の経文に拠って専念仏名を以て往生を得ることを述べたものである。
次に源信和尚は往生要集下本の念仏証拠文に「双巻経の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな一向専念無量寿仏と云えり」と述べ、又諸行往生を説く中に観経の九品往生を列ね終わって「双巻経の三輩の業もまたこれを出でず」と言い、
源空聖人は選択集上に「三輩念仏往生之文」と票章して三輩往生段の経文を引き「これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。二には念仏を助成せんがためにしかも諸行を説く。三には念仏・諸行の二門に約して、おのおの三品を立てんがためにしかも諸行を説く」と言い、又同聖人は大経釈(漢語燈録一)に「今の三輩の文に但念仏往生の輩あり、助念仏往生の義ありまた諸行往生の義あるなり」と言う。
次に宗祖は曇鸞の解釈を稟承して信巻にその文を引き、又善導源信の三輩念仏往生の釈を稟承して行巻の往生要集の念仏証拠門の文を引き、又源信源空の三輩諸行往生の釈を稟承して化土巻に第十九願の文を引いて「この願成就の文は即ち三輩の文これなり」と言い、三経往生文類に至る。
要するに三輩往生段の経文には第十八願の他力念仏往生の意味と、第十九願の諸行往生の意味とを含むものとするのである。これ即ち一文両義の例である。
よってもし他力念仏往生を説いた経文として一向専念の語を解すときは、一向とは阿弥陀如来一仏を信仰して他仏を信仰せず、彼の如来の願力に乗じて往生をうることを深信して諸行諸善に心意を向けざることであり、専念とは専一称念の義で専ら南無阿弥陀仏の名号を称えることである。
もし諸行往生を説く経文として一向専念の語を解するときは、一向とは心意を阿弥陀如来一仏に向けて他の諸仏に向けざること、専念とは専ら彼の名号を称えその称功を積んで自分の往生の因にそえることである。然るに諸行往生の人は、専ら仏名を称うといえども、その称名は諸行と同等価値とみなすものである。故に古来先輩はこの種の称名を呼んで万行随一の念仏と名づけてある。
三毒訓誡 仏告弥勒菩薩諸天人等… 2箇所
五悪訓誡 仏告弥勒汝等能於此世… 0箇所
信疑得失 仏告阿難汝起更整衣服… 4箇所
でした。
親鸞会発行の教学聖典の答えの中に使われている無量寿経のご文は約30ありますが、これも私が数えたところ、
三毒訓誡 2箇所
五悪訓誡 5箇所(すべて1号)
信疑得失 2箇所
でした。
なお、三毒訓誡の引文は2箇所で同数ですが、御文は異なります。
これらの違いが何を示すのか、さらに考察したいと思います。
1.親鸞聖人の『無量寿経』からの『教行信証』への引用回数は、藤田宏達氏によると、正引41回、子引(引文中の引用)13回だそうですが、その分布を調べる為。
2.親鸞会の「教学聖典」には『無量寿経』からの出題がありますが、その分布を調べる為。
3.三毒・五悪段(悲化段)は、『無量寿経』の中でも特殊な段で、これまでいろいろ論じられてきています。たとえば「仏告阿難」だったのが急に「仏告弥勒」になっているとか、『如来会』には三毒・五悪段にあたる文がないとか、このブログでもいずれ言及したいと思っています。
以上のことは、ぼちぼちとやりたいと思っています。
(参照 『浄土三部経の研究』 藤田宏達著 岩波書店)
【序分】
[証信序]
六事成就 我聞如是…
八相示現 皆遵普賢大士之徳…
[発起序]
如来現瑞 爾時世尊諸根悦予…(五徳瑞現)
出世本懐 仏言善哉阿難所問甚快…
【正宗分】
[如来浄土の因]
〈発願〉
五十三仏 仏告阿難乃往過去…
嘆仏偈 詣世自在王如来所…(讃仏偈ともいう)
法蔵選択 仏告阿難法蔵比丘…
四十八願 説我得仏…
重誓偈 仏告阿難爾時法蔵比丘…
〈修行〉
法蔵修行 阿難時彼比丘…
[如来浄土の果]
〈略説〉(弥陀成仏相)
十劫成仏 阿難白仏法蔵菩薩…
〈広説〉(摂法身)
光明無量 仏告阿難無量寿仏威神光明…
寿命無量 仏語阿難無量寿仏寿命長久…
聖聚功徳 仏語阿難彼仏初会…
宝樹荘厳 又其国土七宝諸樹…
道樹荘厳 又無量寿仏其道場樹…
自然音楽 仏告阿難世間帝王…
講堂荘厳 又講堂精舎…
宝池荘厳 内外左右有諸浴池…
眷族果報 阿難彼仏国土諸往生者…
[衆生往生の因]
念仏往生 仏告阿難其有往生…(第11、17、18願成就文)
三輩往生 仏告阿難十方世界…(第19願成就文)
東方偈 爾時世尊而説頌曰…(往覲偈ともいう)
[衆生往生の果]
一生補処 仏告阿難彼国菩薩皆当究竟…
供養諸仏 仏告阿難彼国菩薩承仏威神…
聞法供養 仏語阿難無量寿仏為諸声聞…
説法自在 仏語阿難生彼仏国…
行徳円満 究竟一切菩薩所行…
[釈尊の勧誡]
三毒訓誡 仏告弥勒菩薩諸天人等…(釈迦分)
五悪訓誡 仏告弥勒汝等能於此世…(五悪段)
信疑得失 仏告阿難汝起更整衣服…(智慧段、霊山現土・胎化得失・十方来生)
【流通分】
弥勒付属 仏語弥勒其有得聞…
聞経得益 爾時世尊説此経法…
これらの願の対機はいずれも「十方衆生」ですが、異訳本と比較すると、同じ「十方衆生」でも意味が異なることが分かります。
現在残っている完本は、サンスクリット本、漢訳5種、チベット訳の合計7種あります。
漢訳5種、チベット訳の6本の原本は失われています。
つまり、同じ原本から訳されたものではないですし、漢訳5種の原本は現存のサンスクリット本ではないということです。
