宿善

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2009/12/15(火)
第六問

「高森親鸞会は、宿善として、自力諸善を積むように勧めているが、当流では、他力の信心を獲るために、まず、自力諸善を積まねばならない、などという説示はない」(回答書ⒶP・一四二)
「『破邪顕正や財施を修することが、獲信のための宿善となる』という文証があれば、示してもらいたい、と求めたのが一昨年の六月二十一日であるから、もう八百日以上が経過していることになるが、これについては、何の返答もないままである」(回答書ⒷP・一六)
同趣旨のことが、回答書ⒶⒷに、五、六回も強調されています。
それでは、おたずねいたします。
親鸞聖人の三願転入のみ教えと、獲信とは、無関係といわれるのか。
要約
⑪三願転入の教えと、獲信とは、無関係なのか。


【答え】
そもそも「三願転入の教え」という言葉は浄土真宗にはないと思います。
「三願転入の御文」ならあります。
そこは百歩譲りまして、答えますと、
三願転入の御文とは、獲信された親鸞聖人が振り返って阿弥陀仏の御恩を喜ばれたお言葉です。
そういう関係にあります。

では、三願転入の御文で何を教えられているのかというと、「従仮入真」と「信疑決判」です。
第19願、第20願は方便願であり、方便は廃捨すべきものであると教えておられます。
願海真仮ということをよく知って下さい)
以上です。
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タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善 願海真仮 従仮入信 信疑決判

2009/12/15(火)
第五問

宿善はあくまで、他力になさしめられるものならば、なぜ、聴聞(聞法)に、はげまねばならないのか。教えすすめねばならないのか。と、かねて、おたずねしているのに、
「つまりは、他力をよろこばれた、お心が理解できないところから生じたものと思わざるを得ない」(回答書ⒷP・二二)
とのこと。
これでは、答えにならないのです。
「あくまでも、他力になさしめられる宿善」と、「はげまねばならぬ、自力の聴聞」とは、関係があるのか、ないのか、をきいているのです。
あれば、どんな関係か。
重ねて、おたずねいたします。
要約
宿善と聴聞は、関係あるのか、ないのか。
⑩あれば、どんな関係か。


【答え】
宿善と聴聞は、関係あるのか、ないのか。

本願寺が相手にしたくなくなる気持ちもよく分かります。
「あくまでも、他力になさしめられる宿善」と、「はげまねばならぬ、自力の聴聞」とは、関係があるのか、ないのか
という質問ですね。
問題は「他力になさしめられる宿善」という言葉です。
意味がはっきりしませんが、これを「他力になさしめられる獲信」ととって、「信心」と「私の励む聞法」の関係ということでしたら、第四問の答えと同じことで、関係ありません。
私の聞法によって獲信するのではありません。
聞が信です。
阿弥陀仏の独用です。
全分他力、本願力回向の信楽なのです。

⑩あれば、どんな関係か。

この質問はボツになります。

第五問は以上です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/15(火)
第四問

「私は宿善の厚薄を認めない、などといっているのではない」(回答書ⒷP・二三)
と、宿善の厚い人と薄い人のあることを認めてあります。薄い宿善が厚くなり、宿善開発するのですが、宿善の薄いものは、この世で、どんなにしても厚くなれないのか。
聞法をすすめることと、宿善開発とは、無関係なのか。
おたずねいたします。
要約
⑦この世で、宿善は厚くなれないのか。
⑧聞法をすすめることと、宿善開発は、関係ないのか。


【答え】
⑦この世で、宿善は厚くなれないのか。

宿善の厚薄があるということと、宿善が薄かったのが厚くなるということとは違います。
上の文章の中の「薄い宿善が厚くなり、宿善開発するのですが、」の部分が間違いです。
この質問も意味が無い質問です。
「この世で獲信できないのか」
という質問ならば意味があります。
(答えは当然「できます」です)

⑧聞法をすすめることと、宿善開発は、関係ないのか。

「私の」聞法によって救われるのではありません。
阿弥陀仏の独用です。
阿弥陀仏の仰せが聞こえて下されたのが「信心」です。
こういうと、必ず「関係ないのか、あるのか。イエスかノーで答えて下さい」というのが常套手段なので、あえて、それに合わせて答えますと「関係ありません」
聞法は、信前も信後も大切です。
どちらとか言うと、信後の方が大切です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/15(火)
『本願寺 なぜ 答えぬ』の本文についての言及はこれまでとします。
なぜかといいますと、
・三願転入、第19願の意味
・方便の意味
宿善の意味
など、これまで述べてきましたので、それらを読んで頂ければ分かることだからです。

