何が目当てだったかというと、梯實圓和上の標題の文です。
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「註釈版聖典七祖篇」を読む その一
七祖聖教の「当面読み」について 浄土真宗聖典編纂委員会
このたび教学研究所の浄土真宗聖典編纂委員会より、『註釈版聖典七祖篇』が刊行されました。さきに出版された『原典版聖典七祖篇』に基づいて、くわしい註釈を施したものです。そこでこの『註釈版聖典七祖篇』の特色を解説するにさきだって、『原典版聖典七祖篇』の特徴である「当面読み」と私どもが呼んでいる読み方についてまず触れておきたいと思います。
「当面読み」とは、あまり聞きなれない言葉ですが、お聖教を文面どおりに読むことです。先哲がよく「文の当面」とか「文の当分」といわれていたことを「文の当面どおりの読み」といい、略して「当面読み」といっているわけです。蓮如上人が「聖教は句面のごとくこころうべし」といわれたものに当たります。「当面」とは、「目の前に存在すること」で、文面に見えているままということです。「当分」とは天台学などで、跨節に対する言葉として用いられ、文面に見えているままの法義のことをいいます。それに対して、文面には直接表われていないが、法義のうえから文面を超えて(跨いで)解釈することを跨節というのです。
七高僧のお聖教になぜ「当面読み」が必要であったかといいますと、親鸞聖人が、『教行証文類』などに七高僧のお聖教(漢文)をご引用になるときに、しばしば文章の当分とは違った読み方をされていたからです。もちろんそれは決して聖人の恣意に依るものではなく、深遠な信心の智慧をもって、阿弥陀如来の本願の文脈に遵い、祖師方のご本意をお見通しになったうえでの読み替えでした。しかし少なくとも漢文の常識を超え、また原文の文脈をこえた読み方(訓点)が随所になされているわけです。実はそこにこそ、他の追随を許さない「浄土真宗の宗祖」としての親鸞聖人の面目があるわけです。
しかしもし、親鸞聖人がおつけになったままの訓点をもって七祖のお聖教を拝読しますと、いくつかの問題が出てきます。第一には、親鸞聖人が言われることは、すでに七高僧がすべていわれていたことであって、聖人の独自性は何もないことになり、聖人のみ教えの特徴も、聖人のご苦労もかえって見えなくなるということです。聖人はつねに「愚禿すすむるところさらに私なし」と仰せられていたと言われています。たしかに、聖人は、仏祖のみ教えに素直に信順するという姿勢に終始されていました。しかしまた、そのようにして仏祖のみ教えによって育てられた智慧の眼(択法眼)によって、私どもには読みとれない仏祖の真実義を見抜き、開示するという偉業を達成されたのでした。七高僧がいわれていることを、ただ鸚鵡返しのようにいわれたと見るならば、かえって親鸞聖人の独自性(ご己証)がかくれてしまい、浄土真宗の宗祖としての面目が薄れてしまいます。
第二に、親鸞聖人の訓点をもって、七高僧の聖教を読みかえるならば、お一人お一人の独自性が見えにくくなります。たとえば曇鸞大師は、天親菩薩の『浄土論』を註釈して。『論註』を著されたのですが、それはただの註釈書ではなくて、私どもが読んでも決して読みとることのできない深い義理を『浄土論』の中に読みとって開顕されていました。ところがその『論註』に示されてはいたが、誰もその重要性に気づかなかった「他利利他の深義」を見抜いて、『論註』の上に大悲往還の回向を読みとられたのが親鸞聖人でした。また法然聖人は、「偏に善導一師による」といって、善導大師のみ教えの通りに伝承したと仰せられていますが、実際に善導大師のお聖教と、法然聖人の『選択集』をはじめとする多くの法語を比べてみますと、随分違った法門の発揮が見られます。その法然聖人が『選択集』にご引用になっている善導大師の『観経疏』の文章の読み方と、同じ文章を親鸞聖人が『教行証文類』に引用されたときの読み方とでは、大きな違いのあることがわかります。そういうこともあって浄土宗(鎮西派)の学者たちは、「親鸞は、廃師自立(師匠に背いて勝手に自分の義を立てた異端者)である」と非難したものでした。
しかしそんな宗派的な感情論は別として、七高僧のお聖教を子細に拝読すると、曇鸞大師にせよ、道綽禅師にせよ、善導大師にせよ、法然聖人にせよ、お一人お一人がそれぞれ画期的な浄土教学を展開されていたことがわかります。そうした七高僧の独自性は、まず祖師方のお聖教を正確に拝読することによってのみ知ることができます。そして、さらに親鸞聖人のご指南を受けるときはじめて、祖師方のお聖教を一貫している深義を領解することもでき、また、浄土真宗の伝統の祖師としてこの七人を選び取られた親鸞聖人の卓越した七祖観を知ることもできるわけです。
第三に、『教行証文類』のような漢文の聖教のなかで独自の訓点をつけて引用された場合には、原文と、聖人の訓点との違いがよく分かり、七高僧の原文と比較して、聖人のみ教えの独自性を確認できるという重層的な読み方が可能です。逆に七祖聖教の漢文に、聖人の訓点をつけた場合も、重層的に読むことは出来ます。しかし『註釈版聖典七祖篇』のように訓読の書き下し文だけを掲載する場合や、とくに現代語に訳した場合には事情が変わります。そして『原典版聖典七祖篇』はそこまで見越した編纂だったわけです。
たとえば『論註』下巻の「起観生信章」に示された五念門は、原文は願生行者のなすべき行として明かされています。聖人も「信文類」で第二讃嘆門の釈文を引用されるときは、願生者のなすべき讃嘆行(称名)として明かされていました。ところが、第五回向門の釈文を引用されるときには、阿弥陀仏の回向とみる訓点をつけられています。すなわち当面読みならば、
云何が廻向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願し、廻向を首と為す。大悲心を成就することを得むとするが故なり。廻向に二種の相有り。一には往相、二には還相なり。往相とは、己が功徳を以て一切衆生に廻施して、共に彼の阿弥陀如来の安楽浄土に往生せむと作願するなり。還相とは、彼の土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那を得、方便力成就すれば、生死の稠林に廻人して一切衆生を教化して、共に仏道に向かふなり。もしは往、もしは還、皆衆生を抜さて生死海を渡せむが為なり。是の故に「廻向為首得成就大悲心故」と言へり。(『原典版聖典 七祖篇』 一二一頁)
と読むべき文章なのです。ところが「信文類」(「行文類」や、三経往生文類』も)の引文は、
「いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに」とのたまへり。回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相とは、おのれが功徳をもって一切衆生に回施したまひて、作願してともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり。還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に回人して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向らしめたまふなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を渡せんがためにしたまへり。このゆゑに回向為首得成就大悲心故」とのたまへり」(『註釈版聖典』二四二頁)
となっています。ここで「回向したまふ」とか「回施したまふ」とか「往生せしめたまふ」と敬語を使われているのは、回向の主体を願生行者ではなくて阿弥陀仏(法蔵菩薩)とみなされたからです。しかし回向門だけを如来の回向として、主体を変えて『浄土論』や「論註」を読むならば文脈が乱れてしまいます。また五念門の主体をすべて阿弥陀仏(法蔵菩薩)とみなして、『浄土論』や『論註』の文章を拝読するならば、法蔵菩薩が阿弥陀仏を礼拝し、讃嘆し、阿弥陀仏の浄土を願生し、観察するという奇妙な文章になってしまいます。そこで『浄土論』や『論註』の文章は、文面通りに読まなければならないわけです。そもそも親鸞聖人が、「願力成就の五念門」といわれたのは、「義によって語に依らず」という立場での釈顕であって、文章の表面的な読み方の問題ではなかったわけです。
