散善

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2009/08/16(日)
散善三福
観無量寿経「散善顕行縁」の後半には三福が説かれ、その三福を行じて往生する姿を、「正宗分の九品段」で教えられています。
散善三福の行は、定善のできない人に説かれたものです。
 上上品から上下品までは行福(大乗仏教の善)を励んでいる凡夫の善人
 中上品・中中品は戒福(小乗仏教の善)を励んでいる凡夫の善人
 中下品は世福(世俗の善)を励んでいる凡夫の善人
 下三品は三福のできない悪人

下三品の悪人は本来は定善も散善もできないのですが、念仏の教えで往生します。
散乱の心で念仏を称えますので、一応、散善の機とされていますが、念仏は定善でも散善でもない、本願他力の行です。

一方、三福は釈尊が韋提希夫人に
「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」
とおっしゃっていますように、自力によって仏覚をひらこうとする行=聖道門の成仏の行です。
(なお、福とは善という意味です)
要門=聖道門ではありませんが、行は非往生行ですから、善導大師はこれらを「雑行」と名づけられました。

このように観無量寿経は、自力執着の強い行者に対して、定善・散善という自力の修行法を仮に説かれますが、そのことによって、煩悩具足の凡夫の自性を思い知らされるはたらきをもった経典です。
このことから、観無量寿経は機の真実を顕そうとする「顕機の経」と言われます。
それはそのまま、定善・散善という自力の行は、自力を捨てさせる為の方便の行であることを示します。
なお、観無量寿経の「定善示観縁」を読めば分かることですが、韋提希夫人は定善を実行したのでもありませんし(要門は基本的には出家の法ですので、韋提希夫人にできるはずはありませんが)、実行しようとしたのでもありません。
散善にしても同様です。

「やってみなければ、できるかどうか分からない」という人も時々いますが、これは「何の為に」「何を」ということが抜けています。
どれほど若田光一宇宙飛行士が優秀でも、国際宇宙ステーションから一人で地球には戻ってくることはできません。
スペースシャトル・エンデバー号が迎えに行ってはじめて戻ることができました。
国際宇宙ステーションが隣の町にあると思っている人は、自分の力でも行ったり来たりできると思うでしょうが、どこにあるか分かった人は、二度とそんなことは思いません。
阿弥陀仏の極楽浄土へ行くには、阿弥陀仏(法蔵菩薩)がなされたことと同じことをしなければなりません。
オリンピックで金メダルをとる、のど自慢でカネを3つとる、希望大学に合格する等とは、わけが違うのですから。
阿弥陀仏が極楽浄土をつくられる時にどのような御苦労をされたかを聞かせて頂けば分かることです。
もちろん、「俺はやる!」と言っている人を引きとめたりはしませんが・・・。

九品
散善三福の行を励む人を九種類に分けて教えられたものです。
大無量寿経に説かれている三輩の内、上輩は定善の機を含んでいると言えますので、厳密に言えば違いますが、浄土往生人のすべてを九品に分類する場合は、定善の機を上品に含めます。
その場合は、大無量寿経の三輩を開いたのが観無量寿経の九品ということになります。

善導大師はこの九品をすべて凡夫と見られ、観無量寿経は聖者の為に説かれたのではなく、煩悩具足の凡夫の為に説かれたのだと教えられました。

ただこの『観経』は、仏、凡のために説きたまへり、聖のためにせず。
(観無量寿経疏 玄義分 註釈版聖典七祖篇316頁)

如来(釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせずといふことを証明す。
(観無量寿経疏 玄義分 註釈版聖典七祖篇321頁)

観無量寿経には九品が説かれているのですが、これは方便であり、法然上人や親鸞聖人は九品の差別はないと教えられています。

問。極楽に九品の差別の候事は。阿弥陀佛のかまへたまへる事にて候やらむ
答。極楽の九品は弥陀の本願にあらず。四十八願の中になし。これは釈尊の巧言なり。善人・悪人一処にむまるといはば、悪業のものとも慢心をおこすべきがゆゑに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくだるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし云云
(法然上人 西方指南鈔「十一箇条問答」[親鸞聖人筆])

横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
(教行信証信巻 横超釈 注釈版聖典254頁)

つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもって付属流通せず。ただ念仏一行をもって、すなわち後世に付属流通せしむ。知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐(とうえん むなしいこと)せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり、行者知るべし。
(選択本願念仏集 念仏付属章 注釈版聖典七祖篇1273~4頁)

定散二善の法門は、聖道門→定善→散善三福→弘願念仏へと導く為の方便なのです。

ここで「方便」という言葉に気をつけなけれななりません。
方便についてはいろいろ教えられていますが、私達に関係あるものとしては「善巧方便」「権仮方便」があります。
善巧方便とは、仏が人々を真実へ導く為に、真実の教えそのものとなって説かれることを言います。
「阿弥陀仏の方便方身」の方便がそれに当たります。
この意味では、善巧方便そのものは「真実」です。
それに対して、権仮方便とは真実を理解できない人の為に仮に説き与えられたものを指します。
観無量寿経に説かれている定散二善の法門は権仮方便です。この権仮方便は「暫用還廃の法」とも言われます。
つまり、外道の人を仏教に導く為に権仮方便である聖道門が説かれ、聖道門の人を浄土門へ導く為に定散二善の法門(要門)が説かれました。「聖道門は方便である」と分かっている人に聖道門を説く必要はありません。
さらに、要門の人を弘願(第18願)へと導かれるのですが、「要門は方便である」と分かっている人に要門を説く必要はありません。
「阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。」のです。

では、観無量寿経は何の為に説かれたのでしょうか。
善導大師は「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。」と観無量寿経には二つのことが教えられていると説かれました。
親鸞聖人は観無量寿経には「顕」の義と「隠彰」の義があると教えられました。
親鸞聖人が、それまで「三経一論」を所依とされていたものを、あえて、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」とおっしゃったことを伺うに、観無量寿経を読む時には注意する必要があるでしょう。

なお、親鸞聖人の御和讃に
 釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまひけり
とあります。
この御和讃は善導大師の般舟讃をもとにつくられたもので、般舟讃には単に「方便」とあるだけです。
般舟讃の意味から言えば「権仮方便」ということになるでしょう。
それを「善巧方便」とおっしゃったのは、阿弥陀仏や釈尊に対する親鸞聖人の尊崇の念からと拝します。
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タグ : 三福 九品 散善

2009/08/15(土)
「序分 発起序 散善顕行縁」を読んでみましょう。
散善の意味や九品については次回述べます。

散善顕行縁】
 そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。
 そのとき世尊、韋提希に告げたまはく、
「なんぢ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。
なんぢ、まさに繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまへるひと(阿弥陀仏)を観ずべし。われいまなんぢがために広くもろもろの譬へ(定善)を説き、また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん。
 かの国に生ぜんと欲はんもの
は、まさに三福を修すべし。(散善
一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。[世福ー中下]
二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。[戒福ー中上、中中]
三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。[行福ー上上、上中、上下]
かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
観無量寿経 註釈版聖典91~92頁)

【善導大師の「散善顕行縁」の説明】
散善顕行縁のなかにつきてすなはちその五あり。
一に「爾時世尊即便微笑」より下「成那含」に至るこのかたは、まさしく光、父の王を益することを明かす。これ如来夫人の極楽に生ぜんと願じ、さらに得生の行を請ずるを見たまふに、仏の本心に称ひ、また弥陀の願意を顕すをもつて、この二請(阿弥陀仏の極楽浄土へ往きたいと願うことと、極楽へ往生する行を教えて下さいといと請うこと)によりて広く浄土の門を開けば、ただ韋提のみ去くことを得るにあらず、有識(=衆生)これを聞きてみな往く。この益あるがゆゑに、ゆゑに如来微笑したまふことを明かす。
ー乃至ー
二に「爾時世尊」より下「広説衆譬」に至るこのかたは、まさしく前に夫人別して所求の行を選ぶに答ふることを明かす。
ー乃至ー
「阿弥陀仏不遠」といふは、まさしく境を標してもつて心を住むることを明かす。すなはちその三あり。
一には分斉遠からず。これより十万億の刹を超過して、すなはちこれ弥陀の国なることを明かす。[分斉不遠]
二には道里はるかなりといへども、去く時一念にすなはち到ることを明かす。[一念即到]
三には韋提等および未来有縁の衆生、心を注めて観念すれば定境相応して、行人自然につねに見ることを明かす。[観念即現]

