定散二善

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2009/10/15(木)
定散二善ができがたいこと、廃すべきことについて、親鸞聖人と善導大師はそれぞれ教えておられます。

《親鸞聖人》
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
(教行信証化土巻 註釈版聖典394頁

【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版 488-489頁)
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を感じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。

善導大師
六に「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代(かだい はるか後の世)に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
(観無量寿経疏 散善義 流通分 註釈版聖典七祖篇500頁)

【現代語訳】(聖典セミナー 観無量寿経 梯實圓著 375頁)
 釈尊が、阿難に、「阿弥陀仏の名をたもて」といわれたのは、弥陀の名号を付属して、はるかに後の世まで伝えようとされているのである。すなわち釈尊は上来、定善と散善による往生の因と果をくわしく説いてこられたが、称名念仏の一行を往生の行として選び定められた阿弥陀仏の本願に望めあわせると、ただひとすじに阿弥陀仏の名を称えよと衆生にすすめることを御本意とされていることがわかる。その意を明らかにされたのがこの一段である。
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タグ : 化身土文類 善導大師 定散二善

2009/10/14(水)
次に散善について述べます。
過去の記事は「観無量寿経 覚書 その7」です。

散善は「発起序」中の「散善顕行縁」と「九品段」に説かれています。
「三福」については、ここなどをご覧下さい。

定善と散善について、善導大師は『観経疏 玄義分』に
定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。
と書かれています。
定善は韋提希の請によって説かれましたが、散善は釈尊の自説です。
(唯請定善・自開散善、散善は不請の法)
定善ができる人となると限られていますので、凡夫のために自ら説かれたのが散善なのです。
その散善も
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
と観無量寿経に書かれていますように、成仏の行であり、基本的には聖道門の行なのです。
観無量寿経の真意は、定善どころか散善さえもできない悪人のために本願力回向の念仏・信心をあきらかにすることであったのです。
ですから、定善と同様、韋提希は散善をやってはいませんし、やろうともしていません。

タグ : 定散二善

2009/08/13(木)
歎異抄第3章を読む前に、観無量寿経について少々書きます。
「悪人正機」と観無量寿経とどんな関係にあるのかと思われるかもしれませんが、善導大師が、観無量寿経疏に、

しかるに諸仏の大悲は苦ある者においてす、心ひとえに常没の衆生を愍念したまう。これを以て勧めて浄土に帰せしむ。
また水に溺れたる人のごときは、すみやかに、すべからく、ひとえに救うべし、岸上の者、何ぞ済うを用いるをなさん。

(註釈版聖典七祖篇 312頁)

如来(釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせずといふことを証明す。
(註釈版聖典七祖篇 321頁)

などとおっしゃっていますので、大いに関係あります。

とは言いましても、観無量寿経観無量寿経疏について解説するわけではございません。
気がついたことを少しずつ書きとめたいと思います。
まず「その1」としまして、定善について書きます。
今日書くことは、それほど大事なことではないのですが、誤解している人もいますので、参考にして下さい。

まず定散二善についての善導大師のお言葉です。

しかるに衆生障重くして、悟を取るもの明めがたし。
教益多門なるべしといへども、凡惑遍攬するに由なし。
たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。
「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。
「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。
この二行を回して往生を求願す。
弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。
「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。三賢・十聖も測りてうかがふところにあらず。
いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。
仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎したまふ。
かしこに喚ばひここに遣はす、あに去かざるべけんや。
ただ勤心に法を奉けて、畢命を期となして、この穢身を捨ててすなはちかの法性の常楽を証すべし。
これすなはち略して序題を標しをはりぬ。
(註釈版聖典七祖篇 300頁)

これより以下は、次に定散両門の義を答ふ。
問ひていはく、いかなるをか定善と名づけ、いかなるをか散善と名づくる。
答へていはく、日観より下十三観に至るこのかたを名づけて定善となし、三福・九品を名づけて散善となす。
問ひていはく、定善のなかになんの差別かある、出でていづれの文にかある。
答へていはく、いづれの文にか出づるといふは、『経』(観経)に「教我思惟教我正受」とのたまへり、すなはちこれその文なり。
差別といふはすなはち二義あり。
一にはいはく思惟、二にはいはく正受なり。
「思惟」といふはすなはちこれ観の前方便なり。
かの国の依正二報総別の相を思想す。
すなはち地観の文(観経)のなかに説きて、「かくのごとく想ふものを名づけてほぼ極楽国土を見るとなす」とのたまへり。
すなはち上の「教我思惟」の一句に合す。「正受」といふは、想心すべて息み、縁慮並び亡じて、三昧相応するを名づけて正受となす。
すなはち地観の文のなかに説きて、「もし三昧を得れば、かの国地を見ること了々分明なり」とのたまへり。
すなはち上の「教我正受」の一句に合す。
(註釈版聖典七祖篇 307頁)

定善観には13種類あり、定善十三観と言います。
(これは善導大師のおっしゃったことで、それまでの浄影寺慧遠、嘉祥寺吉蔵、天台智などは十六観全部を定善と見ていました。このことについては省略します)
上の善導大師の文にもありますように、定善十三観には差別があります。
定善は、
日想観、水想観、地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観、華座観、像観、真身観、観世音菩薩観、大勢至菩薩観、普観、雑想観
ですが、これを、
「日想観が一番勝れていて難しく、水想観、地想観・・・となるにつれて易しくなる。」
と思っている人がいますが、「凄い」間違いです。

善導大師のお言葉などから十三観を分けますと、
【依報観】(国土荘厳)
 [仮観]仮観(「思惟」であり、方便・準備ということ)
   日想観(十三観に対する準備)、水想観(地想観に対する準備)
 [真観](「正受」)
  《通依報》(共通ということ)
   地想観、宝樹観、宝池観、宝楼観
  《別依報》(阿弥陀仏だけということ)
   華座観
【正報観】
 [仮観]
   像観
 [真観]
  《仏荘厳》
   真身観
  《菩薩荘厳》
   観世音菩薩観、大勢至菩薩観
  《自往生観》
   普観
  《その他》
   雑想観(仏荘厳、菩薩荘厳ができない人のために説かれた)

真観>仮観であり、正報観>依報観であり、仏荘厳>菩薩荘厳ですので、第九真身観が一番勝れているのです。

「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。」

「仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。この観をなすものは、身を捨てて他世に諸仏の前に生じて無生忍を得ん。このゆゑに智者まさに心を繋けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。」


等の有名なお言葉は、この第九真身観に説かれており、この経典が「観無量寿経」と呼ばれる所以はここにあります。
(なお、釈尊は「この経をば〈極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を観ず〉と名づく」とおっしゃっています。)

長くなりましたが、言いたかったのは中文字ボールド体のところです。

タグ : 観無量寿経 定散二善 定善

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