第四に、『教行証文類』のように、本願力回向の思想に立脚して著されている書物のなかで、その引用文が如来回向を顕す文章として読み下されても、現代語に訳されていても少しも違和感はありません。しかし『浄土論』や『論註』の中で、ある部分だけを本願力回向を表す文として読み下しますと、前後の文章とつながらなくなる恐れがでてきます。「散善義」の三心釈について、聖人が真実と方便とに読み分けられた場合も同じようなことがいえます。ことに至誠心釈の独自の読み方は、法然聖人の示唆を受けられたに違いありませんが、まぎれもなく親鸞聖人のご己証でした。
こうした理由から七祖聖教は「当面読み」をおこない、親鸞聖人が法義を発揮するためにつけられた独自の訓点と区別することになったのです。これによって、七高僧のそれぞれの教学を正確に学ぶことができると同時に、親鸞聖人のご己証もまた明確に学びとることができるわけです。そのような学習の便宜を図るために「原典版聖典七祖篇」では、親鸞聖人の独自の訓点を巻末に一括して掲載し、七祖の聖教の該当部分との比較ができるようになっています。このたびの『註釈版聖典七祖篇』では、もっと簡単に比較できるように。「脚註」に親鸞聖人の訓点が記載されています。
(梯 實圓)
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この「同一性」について理解を深めるために、山内得立氏の説明を紹介します。
第二 ロゴスの展開
(略)
同一性の判断は、事物がそれ自らをそれ自らとして、それ自らに於いて断定することである。事物は時々刻々に変化してやまぬものであるが、それにも拘らずそれ自らを維持し、それ自らとして有らんとする。この自己同一性なしには事物は存在し得ぬ。事物が有るというのは或るものとして自らを保持することであり、変化の中に不変なるものを失わぬことによってそれ自らであり得る。自己同一的であり、自同性を保つことによってそれ自らとしてあり、決して他でないものとして有りうるのである。しかしそれと同時に自己が自己でありうるのは他と区別することによってであり、自他を分別することなしには自己を堅持することができない。自己とは他者に非ざるものであり、他者は自己ならざるものである。自他の分別なきところに他者はなく、自己もまたあり得ない。自が自であるのはそれが他でないことによってであり、他が他でありうるのはそれが自に非ざる故にである。有るものを或るものとして決定するのはそれ故に却って否定の上に立っている。omnis determinatio est negatioということは茲に於いて妥当するが、我々にとっては、ロゴスが単に肯定ではなく常に否定を伴って初めて、その機能を完うするということが大切である。ロゴス的であるというのは否定すべきものを否定し、肯定せらるべきものが肯定せられるということであった。その執れが先であり、根本的であるかということよりも、肯定は否定なしには、否定は肯定なくしては共に成立しないということがより肝要なのである。それはロゴスが先ず肯定と否定とに分別せられ、この分別なしにはロゴスは論理として働くことができない。論理とは正しい判断であり、判断は肯定か否定かの執れかでなければならなかった。(以下略)
『ロゴスとレンマ』(山内得立著 27頁)
omnis determinatio est negatioはスピノザの言葉で、「すべての規定は、否定である」という意味です。
一部、聖典セミナーなどの内容と同じですね。
救いということ とくに現生正定聚をめぐって
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一、歓喜と慶喜
「浄土真宗の救い」を、一言で表した言葉に「現生正定聚、当来滅度」という言葉があります。阿弥陀如来の本願を疑いなく受け容れる信心が初めて起こった信の一念に、現生(この世)において、浄土に往生し仏になることに決定した正定聚の位に入り、そして当来、この世の「いのち」が終わったときには、お浄土に生まれてさとりを開かせて頂くことであるというのです。確かにそのとおりですが、ただ、その内容が問題です。言葉がわかっていることと、事柄がわかっていることとは別ですし、言葉を知っているというだけでは、絵に描いた餅みたいになってしまいます。そういう意味で、一体、現生正定聚ということがどういうことなのか、あるいは浄土に往生してさとりを開くということが、どんなことを意味しているのか、ということを確認していくことが大事だと思います。
そこでまず、その現生において正定聚に入るということを中心にお話をしたいと思います。実は、煩悩具足の凡夫が、凡夫であるままで、現生において正定聚の位にはいるというようなことを仰ったのは親鸞聖人だけで、法然聖人といえども言い得なかったことをズバリと言い切られたわけですが、それには学問だけでなく、親鸞聖人の深い宗教体験が裏打ちされていました。
それを窺うについて、親鸞聖人が、如来のお救いにあずかった「よろこび」を表現されるとき、言葉を微妙に使い分けられていることを手がかりにしていきたいと思います。日本語で申しますと、「よろこぶ」ということなんですが、それを漢字で表記することで、「よろこび」の内容の違いを表現しようとされているわけです。具体的に申しますと「慶喜」とか「慶哉」とかいうように「慶」という字で「よろこび」を表現する場合と、「歓喜」という言葉を使って「よろこび」を表現する場合で「よろこび」の内容を違えていらっしゃるのです。「歓」といっても、「慶」といっても、語源の違いから来る文字の意味に少しの違いはありますが、同じように「よろこび」を表していて、特に使い分けるということはありません。経論などの用例でも「慶喜」であっても「歓喜」であっても別に変りはなく、「よろこぶ」という意味で使ってあるようです。ただ、親鸞聖人はこの二つの言葉を使い分けられるわけです。
まず、「慶喜」の「慶」について、「慶はうべきことをえてのちによろこぶこころなり」(『一念多念文意』)とか、あるいは「慶喜といふは信をえてのちによろこぶこころをいふなり」(『尊号真像銘文』)というふうに言われております。従って、この場合は、「お救いを頂いて有難うございます」と、現在すでに救われている状況を喜んでおられるわけです。
それに引き替え、「歓喜」というときは、「歓喜はうべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり」(『一念多念文意』)といわれています。「うべきことをえてんず」ですから、まだ得ていません、得てはいないけれども、得るべきことを必ず得るであろうと、かねて先立って喜ぶというのですから、「よろこび」を未来形(将来形)で語る場合であって、このときは「歓喜」という言葉を使うというのです。
『教行証文類』には、沢山のお経の言葉、あるいは論・釈の言葉を引用されます。その引用文の中に「歓喜」や「慶喜」が沢山出ていますが、両者を特に使い分けられているわけではありません。しかし、親鸞聖人はこのように「よろこび」を表す言葉を厳しく使い分けられたわけです。それは浄土真宗の教えでは、現生で獲る利益と、当来(将来)に浄土において実現する利益との違いがあったからです。それを現生では正定聚、当来には滅度と言い習わしているわけです。
ところで『教行証文類』を拝読していますと、聖人が御自身の「よろこび」を述べられるときは、必ず「慶喜」あるいは「慶哉」という言葉を使われていて、「歓喜」という言葉を使われていないと言うことがわかります。これは大きな特徴でございます。つまり、得べきことを得て後に「よろこぶ」、あるいは信を得て後に「よろこぶ」という現在完了形で御自身の喜びがいつも表現されているということです。すなわちすでに実現している救いを喜ばれているわけです。『教行証文類』「総序」には、
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
こういうふうに具体的に仰せられています。
「ああ、このような力強い本願力には、いくたびも生を重ねても値いたてまつることは難く、清らかな真実の信心は、無量劫を経ても、獲る機会はなかった。思いがけなくも、いま行信を獲、本願を信じ、念仏をもうす身になったものは、遠い過去世からの阿弥陀仏のお育てのご縁に思いを致して慶べ。もしまた、このたびも疑いの網に覆い隠されて本願の法をいただかないようなことがあれば、ふたたびまた永劫の迷いを続けねばなりません。
誠なる仰せではありませんか。私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。
