御一代記聞書

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2009/12/30(水)
機法一体」について、御一代記聞書242条を『蓮如上人聞書新釋』(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)から引用します。
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと[云々]。
註釈版聖典1311頁

【意訳】
 「思案の最上」というのは阿弥陀如来が我等をたすけるために五劫思惟の本願にすぎたものはない。この御思案の道理に同心すれば仏になるのである。同心というても別にあるのではない。機法一体の道理――すなわち、五劫思惟の本願というもただわれらをたすけ給うためである。弥陀をたのむ一念のときそのたのむ衆生の機と阿弥陀仏の法とが一体になる。その機法一体の道理を聞信することである。

【解説】
 仏の思惟をさしのけて、自分のはからいを容れる余地はない。五劫に思惟された本願の名号を信受(まうけ)するのである。名号は機法一体である。南無というたすかる信心と阿弥陀仏というたすける法体(おみのり)と互具互成する名号を信受する、これが仏智におまかせする同心である。

-----ここまでが引用

【私の補足】
 上の意訳中「弥陀をたのむ一念のときそのたのむ衆生の機と阿弥陀仏の法とが一体になる」のところは注意して読む必要があります。
 『やさしい 安心論題 ⑿「機法一体」』や上の解説を読めば分かりますように、「たのむ衆生の機」というのは私がおこした心ではありません。機法ともに南無阿弥陀仏なのです。
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タグ : 梅原眞隆 御一代記聞書 機法一体

2009/12/26(土)
「弥陀をタノム」ということがとても大切ですので、今回はまず、御一代記聞書188条を『蓮如上人聞書新釋』(梅原眞隆著 本願寺 ISBN4-89416-438-8)から引用します。
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。

聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。
註釈版聖典1290頁

【意訳】
 親鸞聖人の御一流は弥陀をたのむ一念の信心が大切な要点である。この故に、たのむということをば宗祖已来代々の善知識が仰せ遊ばしたのであったが、たのむとはどんな風にたのむかということを、一般の人々はくわしく知らなかったのである。それを蓮如上人の御世代に御文章をおつくりなされて、雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめと、あきらに御しらせくだされた。してみれば、蓮如上人は一宗を御再興になった上人であらせられる。

【解説】
 真宗の根本要義は唯信の救いである。そこで「聖人の御流はたのむ一念のところ肝要なり」とのべられたのである。この「たのむ」ということは、一般に使われた大衆の言葉であるだけ、平易ではあるが、諸種の意味に解釈されるおそれもある。そこで蓮如上人はたのむ一念の信相をくわしく示して「雑行をすてて後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ」と教示された。雑行をすてて正行に帰する廃立を基底とし、正行は南無阿弥陀仏であって、南無とたのめば阿弥陀仏のおたすけぞと聞きひらいたのが正行に帰するすがたである。適確に一宗の肝要をわかりやすく普及せしめられたので、真宗は繁昌した。御再興の上人として崇敬される所以である。

-----ここまでが引用

【私の補足】
 たぶんこれでも現代人には分かりにくいのではないかと思います。
 上の解説の中で、大事なのは「南無とたのめば阿弥陀仏のおたすけぞと聞きひらいたのが正行に帰するすがたである」というところですが、ここを間違えないようにしなければなりません。
 南無は私が作った心ではありません。
 ここのところをもう少し考えてみたいと思います。

タグ : 梅原眞隆 御一代記聞書 タノムタスケタマヘ

2009/12/08(火)

 前々住上人(蓮如)、法敬に対して仰せられ候ふ。まきたてといふもの知りたるかと。法敬御返事に、まきたてと申すは一度たねを播きて手をささぬものに候ふと申され候ふ。仰せにいはく、それぞ、まきたてわろきなり。人に直されまじきと思ふ心なり。心中をば申しいだして人に直され候はでは、心得の直ることあるべからず。まきたてにては信をとることあるべからずと仰せられ候ふ[云々]。
御一代記聞書106条 註釈版聖典1265頁
〔現代語訳〕
 蓮如上人が法敬坊に、「まきたてということを知っているか」とお尋ねになりました。法敬坊が、「まきたてというのは、畑に一度種をまいただけで、何一つ手を加えないことです」とお答えしたところ、上人は、「それだ。仏法でも、そのまきたてが悪いのである。一通りみ教えを聞いただけで、もう十分と思い、自分の受け取ったところを他の人に直されたくないと思うのが、仏法についてのまきたてである。心に思っていることを口に出して、他の人に直してもらわなければ、心得違いはいつまでたっても直らない。まきたてのような心では信心を得ることはできないのである」と仰せになりました。


