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必堕無間

2009/11/20(金)
『親鸞の世界 -信の領解-』(加茂仰順師)より

 まず救いとは私の求め心がとり去られ、如来の救いの御力がわがものになって下さったことです。

 たとえば自分は百万円欲しい。それゆえ一生懸命に努力してやっとのことで百万円を手にすることができたとします。それであるから私は満足して幸福でありうるかといえば決してそうではありません。むしろ寂しさを味わいます。つまり私たちが最も寂しさを感じますのは、自分の目的が果たされたその瞬間です。それはなぜかといえば、百万円のお金、それは自分の一部分にしかすぎないからです。その部分の中に自分の全体を打ち込んでいたものですから、得た瞬間に寂しさを味わうのです。私たちはいつも部分を全体と見誤り、絶えず求め心を燃やし続けております。これが人生の苦しみの原因となっているとも言えましょう。

 ところが仏法の上では聞名のご誓願によって私のものとなって下さった時、求める心が用事がなくなって私自体が如来のものによって満たされてしまうのです。これが救いです。つまりそれを詳しく言えば、如来のみさとりが名号となって現れて下されてありますが、私としてはその名号を聞かしていただくことそのことにあるわけです。聞くといっても私の方で工面するのではなく、名号のはたらきの現れたのが「聞」です。たとえばミカンの種子は手段ではありませんように、聞もお助けの手段ではなく、「聞」それ自体がお助けの届いたすがたであり、いただかれたことです。それゆえ如実の聞を「信」と言います。それはお浄土のさとりの因となるものです。またそのさとりを得るほどの価値内容を今この身に獲させていただくわけです。これが救いです。

 そしてまた真実の救いは自分の眺めた自分が救われるのではなく、如来の見抜かれた私が救われてゆくのであります。それについて、この自分が地獄必定だとか、無有出縁とかの思いは何ゆえに弥陀の本願、すなわち絶対の智光はこの私たちの人生や人間を否定されるのか。また何ゆえに必堕無間とか無有出縁とかいって、自分を見限らせられるのかということについて。それは如来は私たちの迷いをもって自らの迷いとし、私たちの不完全をもって自らの責任とされるからと言わねばなりません。すなわち一切を自らとし、一切の責任を負うて立つものが弥陀の本願であるからです。

 さらに言えば、必堕無間の私ということは、如来のみ知り給う姿です。私の自覚で見届けたくらいの罪を救おうという浅い如来の力ではありません。だから罪悪感のどん底に自覚した時お慈悲が聞こえるなどということの誤りであることが明らかであります。もしそれが聞こえたのであれば、それは如来の勅命が聞こえたのではなくして、自分の心の休まる声を聞いたのであると申さねばなりません。

 要するに真宗のお救いとはこれを押えて言えば、如来のご廻向ということです。私たちには如来は身口意の三業の造作は一切用いさせて下さらずに、願力ひとつで助けて下さるのがそのことです。しかもその廻向の勅命ですが、私たちはとかくすると如来の勅命に向かわず、勅命を持ち直してしまいますから、その誤りについてよく聞かせていただかねばなりません。

 それについて自力の行者は「深く信ずる」ということを聞いて、自分が励んで深く信じようと努力します。だから深信になりません。他力の信は勅命のままがわが心に届いたのですから深信です。また自力の行者は深信しようとわが心の信じぶりをたのみますからいつも疲れます。他力信の者は摂取不捨の願力を仰ぎますから、動揺しようとしても動揺はありません。

  「我能く汝を護らん」とある弥陀の「汝を護る」をいただいていますから、金剛堅固です。すなわち「この心なおし金剛のごとし」とは、護り給う如来の力が金剛ですから、深信もまた金剛です。とにかく勅命を持ちかえるところに不如実になってまいります。

 以上のことをまとめて言えば、今の私に如来の真実が与えられ無疑受楽の満足を与えられたものが救いであるということになります。そしてその内容を名号全領によって私の全てが転成されることです。

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