ここに愚禿釈の親鸞は、まことに慶ばしいことに、遇いがたい印度・西域の聖典をはじめ、中国・日本の祖師たちの御釈にいま遇わせていただくことができ、聞きがたい教えをすでに聞かせていただくことができました。これによって浄土真宗の教行証のおみのりを敬い信じ、ことに如来の恩徳の深いことを知らせていただきました。そこで、聞かせていただいたおみのりを心から慶び、わが身に獲させていただいている教えをたたえさせていただくために、この書を著すのです」と仰せられているのです。
この短い文章の中に「慶」という字が三回も使われています。もし私どもが親鸞聖人に「あなたにとって、よろこびとすべきことは何ですか」と尋ねたら、きっと「遇うべき人に遇わせて頂いた、聞くべきみ教えはすでに聞かせて頂いた、そして現に本願を信じ、お念仏申す身にすでにして頂いている。そのことが私の無上の慶びです」とお答えになるに違いありません。そこではすでに慶ぶべき事柄がご自身の上に実現しています。「この世に生きてある限り、さまざまな苦難は襲いかかりますけれども、しかし何事があろうと、この世に生まれさせていただき、この法縁を恵まれ、本願を聞き念仏して、浄土を一定と期する身にしていただいたことは、何にもまして有り難いことでございます」と、自分の人生に合掌して終わっていけるような境地に安住しておられることがわかります。
『教行証文類』の「後序」にも、源空聖人に出遇って、「雑行を棄てて、本願に帰す」る身となったことを感謝して、
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
と述懐されています。ここでも「慶ばしいかな」という字はやはり「慶」であり、「慶喜」という字が使ってあります。遇うべきものには遇った、聞くべきものは聞いた、信じなければならない如来の本願を信ずる身にしていただいた。そして浄土を願生するものとしての正しい生き方として如来から恵まれた念仏は称えさせていただいている。その意味では、この世に生まれてきた所詮はあったと、はっきりと確認しておられます。
「歓喜」の方は、「うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり」というのですから、まだ実現していない、実現していないけれども、そのことが実現することにすでに決まっている。それを、かねて先立って「よろこぶ」というのですから、これは浄土に往生することです。これはまだ実現しておりません。この娑婆でまだ煩悩を燃やし続け、それゆえに凡夫としての苦難を受け続けております。けれどもこの凡夫としての生涯が終わったならば、必ず浄土に生まれる身にしていただいています。そのことを有り難いと思う「よろこび」のことです。ですから未来形(将来形)の喜びです。
もっともそれは未来というよりも将来、もしくは当来と言った方が適切かも知れません。未来という言葉は「未だ来らざるもの」と読むように、まだ存在していないものと言う否定的な意味が強く出ますが、将来とか当来と言うときには、「まさに来るべきもの」と言うことになり、今まさに実現しようとする状態を表すことになり、現実を転換していくものとして、来るべき事柄を肯定的に表すような響きがあります。浄土を願生するものにとって、浄土は、現実よりも強い実在性を持っていて、まさに来たるべき事柄として受け取っていきますから、未来というよりも、将来という方がより正確に事態を表しているといえます。『歎異抄』の中序に「信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがら」といわれた表現が一番しっくりするように感じます。
さて浄土に往生するということは、仏陀のさとりの領域である安らかな涅槃に生まれることですから、迷いの根源である無明・煩悩が完全に浄化されて、智慧と慈悲を完成した仏陀になることを意味していました。それを「当来には滅度(涅槃)の証果を得る」といわれているわけです。ところで親鸞聖人は、その証果の内容を大悲還相として表されていました。還相(穢国に還来するありさま)とは、往相(浄土へ往生するありさま)に対する言葉で、本願を信じて、浄土に往生してさとりの智慧を極めたものは、その往相の究極におして大慈悲心を起こして、一切の衆生を救うために、煩悩の渦巻く迷いの世界(穢国)へ還ってきて、迷える人々を救うはたらきを限りなくなさしめられることを還相というのです。私どもが浄土に往生することも、浄土に在るままで迷える人々のところへ還って来て、人々の苦難に寄り添い、まことの救いを恵み与えていくことも、すべて阿弥陀仏が、本願力をもって回向し施してくださった事柄であるというので、親鸞聖人は、往相も還相も如来が回向してくださった賜物であるといわれています。
浄土に往生し、さとりを完成するというと、それが究極の目的のように見えますが、実はそうではありません。浄土に往生し、大智、大悲を完成した仏陀になるのは、生きとし生けるすべての者を救い続けることができる身にしていただくことを意味していたからです。この世ではどうしてあげることができなかった人々を、思いのままに救うことのできる身にしていただくことが有り難い。すべての人々の悲しみに寄り添って、「苦難は私が引き受けるから、あなたはどうぞ幸せになって下さい」と、本気で言えるような智慧と能力を完成していただくことを、「歓喜はうべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり」と、聖人は仰せられたのでした。
二
さて、親鸞聖人の教説の特徴の一つは、本願を信じるものは、即座に正定聚の位に入るといわれたことでした。実は永い浄土教の歴史のなかでも、現生(この世)において正定聚に入るということをはっきり言い切ったのは親鸞聖人だけなんです。大変なことを聖人はおっしゃっているわけです。しかし「正定聚」というのは一体何なんだろうかということについてお話をしておきたいと思います。
仏教では正定聚、不定聚、邪定聚という三定聚ということが言われまして、仏道修行者の階位をあらわしていました。修行が進展していく過程を三つの部類に分けてあらわしたものです。部派仏教(小乗仏教)に属する論書の、『阿毘達磨倶舎論』では、邪定聚というのは、邪悪(よこしま)な行いをして悪道に堕ちることに決定しているもののことです。それに対して、修行に励んで煩悩を断ちきることのできる智慧(無漏智)を開いて、苦諦(凡夫の現実は苦であるという真理)、集諦(苦の原因は煩悩であるという真理)、滅諦(煩悩を起こさなくなれば、すべての苦は滅して安らかな涅槃と呼ばれる状態になれるという真理)、道諦(煩悩を起こさなくらるために実行しなければならない正しい生き方についての真理)という四諦(迷いとさとりの因と果を明らかに説き表された四種の真理)をはっきりと確認することによって、まず後天的な悪条件によって起こって来ていた分別起(見惑)という煩悩を断ち切って、もはや悪道には決して退転しない預流果と言われる地位に入ります。預流果とは凡夫の仲間を超え出て、聖者の流れ(仲間)に入ったということです。このような真理をさとる智慧(正智・無漏智)を開いている人は必ずさとりを完成することが決定していますから、正定聚というのです。この人はさらに修行を積んで、生まれつき持っている根強い倶生起の煩悩(修惑)を一つ一つ断ち切っていき、預流果から、一来果、不還果というふうに進んで、最終的には完全に煩悩の絆を断ち切って阿羅漢という究極のさとりに到達していきます。
こうして無間地獄に落ちるような悪業を作っている邪定聚と、真理をさとる智慧を開いて、さとりを完成することに決定している正定聚と以外の修行者のことを不定聚というといわれています。たゆみなく修行していけば正定聚の位に入ることが出来ますが、修行を止めて悪業を積めば邪定聚に堕ちてしまいます。進めば正定聚ですが、退けば邪定聚に堕ちるという不安定な状態にある修行者のことを不定聚というのです。
大乗仏教になりますと、色々な経典や論疏の中にさまざまに三定聚が説かれていますが、『釈摩訶衍論』には、三定聚を菩薩の階位に寄せて三種類の説にまとめております。菩薩の修行の階位にもいろいろな説がありますが、一番一般的な説は、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚という五十二段の階位で表しています。煩悩具足の凡夫から十信の位までを外凡といい、十住、十行、十回向の三十位を内凡といいます。外凡とは、心がまだ仏法の中に安住していなくて、煩悩が盛んに起こっているような状態の人をいいます。内凡とは心が仏法に安住していて、煩悩はまだありますが、よく制御されていて外へは漏れてでないような状態になっている人です。この三十位の菩薩を三賢の位の菩薩といい賢者といいます。
