久堀師は人間魚雷回天の特攻隊長出身だそうです。
本願寺出版社や自照社出版からの本があります。
自照社の本は梯和上との共著が多いですね。
村上速水師と同様、大江淳誠和上の薫陶を受けられたようです。
『阿弥陀仏と浄土 ――曇鸞大師にきく――』
(久堀弘義著 本願寺出版社刊 昭和59年 ISBN4-89416-108-7)
↑失礼な言い方になってしまいますが、なかなかいい本です。
二 教材について
(3)伝統と己証
宗祖の教義が形成されていく中で、宗祖の思考に大きな影響を与えた二つの流れがあった。七祖を上三祖と下四祖に分け、上三祖をもって「大経ずわり」といい、下四祖をもって「観経ずわり」とすることについては、かなりの異論があることも知っている。
しかし、私は、この見方は正しいと思っているので、あえてこれに従えば、二つの流れとは、この上三祖と下四祖の流れである。曇鸞は竜樹・天親の思想を統一的に継承しているので、上三祖を代表するものと考えていい。
又、宗祖にとての面受の師であるから、法然をもって下四祖の代表と考えられるけれども、法然自らが、「偏依善導一師」といっているのであるから、下四祖は善導に代表されるといえるだろう。
端的にいえば、宗祖の思想が形成されるに当っては、この曇鸞の思想と善導の思想が、大きな影響を与えている。しかも、その二つの流れが、宗祖において巧に綜合されて、真宗教義が形成されていると考えられる。
しかし、その与えた影響については、曇鸞と善導とは、いささかその趣を異にしているようである。曇鸞教義においては、後に詳述するように、「一如顕現」という一点に立ち、「阿弥陀仏」も「浄土」も、又、「信心」も「念仏」も、すべて一如に還源せしめ、その本体論的解釈をもって、その特質とする。
これに対して、善導教義においては、「専修念仏」という一点に立ち、すべてを実践論的(行信論をも含めて)に解釈することを、その特質としている。この二つの流れが宗祖の思想に影響を与え、しかも、それが巧に宗祖によって融合されていったことに、大きな意味がある。
すべてのものごとは、ただその現象にのみに心を奪われて、その本音を見究めることを忘れてはならない。そこに、本体論的解釈に思考を集中した曇鸞の教学が、評価される。けれども、本質を論ずる場合、それはともすれば抽象論、もしくは観念論へ傾斜していく危険性をはらんでいるようである。
曇鸞の教学をもって、観念論といっているのではない。その教学を教学するわれわれの側のことをいっているのである。現に、『二種法身』のあの解釈を、「法性法身」にのみに捉われて、阿弥陀仏信仰を持って偶像崇拝であるなどと誇らしげにいった学者もいる。又、阿弥陀仏も浄土も信心の上に現成する世界であるなどと、観念論をまき散らした学者もいる。
曇鸞の思考の方向においては、全く考えられないことが、それを教学する側に結果として出てくることを思うとき、本体論的解釈の持つ危険性は、充分意識しておくべきである。
ともあれ、この曇鸞の本体論的解釈は、もろに宗祖の中に受けつがれていった。このことは、やがて明らかになる筈であるが、しかし、ただそれだけであるならば、宗祖は思想家としての親鸞ではあっても、宗教家としての親鸞ではあり得なかったにちがいない。
宗祖が宗祖たり得たのは、曇鸞を受けつぐとともに、法然との出あいを通して、善導との出あいを果たしたからである。単なる思想としての浄土教ではなくて、専修念仏というひたすらなる実践において、万人の救いを成立せしめるという浄土教が、善導によって開かれていた。
法然を通して、この善導教学を受け容れた宗祖は、曇鸞の教学における本体論的解釈の持つ観念論への傾斜を、見事に克服し、浄土真実の教えを開顕していったのである。
曇鸞の「一如顕現」に立つ本体論的な解釈と、善導の「専修念仏」に立つ実践論的な解釈が、宗祖において巧に統一されて、浄土真宗が開かれているのであるから、私たちは教えを説き、法を伝えんとするとき、宗祖教義におけるこの特質を、先ず確実に押さえておくべきである。
(中略)
今、私たちにとって、必要なことは、現代人に向かって、胸を張って阿弥陀仏を説き、浄土往生を説くことのできる自信を回復することである。そのためにこそ、先に述べた宗祖教義の原点に帰らねばならない。それは又、曇鸞・善導の教学に帰ることであろう。
両者は中国における、又、千年から千三百年以前の思想である。それでいて、現在なお私たちに、新鮮さと躍動感をもってせまってくるのを覚える。『往生論註』と『観経四帖疏』は、現代の書であり、現代の思想であり、現代の宗教である。両書から与えられる深い宗教的感動にゆり動かされた宗祖は、『高僧和讃』曇鸞讃に三十四首、善導讃に二十六首、その感動をうたいあげている。
私たちは、この宗祖と感動を共にしたとき、初めて自信をもって教えを説くことができるだろう。阿弥陀仏不在、浄土不在の伝道から脱却すること、信心・念仏の原理的立場を回復することは、何をおいても今、伝道者としての私にとって最も必要なことではないか。
以下、『親鸞教義とその背景』(村上速水著 永田文昌堂刊 昭和62年)からです。
第二節 七祖の教え
序 七祖の選定
七祖選定の基準
(略)
七祖の著作
(略)
七祖の発揮
(途中まで略)