この三義あるがゆゑに不遠といふ。
ー乃至ー
「我今為汝」といふ以下は、これ機縁いまだ具せず、ひとへに定門を説くべからず、仏さらに機を観じて、みづから三福の行を開きたまふことを明かす。
三に「亦令未来世」より下「極楽国土」に至るこのかたは、まさしく機を挙げて修を勧め、益を得ることを明かす。これ夫人の請ずるところ、利益いよいよ深くして、未来に及ぶまで回心すればみな到ることを明かす。
四に「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るこのかたは、まさしく勧めて三福の行を修せしむることを明かす。これ一切衆生の機に二種あり。一には定、二には散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。ここをもつて如来(釈尊)方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまふことを明かす。「欲生彼国」といふは所帰を標指す。「当修三福」といふは総じて行門を標す。
ー乃至ー
五に「仏告韋提」より下「正因」に至るこのかたは、それ聖を引きて凡を励ますことを明かす。ただよく決定して心を注むれば、かならず往くこと疑なし。
上来五句の不同ありといへども、広く散善顕行縁を明かしをはりぬ。
観無量寿経疏 序分義 発起序 散善顕行縁 註釈版聖典七祖篇378~387頁)

○即便微笑
韋提希夫人が「欣浄縁」にて「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と言ったことに対して、釈尊が微笑まれました。
それは、一人韋提希夫人だけではなく、十方衆生が阿弥陀仏の救いを聞き求める縁となることを喜ばれてのことです。
もちろん、定善や散善で救われるということではありません。阿弥陀仏がつくられた本願念仏によって救われるのです。
この「即便微笑」のお言葉で、本願念仏を説くことが釈尊の出世本懐であると言えます。
観経の「また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんもの」や観経疏の「ただ韋提のみ去くことを得るにあらず、有識これを聞きてみな往く」の文からも分かります。

親鸞聖人は
達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
(教行信証化土巻本 要門釈 三経隠顕問答 観経隠顕 註釈版聖典382頁)
とおっしゃいました。

○阿弥陀仏、ここを去ること遠からず
大無量寿経や阿弥陀経には、阿弥陀仏は西方十万億を過ぎたところにある極楽におられると書かれていますが、観無量寿経には「ここを去ること遠からず」と説かれています。
如来大悲のはたらきは、常に行者と離れないと言われているのです。
このことは、善導大師が真身観の「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」の説明のところで、「三縁」として教えておられます。

問ひていはく、つぶさに衆行を修して、ただよく回向すればみな往生を得。
なにをもつてか仏光あまねく照らすにただ念仏のもののみを摂する、なんの意かあるや。
答へていはく、これに三義あり。
一には親縁を明かす。衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁と名づく。
二には近縁を明かす。衆生仏を見たてまつらんと願ずれば、仏すなはち念に応じて現じて目の前にまします。ゆゑに近縁と名づく。
三には増上縁を明かす。衆生称念すれば、すなはち多劫の罪を除く。命終らんと欲する時、仏、聖衆とみづから来りて迎接したまふ。諸邪業繋もよく礙ふるものなし。ゆゑに増上縁と名づく。
観無量寿経疏 定善義 真身観 三縁釈 註釈版聖典七祖篇 436~437頁)

このように、観無量寿経の隠彰=本意は、阿弥陀仏の本願念仏を説くことであり、煩悩具足の韋提希夫人と「未来世の一切凡夫」の為に説かれたものです。
「聖を引きて凡を励ます」とあるのも、聖者の為ではなく凡夫の為の教えであることを示しておられます。


なお、「仏様は見聞知」とは、上の「親縁」の「彼此三業不相捨離」のようなことを言います。(この御縁に御文章3帖目第7通も読んで下さい)
トゥルーマン・ショー(1998年 ジム・キャリー主演)や
マトリックス(1999~ キアヌ・リーブス主演)や
イーグル・アイ(2008年 シャイア・ラブーフ主演)
のような状態を教えたものではありません。
映画を知らない人は、・・・ごめんなさい。
阿弥陀様は重箱の隅をつつくようなことはされませんよ。

タグ : 観無量寿経 散善

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