次の十地位の最初を初地といいますが、初めて般若、無分別智と呼ばれる智慧が起こって無明の一分を破って真如(あるがままの真実)を悟るようになります。もはや凡夫や、小乗の聖者のような境地に退転することはなくなり、確実に仏陀になることが決定します。そこでこの位を不退転地とも呼びますが、その時菩薩の心には大きな喜びが湧いてきますから、この位を歓喜地ともいいます。この初地以上の菩薩は真如を悟る智慧を獲得していますから大乗の聖者といいます。そこで三賢に対して十地の菩薩を十聖といいならわしています。こうして初地の菩薩は、聖者にはなりましたが、まだまだ完全な悟りではありませんし、特に一切の衆生を救済するという大悲利他の活動が未完成でして、さらに長い間の修行を続けなければなりません。
等覚とは菩薩の最高位であって、ほとんど仏陀と同じ徳を実現していますから正覚者に等しいというので等覚と呼んでいます。ここでは等(ほとんど同じ)と同(全く同じ)とを使い分けをしていることに注意をしておく必要があります。後に親鸞聖人が信心の行者を「如来と等しい」といわれた場合は、この等覚の意味でして、「如来と同じ」ではありませんので注意しなければなりません。菩薩はこの等覚の位においてさらに長時にわたる修行を積んで自利と利他を円満し、智慧と慈悲を完成し、最後に迷いの根源である元品の無明を断じて妙覚位に登るといわれています。
さて『釈摩訶衍論』の三定聚説の第一説は、十信中の初信の位にも至らない全くの凡夫を邪定聚といい、十信位の菩薩を不定聚と言い、三賢と十聖と等覚の菩薩を正定聚という説です。第二説は、凡夫から十信の最後までを邪定聚といい、十住から等覚までを不定聚といい、仏を正定聚という説です。第三説は、十信以前の凡夫を邪定聚といい、十信、十住、十行、十回向の四十位を不定聚といい、初地以上の十地と等覚の菩薩までを正定聚というとする説です。
浄土真宗の電灯の祖師方の中で正定聚という言葉を使われたのは曇鸞大師でした。大師が正邪定聚、不定聚をどのように見られていたかはわかりませんが、ただ正定聚を初地以上の菩薩のことと見られていたことはわかります。したがってそれ以下を不定聚、邪定聚に配当されていたとしなければなりません。その意味で『釈摩訶衍論』の三説のなかでは第三説が一番よく似ているようです。曇鸞大師のいわれる初地は、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』に説かれている初地であり、歓喜地とも、必定とも、不退転ともいわれていました。また『浄土論』でいえば五功徳門の中の近門と大會衆門に当たります。しかし初地の菩薩ということになりますと煩悩を断じ、無明を断じて、真如の理を体得した聖者を指していました。『浄土論』の近門と大會衆門も浄土の果報として説かれていましたから、『論註』の文面では浄土に往生すれば正定聚に住するといって、正定聚は浄土で得る利益と見られていました。『論註』の序題に、『十住毘婆沙論』に説かれた易行道の利益である阿毘跋致(不退転地)を釈して、
「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。(『註釈版聖典』七祖篇四七頁)
といわれているとおりです。
三
ところで親鸞聖人は、正定聚と不定聚と邪定聚を第十八願、第十九願、第二十願の三願に配当して領解されていました。それは『大経』の下巻の始めに説かれた第十一願成就文に、
それ衆生あつて、かの国に生れんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり。(『一念多念文意』六八〇頁の読み方)
といわれた文意によって解釈されたものです。ここで正定聚というのは第十八願の法義を疑いなく受け入れた人のことでした。すなわち真実の信心を獲た人は、即座に摂取不捨の利益に預かって、確実に真実報土に往生し成仏する身に定まっていますから、「正定の聚に住す」といわれたと領解されたのです。そのことを『親鸞聖人御消息』の第一条には、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」といわれています。
それにひきかえ真実の報土に生まれることの出来ない者として挙げられた邪定聚と不定聚とは、方便化土しか生まれることのできない第十九願と第二十願の機であると読み取っていかれたのでした。これは親鸞聖人以外誰も言ったことのない説でした。
では、なぜ第十八願の機を正定聚というのか。また第十九願の機を邪定聚、第二十願の機をなぜ不定聚と言うのかということが問題になってきます。正定聚とは、曇鸞大師が仰せられているように、迷いの根源である無明の一分を破る正智を獲て真如をさとり、成仏することに決定している聖者の仲間にはいることでした。そのように正智を獲た人ですから聖者といわれる訳です。第十八願の信楽(信心)は、その本体は大智大悲の仏心であるから、よく往生成仏の因となる徳を持っています。ですから有漏の穢身が消滅する臨終の一念に真実報土に往生し、即座に成仏することに定まっていますから、その信心の徳からいって正定聚といわれる道理がある訳です。さらにまた先に述べたように摂取不捨の利益にあずかって、不退転の位につけしめられていますから正定聚の数に入るということができるからでした。すなわち信心の内徳からいえば無漏の仏智を頂いているからであり、光明摂取の外縁からいえば不退転の位に住せしめられているから現生において正定聚の機といえるというのです。
第十九願の機を邪定聚というのは、この願に誓われているような自力の行信、すなわち雑行に心が定まっているような行者であるからです。雑行とは、如来によって選捨された非往生行を往生行としているのですから、それは正当な往生行(正行)に対すれば、邪(よこしま)な行ですので邪雑の行といわれています。その邪雑の行に心が定まっているから邪定聚といわれるのです。
第二十願の自力念仏の機を不定聚というのは、自力念仏の構造からそのようにいわれる訳です。自力の念仏とは「機は頓にして、根は漸機なり」といわれているように、称えられている教法(南無阿弥陀仏)からいえば如来の成就された選択回向の名号ですが、それを受け取る人の心(根)が自力心を離れられないでいるから、速やかにさとるはずの法(頓教)を見失って回り道をする漸教に陥ってしまっています。すなわち法の真実からいえば、正定聚であるべきなのに、機の誤りから邪定聚の人の定散自力心と同じ状況になっています。ですから機執を離れて法に向かえば正定聚に入るし、法に背いて定散心をつのれば、邪定聚の機に落在するという中間的な存在であるから不定聚と呼ぶのにふさわしいと見られたのでした。
それにしても第十八願の信心の行者がどうして聖者の位であるような正定聚に入ると言えるのかが問題になります。といいますのは、信心の行者であるといっても、この世に生きてある限りは煩悩を起こし続け、縁に触れたならば、どんな悪業を犯すか知れない危険な凡夫であって、決して聖者といえるような立派な人にはなれないからです。
親鸞聖人も『一念多念文意』に、「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり」とおっしゃっています。死ぬまで煩悩を燃やし続け、罪業を造り続けるものが、どうして正定聚の聖者といわれるのでしょうか。
四
そこでまず第十八願の信心とは何であるかということを知ることが大事になってきます。『一念多念文意』には、「信心は如来の御ちかひをききて疑うこころのなきなり」と定義されています。信心というのは、仏様の本願を疑いをまじえずに聞き受けて仰せの通りに受け入れている状態を言うのです。同じことを「信文類」では、「疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく」と言われております。疑いという蓋を間にまじえない状態なんだというのです。たとえばコップの中に水を注ごうとしたときに、コップに蓋をしていますと水は一滴も入ってきません。ちょうどそれと同じように、自分の心に疑いの蓋をして、心を閉じてしまったならば、仏様のみ教えは決して入ってきません。実はその疑いといういのは、普通に、何か物事の道理がよく解らなくて疑うということではありません。かえって、人間が持ち前の知識を働かせて、阿弥陀仏の本願の救いを推し量って解ったと思っていることを疑いといわれているのです。人間の持ち前の知識で、仏陀の大智大悲の領域を量り知ろうとすることを、親鸞聖人は、「自力のはからい」と呼び、それを本願疑惑と呼ばれているのです。