また、昔の学者の講録などには、「終吉」という言葉が出てくることがありますが、これは善導大師と源空上人との教義が非常に類似しているところから、「終南」と「吉水」とを一連にして、簡略に呼んだものであります。
曇鸞大師と善導大師の地位
以上、七祖に関する全体的な、そして基本的な事柄について述べてきましたが、次に親鸞教義における七祖の教学の位置づけを考えてみたいと思います。私の率直な気持ちを申しますと、親鸞教義の骨格を形成するものは、曇鸞大師と善導大師の教義であるといってよいと思います。このことは『高僧和讃』において、曇鸞大師を讃えられる和讃は三十四首あって最も多く、次いで善導大師の二十六首であることに端的にあらわれていると思いますが、殊に『教行信証』において重要な解釈のところには、必ずといってよいほど曇鸞大師の『往生論註』、善導大師の『観経疏』が引用されているという事実、またその引用の回数が多いことによって論証することができると思います。
『教行信証』は親鸞聖人における仏教概論であるといってもよい書物ですから、全体にわたって大乗仏教の原理が説き述べられています。しかもその原理を踏まえて、他宗とちがった浄土真宗独自の教義が説かれています。このように見る時、親鸞聖人は、仏教の原理的な面は主として曇鸞大師の『往生論註』によって説かれ、真宗独自の実践的な面を述べられるところは、善導大師の『観経疏』によっておられるといってもよいと思います。もしこれを喩えるならば、『往生論註』という縦糸と、『観経疏』という横糸とで織りなされた一反の織物が、『教行信証』であるということができましょう。そういう意味で、今後さらに親鸞教義を深く研究される場合には、『往生論註』と『観経疏』との研究が、特に重要であることを心得ていただいたらと思います。
(中略)
仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖(しゃっかく)[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭(さんけん)[蚕衣なり]の自縛するがごとし。
(曇鸞大師 往生論註 註釈版聖典七祖篇57頁)
浅井成海師の訳(三界~)
我々の世界は偽りに満ちており、その偽りの世界を生きる苦しみや悲しみは、繰り返し生じて絶えることがない。ちょうど尺取り虫が丸い輪をまわり続けるように、あるいは蚕が、自らの口から糸を出して自分の身体をがんじがらめに縛って身動きができなくなり、やがて熱湯につけられるようなものである。
善導大師の「機の深信」にあてはめるならば、
虚偽の相=現にこれ罪悪生死の凡夫
輪転の相=昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して
無窮の相=出離の縁あることなし
となります。
7月29日のエントリー「御和讃を読む」で取り上げた御和讃(高僧和讃 善導讃 註釈版聖典592頁)から。
利他の信楽うるひとは
願に相応するゆゑに
教と仏語にしたがへば
外の雑縁さらになし
御和讃の意味は先のエントリーを読んで頂くことにして、今日は「利他」について考えます。
この御和讃の「利他」とは「他力」という意味です。
親鸞聖人が利他を他力の意味で使っておられることは他にも何箇所もあります。
・利他深広の信楽(教行信証信巻 註釈版聖典211頁)
・すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。(教行信証信巻 註釈版聖典231頁)
・これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻 註釈版聖典235頁)
・利他円満の妙位(教行信証証巻 註釈版聖典307頁)
・行といふは、すなはち利他円満の大行なり。(浄土文類聚鈔 註釈版聖典478頁)
・定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし(浄土和讃 註釈版聖典570頁)
親鸞聖人は
他力といふは如来の本願力なり。(教行信証行巻 註釈版聖典190頁)
とおっしゃっています。
親鸞聖人の「他力」についての御自釈はこの1文だけで、このあと、曇鸞大師の論註の言葉を説明に充てておられます。
その中に「覈求其本釈」(註釈版聖典192頁)があります。
しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。
※覈は「まこと」と読みます。
過去のエントリー(歎異抄第1章と第2章の書き出しを読む、要門考)で述べたように、主語・主体が、阿弥陀仏なのか私・衆生なのかが重要です。
阿弥陀仏の救いは阿弥陀仏が主であり、私・衆生が従(受け手)なのです。
「利他」=「他力」の場合、「利他」の「他」が衆生であり「他力」の「他」が阿弥陀仏というのではありません。それだと「他」の意味が異なってきてしまいます。
どちらの「他」も衆生であり、「利他」は「自(阿弥陀仏」利他(衆生)」の「自」が省略されているということです。
つまり「利他」とは「自利他」であり、
「阿弥陀仏が衆生を利益される」ということです。
他力とは「利他力」の「利」が省略されたもので、
「阿弥陀仏が衆生を利益される力」なのです。
注:あくまでも「本来は」という意味です。「他」を「阿弥陀仏」と説明されている場合もあります。