また、
第三の非難 布教は信心獲得している者に限る
第四に非難 親鸞会の破邪顕正は間違い
第五の非難 親鸞会への財施は、獲信の因縁にならぬ
の三項目に関する本文はそれほど重要ではないように思われますので、パスします。

そこで、これからは親鸞会から本願寺に出された七つの公開質問状について、私が勝手に答えることにします。
質問文は、『本願寺 なぜ 答えぬ』に書かれてあるものに改行の変更を加えます。

第一問

宿善とは宿世の善根という意味で、現在から過去をふりかえっていう言葉である。すなわち、私どもが現在、尊い法に遇い、これを信じ喜ばせていただく身になったのは、宿世の善根によるのであるという」(回答書ⒶP・一三七)
宿善とは遇法獲信の現在から過去にさかのぼって、その縁由を喜ぶものであって、その縁由となった過去の善根については、これを自己の修する善である(宿善自力説)」(回答書ⒶP・一四四)
このように過去をふりかえって喜ぶものが宿善なのに、親鸞会は未来に向かって求めよと修善をすすめるから、間違いだ、といわれています。
回答書ⒶⒷには、同趣旨のものが、四、五ヵ所もあります。
そこで疑問が生じます。
ならば、今年、獲信した人は、昨年、自己の修した善をふりかえって、宿善と喜ぶことになります。
無論、獲信と修した善が無関係ならば、喜ぶはずがありません。
明らかに獲信と修善は関係があったから喜ぶのです。
しかも、悪い関係ならば、喜ぶはずはないのですから、
当然、善い関係でなければなりません。
獲信と善い関係にある修善をすすめることを、なぜ、間違いとされるのか。
また、
「獲信の現在から過去にさかのぼって」の過去には、今生は、はいらないのか。
おたずねいたします。
要約
①獲信とよい関係にある修善をすすめることは、間違いか。
②過去に今生は、はいらないのか。


【答え】
①獲信とよい関係にある修善をすすめることは、間違いか。

「今年、獲信した人は、昨年、自己の修した善をふりかえって、宿善と喜ぶことになります。」
という前提のご質問ですが、
「今年、獲信した人は、昨年、自己の修した善をふりかえって、宿善と喜ぶことにはなりません。」
ので、質問自体意味がありません。
なお、少し補足を加えるならば、
ご質問が、
「獲信の為に修善をすすめることは、間違いか。」ならば、答えは「間違い」です。
「修善をすすめることは、間違いか」ならば、答えは「間違いではないですが、それが信心獲得や往生浄土と何か関係ありますか?関係ないですよ。」
となります。

②過去に今生は、はいらないのか。

はいりますよ。それがどうかしましたか?

第一問は以上です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/11(金)
今回は既出問題ですが、
(三)第二の非難──諸善は、獲信の因縁ならず──
の一文を取り上げます。(93頁)

 宿善の厚い頓機は、はやく救われる(信心獲得)からよかろうが、宿善の薄
き漸機は、どうすればよいのか。
 これこそが、宿善問題の、最要課題であろう。
しかも、宿善厚き頓機は、極めて少なく、宿善薄き漸機は、圧倒的に多いのだ。
 記録に残っているものから、窺っても、法然上人のお弟子、三百八十余人中、
頓機は、親鸞聖人と蓮生房、耳四郎の三人のみ。
 聖人の門下では、明法房弁円、ただ、一人である。
その外にもあったであろうが、甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』
に、
「頓機の者は少なく、漸機の者多し」
と、仰せられている。


この文は、親鸞会発行の『会報 第3集』などの記述と同じで、『和語灯録』の文については、すでに昨年(平成20年)4月23日に「清森問答 親鸞会教義の相対化・32」で指摘されています。
以下該当箇所を抜粋します。

【2】『会報』vol.3p.55~宿善(2)

>>>
よって宿善の厚薄は、また聞法心の強弱によって知ることが出来る。仏教では宿善深厚の人を頓機といい、宿善薄弱な人を漸機といわれる。頓機の者は一度の法筵に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて、漸く信を獲得するのである。丁度、枯松葉と青松葉のようなものである。枯松葉はマッチ一本ですぐに火がつくけれども、青松葉に火をつけようとしても、プスープスー水をはじいて、中々火はつきにくい。それと同様に頓機は御慈悲の火がつきやすい状態になっている人だから、すぐにも仏凡一体と燃え上るが、漸機は今日もカラボコ、今日も落第どう聞けばよいのか、どれだけ聞けばわかるのかと、ブスブス小言ばかりいって、流転しているのである。しかも漸機の者は圧倒的に多く、頓機は稀なのである。
記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子の中では、わが親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機である。
聖人の門下では明法房、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に頓機の者は少なく、漸機の者は多しと仰せられている。
>>>

これは本当に『和語灯録』に基いた記述なのでしょうか?

