念仏

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2009/09/15(火)
歎異抄をひらく』を読んだ感想の一つです。
歎異抄第8章について書かれた、第2部『歎異抄』の解説(14)に次の文章があります。

 まさに、信心も念仏も、弥陀より賜る大信心であり、大行なのである。
 南無阿弥陀仏の大功徳が耳から攬入し、全身を貫き口に溢れて、南無阿弥陀仏の大宝海にかえるのだ。
 嬉しい思いも、寂しい心も、頼りにせず、障りにもならぬ。“信に信功をみず、行に行功をみず”、信行ともに、不可思議の願海に帰入するのである。
 信ずる心も称える心も、みな南無阿弥陀仏の独り働きとなり、私をして動かすものであり、私は動かされているだけなのだ。
 聖人の教えを「絶対他力」と言われる所以である。
(240-241頁)

間違いだとは言いません。
しかし、なぜ「信ずる心も称えるも」なのかという疑問が起きるのです。
信ずる心と称える心だと、ともに「心」で同じではないですか。
その前の文章で「信心も念仏も、弥陀より賜る大信心であり、大行なのである」「信行ともに、不可思議の願海に帰入するのである」と書かれているのに、なぜ「信ずる心も称える念仏も」と書けないのか。
念仏という「行」を軽んじている表れだと思います。
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タグ : 歎異抄をひらく 念仏

2009/09/12(土)

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと[云々]。



【歎異抄第5章を読む時のポイント】
第5章はそれほど複雑ではありません。
細かく分ければ、4つの部分からできています。
1.テーマ
 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
2.理由 2つ
一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。
3.どのように有情にかかわっていくのか
 ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなり
※ここは、第4章の「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき」の言葉との関連が感じられます。

1と3は分かると思いますので、2の理由について述べます。
①すべての衆生は遥か過去において、お互いに父であり母であり、兄弟であった。だから、現在の父母だけが縁があるのではなく、すべての衆生が私と縁がある。父母という限定された範囲ではなく、一切衆生が相手になってしまうが、それらに対して、凡夫の私が念仏を申して救うことなどできない。
仏になってからはじめてできることなのだ。
②念仏は私がつくったものではなく、阿弥陀仏から私に回向されたものだから、私が他人に回向するものではない。また、私が回向する云々ではなく、阿弥陀仏が一切衆生に南無阿弥陀仏を回向しておられる。
ということです。

第5章の意味は、第4章と同じように「人を救いたいと思うのなら、まず自分が救われなさいよ。」となりますね。

【『歎異抄をひらく』の第5章を読む 】
わざわざ一つのエントリーを設けるほどでもありませんので、ここに書きます。
葬式や法事・読経の話ばかりで、肝心の第5章の解説になっていませんので、コメントすらできません。
一つだけ指摘しますと、217-218頁に

そんな聖人が、
「父母の追善供養のために念仏を称えたことなど、一度もない」
と言われる。無論これは、念仏だけのことではない。亡き人を幸せにしようとする読経や儀式、すべての仏事を「念仏」で総称されてのことである。
 言い換えれば
「親鸞は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事をしたことは、一度とてない」
の断言だから驚く。


とありますが、これは間違いです。
読経はともかく、どうして念仏が法要などの仏事と同じなのでしょうか。
(もちろん読経と念仏も違いますよ。阿弥陀仏が読経を回向されるのではありませんから)
こっちの方が本当に驚きます。
「念仏」を「念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事」と置き換えて、第1部の意訳の文(65頁)に入れてみれば、おかしいことが分かります。

「念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事」が自分で励む善根ならば、その功徳をさしむけて、父母を救えるかも知れないが、「念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事」は私の善根ではないからそれはできない。

となります。
先の文章は、他力と自力をごちゃごちゃにして、あまりにも念仏を軽んじています。
念仏を軽んずるということは、信心も軽んずることになります。
親鸞聖人は次のようにおっしゃっています。

 四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
(親鸞聖人御消息7 註釈版聖典749-750頁)


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