一つ一つが長く、難しかったので、再度書きたいと思います。
(唯信鈔・唯信鈔文意や歎異抄についても並行して少しずつ書いていきます)
「観無量寿経 覚書 その1」では定善について述べましたが、今回もやはり定善について書きます。
(観無量寿経に書かれている順番とか、重要な順ということではありません)
定善観には13種類あり、定善十三観と言います。
定善十三観は「依報観」と「正報観」に分けられます。
依報観とは阿弥陀仏の浄土の様相を観察すること
正報観とは仏や菩薩などを観察すること
です。
・依報観 日想観、水想観、地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観、華座観
・正報観 像観、真身観、観音観、勢至観、普観、雑想観
それぞれに「仮観」と「真観」があります。
仮観とは私たちが実際に目に見えるものを思い描くことであり、真観への導入に当たります。
日想観、水想観、像観の三観が仮観です。
真観とは浄土の荘厳を観察することです。
以下は以前の記事の再掲です。
○依報観
[仮観] 日想観(十三観に対する準備)、
水想観(地想観に対する準備)
[真観]
《通依報》 地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観
《別依報》 華座観
○正報観
[仮観] 像観
[真観]
《仏荘厳》 真身観
《菩薩荘厳》 観音観、勢至観
《自往生観》 普観
《その他》 雑想観(仏荘厳、菩薩荘厳ができない人のために説かれた)
真観>仮観であり、
正報観>依報観であり、
仏荘厳>菩薩荘厳ですので、
第九真身観が一番勝れており、定善十三観の中心なのです。
さて、
「韋提希夫人は定善をやった」
あるいは
「韋提希夫人は定善をやろうとした」
と思っている人がいますが、
韋提希夫人は定善をやってもいませんし、やろうともしていません。
【理由】
1.韋提希夫人は釈尊に「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」とお願いして、その答えとして釈尊は定善を説かれました。
つまり「私はお釈迦様のおかげで浄土を見ることができましが、未来の衆生はどうすれば見ることができるのでしょうか」と質問しているのですから、既に浄土を見た韋提希夫人にとって、定善をする必要はありません。
2.そもそも、韋提希夫人には定善はできません。
日想観をやろうとしてできなかった韋提希夫人に水想観、地想観・・・と順番に易しくして導かれたと勘違いしている人がいますが、上に述べたように、定善十三観の中心は第九真身観です。
日想観は雑想観とともに一番易しい方に入ります。
もし韋提希夫人がやろうとしてできないために、他の定善をすすめられたとするならば、それはちょうど、4段の跳び箱を飛べない子供に、「では5段をやってみなさい」「そうかできないか、では6段をやってみなさい」「では7段」「8段」・・・と言う体育の先生のようなもので、いるはずがないのです。
世の中にはやってみなけらば分からないことと、やらなくても分かることがあります。
たとえば、ハーバード大学に入学するということはやってみなければ分からないとも言えます。
しかし、国際宇宙ステーションに歩いて行くことは、それがどこにあるかを聞けば、やってみなくてもできないことは分かります。
定善がどういうものか聞けば、できないことは分かります。
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「悪人正機」と観無量寿経とどんな関係にあるのかと思われるかもしれませんが、善導大師が、観無量寿経疏に、
しかるに諸仏の大悲は苦ある者においてす、心ひとえに常没の衆生を愍念したまう。これを以て勧めて浄土に帰せしむ。
また水に溺れたる人のごときは、すみやかに、すべからく、ひとえに救うべし、岸上の者、何ぞ済うを用いるをなさん。
(註釈版聖典七祖篇 312頁)
如来(釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせずといふことを証明す。
(註釈版聖典七祖篇 321頁)
などとおっしゃっていますので、大いに関係あります。
とは言いましても、観無量寿経や観無量寿経疏について解説するわけではございません。
気がついたことを少しずつ書きとめたいと思います。
まず「その1」としまして、定善について書きます。
今日書くことは、それほど大事なことではないのですが、誤解している人もいますので、参考にして下さい。
まず定散二善についての善導大師のお言葉です。
しかるに衆生障重くして、悟を取るもの明めがたし。
教益多門なるべしといへども、凡惑遍攬するに由なし。
たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。
「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。
「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。
この二行を回して往生を求願す。
弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。
「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。三賢・十聖も測りてうかがふところにあらず。
いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。
仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。
かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。
ただ勤心に法を奉けて、畢命を期となして、この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。
これすなはち略して序題を標しをはりぬ。
(註釈版聖典七祖篇 300頁)
これより以下は、次に定散両門の義を答ふ。
問ひていはく、いかなるをか定善と名づけ、いかなるをか散善と名づくる。
答へていはく、日観より下十三観に至るこのかたを名づけて定善となし、三福・九品を名づけて散善となす。
問ひていはく、定善のなかになんの差別かある、出でていづれの文にかある。
答へていはく、いづれの文にか出づるといふは、『経』(観経)に「教我思惟教我正受」とのたまへり、すなはちこれその文なり。
差別といふはすなはち二義あり。
一にはいはく思惟、二にはいはく正受なり。
「思惟」といふはすなはちこれ観の前方便なり。
かの国の依正二報総別の相を思想す。
すなはち地観の文(観経)のなかに説きて、「かくのごとく想ふものを名づけてほぼ極楽国土を見るとなす」とのたまへり。
すなはち上の「教我思惟」の一句に合す。「正受」といふは、想心すべて息み、縁慮並び亡じて、三昧相応するを名づけて正受となす。
すなはち地観の文のなかに説きて、「もし三昧を得れば、かの国地を見ること了々分明なり」とのたまへり。
すなはち上の「教我正受」の一句に合す。
(註釈版聖典七祖篇 307頁)
定善観には13種類あり、定善十三観と言います。
(これは善導大師のおっしゃったことで、それまでの浄影寺慧遠、嘉祥寺吉蔵、天台智などは十六観全部を定善と見ていました。このことについては省略します)
上の善導大師の文にもありますように、定善十三観には差別があります。
定善は、
日想観、水想観、地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観、華座観、像観、真身観、観世音菩薩観、大勢至菩薩観、普観、雑想観
ですが、これを、
「日想観が一番勝れていて難しく、水想観、地想観・・・となるにつれて易しくなる。」
と思っている人がいますが、「凄い」間違いです。
善導大師のお言葉などから十三観を分けますと、
【依報観】(国土荘厳)
[仮観]仮観(「思惟」であり、方便・準備ということ)
日想観(十三観に対する準備)、水想観(地想観に対する準備)
[真観](「正受」)
《通依報》(共通ということ)
地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観
《別依報》(阿弥陀仏だけということ)
華座観
【正報観】
[仮観]
像観
[真観]
《仏荘厳》
真身観
《菩薩荘厳》
観世音菩薩観、大勢至菩薩観
《自往生観》
普観
《その他》
雑想観(仏荘厳、菩薩荘厳ができない人のために説かれた)
真観>仮観であり、正報観>依報観であり、仏荘厳>菩薩荘厳ですので、第九真身観が一番勝れているのです。
「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。」
「仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。この観をなすものは、身を捨てて他世に諸仏の前に生じて無生忍を得ん。このゆゑに智者まさに心を繋けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。」
等の有名なお言葉は、この第九真身観に説かれており、この経典が「観無量寿経」と呼ばれる所以はここにあります。
(なお、釈尊は「この経をば〈極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を観ず〉と名づく」とおっしゃっています。)
長くなりましたが、言いたかったのは中文字ボールド体のところです。