私はこのような記述を『和語灯録』で読んだ記憶がなかったので、確認のために全文読み直したのですが、やはり見つけることができませんでした・・。


>>>
人の心は頓機漸機とて二品に候なり。頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562

(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、最後には必ずお参りすることができるのと同じように、浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。
>>>


『和語灯録』において「頓機」「漸機」について言及する用例は、私の調べた限り以下のものだけだったのですが、高森先生の述べられる内容とかなり異なっているようです。

高森先生は人の機根を頓機・漸機で差別するように語っていますが、法然上人は信心の弱さを嘆く人に、往生を諦めないように励ましておられます。

これは、「親鸞会教義の相対化・29」の「§1信心の弱さを嘆く人へ」で私が挙げた用例に通じるものです。


清森問答をご覧になっている方の中には、高森先生や親鸞会教義を擁護する立場の方も沢山おられますから、上記の高森先生の説に一致する『和語灯録』の記述があるのであれば、ぜひご教授いただきたいものです。


 法然聖人の法語で「頓機・漸機」という言葉が出てくるのは、上にもありましたように、『往生浄土用心』です。浄土宗関係の本では『昭和新修 法然上人全集』(平楽寺書店)の562頁ですが、浄土真宗関係の本では『真宗聖教全書 四 拾遺部上』(大八木興文堂)の「拾遺語燈録 巻下」769頁にあります。
※なお「拾遺語燈録」は「拾遺黒谷上人語燈録」とも言われます。

 私も『和語燈録』を読みましたが、『なぜ答えぬ』『会報』に書かれているような記述はありませんでした。

 法然聖人が仰っているように、頓機・漸機という言葉はあります。(あまり使われませんが・・・)
 頓悟の機・漸悟の機ということです。
 一般的に「頓・漸」は教法について言われるのですが、それを機について語ったもので、その意味は早く救われる人とそうでない人ということです。
 参照:
  尊号真像銘文の法印聖覚和尚の銘文。
  また真宗学には「教頓機漸の真門」という用例があります。

 「宿善問題の最要課題」の根拠がいい加減では困ったものです。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/11(金)
今日は
(三)第二の非難──諸善は、獲信の因縁ならず──
の一文を取り上げます。(86-87頁)

その際、過去のエントリーの宿善について述べてある箇所を読んで頂いた方が、理解しやすいと思いますので、下に一覧であげておきました。

 宿世の善根を、大きく分けると、宿因と、宿縁になる。
宿因とは、過去にやった諸善万行をいい、宿縁は、阿弥陀仏のご念力で結ばさ
せられた、仏縁をいう。
 親鸞聖人が、
「遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証)
 と、感泣され、蓮如上人は、
「『宿善めでたし』と言うはわろし。御一流には『宿善有り難し』と申すがよ
く候」(御一代記聞書)
と、仰せになっている、ものである。
 道綽禅師は、『安楽集』に、
「三恒値仏の因縁」
を、説いて、
“三恒河沙の諸仏の、出世のみもとにあって、仏縁を結んだ者でなければ、こ
の法に、あえないのだ”
と、仰せになっている。
 以上で、判明するように、過去に仏縁あって、聞法や、諸善を積んできた人
を、宿善ある人といい、そうでない人を、無宿善というのである。
 されば、宿善ある人といっても、各自、過去の業縁まちまちであるから、宿
善は、一定ではありえない、ことは、明らかだ。


「以上で、判明するように」とありますが、何も判明していませんし、「明らかだ」とありますが、何も明らかではありません。

 少しずつ見ます。

○宿世の善根を、大きく分けると、宿因と、宿縁になる。
 浄土真宗ではこのように言われません。
 親鸞聖人は「宿善」「宿因」という言葉は、あれほど多くの著書の中に一つも使っておられません。「宿縁」の言葉だけです。
 辞書を引けば、「宿善」「宿因」「宿縁」のそれぞれに説明がありますが、基本的にはこの「宿善」「宿因」「宿縁」は同じ意味です。
〈参照〉
あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
 しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
(御文章4帖目第1通 註釈版聖典1162-1163頁

○宿因とは、過去にやった諸善万行をいい、宿縁は、阿弥陀仏のご念力で結ばさせられた、仏縁をいう。
 上に述べましたように、獲得し顧みるときは、諸善万行といっても阿弥陀仏のご念力によるものと見ますので、同じことです。

