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御消息

2009/12/17(木)
(『浄土を願って生きる』自照社出版)の梯實圓師の文章

念仏によって知らされる、私のふさわしい生き方

 ところで親鸞聖人は八十歳の時『御消息』(第二通)をとおして、次のような誡めを常陸の各地に住んでいるお弟子たちに示されています。
 まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。 (註釈版聖典739頁
「もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに」というのは、仏法を聞くまでの自分の生活態度を示されたお言葉です。今までは無明の酒に酔っぱらって煩悩という毒を好んで食べていた私どもであったといわれるのです。
 「無明」というのは、愚痴ともいい、無知のことです。無知というのはただ智慧がないということではなくて、真実を知らないということです。真実を知らないということは、誤った見解を正しいと思いこんでいるということです。それは真実を虚偽と思い、虚偽を真実と思いこんでいることですから、愚痴(おろか)というのです。それは私どもが、あらゆる事柄について自分を中心に考え行動していながら、それが自分本位の考え方に過ぎないということに気付かず、したがって自分は偏見をもち、誤った考え方をしていると気づいていないことを無明というのです。そのような無明の状態を、酒に酔っぱらって正しい判断力を失っているすがたにたとえて、「無明の酒に酔ひて」といわれたのです。
 このような無明の精神状況にありますから、私どもはあらゆる事柄をいつも、自分にとって都合のいい人と、自分にとって都合の悪い人と、自分にはどうでもいい人とに区分けして見ていくようになります。自分に都合のいい人や状況は、善い人であり、愛すべき人であり状況ですから、何時までもつづいて欲しいと思っています。それを仏陀は貪欲、すなわち我欲といわれたわけです。反対に都合の悪い人や状況は、腹立たしい状況ですから、一刻も早くなくなって欲しいと思います。その腹立たしい精神状況を瞋恚とよび、怨憎といわれているのです。なおどうでもいい人については、いてもいなくても私には関係はないと思っていますから、冷淡に対応し処理していきます。こうして私どもの心は、愛と憎しみと冷淡に揺れ動きながら生きているわけです。とりわけはげしい愛欲や、瞋恚の心を口に言い表し行動に示すようになりますと、さまざまな葛藤を生み出し、さらに迷いを増幅し罪を造っていきます。こうして短い人生を虚しく苦悩の中で終わっていかねばならないわけです。
 そういう私たちを憐れんで救おうと願い立たれた阿弥陀さまのお育てによって、ご本願を聞く身にしていただき、ようやく少しずつ変化が現れはじめてきているのが私どもの只今のすがたであるといわれるのです。
 すなわち阿弥陀如来さまのご本願を聞き、如来さまの智慧と慈悲のお働きこそまことであると聞き受ける身にしていただいたことによって、ようやく何が正しく、何が間違っているかということが少しずつ分かるようになり、いよいよみ教えを聞きたいと思うような心になっておられる。それがあなた方の今の状況なのですよと確認されているのです。
 み教えを聞くにつれて、まるで酒の酔いが少しずつ醒めるように、自分本位の考え方が間違っているということが少しずつうなづけるようになっていきます。そして貪欲の醜さ、瞋恚の煩悩の恐ろしさを知らされるにつけても、少しずつ慎まなければ如来さまに申し訳がないと思うようになり、少しずつではあるがお念仏の薬を好んで飲もうというような身になってきておられる。それがあなた方の精神状況ですよね、と念を押されているのです。
 ここに「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして」と、「少しずつ」という言葉が使われています。これは大変大事なことだと思います。たしかに信心は、本願を疑いなく聞き受けるこころですから、疑いをまじえずに聞き受けるとき即座に成就します。手間も暇もかかりません。如来さまは絶えずわたしどもに向かって、「わが真実なる誓願を疑いなく受け容れて、さとりの領域である浄土へ生まれることができると思いなさい」と喚び続けておられます。その如来の言葉が南無阿弥陀仏であり、その心を誓いの言葉として表現されているのが第十八願だったのです。この大悲智慧の結晶である本願招喚の勅命を疑いをまじえずに聞き受けるとこを信楽とも信心ともいうのですから、信心が成立するには手間も暇もかかりません。しかもその信心とは、如来の仰せが真実であることを知らされたことであり、同時に自分が、たのみにならない虚仮不実の凡夫であることを思い知らされていることでもありました。
 その意味で信心とは、自分のはからいに誤魔化されずに、仏法をまことと聞き受ける心の耳を開いていただいたことであるともいえましょう。したがって信心を得たということは、これからがまことの聞法が始まるということでもあります。そして、これからまことの教えが徐々に身に付いていく過程の始まりでもあるのです。
 すなわち如来さまの仰せをまことと聞き受け、聞き続ける聞法の生活が始まるわけですが、この聞き受けたみ教えが、少しずつ私の物の考え方、味わい方、行動を内側から呼び覚まし導きながら、少しずつ軌道修正をしてくださるのです。お育てといわれる如来さまの教育が始まるのです。教えが心を育ててくださいますから教育というのですが、教育には時間がかかります。また一進一退もつきものです。人間は粘土細工じゃないんですから、一瞬にして行動様式が変わるというようなことはありません。それを聖人は「ようよう少しずつ」と仰せられたのです。「ようよう少しずつ」という言葉に深く気をつけておく必要があります。ここのところが分からないと、聖人が私どもに伝えようとされている、大事なメッセージを聞き損なう恐れがあるからです。そこに、「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして」と仰せられた言葉の重さがわかってまいります。
 こうしてお浄土から届いたお念仏に導かれながら、「三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし」といわれるような、生活が開かれてくるわけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、うれしいにつけ、悲しいにつけ、腹が立つにつけ、欲が起こるにつけ、煩悩具足の凡夫であることの悲しさと、浅ましさをかみしめながら、少しずつ軌道修正をするように努めていくのが念仏者のすがたなのでしょう。

