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履善

2009/10/29(木)
参照:
○浄土真宗本願寺派 山陰教区HP 山陰の妙好人

○『御安心』(加茂仰順著)より ↓お味わい下さい
 石州(石見国、島根県)の履善和上は、その若い時7年間、聞法に打ちこんで歩かれたそうです。そのことについてその足跡をたどってみますと、わが家を出て5年目に帰ってきました。
 父仰誓和上は、履善が玄関に立っていることを知らせに来た家内に、「草鞋の紐をとかず玄関で待っておれ」と言いつけました。しばらく出て来られた仰誓和上は、「その方の領解を述べてみよ」と申されます。
 履善は「私は堕ちる者であるが、それを参らせるとあるから、参らせて頂きますと聴聞させて頂いております」と答えます。
 仰誓和上は「そういうことであろうと思ったから、そのままで待っておれと言うたのである。ここへ上がることはならぬ。求めて真実の他力を聞け」と厳しく諭しました。お茶一杯も頂けず、履善はまた旅に出ました。
(こういうお方もあったということで、我々もまたこのようにせねばならないというのではない。)
 履善は聞いて聞いて歩いて2年して、ある山寺の老院を訪ねました。その老院は大層ご法義のあついお方でありました。
 履善は今までのことをお話ししました。そして「真の他力を教えて下さい」と言いました。老院は「あなたは7年間聞いて、今嘆かれるが、聞いて来いよのお慈悲でない。そのまま来いよのお慈悲である。現に今聞かれんあなたに聞いて来いとの注文ではない。」と諭されます。
 すると、履善は「ではこのままですか」と申せば「ちがう」との言葉。「凡夫はみな聞いてとろうとする。…」
 履善は「もう一度聞かせて下さい」と言えば、
 老院は「聞いて来いよのお慈悲ではない。そのまま来いよのお慈悲である」と繰り返される。
 履善は「そのままと仰せられるから、このままですか」と言えば、「あかん」との言葉。
 そうすること三度、そのあげく、「それでは助かりようがないではありませんか。私はもうそのようなことは聞き得ませんから、聞かずに帰ります」と言う。
 その時、老院は「高いぞな。高いぞな」と仰せられる。舎利弗でも聞く力はないと申されるが、ここのこと。下がった頭は上がりませんでした。滝の如く念仏がこぼれ出ました。聞こうと思えば聞きうるように思っていたが、どれほどたっても助かる縁の無いのが私であった。如来のご威徳でこそ聞かされるのでありました。
 履善は家へ帰って来ましたら、仰誓和上は飛んで出てきて、「よう帰った。早く上へあがれ」とやさしく申されました。今度はどう聞いたかもありません。「えらかったろう」と言われました。履善の手をしっかり握って喜ばれました。父仰誓和上には、何もかもその心の中が分かっていたのでした。
 私には聞く力はありません。他力のお仕上げの法を聞かせてもらうことです。永劫かけて沈む私、逃げ場のない本願のお手際のよさをよろこぶばかりです。
 後に履善和上は、これを詩にあらわしていられます。「久しく妄心に向かって信心を問う 断絃を撥して清音を責むる如し 何ぞ知らん微妙梵音の響 劉亮として物を悟さしむ 遠且つ深」と。
 聞くうちにはそういうお慈悲かいなと目が覚めるであろうと思っていた私でした。何ぞ知らん微妙梵音の響で、摂取不捨と変えてしもうて下されます。自分の勝手聞きではありません。他で聞かせてもらうなら、聞きました、頂きましたというものが残るものではありません。領解をたのむのではない。弥陀をたのむのであります。一から十まで、南無の二字のご威徳でありました。安らかな世界へ安住するは、ひとえに法体成就のご威徳でありました。
 地獄一定の私を助けてやるでない。なぜなら、地獄一定といっても私には堕ちる気はないのです。地獄といっても口だけです。ねじのかからん機とはこの私のことです。破れ常前とは私のことです。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫であり、出離の縁のない私です。とかくこういうあさましい者を助けて下さると言うておりますが、私があさましいと問題にした者が助かるのではない。私がつまらんからお助けではない。あさましいからお助けではない。助かろうと、助かるまいと、弥陀の本願の前にはすべて否定されるのです。小経には舎利弗が叩かれています。つまっても、つまらんでも、六字で否定しつくされるのです。
 如来この我となって「とりえなし」とあらわして下さるのです。自力無功とあらわして下さるのです。はたらきにふれるからこちらの自力が負けたのです。私の理解や概念が破られる。思う思わんに用事のない法を、用立てしようとしていた私、まったく当てのはずれたことであります。六字はいつも私のところへ来て下さいますから、私の計らいが一切負けです。私が聞いたから破られるのではない。如来のはたらきで破られる。破るはたらきが南無に仕上がっている。聞いたものでやっているのはあかんことであります。そのようになろうとするには、法を眺めものにしていること。六字の法を聞くほかはありません。思うも思わぬも見られた立場に立つのが信知の世界です。さきの話ではないが、頭の上がらんものの前に立つのです。背中を向けている自己が知らされるのですから、一生涯頭が上がらんのです。助かりたい一杯が自力一杯。助からん私とは、私の本来の姿です。それは如来がすべてをはぎとって、その通りのままにせしめてしもうたことです。助からんという心境になろうと思うたからなったのではありません。六字が我になってしもうたのです。
 親の見た本当の私であること、それは親が来た姿です。その意味で、助からぬとは言わせての親の声です。私はなりたい一杯ですが、それを破られたから、こちらが負けです。親が来ておりますから、たのまずにはいられないのです。信ぜずにはいられないのです。称えずにはいられないのです。これ雑行すてて弥陀たのむのです。念仏したら、信じたらではありません。念仏せずにはいられない身であります。
 なんと高大な仕掛けがあったものです。弥陀のはたらきは、まったく不思議というほかはありません。こんな不思議はまたと世にはありませんでしょう。
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タグ : 加茂仰順 履善 仰誓

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