善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
○「弥陀の本願にあらず」
ここについては、いろいろ訳されています。
・阿弥陀仏の本願にかなっていない。
・阿弥陀仏の本願に背いている。
・非本願の世界である。
・阿弥陀仏の本願の対象にはならない。
・阿弥陀仏の本願の対象ではない。
・阿弥陀仏の本願の趣旨からはずれている。
などです。
皆さんはどの訳がいいと思われますでしょうか。
多少のニュアンスの違いはありますが、これらの訳はいずれでもいいとしまして、もっと難しいのが次のところです。
○他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
同じくいろいろな訳があります。
・他力をたのむ心が往生の正因である。
・他力をたのむ悪人が往生の正機である。
・他力をたのむ以外に悪人が往生する道はない。+他力をたのむことが往生の正因である。
・他力の信心を獲た悪人こそが、往生の正因を獲た人だ。
・他力をたのんだ悪人こそが第一に往生すべき人であり、他力をたのむ心こそ往生の正因である。
などです。
ここは上にあげた以外にも様々な訳があるでしょう。
「悪人正機」の教えと「信心正因」の教えを、一つの文で言われたものですので、なかなか難しいですね。
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しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
ところが世間の人は普通「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。
(現代語版より)
「世のひと」は普通「世間の人」と訳されます。
ただ、キリスト教やイスラム教などの仏教以外の宗教を信じている人は「阿弥陀仏の極楽浄土に往生する」という考えがありませんので、「善人が往生する」とか「悪人が往生する」とは言わないでしょう。
では、聖道門の人はどうかといいますと、聖道門にも「浄土思想」はありますので「往生する」と言うことはあります。
たとえば、宇治の平等院を造った藤原頼通、平泉中尊寺を造った藤原清衡等に見られるように、平安時代には臨終来迎・往生極楽を願う人々が少なくありませんでした。
平等院や中尊寺は天台宗ですが、他にも阿弥陀仏の極楽浄土への往生を願う教えはあります。
これらの人たちが重視したのが観無量寿経です。
日本における観無量寿経の註釈書の中で最古のものは、天台18代座主の慈慧大師良源(912~985)の著した「極楽浄土九品往生義」です。
これは観無量寿経のすべてを註釈したものではなく、「九品段」を解釈したものです。
また、この書は曇鸞大師や道綽禅師、善導大師のおっしゃったことは全く参照せず、天台大師智(538~597)の観無量寿経疏に依拠して書かれています。
なお、良源は源信僧都(942~1017)の師です。
良源はこの書の中で大無量寿経に説かれている阿弥陀仏の四十八願について書いています。
そして、阿弥陀仏の四十八願の中で往生の因について説かれてる第18願、第19願、第20願の三願(生因三願)について述べ、この三願の中で第19願が阿弥陀仏の本意であると説いています。
崇高な菩提心を起こし諸々の功徳を行じ、浄土へ生まれたいと願った人は、臨終に迎えに行きますよというのが第19願です。
それに対して、第18願は九品中では下品下生にあたり、念仏によって往生するが臨終来迎はなく、往生する浄土は念仏の功徳が劣ったものであるから第19願の行者の往く浄土よりも劣ったものであるとしています。
また、第20願は、大変重い悪を造った者は阿弥陀仏といえども来生に往生させることはできず、次の次の生に往生させることを誓われたものとしています。
このように天台浄土教などの聖道門内の浄土の教えでは、観無量寿経の九品往生を重要視します。
九品往生では行者がおさめる功徳に応じて往生する浄土も違ってきますので、「善人正機・悪人傍機」の考えになります。
これは法然上人や親鸞聖人が教えられたものとは根本的に異なります。
「観無量寿経 覚書 その7」で書きましたが、両聖人の言葉を再度あげましょう。
問。極楽に九品の差別の候事は。阿弥陀佛のかまへたまへる事にて候やらむ
答。極楽の九品は弥陀の本願にあらず。四十八願の中になし。これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはば、悪業のものとも慢心をおこすべきがゆゑに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし云云
(法然上人 西方指南鈔「十一箇条問答」[親鸞聖人筆])
横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
(教行信証信巻 横超釈 注釈版聖典254頁)
以上みてきたように「世のひと」は一応「世間の人」ではありますが、法然上人・親鸞聖人・唯円の時代を考えるならば「聖道門の教えを信じている道俗」だと思います。
そしてこれらの人たちにとっては「善人正機・悪人傍機」は当然のことだったのです。
「観無量寿経 覚書 その4」で述べましたように、観無量寿経には「浄土の要門」と「別意の弘願」という全く別の教えが説かれていることを抑えておいて下さい。
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歎異抄第3章を読みましょう。
明治30年以後、歎異抄が注目されてより、「悪人正機」が親鸞聖人の教えの一番大きな特徴であると思われてきました。
その後、種々の研究がなされ、悪人正機説の始祖は誰なのかという議論が起きてきましたが、ここではそれについては述べません。
私は学者ではありませんし、これは学術論文ではありませんので。
さて、これまで、「観無量寿経」を読んで阿弥陀仏の救いが「悪人正機・善人傍機」であることを見てきました。
親鸞聖人の教えには他に大事なことがありますので、「悪人正機」が一番の特徴だとは言えませんが、いずれにせよ、阿弥陀仏の救いは悪人正機であることは、明々白々です。
(こんなに力まなくてもよかったでしょうか)