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タグ : 梯實圓 御消息

2009/12/12(土)
法然聖人一枚起請文を書かれたのは亡くなる2日前です。
いつもこのように仰っていたのでしょうね。
法然聖人の日頃のお言葉を、50年後に、しみじみとまるで目の前に法然聖人がおられるかのように語られる親鸞聖人もまた素晴らしい。

「浄土宗の人は愚者になりて往生す」
私はずっと、愚者になりたいと思っておりました。

法然聖人 一枚起請文】(註釈版聖典1429頁
 もろこし(中国)・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。
このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
[浄土宗の安心・起行、この一紙に至極せり。源空が所存、このほかにまつたく別義を存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しをはりぬ。]
  [建暦二年正月二十三日]

【親鸞聖人 御消息】(註釈版聖典771頁
 なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとに申され候ひける、すこしもたがはず候ふなり。としごろおのおのに申し候ひしこと、たがはずこそ候へ、かまへて学生沙汰せさせたまひ候はで、往生をとげさせたまひ候ふべし。
 故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまでおもひあはせられ候ふなり。ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせたまはずして、おのおの御往生候ふべきなり。ただし、ひとにすかされさせたまひ候はずとも、信心の定まらぬ人は正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる人なり。
 乗信房にかやうに申し候ふやうを、ひとびとにも申され候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。
  文応元年十一月十三日        善信[八十八歳]
  乗信御房

歎異抄 第12章】(註釈版聖典839頁
 他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。
一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。

タグ : 法然聖人 一枚起請文 御消息 歎異抄

2009/11/01(日)
『わかりやすい名言名句 親鸞聖人のことば』より
村上速水内藤知康著 法蔵館刊 ISBN978-4-8318-2312-0 C0015)
※この本は簡単に手に入れることができます。税別1,456円です。

38 はからいなき世界 『末灯鈔』第2通(御消息6)