したがって、信心とは何かということを知るためには、その反対の言葉である「人間のはからい」とは何であるかということを知っておかねばなりません。その自力のはからいとは、先程も申しましたように、「分別」を基本的な性格としています。私どもは、生と死を別物としか考えられませんから、生に執着して、死を拒絶したり、生に絶望して死を願ったりして苦しんでいます。また私どもは、自分と他者とをはっきりと分け隔てすることによって自己を確立し、その自己を中心にして自他を画然と分け隔てします。そして自分に都合のいい人は愛し、都合の悪い者は憎むという愛憎のしがらみをつくり出し、悩みもだえながら生きていかねばなりません。それに引き替え仏陀は、生死を分け隔てし、自分と他者とを画然と分け隔てすることを虚妄なる憎と親愛は、どちらも煩悩がどちらも煩悩が描いた虚構であるとさとって、愛憎を超えた安らかな涅槃の境地に到達された方でした。そして、生死に迷って苦悩している私どもを目覚めさせるために、み教えを説いて導いてくださっているのです。
しかし、虚妄分別の中に閉ざされている私どもが、分別的な知識を超えた「無分別智」を本体としている如来の教えを受け容れることは至難の業です。それはわかろうとしていることが、かえってわからなくしてしまうことになるような性格を持っているからです。人間の持ち前である物事を対象的に識別して判断する能力(分別)で、識別してわかったと思っていることは、実はわかったのではなくて、分別を超えているものの真実の有り様をただ誤解をしていることに過ぎないのです。じゃあ、一体どうしたらいいのかというと、如来は無分別智をもって確認されたさとりの領域を言葉で表現して、私どもに伝達しようとされていますから、そのお言葉(教説)を、仰せの通りにスーッと受け入れることです。如来の言葉を受け容れたならば、受け容れた言葉が私に如来を知らせ、浄土というさとりの領域のあることを知らせてくださるわけです。
これは簡単なようですが、しかしもともと人間の能力を超えた出来事ですから、易いようで恐ろしく難しいことなのです。だから『大無量寿経』でも『阿弥陀経』でも本願のみ教えを信じることは人間の能力では不可能なことであるというので、「難信の法」とも、「極難信」ともいわれているのです。
蓮如上人は、『御一代記聞書』(第一九三条)に
「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
といわれています。柔らかな水が硬い岩を穿ち貫徹していくように、己を空しくして如来の仰せを聞き続けている人は、如来のお慈悲のはたらきによって、本願のお言葉を、素直に受け容れられるようにお育てくださるから、「仏法は聴聞にきはまる」といい切られています。
その阿弥陀如来の第十八願には、「至心に信楽して我が国に生まれようと欲え」と誓われています。至心というのは、如来の本願が真実であることをいい、信楽とは疑いをまじえないことであり、欲生とは必ず浄土へ生まれることができると期待することであるというのが親鸞聖人の領解でした。すなわち「嘘も偽りもない本願のお言葉を(至心)、はからいをまじえずに疑いなく受け入れて(信楽)、私の国に生まれようとおもいなさい(欲生我国)」とおっしゃっているというのです。「信文類」には、「欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり」といわれています。「諸有の群生」とは迷いの境界に閉じこもって、迷い続けているものというのですから、私どものことです。私どもは、仰せの通りに疑いなく、お浄土へ生まれさせていただくのだと思えばいいわけです。しかし「私の国に生まれようと思いなさい」というこの本願のお言葉がそんなに簡単に受け容れられますかね。私たちの考えとは全く違っているからです。
私どもの考えでは、先ほどもちょっと申し上げましたが、まず生と死とは真反対の言葉で、決して両立はしません。生きているけれども死んでいるとか、死んでいるけれども生きてているとは決して考えられないことだからです。私の人生の最後は死であるとしか思えません。私たちは「生まれてきて死んで行くもの」という枠組みで自分の存在をとらえていますから、そういう存在なんだといえばよくわかるんですが、死ぬのではなくて生まれるものなんだよといわれたら、これはわかりませんね。死ぬことが生まれることならば、生きていると言うことは何なのでしょう。
お釈迦様というのは「生まれたものは死ぬもんだよ」と教えられたといいますが、それだけならばわざわざお釈迦様に言うてもらわんでも分かっているんじゃないかな。実はお釈迦様が言おうとされたことは、そうじゃなくて、必ず死ぬ生を有り難く受け容れ、生の滅びと考えている死を、生と全く同じように有り難きこととして受け容れることができるような境地に到達しなさいといいたかったのでしょう。生と死を超えて、生と死を一望の下に見通すことのできるような精神の領域を開いた方ですから、「お前が考えているような生も、お前が考えているような死も、その言葉に対応するような実体は存在しませんよ」と教えたかったのでしょうね。「生と死ちうような言葉で捉えている生死は本来、空であって、お前がとらわれるような生も死も実在しないんだよ」と言われているのでしょう。
しかし、わたしどもはそんなお釈迦様のお言葉を受け入れることはできません。「私は今確実に生きています。しかしそのうちに死ぬ時が来るだろうが、死が何なのか全くわかりません。死んだらどうなるのか、なにもわかりません。わからないから、死を考えると恐ろしいし、虚しい虚無感に襲われます。しかし生と死に的確に対応できる力も智慧も持っていません。どうしようもないまま、むなしく死に飲み込まれていくしかない」というのが私ども人間の現実の姿ではないでしょうか。
それに対して、阿弥陀如来は、「死ぬんじゃなくて私の国に生まれてくるんだよ、そなたを浄土へ生まれさせる智慧と力を私は完成しているから、私にまかせなさい」とおっしゃるわけです。しかしその言葉を受け入れるほど素直ではありませんから、私たちはそれに反発しながら、戸惑っているわけです。
五
この生死の超え方に聖道門の超え方と浄土門の超え方とがあるわけです。聖道門では端的に「生死本来空」と知れといます。例えば禅宗などの場合は、生は不生であり死は不死であると知れといわれます。むかし中国の禅僧で道固禅師という方がいました。葬式に行った時、連れていった弟子の漸現が葬式の最中に棺桶の中の遺骸を指して、導師の道固に「これ死か、これ生か」と尋ねたそうです。それに対して道固が「生ともいわじ、死ともいわじ」と応えたことは有名です。これが解れば生死を超えるわけです。また日本の盤珪国師はいつも「不生」という一言ですべてを言い尽していたそうです。これは盤珪の不生禅といって、大変有名でございます。ある人が、「禅師、あなたは不生で聞き、不生で歩き、不生で日暮しをせよと仰っていますが、不生の人が死んだらどうなるんですか」と尋ねたら、禅師は「不生のものには死はない」と言われたそうです。
しかし、阿弥陀様はそんなことはおっしゃいません。ひたすら「我が国に生まれんと欲え」と願っていてくださいます。しかしこれはさきに申しましたように無分別智によって確認された生死一如、自他一如という、言葉を超え、思いを超えた領域から、私どもを呼び覚まして、生死を超え、自他の隔てを超えたさとりの領域へと導くために設けられた仏語であるという事を忘れてはなりません。このような知識を超え、言葉を超えた領域を開く言葉は、分別して理解しようとした途端にわからなくなってしまいます。ただ仰せの通りに受け容れるしかないのです。浄土があることがわかったら信じるとか、如来がわかったら受け容れますとか言っていたら千年経っても受け容れられるものではありません。それが解らないから迷っているのですから、仏語はただ仰せのとおりに受け容れるしかないのです。
