年月日の分かるもので最後の御文章は明応7年12月15日、上人84歳の時のものです。
(真宗聖教全書5ー439頁)
「大阪建立」の御文は明応7年11月21日ですね。
ちなみに、御筆はじめの御文章は寛正2年3月、上人47歳の時のものです。
(真宗聖教全書5ー287頁)
これはインターネットで検索すればどこにでも書かれているでしょう。
ここでは故千葉乗隆教授のお寺である「千葉山安楽寺」のHPの該当箇所を紹介しておきます。
http://www.anrakuji.net/bukken/bukken299.html
帖内・帖外のすべての御文章を現代語訳にされたものでなかなかのものです。
ただ、読む際に気をつけなけらばならないところを、とりあえず一つ指摘しておきたいと思います。
【原文】
このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。(御文章四帖目第八通 八カ条 最後の一カ条の後半)
【『蓮如の手紙』p121】
このゆえに、南無とお従いするわたくしどもの「機(救われる側の信心)」と、阿弥陀仏のおたすけくださる「法(阿弥陀仏の本願)」とが一つとなるところをさして、「機法一体の南無阿弥陀仏(救われる側の信心と、その者を救う阿弥陀仏の本願のはたらきとが一つであるところの南無阿弥陀仏)」といいます。
【私の指摘・補足】
上の文章の「一つとなる」という箇所が間違いです。
その後のフレーズの中では、きちんと「一つである」と書かれています。
「一つとなる」と「一つである」とは全く違います。
原文は「一体なる」であり「一体になる」ではありません。「一体である」という意味なのです。
難しい言葉でいえば「一つとなる」だと「転成一体」であり、「一つである」は「本来一体」です。
蓮如上人が機法一体とおっしゃるのは「本来一体」ですので、あとのフレーズが正しいのです。
このように、「タノム」「タスケタマヘ」「タスケタマヘトタノム」「タノムタスケタマヘ」や「機法一体」についての箇所は注意して読んでください。
理由
・タノム等は現代と意味が異なる。
・機法一体はいろいろな意味がある。
〈4帖目第14通 一流安心〉
一流安心の体といふ事。
南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)といへり。まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。
さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず。このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。
(註釈版聖典 1186頁)
〈4帖目第8通 八か条〉
当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
(註釈版聖典 1179頁)
[補足]
4帖目第14通は、二字四字分釈による機法一体のご文です。
4帖目第8通は、青字が六字皆機の釈、ボールド体が二字四字分釈、赤字が六字皆法の釈です。
大事なことは「衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころ」は「南無」であり、阿弥陀仏から与えられるということです。
【善導大師『散善義』 『教行証文類』信文類の引文より】
白道=機=信心という説明
〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
(註釈版聖典 225頁)
白道=法=願力という説明
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。
(註釈版聖典 226頁)
[補足]
二河白道の譬の「白道」は、信心であり、また願力であるということです。
つまり機法一体なのです。
この一体という意味は、二つのものが一つになるという一体ではなくて、本来一体であるということです。
間違えないようにしましょう。
また、「二尊の意に信順」が「タスケタマヘトタノム」に当たります。
まず、一度読みましょう。
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
(教行信証信巻 註釈版聖典251頁)
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(御文章5帖目第1通 末代無智章 註釈版聖典1189頁)
さて、ここでもう一度じっと二つの文を見ましょう。
教行信証の方は、
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
の文をもう一度読みましょう。
この文章は
①「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心なし、これを聞といふなり。
でも
②「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きくことなり。
でも
③「聞」といふは、衆生、仏願に疑心あることなし、これを聞といふなり。
でもありません。
何度でも書きます。
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
です。
「聞」という字が最初のを除いて2回使われています。
③はそのうちの一つを省略していますね。
これではせっかく親鸞聖人が詳しく教えられたことが意味が無くなります。
①の場合は、「疑心なし」ですと、聞いて疑いが無くなったようにとれます。
そうではなくて、疑いのない心=仏心=名号=悲智円具の南無阿弥陀仏を聞くのが聞であり、信ですから「疑心あることなし」なのです。
②は「疑心あることなし」が無いですから、違うことはすぐ分かります。
次に末代無智の章をもう一度読みましょう。
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
この部分が、「第十八の念仏往生の誓願のこころ」であり「仏願の生起本末」です。
「かくのごとく決定して」が「疑心あることなし」です。
ここで大事なのは、「こころをひとつにして」「一心一向に」と同じ意味のことが重ねて言われていることです。
つまり、