 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。


 「笠間の念仏者の疑ひとはれたること」と最初に示されてあり、この御消息は、親鸞聖人が関東で布教された頃の中心地である笠間(常陸の国、現在の茨城県笠間市)の門弟の疑問に答えられたものである。この御消息の書かれた建長7年(1255年)は聖人の長男の慈信房善鸞義絶の前年に当たり、笠間の門弟の疑問の背景には慈信房の異義があったと推測される。

 まず、最初に自力・他力についての説明がある。自力・他力は世間でもよく用いられる言葉であるが、どのような場で用いられる言葉なので阿あろうか。聖人はここで、自力・他力とは浄土往生という場で用いておられる。広く見ても、迷いから悟りへという場において自力・他力という言葉が用いられるのであって、これは聖人の他の箇所の解釈を見ても同様である。決して、この迷いの世界の中で自らの欲望を満足させる場で用いられるべき言葉ではない。

 ここで聖人は自力・他力を具体的にどのように理解すべきかについて、端的に示される。すなわち、自力とは、「わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふ」ことをいうのであり。他力とは、「弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽する」ことをいう。この迷いの世界から悟りの世界へ進むについて、自らの営みによって自らを立派に造り変えてゆくことを自力というのであるが、考え方としてはまことに立派なものであると言わねばならない。

 しかし、いくら考え方として立派なものであっても、その道を歩む自分自身がどのような存在であるかということが忘れ去られたならば、砂上の楼閣となってしまう。聖人が、「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよ」(化身土文類)「今の時の道俗、おのれが分を思量せよ」(同)と再三誡めておられるように、まず、自らの能力に対する過信がないかという点を洗いなおさねばならないであろう。「七仏通誡の偈」に「諸の悪を作すこと莫れ、衆ての善を奉行せよ」とあるが、これはまた、「三歳の童児これを知ると雖も、八十の老翁これを行うこと難し」と言われるように、まことに実行困難な教えであると言わねばならない。

 仏教は単なる理念ではなく自らのすべてをかけての営みである。如来の光に照らし出されて、自らの行う善は雑毒の善であり、行は虚仮の行にすぎないと知らされたものにとっては、いくら高邁な哲理に基づく自力修行の道であっても、絵に描いた餅に過ぎない。そこに残された道は、一切の生きとし生けるものを必ず救うという阿弥陀如来の本願に信順する道のみであろう。

 聖人はまた、「行者のはからひ」を自力として示される。「はからひ」とはまた、我々の知性・感情・意志等すべてを含むものであろう。我々は、如来の本願を知性や感情や意志でとらえようと試みてはならない。「本願を信楽する」とは、知性で納得することでもなく、有り難いという感情でもなく、決して疑わないという決意でもない。そのようなものは浄土往生に何一つとして役に立たないと、一切をふりすてて、ただ阿弥陀如来の本願力に全託することこそが信楽である。そこで、聖人は、「他力には義(はからひ)なきを義とす」との法然聖人の言葉を引かれて、他力について懇切に説明されるのである。

タグ : 村上速水 内藤知康 御消息

2009/09/13(日)
歎異抄の構成は、第10章の扱いが解説書によって多少の違いがあるものの、

・序
・師訓篇(第一部、親鸞聖人の語録) 第1章~第10章
・中序(別序) ※第10章に含める場合もありますが、それでも内容は後半の序です
・異義篇(第二部、歎異篇)     第11章~第18章
・後序(結、後述、後記)
・流罪記録 ※ないものもあります
・蓮如上人奥書