「わたしには如来さまも、お浄土もわかりませんが、あなたの仰せには嘘も偽りもないとお聞かせいただきましたので、あなたの仰せのままに浄土に生まれるのだと受け取らせていただきます」と仏語を受け容れればいいのです。このように本願のお言葉をスーッと受け入れることを信心というのです。すると受け容れた本願の言葉が、如来を知らせ、浄土をはっきりと知らせてくださるのです。そして自分が浄土へ生まれさせていただく身であることもはっきりと知らせてくれます。すべては本願の言葉を受け容れたところから始まるのです。だから「信心をもって本とせられ候」というのです。このように本願の言葉は私に生死を超え、愛憎を超えた浄土という永遠な「いのち」の領域を開いてくださるのです。それが本当に「いのち」の言葉であり、生きた言葉なんです。このような「いのち」の言葉に触れたとき、私の「いのち」が永遠の「いのち」に連なっていることが味わえるようになるんです。それを聖人は、「至心信楽のこころをもって安楽浄土に生まれんとおもへとなり」と仰せられたのでした。如来の真実なるみ言葉を真実と受け入れて、仰せのままにお浄土へ参らせて頂くんだと思いとらせて頂いた、その瞬間に生と死の壁を打ち破って大悲本願の世界が開けてきます。
そういうことですから、仏様の前にお座りになって、「如来様、あなたは私をお浄土へ生まれさせてくださるのだそうですね」といってごらんなさい。そしたら如来様は、「そうだよ」と言って下さいますよ。「それはまことにありがとうございます」と申しますと、如来さまは「私の切なる願いを聞き入れ、私の心をわかってくれたのだから、お前は今日から私どもの仲間だよ」といってくださいます。こうして信心の行者は、阿弥陀如来の眷族にして頂き、凡夫のままでまさしく仏に成ることに決定している聖者の仲間入りをさせて頂きます。これを親鸞聖人は正定聚に入るとおっしゃったわけです。
如来さまのお言葉を受け容れないで、自分の理解力をたよりに如来、浄土を知ろうとしますと、どうしても自分の理解能力に応じた如来を描き出し、浄土を描き出すことになります。それは自分の心の影であって、本当の如来でも浄土でもありません。まことの如来は、教えの言葉となって私に届いて知らせてくださるのです。月は、月の光で見せてもらうんだし、太陽は太陽の光が見せてくれるのです。夜になって「月が出ているかどうか見て来い」と言われて、懐中電灯で空を照らして「月は出ているか、どうか」といってさがす人はいないでしょう。月を見るのに懐中電灯はいらないのです。懐中電灯の光は私どもの足元は照らしますが、お月さんまで届かないからです。月を見る光は月からくるんです。太陽を見る光は太陽から来るんです。太陽の光が太陽を知らせ、月の光が月を知らせる。如来・浄土を知らせるのは、如来の智慧の光である教説なのです。仏様の言葉が仏様を知らせる。この言葉を離れて如来を知ることはできません。
自分の理解能力や禅定力で如来・浄土を捉えたと考えている人は、自分が描いた心の影を見ているだけです。このような人を邪定聚といわれたのです。またせっかくお念仏を申しているが、それは如来が南無阿弥陀仏という言葉となって私を呼び覚ましておられると気づかずに、念仏して功徳を積み重ねて如来に近づき、浄土に往生しようとはからっている人がいます。それを不定聚の機といわれたのでした。こうして親鸞聖人は、第十八願の人を正定聚、第十九願の人を邪定聚、第二十願の自力念仏の人を不定聚というふうに分類されたのでした。
正定聚という言葉はまさしく仏になることに決定している仲間ということですが、それは、仏になる因が具わっている人と言うことになります。仏になる因は本質的に仏と同質のものでなければなりません。米の種は米であり、大図の種は大豆なのです。大豆を蒔いても米は取れません。仏になる因種は如来さまから与えられた仏心であるような信心がまさにそれなのです。昨年の秋の収穫の果である籾を今年の初夏の泥田に蒔けば。今年のお米の収穫の因になるように、如来の成就された智慧と慈悲が本願力によって回向されて凡夫の私に届いて、私の仏になる因となってくださっているのが信心なのです。信心は私の心に開けていますが、私の妄念の心ではなくて、その本体は仏心なのです。そのことを親鸞聖人は信心正因といわれたのでした。
六
親鸞聖人は、『入出二門偈』の一番最後のところに、
煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。
この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。
この信は最勝希有人なり、この信は妙好上上人なり。
安楽土に到れば、かならず自然に、すなはち法性の常楽を証せしむとのたまへり。
といわれています。煩悩具足の凡夫であるけれども、仏の本願力によって、信心を頂戴したものは「凡数の摂にあらず」、凡夫の数に入らないと言われているのです。凡夫の数に入らないのならば何になるのでしょう。仏教では生き物を大きく二つに分けると凡夫と聖者の二種類になるといいます。ですから、凡夫でなければ聖者の数に入るということになります。もっとも聖者の中にも、未完成の聖者である菩薩と、完全な聖者である仏陀とがあります。私どもが完全な聖者である仏陀になるのは浄土に往生してからのことですから、いまはまだ仏陀にはなっていない聖者である菩薩ということになります。
実はこの「凡数の摂にあらず」という言葉は、善導大師の『観経疏』の「序分義」の一番最後に出てくる言葉なんです。『観経』の序分によりますと、お釈迦さまから十方の浄土を見せていただいた韋提希夫人は、どのお浄土も素晴らしいけれども、私は阿弥陀仏の浄土に往生したいと願い、どうすれば浄土に生まれることがでいるかということをお尋ねをします。そして「私はすでにお釈迦様のお力によってお浄土を見せて頂くことができました。けれども私と同じように煩悩を燃やし、五種の苦しみにさいなまれながら生きていかねばならない未来の凡夫は、お釈迦様にお会いをすることができませんが、彼等はどうしたらお浄土を見ることができましょうか。その方法を説いてやってくださいませ」とお願いするんです。それに応じて、日想観から始まって雑想観に終わる、浄土と如来と、観音・勢至の二菩薩を心に思い描いていく十三種類の観念の方法(観法)が説かれていくわけですが、そこに「五苦所逼(五苦にせめられる)」という言葉があるんです。その五苦という言葉を善導大師が註釈されたなかに、「もしこの苦を受けざるものは、すなはち<凡数の摂にあらず>」といわれているものから採ってこられた言葉なのです。
五つの苦しみというのは、生・老・病・死の四苦、それに愛別離苦(愛するものと別れなければならない苦しみ)を加えて五苦というのです。それにさらに、怨憎会苦(怨み憎むものとも会わねばならない苦しみ)、求不得苦(欲しいものが得られない苦しみ)、五陰(蘊)盛苦(煩悩を起こし続ける心身をかかえている苦しみ)を加えると、これで八苦になる。これを四苦八苦というんですが、その八苦の中でも、愛するものと分かれる苦しみは特に激しいから、生、老、病、死の四苦に愛別離苦を加えて五苦と説かれたのであるといわれています。そして「このように四苦、五苦、八苦にせめさいなまれて身も心も休まる暇のない者、それを凡夫というのであって、もし、このような苦しみがないものは、凡夫の数には入らない」といわれているのです。聖者になれば、自己中心的な想念を断ち切っていますから、我欲も起きませんし、怨憎の心も起きません。自分と思っている者も、他人と思っている者も、そのような言葉に対応する実体はない、一切は空であるとさとっていますから、何者にもとらわれることなく、すべては水が流れていくように、風が過ぎ去っていくように一瞬もとどまることなくサラサラ、サラサラと流れていきます。だから苦しみ悩むということがありません。そればかりか、菩薩は如来さまのようなわけにはいきませんが、相手にも自分にもとらわれることのない無縁の大慈悲心を起こして、苦しみ悩む人々に寄り添い、人々の苦難をわが身に引き受け、人々にまことの幸せを与えるためにはたらき続けていきます。これが聖者であるような菩薩の生き方であるといわれています。ですから菩薩は、「凡夫の数に入らない」わけです。