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
は、「一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば」を抜いて、
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、さらに余のかたへこころをふらず、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
としても、文章の意味は変わらないと思いがちですが、実はそうではないということです。
「一心一向に仏たすけたまへと申さん」が、親鸞聖人のお言葉でいえば「聞いて」に当たりますので、抜いてはいけません。
大事なのは本願の通りに聞くということです。
阿弥陀仏は本願となって、名号となって私に届いておられるのです。
眼で見るのでもなければ、鼻で嗅ぐのでもない、舌で嘗めて味わうのでもないし、肌に触って感じるのでもない。
聞くのです。
どうか聞いて下さい。
タグ : 御文章
※蓮如上人の書かれたお手紙類は300通以上残っておりますが、ここでは5帖80通の御文章の中で見ていきます。
※「後生」は42回、「後世」は4回(後世者を含む)書かれています。
「後生の一大事」は、浄土真宗を学ぶ上で大切な言葉であることは間違いありません。
では、蓮如上人はどういう意味で「後生の一大事」を使っておられるでしょうか。
【御文章に書かれている「一大事」】
御文章には「一大事」という言葉は10ヶ所あります。
「後生の一大事」 2ヶ所
「今度の一大事の後生」 2ヶ所
「一大事の往生」 3ヶ所(類似を含む)
その他 3ヶ所
[「後生の一大事」とある御文章]
3帖目第4通 大聖世尊
しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。
5帖目第16通 白骨
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
[「今度の一大事の後生」とある御文章]
4帖目第12通 毎月両度
それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。
5帖目第14通 上臈下主
それ、一切の女人の身は、人しれず罪のふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。それにつきては、なにとやうに弥陀を信ずべきぞといふに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。
[「一大事の往生」とある御文章]
1帖目第11通 電光朝露・死出の山路
これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。
これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。
2帖目第7通 五戒・易往
かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。
2帖目第10通 それ当流聖人・仏心凡心
それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。
[上記以外で「一大事」とある御文章]
1帖目第5通 雪の中
しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これ なし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。一大事といふはこれなり。
1帖目第10通 吉崎
そもそも、吉崎の当山において多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆゑとおもひはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。
1帖目第10通 吉崎
答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。
【「後生の一大事」の意味】
これら10ヶ所(9通)の御文章と釈尊や親鸞聖人のお言葉から分かることは次の2つです。
①信心決定せずに死んだならば、再び迷い苦しみの世界へ戻ることになる。最悪、地獄へ堕ちる。
②信心決定した人が死ねば、極楽往生でき弥陀同体のさとりを得て、永生の楽果を受ける。
この2つをともに「後生の一大事」ということは問題ないと思います。
ただ、蓮如上人が「後生の一大事」と言われているのは②の意味で言われていることが多いと思います。
では、この2つだけが後生の一大事の意味かと言いますと、そうは思われません。
蓮如上人が「今度の一大事の後生」「今度の一大事の往生」とおっしゃっていますように、吸う息吐く息が後生と触れ合っている今、せっかく人間に生まれ、仏教を聞かせて頂いているのに、このまま息が切れたらどうなるか、信心決定し往生一定の身になれるかどうかという切迫した一大事のことと思います。
この場合、後生の一大事は、死んでからだけの一大事ではなく、今の一大事でもあり、「後生に起きる一大事」だけではなく「今、後生と触れ合っている一大事」「後生という一大事」と理解してもいいと思います。
これは、歴代の善知識方の御心でもあると思います。
人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、更に何れの生に向かってかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
(釈尊 三帰依文・大方廣仏華厳経第六 浄行品第七)
呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれと。浄楽の居士張掄縁を勧む。
(親鸞聖人 教行信証行巻 宗暁『楽邦文類』の引用)
明日もしらぬいのちにてこそ候ふに、なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ。命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、御こころえあるべく候ふ。
(蓮如上人 御文章1帖目第6通 睡眠)