○以下、
『教行信証』(親鸞聖人)
『御一代記聞書』(蓮如上人)
『安楽集』(道綽禅師)
の3つのご文があげられています。

「遇行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」は、阿弥陀仏のご念力によるものという意味で、私も言うことはありませんが、直前の文章とのつながりははっきりしません。
『御一代記聞書』の言葉は、過去のエントリーで説明しましたので、そこを見たいただければ分かりますが、ここでは何の説明もされていません。
ただ「宿善」という言葉があったので使っただけで、親鸞聖人の言葉同様、前の文章とのつながりは全くないと思います。
『安楽集』の言葉は、親鸞聖人が「宿縁」と言われ、蓮如上人が「宿善有り難し」と言われたものとは違います。

上に

「以上で、判明するように」とありますが、何も判明していませんし、「明らかだ」とありますが、何も明らかではありません。

と述べたのも、意味の微妙に異なる3つの文を並べているだけだからです。
(親鸞聖人が「遠く宿縁を慶べ」と言われたのと、蓮如上人が「宿善有り難し」と言われたのは同じです)

【宿善に関する過去のエントリー】
「宿善といふこと」
『歎異抄 現代語版』(本願寺)の巻末註「奥書の無宿善の機=仏の教えを聞く機縁が熟していないもの」の説明文

「宿善といふこと 2」
 蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。
(御一代記聞書233条 註釈版聖典1307-1308頁)
について

「宿善といふこと 3」
 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。
(御一代記聞書234条 註釈版聖典1308頁)
について

「宿善といふこと 4」
『親鸞の世界 -信の領解-』(加茂仰順師)より

「宿善の厚薄 唯信鈔の言葉」
宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。
について

「宿業 宿善 因果の道理」
「季刊せいてん」№50(2000 春の号)口伝鈔/善悪二業(口伝鈔第四章)より(梯實圓師の文)

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/12/10(木)
『本願寺 なぜ 答えぬ』は親鸞会の代表的な本です。
ある意味、ここに親鸞会教義が凝縮されているといってもいいと思います。
今までこのブログでは取り上げてきませんでしたが、関心のある人もいるでしょうから、少しだけ読んでみましょう。
今日は
(二)第一の非難──宿善の語義から──
の最後の部分を見ます。(78-79頁)

本願寺を、絶句させた質問の一つを、次に紹介しておこう。

宿善とは、遇法獲信の現在から、過去にさかのぼって、
その縁由を、喜ぶものであって、その縁由となった、過
去の善根については、これを自己の修する善である(宿
善自力説)」(回答書A P・144)
 このように、過去をふりかえって、喜ぶものが、宿善
なのに、親鸞会は、未来に向かって、求めよ、と修善を
すすめるから、間違いだ、といわれています。
 ならば、おたずねいたします。
 今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自
己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。
 獲信と、よい関係にある、修善をすすめる親鸞会を、
非難する本願寺は、間違いにならないか。

 一撃で、ダウンしたほど、本願寺の反論は、ひどいものだった、ということ
だ。
 あえて、
「読むだけ、時間のムダ」
と、酷評した次第。
 しかし、もう読まない、などといっていたら、真実開顕の使命は、果たせな
い。
 自ら、シリを叩いて、先へ、進まなければならぬ。


わざわざ囲んである文章なのですが、この中の、
 今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自
己の修した善を、ふりかえり、宿善と、喜ぶことになる。

は、大間違いです

「私は去年はたくさん寄付をしたから、それが宿善になった救われたんだぁ。してよかったぁ。」
「私は去年はたくさんの人を勧誘したから、それが宿善になった救われたんだぁ。やってよかったぁ。」
となれば、自力が間に合うことになります。

それに・・・
救われた人は、このようには思いません。
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
なのです。

この『本願寺 なぜ 答えぬ』は、
分かった人が読むと面白い本なのですが、
(『歎異抄』や『安心決定鈔』とは違う意味ですよ)
分かっていない人が読むと、
「読むだけ、時間のムダ」
どころか、
「読むだけ、害悪」
です。

