易往而無人

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2009/10/10(土)
易往而無人」について述べられているお聖教のご文です。
教行信証のご文の意味は
「易しいので、かえって疑う。だから難しい」
とでもなりましょうか。

蓮如上人も、易往而無人の説明の前に
「あら、やうもいらぬとりやすの安心や」
「あら、こころえやすの安心や」
とおっしゃっていますが、あまりにも易いので「えっ?」となるのですね。
(注:一念覚知ではありませんよ)

私たちの思議を超えた阿弥陀仏の救いの素晴らしさ・尊さ、そして他力の信心の徳を示されたものです。

また、以前も言いましたが、特に御文章は一部だけを切り取って読むと誤解する可能性がありますので、1通々々、全体を読まれることをおすすめします。
それで下にも全文を載せました。
御文章に限ることではないのですが、法然聖人の手紙や親鸞聖人御消息、御文章などの「手紙類」は対機説法・応病与薬の性格が強いので、できるかぎり、誰にどんな状況下で書かれたのかを知って、かつ全文を読まないと読み誤ることもあります。

【教行信証 信巻】註釈版聖典248頁
律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。
【尊号真像銘文】註釈版聖典647頁
易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。しかれば源信和尚は、「報土に生るる人はおほからず、化土に生るる人はすくなからず」(往生要集・下意)とのたまへり。
【御文章2帖目第7通 五戒・易往】註釈版聖典1119頁
 しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。
その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。
かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
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