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帖外御文

2010/07/27(火)
蓮如上人の最後の御文章は帖内の4帖目第15通「大阪建立」だと思っている人がいるかもしれませんが、そうではありません。
年月日の分かるもので最後の御文章は明応7年12月15日、上人84歳の時のものです。
(真宗聖教全書5ー439頁)

「大阪建立」の御文は明応7年11月21日ですね。

ちなみに、御筆はじめの御文章は寛正2年3月、上人47歳の時のものです。
(真宗聖教全書5ー287頁)

これはインターネットで検索すればどこにでも書かれているでしょう。
ここでは故千葉乗隆教授のお寺である「千葉山安楽寺」のHPの該当箇所を紹介しておきます。
http://www.anrakuji.net/bukken/bukken299.html
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タグ : 蓮如上人 御文章 帖外御文 千葉乗隆

2010/03/26(金)
物とり信心の批判 ー蓮如上人と『御文章』(第四回)ー 梯 實圓(『仏と人 20』より)

 文明五年二月一日付の帖外『御文章』には、「物取り信心の異義」と呼ばれる世俗化した信仰形態を厳しく批判されています。それは金品をたくさん寺へ納める門徒を信心深い人とよび、往生間違いないと保証するようなものをいいます。また同じような異義に「施物だのみ」というのがあります。金品さえたくさん寺へ寄進すれば、その功徳によって浄土に往生できるであろうという信心でした。それがのちに述べますような知識帰命の異義と結合すると、善知識にたくさん寄進すれば、自分の信心の足りないところは、善知識が補って往生させてくれるであろうと考えているような信仰になっていきます。
 この『御文章』は、去年の冬のことだったが、ある人からこんなお話を聞きましたという書き出しで、一人の住職の「物とり信心」を、ある人が批判して改悔・懺悔させるというかたちで説かれています。
 あるとき私は道端で一人の一癖ありげな住職に出会いました。この住職は、信心について問いただせば、領解の言葉は型どおりにいうけれども、ほんとうの信心を得ていないことは言葉の端々に見えていました。そればかりか、「門徒のかたより、物とり信心ばかりを存知せられたる」人と見受けられました。そこで厳しく追及すると、「恥ずかしいことですが、自分はただ口まねの領解しかいえません、正しい信心のいわれをきかせてほしい」と本音を吐きました。そこで、「そなたが、もろもろの雑行を捨てて、一心一向に弥陀に帰すと言われていることはただ言葉だけのことで、本当にそうなっていないところに問題があるのだ」といって、

もろもろの雑行をすててとまうすは、弥陀如来一仏をたのみ、余仏・余菩薩にこころをかけず、また余の功徳善根にもこころをいれず、一向に帰し、一心に本願をたのめば不思議の願力をもてのゆえに弥陀にたすけられぬる身とこころゑて、この仏恩をかたじけなさんい、行住坐臥に念仏まうすばかりなり。これを信心決定の人とまうすなり。


と、くわしく浄土真宗のこころを述べると、その住職は、感涙にむせび、改悔(悔い改め)しました。
 こうして信心を獲得したその住職は、今まで門徒からの反発をおそれて真実を語り得なかった自分の弱さを懺悔し、これからは正しい法儀にもとづいて、門徒の反抗を恐れずに教化していきますと誓って、次のように話を聞かせてくれました。
 自分の寺に大金持ちの有力門徒がいますが、その人に「そなたは信心がないからもっと聴聞せよ」と勤めたことがありました。ところが、彼は眼をいからせ、声を荒くして、「わたしの家は親の代から寺のために尽くしてきた、寄付金などは真っ先にさしあげ、寺の建物の修理をするときなどは大金を出して助けてあげたではないか。私も寺になにか思いがけない出来事があれば金品を出して援助してきた。そのほかに季節に応じた贈物も今日にいたるまで欠かしたことがない。これほど金品を住職に進上するのは信心の厚い証拠ではないか。そればかりか後生のためと思って念仏もよく称えている。一体私のどこに欠点があって信心がないなどといわれるのか、そのようなことをいわれるのならば門徒をはなれます」というのです。
 彼は私の寺にとっては一番大事な有力門徒ですから、万一門徒をはなれるようなことがあれば、寺のささえを失うことになります。そこで私は「たしかにあなたのいわれるとこには道理があります。ただ他の人があなたのことを信心が足りないといっているのを聞いたものだから、言ったまでで、今後は決してこのようなことは申しませんから、他の寺の門徒になるなどとはいわないでほしい」と謝ったような次第です。しかし今にしておもえば、これはわたくしの誤りでした。懺悔いたしますといって、涙ながらに改悔したというのです。
 また文明六年八月十日付けの、帖外『御文章』にも

名をばなまじゐに当流にかけて、ただ門徒といえるばかりをもて肝要とおもひて、信心のとをりをば手がけもせずして、ただすすめといふて銭貨をつなぐをもて、一宗の本意とおもひ、これをもて往生浄土のためとばかりおもへり。これ大きにあやまりなり。