タグ : 本願寺なぜ答えぬ 宿善

2009/11/20(金)
『親鸞の世界 -信の領解-』(加茂仰順師)より

宿善の「宿」は本来「自覚以前」という意味です。つまり「気がつく前」ということで、弥陀のご本願は私が気がつく前にすでに起こされていたのであります。気がついた時はすでに手遅れなのであります。その意味からすれば、気がついた時は、たとえ私が今までに行ったとしても、私のものではなかったのであります。また「宿」の中にはただ今までの過去のすべてが入り、善とは法性にかなう浄業のことであります。そうした浄業は如来のなさしめ給うはたらきのほかにはないわけであります。だから、宿善とはどこまでも、信の上の反省と言わねばなりません。信を通さないと宿善は出てきません。そこには永い間、聞かせていただきながらはねつけていた私が出てまいります。お与えものをはばんでいました。邪魔をしていました。深い恵みが与えられていました。如来から計らわれていた私であります。自分のすべてが如来のはたらきかけの中にいたのであります。たとえ無駄をしたようでも、無駄ではなかったのであります。ともかく、現在の信の反省において、如来の計らいであったといただくのが、遇い難くして今遇うことのできたこの身いっぱいの喜びであります。今素直に掌を合わさせていただく幸せであります。要するに、宿世の善根というほどの善は私には有ることが無いわけで、宿善は如来から私たちへのはたらきかけの善ということになります。わが後生の問題に大事にかかってきたのがすでに宿善到来したしるしであります。


タグ : 加茂仰順 宿善

2009/10/09(金)
まだ「因果の道理」について誤解している人が多いようですので、再び、梯實圓の文を引用させて頂きます。

季刊せいてん №50 (2000 春の号)
口伝鈔/善悪二業 (口伝鈔第四章) より


(途中からです pp47-49)
 このような「さるべき業縁」とか、「宿業」という言葉が表す領域は、通常の論理で説明しようとするとかえって誤解を招くおそれがあります。たとえば『口伝鈔』に過去の世の善悪業の因(宿因)の報いとして、今生(いまの世)の善悪業が生起するといわれたものがそれです。
■『口伝鈔』の宿因について
 『口伝鈔』には、
  されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。
  宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。(中略)
  善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるとこ
  ろなり。
といわれていますが、ここにはいくつかの問題があります。まず宿善ということですが、第二章に述べられた宿善とは言葉は同じですが内容は違っています。第二章では、信心を得る善き因縁としての宿善で、その本体は阿弥陀仏の光明のもつ調育の働きでした。しかしここでいわれる宿善は、宿悪に対する言葉で、今生で善をなし得る素質に生れるか悪をなすような素質をもって生まれるかの違いを、前世の善悪業によって説明しようとしたものでした。前者は信心獲得の機に育て上げる如来の働きを表そうとする宿善であり、後者は凡夫が行う善悪の行為についての説明ですから、両者は別物といわねばなりません。
 つぎに「善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり」といわれていることが問題です。今生において行う善悪の行為(業)が、すべて過去世の善悪の行為の結果として必然的に現れて来たものならば、過去世の善悪の行為もまたその前世の行為の結果になり、どこまで遡っていっても、行為の主体を捉えることができなくなります。行為とは、自らの自由な意思によって決断して為す行いのことであって、それゆえにその行為の責任は行為者がもつことになります。そのような自己が行為の主体なのです。ところが私が行う善行も悪行も、自分の自由な意思によって決断したことではなくて、過去世に行った善・悪の行為の結果であるとすれば、その行為のまことの主体は現在の私ではなくなり、私は私の行為に対して全く責任を負う必要がなくなります。
 さらにまた悪を行うものは限りなく悪を行いつづけ、善を行うものは限りなく善を行いつづけることになり、世俗の倫理も仏道修行も成立しなくなってしまいます。したがってこの論理は仏教がもっとも嫌う決定論・運命論に陥ってしまいます。
 実際、仏教ではそのような過ちを犯さないために、善もしくは悪の行為は因であって決して果ではなく、それに報いて成立する果は、苦もしくは楽であって善でも悪でもない「無記」であるといっています。無記とは善とも悪とも記せられない中性的な性質のことです。このように善・悪は、楽もしくは苦なる果報を招く因の名であって、果報の名称ではありません。果報は必ず苦・楽という無記の性格をもっていますから、苦なる状態の中でも善を行うことができるし、楽の中で悪を行うこともできるわけです。こうして苦の現状を転じて業の果報を招来するためには善を行えという教えが成立しうるのです。
 覚如上人は、若年の頃から倶舎や唯識といった仏教の基礎理論を学び、廃悪修善の修行の基礎となる業報論を知り尽くしておられました。それにもかかわらず、このような論理を展開されたのは、恐らく、自分では決して処理しきれない自己の深層にふれ、自力の修行では救われ難い自己の内奥を表現するために、あえてこのような論理を用いられたのではないでしょうか。『口伝鈔』の業報論は、機の深信の内容を説明するためのものであって、通常の倫理観や、修行理論を述べたものではなかったと見るべきでしょう。