今回は歎異抄第3章を読む時の助けになると思われる、知識方の言葉を列記します。
歎異抄第3章には全部で7つの文がありますので、それぞれに番号をうって、下に対応する文を示します。
それほど難しい文ではありませんので、読んで下さい。
分からないところは、飛ばして読めばいいですよ。
①善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
②しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
③この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
④そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。
⑤しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
⑥煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
⑦よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。
①と⑦
[親鸞聖人]
これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。
(教行信証総序)
また傍正ありとは、
一には菩薩、大小 二には縁覚、
三には声聞・辟支等、浄土の傍機なり。
四には天、 五には人等なり。浄土の正機なり。
※傍正 仏の救いの正(まさ)しきめあてと、かたわらのもの、すなはち主たる対機(正機)と、従たる対機(傍機)をいう。(脚注)
(愚禿鈔・上 註釈版聖典511頁)
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
(歎異抄第1章)
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
(歎異抄後序)
[法然聖人]
四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。
(元暁『遊心安楽道』を法然上人が選択本願念仏集等に引用 註釈版聖典七祖篇 1185頁)
悪機を一人置きて、此の機の往生しけるは謂はれたる道理なりけりと知るほどに習ひたるを、浄土宗を善く学びたるとは云う也。此の宗は悪人を手本と為し、善人まで摂する也。聖道門は善人手本と為し、悪人をも摂する也。云云。
(醍醐本 法然上人伝記 三心料簡の事 第7)
およそ聖道門は智慧をきわめて生死を離る。浄土門は愚痴に還って極楽に生る。ゆえんは聖道門に趣くの時は、智慧をみがき。禁戒を守り、心性を浄むるをもつて宗と為す。しかるを浄土門に入るの日は、智慧をも憑まず、戒行をも護らず、心器をも調へず、ただただ甲斐なき、無智の者と成りて本願を憑みて往生を願ふなり。云云。
(醍醐本 法然上人伝記 三心料簡の事 第11)
善人なを以て往生す況や悪人をやの事 口伝これ有り
(醍醐本 法然上人伝記 三心料簡の事 第27)
私に云く、弥陀の本願は、自力を以て生死を離るべき方便を有する善人のためにおこしたまはず、「極重の悪人、他の方便なき」やからを哀れんでおこしたまへり。しかるを菩薩、賢聖も、これに付きて往生を求め、凡夫の善人も、この願に帰して往生を得、いはむや罪悪の凡夫、もっともこの他力をたのむべしといふなり。悪しくし領解して邪見に住すべからず。たとへば、「もと凡夫の為にして、兼ねて聖人の為にす」といふが如し、よくよく心得べし。
(同上 上の文の解説 勢観房源智の筆と思われる)
※文中「もっともこの他力をたのむべし」は少々誤解を生ずる恐れがあります。つまり、歎異抄に書かれている「悪人正機」とは少々ニュアンスが違うのです。
無智の罪人の念仏申て往生すること、本願の正意なり。
(熊谷直実に示す御詞)
弥陀如来汝のごとき罪人の為に、弘誓をたて給へる其の中に、女人往生の願あり。然れば則ち女人はこれ本願の正機なり。
(室の津の遊女に示されける御詞)
ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。
(選択本願念仏集 第11讃嘆念仏章 註釈版聖典七祖篇1258頁 下品下生の説明です)
まづ法然上人の御庵室へ参りて、弥陀本願の念仏は、正しくは悪人の為、傍には聖人の為に発されたるよし、日来承侍りしかば、・・・
弥陀の本願は専ら罪人の為なれば、罪人は罪人ながら名号を唱て往生す。是本願の不思議也。
(九巻伝 巻五上 甘糟太郎忠綱が法然上人に尋ねた言葉とお答え)
[覚如上人]
一 如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事。
本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(源空)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもつて往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願虚設なるべし、力徒然なるべし。しかるに願力あひ加して、十方衆生のために大饒益を成ず。これによりて正覚をとなへていまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれば御釈(玄義分)にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。
(口伝鈔 第19 註釈版聖典907頁)
※ここでは、「凡聖相対」と「善悪相対」の両方が述べられています。「観無量寿経 覚書 その3」 を参照して下さい。
⑤
[善導大師]
三には弥陀空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす。
(観無量寿経疏 註釈版聖典七祖篇423頁)
⑥
[親鸞聖人]
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(歎異抄第2章 註釈版聖典833頁)
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