しかし本願を信じて念仏する人であっても、死ぬまでは煩悩具足の凡夫でしかありませんから、そのような聖者の心境にはとてもなれませんし、まして聖者であるような菩薩がなさるような、素晴らしい自利利他の活動もできません。自分一人をもてあますような生き方しかできないわけです。それにもかかわらず親鸞聖人は、本願を信じ念仏する身にしていただいている者は、「凡夫の数に入らない」といい、この人を泥田に咲いた白蓮華のような麗しい人であるというので、『観経』には「この人は人中の分陀利華(白蓮華)」と讃え、あるいは善導大師は、この人を好人、妙好人、上上人、最勝人、希有人と褒め讃えていてくださるといわれるのです。親鸞聖人が、信心の行者は現生において、信心を得たときに正定聚に住するといわれたのは、そのような徳を得ているからであったと思いますが、一体私どものどこにそのような称賛に値する徳があるというのでしょうか。これが、親鸞聖人にとって「救い」とは何であったかということを解く鍵になるだろうと思います。
七
さきほどから申してきましたように正定聚という言葉が本来持っておった内容は、仏に成ることが決定している仲間ということでございます。仏に成ることが決定しているということは、その人自身がなんらかの形で仏と同質のさとりの智慧を内にもっているということがなければ、正定聚という名前をつけることができなかったはずでございます。
親鸞聖人は、如来回向の信心は、慈悲であるといわれたと申しましたが、『正像末和讃』には、
智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし
といい、信心は人間の心に開けている心に違いありませんが、その本体は如来の智慧であるから、よく無上涅槃をさとる徳を持っているといわれていました。また「信文類」の信楽釈には、「この心はすなはち如来の大慈悲なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる」といって、仏心であるような信楽(信心)は、真実報土に往生する因であり、成仏の正因であると言われていました。
親鸞聖人に依れば、信心は、本願の仰せを疑いなく聞き受けている「無疑の一心」でした。それなのに第十八願に信心を顕わすのに「至心、信楽、欲生」と三心をもって示されているのは、信心の徳を知らせるためであったといわれていました。もともと浄土に往生する因となるような心は如来と同質の智慧と慈悲の徳を持っていなければなりませんが、実は本願の三心は、無疑の一心にそのような智慧と慈悲の徳を具えていることを知らせるために三心と誓われたのであるといわれています。
つまり如来のさとりの境界であるような無上涅槃の浄土に往生し、成仏することができるような信心は、凡夫が起こせるようなものではありません。そこで如来は大智大悲の徳をもった信心を完成して私どもに与えてくださっていることを私どもに知らせるために、第十八願には「至心、信楽、欲生」と誓われたのであると仰せられたのが「信文類」の三心釈、とくにその法義釈でした。すなわち如来は真実なる智慧心(至心)と大悲回向の心(欲生)を完成して、一切の衆生を、必ず救うと疑いなく決定(信楽)されています。その如来の決定摂取(必ず救う)の信楽(信心)を南無阿弥陀仏という言葉(本願招喚の勅命)として私どもに呼びかけておられるというのです。その「必ず浄土へ迎え取る」と仰せくださる本願のみ言葉を、疑いをまじえずに受け容れている有様を信心(信楽)というのです。その内容は「必ず浄土へ迎え取っていただく」と疑いなく聞き受けていることです。ですから衆生の信心は救いを告げる如来の仰せの外にはありません。これを如来より信心をたまわるというのです。しかもその信心(信楽)は、如来の智慧(至心)と慈悲(欲生)を本体としていますから、よく往生成仏の因となってくださるといわれるのです。
本願を疑いなく聞き受ける身になっても、私どもは相変わらず愛憎の煩悩を具足している凡夫です。けれども、このように如来から頂いている信心の徳からいえば、大智大悲の仏心を往生成仏の因として頂戴しているのですから、初地以上の菩薩どころか、成仏の因を円満している弥勒菩薩のような等覚の菩薩と同じ徳を持っているといえるわけです。そして、何一つ決定的なことは知らないし、云えない凡夫ですが、浄土に往生して、仏にならせていただくことには疑いはなくなっています。親鸞聖人は、そのことを『尊号真像銘文』末に、
信心の珠をこころにえたる人は生死の闇にまどはざるゆゑに、「心照迷境」といふなり。信心の珠をもち愚痴の闇をはらひ、あきらかに照らすとなり。
といわれています。信心を得た人は、煩悩はあり続けるが、生死に迷うことはなくなったといえる身にしていただいているわけです。まさに「凡数の摂に非ず」というべき徳が与えられているわけです。
それを親鸞聖人は「諸経和讃」に「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ」とまで言われたのです。もっともここで注意しなければならないのは、「等しい」ということは「同じ」ということではないということです。等と同を同じ意味で使うことももちろんありますが、信心の行者を如来と「等し」といわれた時には、菩薩の最高の階位である「等覚」のことで、仏陀そのものを表す「妙覚」(正覚そのもの)のことではないのです。菩薩の最高位で、仏になるべき因が円満していて、次の生においてほとけになることに決定している菩薩の位を一生補処(菩薩としての一生が終われば、次の生で仏になることが決まっている菩薩)といい、弥勒菩薩がその典型であるとされていました。それゆえ信心の行者のことを『大経』には「次如弥勒(つぎなること弥勒の如し)」といわれているのです。この弥勒のような一生補処の菩薩は、仏因円満して「ほとんど仏と同じ」徳を持っているから等覚の菩薩(正覚者に等しい菩薩)と呼びます。今も如来の智慧と慈悲の徳を頂いて仏になる因徳が円満しているものは弥勒と同じ一生補処に位であり、等覚の菩薩と同じ位であるから、如来と等しい(等覚)といわれるのです。死ぬまで煩悩具足の凡夫ですから決して完成された徳をもつ仏陀ではありませんが、この一生を終われば、必ず仏陀になる徳を頂いているから、一生補処の菩薩であり、すなわち弥勒と同じ等覚の位につけしめられているいわれるのです。
こうして私に如来の智慧と慈悲が届きますと、届いてくださった如来の智慧と慈悲が私を内側から導いてくださるようになります。それが如来の本願に呼び覚まされ、如来の智慧と慈悲に導かれるような人間にしていただいているということです。ですから信心の行者には、こうして尊い徳を頂戴していながら、煩悩具足の生活を送っている自分はまとこに恥ずかしいことであり、申し訳ないことであるという慚愧の心が起こってきます。今までは、ただ我欲の命ずるままに、自分に都合のいいことばかりを追求し、不幸は人に押しつけても自分だけは幸せになりたいと思って生きてきたが、それは貪欲の煩悩であったと知らされます。また自分に都合の悪いものを排除するは当たり前で、気に入らないものに腹を立て、憎み呪って何が悪い、わたしに腹を立てさせる人が悪いのがとばかり考えていましたが、それが瞋恚の煩悩であると気づかされます。こうした貪欲や瞋恚の根源に、自己中心の想念があって、何事も自分本位に考え行動することが諸悪の根源である愚痴(無明)の煩悩であるとうなずくようになってまいります。
そのように自分を煩悩具足の凡夫であると認め、自己中心の想念に引きずられて起こすさまざまな悪を悪と認め、罪を罪と認めるようになったと言うことは、いままで当たり前であったことが当たり前でなくなったのですから、大変な変化が起こっているのです。いわば自分の中に革命が起きているのです。我欲や怒りや自分本位の考え方を、罪とし、悪とみなし、浅ましいこととうなずくようになったのは、如来の教えをまことと受け入れる信心が恵まれたからこそわかったことです。言い換えれば、信心となって私の上に届いた仏の智慧が知らせてくださったことがらでした。
愛欲と憎悪を超えて、一切の衆生を一子のように、かけがえのない大切な「仏の子」とみそなわす如来の大悲の智慧を怨親平等のさとりといいます。怨み憎むものも、親しく愛するものも、私の自己中心的な想念の前に現れた幻想であって、まことは一人一人かけがえのない大切な「仏子」なのです。その尊さは、全く同じであると悟ることを怨親平等というのです。如来とは怨親平等のさとりを実現された方であり、浄土とは怨親平等の徳が実現している領域でした。
仏陀の智慧と慈悲こそ真実であると知らされた念仏者は、怨親平等の領域こそ私どもが目指さなければならない領域であることを思い知らされます。それにつけても、自分の現実は、それに背いて愛憎の泥沼に足を取られそうになっていることに気付き、慚愧せずにおれません。しかし、阿弥陀仏の本願を聞き、正定聚の位に入れて頂いて怨親平等の浄土に向かって生きるという方向性を与えられていることの有難さを思うとき、少しでも如来の御心にかなうような生き方をしなければならないという思いが湧いてきます。そこに煩悩の真っ直中にありながらも、たえず本願に呼び覚まされて、如来、浄土を中心とした新しい精神の秩序が与えられてくるということがあります。