タグ : 梯實圓 口伝鈔 宿善 宿業 業報

2009/09/26(土)
宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。
という唯信鈔の聖覚法印の言葉をもって、宿善の厚い人と薄い人がいるという説明をしている人がいます。
しかし、この聖覚法印の言葉はそういうことを言うためのものではありません。

下に、その前後の文と訳を示します。
宿善」という言葉の意味が、前半と後半で微妙に(と言いますか、実は本質的に)違っています。
つまり、前半では単純に「過去世の善根」という意味で語られ、後半では「阿弥陀仏の方からの御縁」の意味になっています。


聖覚法印はすばらしいですね。
そしてまた、この唯信鈔を自ら何回も書かれ、同行に読むことを薦められた親鸞聖人の心を拝察します。

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。
(註釈版聖典 1353-1354頁)
〔意訳〕
次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

補足
 単純に考えて、「すべての人が一つの善もできない極悪人」ならば、過去世はもちろん今生においても「宿善を厚くする」ことは不可能ですよね。
 聖道の教えと浄土の教えをまぜこぜにすると、混乱して訳が分からなくなります。
 だから、唯信鈔ではまずはじめに聖道と浄土の違い、浄土門の中でも諸行往生と念仏往生の違い、念仏往生の中でも専修と雑修の違いを詳しく説明してあるのだと思います。
 なお、唯信鈔は法然聖人とのかかわりで言うと、聖覚法印が法然聖人没後に異義のはびこる状態を歎いて書かれたものです。
 「法然聖人と唯信鈔」は「親鸞聖人と歎異抄」と同じ位置関係にあるのです。
 歎異抄を理解する時は、唯信鈔と唯信鈔文意を読むことが大切です。

タグ : 唯信鈔 宿善

2009/09/22(火)
宿善に関して、もう一つ蓮如上人御一代記聞書の言葉を出しましす。
引用:蓮如上人聞書新釋(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

(234)
 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。
(註釈版聖典 1308頁)

【意訳】
 他宗では法に遇うことは宿世の縁によるというているが、真宗では単に法に遇うというだけでなく、この法をいただいて信心を得ることを、仏の光明に培われて宿善開発するというのである。宿縁というも宿善というも信心を獲得することに結びついて始めて意味をもつのである。そこで、この真実の教法では善人も悪人も、聖者も凡夫も、あらゆる機類をもらさないで悉く信心を獲得させるように、仏の光明によって宿善を開発せしめてくださるところから、弘教すなわち広弘の救いを説く教えともいうのである。

【解説】
 この一条は宿縁と宿善とを区別したのでない。これは同じ意味に使われてある。ここでは他宗と真宗との宿縁即ち原因の味わい方の浅深を識別されたのである。「他宗には法にあひたるを宿縁といふ」は浅い味わい方をのべ、当流には「信をとることを宿善といふ」は深い味わい方をのべられたのである。
 さらに、真宗の広弘の救いは仏力が宿善を培うことまでを包含していることを示して、「群機」のすべてに信心を開発せしむる根底には、宿善を順熟せしめる仏の光明のおはたらきをさとされたのである。

【私の補足】
・以上のように、宿善の説明(味わいの表現方法)も文脈によって異なることがあります。
・基本的に真宗で宿善という言葉が使われる場合は、2つあると思います。
 ①聞法心の意味
   つまり、「宿善がある」とは仏法を聞く気持ちがあるということ。
 ②信心獲得までを含めた阿弥陀仏のはたらきの意味
  (こちらが真宗における本来の意味)
   つまり、「宿善がある」とは信心獲得したということ。
・対機として、他宗が使うような浅い味わいで書かれる場合もあるかもしれませんが、それでも阿弥陀仏のはたらきであることを抜かすと間違いとなります。
・本来の意味では、宿善があるとかないとか、厚いとか薄いとか、我々に分かるものでありません。

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2009/09/22(火)
蓮如上人御一代記聞書の言葉を出しましたので、説明を加えます。
引用:蓮如上人聞書新釋(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

(233)
 蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。
(註釈版聖典 1307-1308頁)

【意訳】
蓮如上人が仰せられた。
「世人は多く宿善をつんでいたことはめでたいというているが、これは悪い。わが真宗においては、宿善のおかげである、ありがたいことであると申すが善い」
と仰せられた。

【解説】
 宿善の順熟によってここに信心をよろこぶことができるのである。
 ところで、その宿善は自力の累積したものと心得ている人々は、自分の過去を是認して「めでたし」と自負するが、真宗においては他力の善巧方便のおかげで宿善が順熟するのであるから「ありがたし」と感佩すべきである。
 宿善の有無ということを重視せられた蓮如上人は、さらにその宿善の味わい方を諭示されたのである。