『大阿弥陀経(仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経)』と『仏説無量清浄平等覚経』は「初期無量寿経」と言われ、阿弥陀仏の本願が24です。
『無量寿経』『無量寿如来会』『仏説大乗無量寿荘厳経』および、サンスクリット本、チベット訳は「後期無量寿経」と言われます。本願の数は『無量寿経』『無量寿如来会』が48、『仏説大乗無量寿荘厳経』が36、サンスクリット本が47、チベット訳が49です。
さて、『大無量寿経』の生因三願がそれぞれどのように対応しているかということですが、
大阿弥陀経の第5願ー平等覚経の第19願ー大無量寿経の第20願
大阿弥陀経の第7願ー平等覚経の第18願ー大無量寿経の第19願
大阿弥陀経の第4願ー平等覚経の第17願ー大無量寿経の第17願と第18願
の関係にあります。
そして大阿弥陀経と平等覚経の対機・往生の機根は
大阿弥陀経の第5願 大阿弥陀経三輩段中の下輩生 前世作悪者
大阿弥陀経の第7願 大阿弥陀経三輩段中の上輩生 出家の善男子善女人
大阿弥陀経の第4願 前半(大無量寿経の第17願に相当)は諸仏、後半(同第18願)が前世作悪者
平等覚経の第19願 他方仏国の人民(下輩生・前世作悪者)
平等覚経の第18願 諸仏国の人民(上輩生・出家者)
平等覚経の第17願 大阿弥陀経の第4願と同じ
となっています。
大阿弥陀経においては、第4願と第5願は関係が深いのですが、
平等覚経においては、第17願と第18願の関係は薄くなっています。
大無量寿経になると、第17願・第18願と第19願の関係はさらに希薄になります。
ちょっとややこしいですが、簡単に言うと、
・もともと、大無量寿経の第19願・第20願にあたる願文の対機は異なるものであった。
・大無量寿経の第18願は、第19願・第20願にあたる願文とは独立していた。大無量寿経で言えば第17願と密接な関係にあった。
・大無量寿経の対機が「十方衆生」と訳されるに伴い、第19願・第20願の対機も「十方衆生」と訳された。
・したがって、言葉は「十方衆生」と同じでも、意味は全く異なる。
・第19願・第20願では十方衆生が○○すると往生できると言われているのに対して、第18願では阿弥陀仏が十方衆生に向かって与えて往生させると言われている。
・親鸞聖人はこれらの点などを見られて、第18願を真実願、第19願・第20願を方便願とされた。
となります。
なお、これは論文ではありませんので、厳密な記述はしておりません。
ご了承下さい。
この句については、2箇所に書かれている、2箇所目です。後ろの方に書かれています。
【原文】
おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。証誠護念の御こころは『大経』にもあらはれたり。また称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。
(註釈版聖典 703-704頁)
【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
如来の尊号がすべての世界のすみずみにまで広く行きわたるということは、法蔵菩薩の四十八願のなか、第十七願に「すべての世界の数限りない仏がたに、わたしの名号をほめたたえられ、となえられよ」とお誓いになった、一乗大智海の誓願を成就されたことによるのである。それは『阿弥陀経』に、あらゆる仏がたが念仏の法を真実であると証明し、念仏の行者をお護りになると示されていることによって明らかである。そのおこころは『無量寿経』にもあらわされている。また、称名念仏が誓われた第十八願は、阿弥陀仏が選びとられた浄土往生の正しい因であることが、この第十七願にあらわされている。
【補足】
“そのおこころは『無量寿経』にもあらわされている。”について
これは大無量寿経下巻の諸仏称歎の文です。
仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神極まりなし。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称歎せざることなし。東方恒沙仏国の無量無数の諸菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養して、もろもろの菩薩・声聞の大衆に及ぼさん。経法を聴受し、道化を宣布す。南・西・北方・四維・上・下〔の菩薩衆〕、またまたかくのごとし」と。
(註釈版聖典 43頁)
[現代語訳](浄土真宗聖典 現代語版より)
釈尊が阿難に仰せになった。
「無量寿仏の大いなる徳はこの上なくすぐれており、すべての世界の数限りない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。そのため、ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏がたの国々から、数限りない菩薩たちがみな無量寿仏のおそばへ往き、その仏を敬って供養するのであって、その供養は菩薩や声聞などの聖者たちにまで及んでいる。そうして教えをお聞きして、人々にその教えを説きひろめるのである。南・西・北・東南・西南・西北・東北・上・下のそれぞれにある国々の菩薩たちも、また同様である」
“一乗大智海の誓願を成就された”について
親鸞聖人の教えで重要な「誓願一仏乗」について学びましょう。(教行証文類行巻 「一乗釈」「海釈」 註釈版聖典195頁)