と批判されています。これらによってそのころ、北陸に懇志をたくさん収める者が信心の暑い者であるみなす「施者だのみ」の風潮が、僧侶のなかにも、在家の信者のなかにも拡がっていったことがわかります。
 蓮如上人の義理の叔母にあたる如勝尼は、「知識帰命」的な信仰をもっていて、「施者だのみ」のような異端的な信仰の持ち主であったようです。如勝は、上人が本願寺の宗主になられたときの最大の恩人であった叔父の如乗の妻であり、上人の次男の蓮乗の養母でもありました。如乗がなくなった後も加賀の二俣の本泉寺にあって、その実権を握り「本泉寺の尼公」と呼ばれて、北国第一の実力者といわれた人でした。しかしこの人は自身の信心がなかなか定まらなかったようで、おおいあぐねて蓮如上人に多くの布施をし、その功績によって、自分の信心の足りないところを上人に補っていただいて往生しようというような、信仰をもっていたわけです。そのように、善知識に対して多くの布施をした功績によって、善知識の力で救いに預かろうとするような信心は、「知識帰命の異義」と、「施物だのみの異義」とをあわせたものであるといえましょう。上人は彼女のそうした心の内を見抜いて、

五しょう(後生)を一大事とおぼしめし候はば、ただひとすじに弥陀をたのみまひらせて、もろもろのぞうぎょう(雑行)、物のいまはしきこころなどをふりすてて、一心にふたごころなくたのみまいらせ候てこそ、ほとけにはなり候はんずれ。さように人に、ものをまいらせ候て、そのちからにてなどとうけ給候。なにともなきことにて候。よくよく御心へ候べく候。


と、厳しく誡められたことが「六日講四講御文」にみえます。
 もっとも上人は、信心の行者が。その救われた喜びから、この教法を伝道したり、聞法の道場である寺を維持していくために、住職にも、寺にもできるだけの経済的援助をしなければならないと勧めておられることはいうまでもありません。しかしそれは御恩報謝としてなすことであって、往生の条件として為す行ではないと言われるのでした。文明五年二月八日付けの一帖目第五通には、加賀・能登・越中の門徒たちに、信心を決定すべき旨を説かれたのちに、「このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こころざしをもいたすべきものなり」といわれたものなどがその一例です。
 いずれにせよ、このような『御文章』が、あるいは寺の本堂で多くの僧侶や門徒を前にして読みあげられ、また講の席上で読みあげられて、それを寄合談合の話題の中心としてとりあげられたとき、集まった人々の心にどんなに強烈な印象を与えたかを想像できましょう。衆人の前で公然と批判され改悔、懺悔を迫られる大寺の住職や富裕な有力門徒の姿をまのあたりにしたとき、民衆は、なにものもおそれずに「聖人一流の御勧化のおもむき」を説きつづける蓮如上人に絶大な信頼を寄せずにおれなかったと思います。
 こうして蓮如上人の異義批判は本願寺の内部にまで及びます。ことに文明五年九月付けの帖外の『御文章』には、「京都の御一族(本願寺一族)」を名のる人の懈怠を厳しく誡めています。その京都の御一族というのは「ある若衆」となっていますが、どうもないようからみて、加賀に一寺を与えられた上人のご子息の一人ではないかと思われます。彼は何時も人に向かって

安心のことはこころへ候つ、また念仏はよくまふしさふらひぬ、また雑行とては、さしてもちゐなくさふらふ間、ことにわれらは京都の御一族分にて候あひだ、ただいつもものうちよくくひて候ひて、そののちはねたく候へば、いくたびもなんときも、ふみぞりふせり候。また仏法のかたは、さのみこころにもかからず候。そのほかなにごとにつけても、ひとのまふすことをばききならひて候あひだ、聖人の御恩にてもあるかなんど、ときどきはおもふこころもさふらふばかりにて候。


と公言していたということです。私は、安心のことはよくこころえているし、念仏もちゃんと称えている。はじめから阿弥陀仏だけを礼拝していて、余の仏・菩薩をまつっているわけでもないから雑行などするわけがないといっていたようです。しかも「仏法のかたは、さのみこころにもかから」ないが、少しは聖人のご恩と思う心もないではない。しかし毎日は、食いたいでけ食い、眠くなれば、ふんぞり返って寝るばかりというような懈怠がちの人物でした。この人物に対して、多くの人は本願寺の一族であるというので遠慮をしていさめることもしません。そこである人が、これを厳しく批判するという設定になっています。
「まことに恐れ多いことだが仏法のことであるから、お心得違いを言わせていただきます」と断ったうえで、

当流の次第は、信心をもって先とせられさふらふあひだ、信心のことなんどはそのさたにおよばず候。京都ご一族を笠にめされ候こと、これひとつおほきなる御あやまりにて候。


と厳しく誡めます。本願寺の蓮如上人の権威を笠に着て、何よりも大切な、信心について談合することもなく、ご法儀を軽んずるということは決して許されることではないというのです。そして「御一族にて御座候とも、仏法の御こころざしあしくさふらはば、報土往生いかがとこそ存じさふらへ」といい、仏法の世界に特権階級は存在しないことを思い知らせていくのでした。
 このように文明三、四、五年ごろの『御文章』には、「聖人一流の御勧化のおもむき」を真向から説き進め、聖人の御流に背くものはどんなに勢力を持っている大坊主であれ、有力門徒であれ、身内のものであれ、容赦なく批判して改悔・懺悔を迫っていくという、まことに厳しい、まさに捨て身の「攻めの伝道」をつづけていかれたのでした。こうした上人の真剣なご教化が人々の心を打ち、上人を慕って人々は吉崎に群参するようになってきました。

タグ : 梯實圓 帖外御文 物取り信心

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