【私の補足】
善巧方便の意味については、これまで2回説明しておりますので、ご覧下さい。
 上にも「他力の善巧方便」と書かれていますように、善巧方便は真実そのものです。
 「真実と方便」とペアで語られる時の方便は権仮方便であり、善巧方便ではありません。

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2009/09/22(火)
『歎異抄 現代語版』(本願寺)の巻末註「奥書の無宿善の機=仏の教えを聞く機縁が熟していないもの」の説明文が、浄土真宗で使われる「宿善」の意味を知る時に分かりやすいと思います。
『歎異抄 現代語訳付き』(本願寺出版社 文庫)も同じです。

宿善とは、「宿世の善因縁」ということで、信心をうるための過去の善い因縁という意味である。
 蓮如上人が『蓮如上人御一代記聞書』に、「宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふ」
(『註釈版聖典一三〇七頁』)
といわれたように、宿善の体は如来のお育てのはたらきであるとあおぐべきである。
 過去の世における行いを表すのに宿業の語を用いることがあるが、宿善はもともと、他力の信心をえた上で、過去をふりかえって、仏のお育てをよろこぶ言葉である。
 すなわち、獲信以前になしたさまざまな行善は、そのときは自力のつもりであったが、ふりかえってみると、他力の仏意に気づかせるための如来のお育てであったといただくものである。
 これを宿善の当相は自力だが、その体は他力であるといいならわしている。
 しかしここでいう「無宿善の機」、すなわち宿善のないものとは、真剣に法を聞く気のないものや、真宗に敵対感情をもつもののことを意味する。
 そうした人々がこの書を読めば、真宗の教えを誤解するばかりか、おそらくは念仏を誹謗し、重大な罪をつくることになると恐れて、蓮如上人は『歎異抄』を書写された時に、この一文を添えられているのである。


〔原文:漢文〕
右斯聖教者為当流大事聖教也 於無宿善機無左右不可許之者也

〔原文:書き下し文〕
右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。

〔現代語訳〕
この『歎異抄』は、わが浄土真宗にとって大切な聖教である。仏の教えを聞く機縁が熟していないものには、安易にこの書を見せてはならない。

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2009/08/22(土)
「覚恵法師と如信上人との諍論」が書かれているものを教えて下さる方がありました。

三井法雲師説 御袖縋御文説教より 第六席 三願転入と宿善
http://www.saikyoji.com/howa/houwa6.pdf
(またはhttp://www.saikyoji.com/howa/howa06.htm

三井法雲師は昭和13年に亡くなった大谷派の布教使です。
三井師の西教寺は、現在は東本願寺派になっています。

この中の、「叢林集」は江戸時代初期の大谷派の光遠院恵空師の著です。
恵空師は当時の大谷派学寮では最高クラスの人でした。
「叢林集」は真宗全書(63)におさめられているそうです。

三井法雲師の法話聞書中では、覚恵法師は親鸞聖人の弟となっていますが、これはあきらかに間違いですね。
親鸞聖人の弟さんは、尋有、兼有、有意、行兼の4人あり、いずれも天台宗系の僧になっています。
覚恵法師は覚信尼の長男です。
(次男が唯善です。兄弟といっても歳は30歳くらい離れています)

「覚恵法師と如信上人との諍論」の根拠が「叢林集」なのかもしれませんし、この三井法雲師の法話だったのかもしれません。あるいはいずれでもないかもしれません。
「叢林集」を読めばいいのですが、持っておりません。

また、この法話は大正か昭和初期の頃と思われますが、当時どのような説法がなされていたか勉強になります。
ちょっと宿命論的な言い方のところもある感じです。
(説法は対機ですので、一部だけ取り上げて云々することは難しいでしょうし、これは著書ではなく法話の聞書ですので、何とも言えません)

法話の内容はひとまずおいておきまして、果たして「覚恵法師と如信上人との諍論」の真偽はどうなのでしょうか。

なお、恵空師が「宿善」について述べていることが、教行信証講義(山邉習學・赤沼智善著)の177頁に出ております。

以下引用

光遠院恵空師は、その著『叢林集』六に
摂受衆生の初を宿善とし、摂受衆生の終を往生とすべし。これは当流一途の所談なり。されば過去の宿縁も、現に煩悩具足と信知するも、これみな阿弥陀仏の本願の衆生を摂受したまえる御恩なり。
と申されて居る。畢竟、みな如来の方から御縁を結ばせて引きよせて下さるのである。

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2009/08/21(金)
今、知りたいと思っていることがあります。