となっております。

師訓十章を妙音院了祥師の説などによって分けると

・安心 第1章、第2章、第3章
・起行 第4章~第9章
  ・利他 第4章、第5章、第6章
  ・自利 第7章、第8章、第9章
・深信終帰 第10章

となります。

これまで、第1章~第6章までについて述べましたが、第1章が全体の総括であることは多くの人の一致するところです。
また、了祥師は第10章を重要視しています。
第9章は師訓篇のなかで唯一、質問が書かれているという特徴があります。
師訓篇でまだ述べていない、第7章~第10章までの内容を、歎異抄講讃(林 知康著 永田文昌堂)から引きます。

第7章 念仏は何ものにも障碍されない唯一絶対の大道であると述べ、さらにその大道を歩む念仏者の自由性を示す。

第8章 念仏は自力のはからいによる行でもなく善でもない、ただ阿弥陀仏の本願力のはたらきであるから非行非善というのであると述べる。

第9章 唯円と親鸞聖人との念仏往生の問題についての対話である。念仏と踊躍歓喜の心境、念仏と欣求浄土の気持ちが直接結びつかないのは、煩悩のしわざである。その煩悩を持った凡夫のために阿弥陀仏の大慈大悲の本願がある。それゆえ浄土往生は決定していると述べる。

第10章 行者の自力のはからいを否定して、念仏の他力性を明らかに示す。親鸞聖人の語録の結語にあたり、また後の異義批判の基準ともなっている。


確かに、第7章と第8章とはセットで読んだ方が理解できます。
「無碍の一道」の無碍は、「無碍人」からきているでしょうが、無碍人とは諸仏のことですので、勘違いする人も出てくる可能性があり、それを否定するためにも、第8章の記述は必要だったと思います。
これらの章の理解には、親鸞聖人の御消息を読まれるといいでしょう。
長いですが、強調箇所だけでも読んで下さい。

 諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。念仏往生の願(第十八願)は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそ、きこえて候へ。また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。
 かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。
他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。
このひとびとの仰せのやうは、これにはつやつやとしらぬことにて候へば、とかく申すべきにあらず候ふ。また「来」の字は、衆生利益のためには、きたると申す、方便なり。さとりをひらきては、かへると申す。ときにしたがひて、きたるともかへるとも申すとみえて候ふ。なにごともなにごとも、またまた申すべく候ふ。
御消息19 註釈版聖典 776ー777頁)

 笠間の念仏者の疑ひとはれたる事
 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
 しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。
 「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。このゆゑに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば恵心院の和尚(源信)は、『往生要集』(下)には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」(意)と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。しかれば、「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなはち無上仏果にいたる」と、釈迦如来説きたまへり。
 しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんことありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまふ」(散善義・意)と、善導和尚は釈したまへり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、影の形に添へるがごとくしてはなれたまはず」(同・意)とあかせり。
しかれば、この信心の人を釈迦如来は、「わが親しき友なり」(大経・下意)とよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。この人は正定聚の位に定まれるなりとしるべし。しかれば弥勒仏とひとしき人とのたまへり。これは真実信心をえたるゆゑにかならず真実の報土に往生するなりとしるべし。
 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。
 仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御案ども候ふべし。これさらに性信坊・親鸞がはからひまうすにはあらず候ふ。ゆめゆめ。
御消息6 註釈版聖典 746-749頁)

 如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし。真実信心の定まると申すも、金剛信心の定まると申すも、摂取不捨のゆゑに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを不退の位とも正定聚の位に入るとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころの定まるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふなり。このゆゑに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処の弥勒とおなじとも申すなり。
 この世にて真実信心の人をまもらせたまへばこそ、『阿弥陀経』には、「十方恒沙の諸仏護念す」(意)とは申すことにて候へ。安楽浄土へ往生してのちは、まもりたまふと申すことにては候はず。娑婆世界に居たるほど護念すとは申すことなり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来のほめたまへ ば、仏とひとしとは申すことなり。
 また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。諸事恐々謹言。
御消息20 註釈版聖典 778-779頁)

第7章~第10章を理解するには「現生十種の利益」の意味を知ることが大切と思います。

タグ : 歎異抄 御消息 林知康

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