 あくまでもお互いに面識がある場合のことですが、仏法上のこと(特に信心のこと)を、メールで質問をして、メールの答えを待っている人がいると、私はついついこう思います。

 あの質問はあまり重要ではないのだろう。
 電話もあるのだから、電話で聞けばいいのに。

 質問でなくてもいいのです。
 心に思っていることを口に出すことがいいのです。
 メールにすると文章を考えますよね。
 それはよそいきです。
 化粧などしないで、すっぴんがいいのです。

 一番いいのは直接会うことです。

タグ : 御一代記聞書

2009/11/19(木)
「罪のあるなしの沙汰をせんよりは」とは「罪の沙汰無益なり」ということです。
救われるまでは無益ではなくて(有益で)、救われる時には無益になるなどとは言われていません。
次の御一代記聞書の文を読めば明らかです。

一 順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあ ひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せられ候ふなり。
御一代記聞書 註釈版聖典1244頁

一 仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。
御一代記聞書 註釈版聖典1245頁


タグ : 御一代記聞書 罪悪

2009/11/04(水)
それにしても昨日はいい月でした。
満月でしたね。
夜10時半ごろには月の下にオリオンが来てました。
月齢は15.9ですから、「十六夜に近い満月」ってところでしょうか。
(正確に言うと、11月1日が十五夜、2日が十六夜、3日は立待月なんだそうです。必ずしも十五夜=満月じゃないんですね。3日は満月です。)

昨日は所用で愛知県に行ったんですが、愛知県の月も満月でしたし、帰宅して見た月も満月でした。
(ん、当たり前か)

太陽は直接見ると目に悪いですが、月の光は優しくて眺められるからいいですね。

月かげのいたらぬさとはなけれども
 ながむるひとのこころにぞすむ

 (法然聖人のお歌、蓮如上人御一代記聞書にも出ています)

余談ですが、月を見ると「Thriller」や「ドラゴンボール」や「セーラームーン」を思い出す人は多いでしょうが、トッペイを思い出すのは歳でしょうか。
水谷豊もいい中年になりました。

タグ : 法然聖人 御一代記聞書

2009/10/05(月)
蓮如上人御一代記聞書2より
【原文】
あさの御つとめに、「いつつの不思議をとくなかに」(高僧和讃・三三)より「尽十方の無礙光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かな らず滅度にいたらしむ」(高僧和讃・三八)と候ふ段のこころを御法談のとき、「光明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、また「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこころにぞすむ」とある歌をひきよせ御法談候ふ。なかなかありがたさ申すばかりなく候ふ。上様(蓮如)御立ちの御あとにて、北殿様(実如)の仰せに、夜前の御法談、今夜の御法談とをひきあはせて仰せ候ふ、ありがたさありがたさ是非におよばずと御掟候ひて、御落涙の御こと、かぎりなき御ことに候ふ。
註釈版聖典 1231頁
【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
朝の勤行で、『高僧和讃』の「いつつの不思議をとくなかに」から「尽十方の無碍光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ」までの六首をおつとめになり、その夜、蓮如上人はこれらのご和讃のこころについてご法話をされたとき、『観無量寿経』の「光明はひろくすべての世界を照らす」という文と、法然上人の

 月かげのいたらぬさとはなけれども
     ながむるひとのこころにぞすむ
  月の光の届かないところは一つとしてないが、
  月はながめる人の心にこそやどる

という歌とを引きあわせてお話になりました。そのありがたさはとても言葉に表すことができません。蓮如上人が退出された後で、実如上人は、前夜のご法話と今夜のご法話とを重ねあわせてお味わいになり、「まったくいいようのないありがたいご法話であった」と仰せになり、上人の目からはとめどなく涙があふれ出たのでした。
【補足】
足元の自分の影ばかり見ている人がいますが、月を眺めましょう。
かみしめたいと思います。

タグ : 法然聖人 御一代記聞書

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