宿善往生を唱えた覚恵法師と、信心往生を立てられた如信上人との、諍論によっても明らかだ」と書かれている本があるのですが、「覚恵法師と如信上人との諍論」とはどのようなものか説明してある本を読んだことがありません。

「明和の法論」「西吟月感諍論」承応の鬩牆 げきしょう)について説明してあるような辞書でも、「覚恵法師と如信上人との諍論」は書かれていません。
「これって本当にあったんだろうか?」とふと思ったのです。
状況から考えても、ちょっとあり得ないのではないかとも思うのですが・・・。
どなたかご存知の方がおられたら、是非教えて頂きたいと願っています。

タグ : 宿善

2009/03/26(木)
昨日ある方とお話しておりましたら、
「“宿善は待つにあらず、求むるものなり”ですよね?」
と言われました。
私もかつてはそのように思い、他の人にも話しておりましたので、初めて聞いた言葉ではないのですが、重要な問題ですので、考えてみたいと思います。
(こういう疑問を起こすことは大切ですよね)

宿善については、これまでいたる所で何度も議論されておりますので、このようなブログで議論を展開するのは荷が重過ぎますし、議論してもおそらく、過去と同じ展開になると予想されます。
(もともとこのブログは議論するためのブログではございません)
ただ言えることは、先の「宿善は待つにあらず、求むるものなり」という言葉は、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人のいずれの著作にもありません。
少なくとも私は読んだことがありません。

今日は、「宿善は待つにあらず、求むるものなり」という言葉と同時に使われることが多い蓮如上人の次のお言葉について考えてみたいと思います。

一 「時節到来という事、用心をもしてその上に事の出来候を、時節到来とはいうべし。無用心にて事の出来候を時節到来とはいわぬ事なり。聴聞を心がけての上の宿善・無宿善ともいう事なり。ただ信心を聞くにきわまる事なる」よし、仰せのよしに候。
(蓮如上人御一代記聞書105or106)

普通はここで「時節到来」に譬えられているのは、「信心獲得」「宿善開発」のことだと思います。
次の「用心をもしてその上の」に当たるのが「聴聞を心がけての上の」に当たるのだろうと思います。
そして次の「事の出来候」は、やはり「信心獲得」「宿善開発」のことだと思います。
最初の文はこれで何となく意味が通る気がします。

最初の一文は「信心獲得というのは、聴聞を心がけての上で、信心獲得することを、宿善開発というのだ」という意味になります。

次の文「無用心にて事の出来候」にまいりましょう。
「無用心にて」の意味は、第1文から類推しますと「聴聞を心がけないで・・・」といった意味になるでしょう。
すると次の「事の出来候」はどういう意味なんだろう?
素朴な疑問が生じます。

もう一度まとめて言いますと、
第1文の意味を
「真剣に聴聞していったら、宿善が厚くなって、信心獲得する」ととった場合、
第2文は
「真剣に聴聞しなかったら、・・・・・・・・、信心獲得する」
といった具合に、意味をなさなくなるのです。さらに「『事の出来候』を時節到来とはいわぬことなり」と続きますから、「『真剣に聴聞しなかったら・・・信心獲得する』を信心獲得とはいわないのだ」という意味になり、さらに意味をなさない文章となります。

そもそも、ここでは宿善・無宿善ということが語られているのですから、第1文の意味をさらに修正して
「真剣に聴聞していったら、無宿善の人も、宿善が有るようになって?、信心獲得する」
とでもすべきかもしれません。
いずれにせよ、第2文の意味は分かりません。

もう一度蓮如上人のお言葉をよく読んでみましょう。
ここで話題になっていることは
1.時節到来ということ
2.宿善・無宿善ということ
3.ただ信心を聞くにきわまるということ
の3つです。
はたして、この3つは無関係なことなのでしょうか?

大胆な意訳かもしれませんが、次のようには読めませんでしょうか?

「宿善・無宿善」ということは、私・貴方が信心獲得したいという気持ちが起きて、仏法を聞きたいと心がかかって始めて問題になるのです。
全く仏法とご縁の無い時は、信心獲得したいという気持ちが起きるはずがありませんから、「仏法を聞きたい」とも「仏法を聞きたくない」とも思いませんので、そもそも「宿善・無宿善」ということは問題にならないのです。
信心獲得したい、聞き抜きたいとい気持ちが起きるかどうか、それが「宿善・無宿善」ということなのです。
ただ信心獲得は聴聞(弥陀の本願を聞く)一つです。

(上記の意味では、宿善を求めるものという意味にはならないですね)

タグ : 宿善 時節到来

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