八
親鸞聖人のお手紙の中に、念仏者の日常生活を厳しく誡められる文章があります。『親鸞聖人御消息』第二通(『註釈版聖典』七三九頁)の中の次のようなお言葉です。
まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。
しかるになほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬになほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきになほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり、毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。
そこには、本願を信じ念仏するようになった念仏者の内心には、大きな精神の転換が起こっており、日常の生活にもその影響が現れてくるありさまが見事に示されています。
これは建長四年(一二五二)二月二十四日という日付が記されていますから、聖人八十歳のお手紙であることがわかります。そしてお手紙の最後には
この文をもつて鹿島・行方・南の荘、いづかたもこれにこころざしおはしまさんひとには、おなじ御こころによみきかせたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。
といわれていますから、宛名は記されていませんが、常陸国の東南部の鹿島、行方、南の荘といった各地に散在する門徒中に宛てられた手紙であろうと思います。そのころ常陸地方(茨城県)の念仏者の中に、「如来さまは、どんな悪人であっても救ってくださるのだから、悪であれ罪であれ恐れることはなく、おもうおさまに生きればいいのだ」といい、「悪を慎み、念仏を相続せよと言うようなことをいう者は、自力の行者であって、往生はできない」などという邪見な教えを説いて人々を混乱させるものが現れたようです。それを誡められたお手紙の一節です。とくにこの手紙の中に、
浄土の教もしらぬ信見房などが申すことによりて、ひがざまにいよいよなりあはせたまひ候ふらんをきき候ふこそあさましく候へ。
という一節がありますから、「浄土の教えを正式に習ったこともない、信見房とかいう男が勧める邪見な教えを信じて、念仏者たちが心得違いをしているようだが、まことに浅ましいことである」と書かれているのから見ると、信見房というような怪しげな説教者に惑わされた人が多く出たようです。ともあれ先に引用した親鸞聖人のお手紙の一節を現代語に訳しておきましょう。
といわれているのです。ここから煩悩具足の凡夫の慚愧と報恩の生活が始まるのです。「さてあなた方は、むかしは仏法を聞かれたこともなく、阿弥陀如来の本願のましますことも知らず、お念仏を申されることもなかった人々でしたが、今では、お釈迦さまと阿弥陀如来さまのお慈悲のお育てとお導きによって、今ようやく阿弥陀如来の大悲の本願を聞く身にしていただかれた方々です。
もとは、まるで酒に酔っぱらって正体を失った人のように、正しい道理などを全く知らず、我欲と怒りと愚かさといった心の毒ばかりを好んで食べ、さまざまな罪悪を積み重ねて、身も心も瀕死の重病にかかっていました。それを如来さまのお恵みによって、本願の念仏という尊い薬を与えられたおかげで、酒の酔いがようやく少しずつ醒め始めたように、正しい道理に目覚めはじめ、三毒の煩悩も、少しずつ好まないようになり始め、阿弥陀如来さまのみ教えを聞くことを慶ぶような身にしていただき、南無阿弥陀仏と本願の薬をいただき、好んで称えるような身になっておられるのが今のあなた方の有様です。
ところが、まだ酔いが醒めきっていない人に、さらに酒を勧め、毒がまだ消えていないにもかかわらず、さらに毒を勧めるような誤った教えを説いて人々を惑わし、苦しませていくようなことは、まことに浅ましいかぎりです。そんな誤った教えに騙されて、どうせ煩悩具足の身であるから煩悩を止めることなどできないといって、浅ましい煩悩の起こるがままに身をまかせて、してはならないことも平気で行い、言ってはならないことも平気で云い、心に思ってもいけないことを平気で思い、どのようにでも自分の心のままに振る舞えばいいのだと言うようなことを、口々におっしゃっているようですが、本当に恐ろしいことであり、心の痛むことです。
まだ酔いが覚めてもいないものになお酒を勧めて酔い潰し、まだ毒の消えていないにもかかわらずさらに毒を勧めるような、決して許すことのできない行為です。薬があるから、毒を飲みなさいと勧めるようなことは決してしてはならないことです。自分で起こした煩悩の毒によって苦しみ悩んでいる煩悩具足の凡夫を哀れんで、なんとしてもその煩悩の泥沼からすくい上げようと、ご苦労くださった大悲の本願を聞き、念仏を申すようになって、月日の経っている人ならば、煩悩の恐ろしさ、浅ましさが身にしみてわかっているはずです。今生の悪業に引かれて本来ならば三悪道に堕ちていく筈であったと身震いするような思いで自分の後生を思い、三悪道の業因である煩悩の恐ろしさを思い知らされた人ならば、三悪道を厭い、煩悩を厭い捨てたいと思う心が起こる筈です。煩悩具足の身であることの浅ましさに気づいた人ならば、煩悩を起こし続ける自分を恥ずかしく、又悲しいことと知る筈です。そしてそのしるしとして、少しでも悪業を慎み、浅ましい煩悩にわが身をまかせることなく、如来の御心にまかせてつとめるべきです」
九
ところで、このお手紙の初めに、
かたがたよりの御こころざしのものども、数のままにたしかにたまはり候ふ。明教房ののぼられて候ふこと、ありがたきことに候ふ。かたがたの御こころざし、申しつくしがたく候ふ。明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ。
という文章があります。これによれば聖人のお弟子であった常陸の明教房が上洛してきて、親鸞聖人に対する門徒中からの懇志を届けると同時に、常陸の門弟達の近況を報告したことがわかります。
そのなかに、明法房が往生の素懐をとげたことを告げていたようです。それをお聞きになって聖人は、「おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ」といわれています。「明法房が最後まで心変わりすることなく、お念仏の中で、立派に往生を遂げられたと聞きましたが、今さら驚くべきことではありませんが、常陸中の、いや総ての往生を願う人々にとって、みんなの慶びです」といわれているわけですが、これは一体何事を語ろうとされていたのでしょうか。
明法房という人物は、元は弁円といい、山伏の指導者だった人で、常陸の霊山、筑波山を中心として、大きな勢力(勧進圏)をもっていました。ところが親鸞聖人が常陸へお出でになり、多くの勧進聖(念仏聖)たちが親鸞聖人の徳を慕って弟子となり、その勢力が強くなるにつれて、いままで修験道(山伏の宗教)の信者だった人々が、続々と念仏者に転向し、信者が減っていきました。これは親鸞のせいであるというので、弟子たちを引き連れて聖人を暗殺しようと企てたのでした。
聖人はそのころは笠間郡の稲田の草庵におられて、しばしば鹿島、行方の方面に教化に行かれていましたから、その途中の板敷山の山中で待ち伏せをしたそうです。しかし上の道で待ち伏せをしていると聖人は下の道を行かれるし、下の道で待ち伏せをしていると、聖人は上の道を行かれるというように、暗殺計画がどうしてもうまくいきませんでした。そこで彼は直接、稲田の草庵をたづね、聖人を暗殺しようとしたのでしたが、その時彼の訪れを聞いて、実に無造作に出てこられた聖人の姿を拝したとき、いっぺんに殺意を失い、聖人の弟子になったといわれる人でした。名前も明法房と名乗り、熱心に念仏のみ教えを学んだ人でした。しかしもともと修験道の指導者であって、現世祈祷を専門に行う修験者であったし、場合によっては聖人でさえも殺害しようとするほどの人物だったから、聖人が関東から京都へお帰りになって、聖人から離れるとどうなるか、一抹の不安も抱かれていたのでしょう。
それが明教房の報告によると、最後までお念仏を慶び、見事に往生の素懐をとげていったと聞かされて、聖人は心から慶ばれたわけです。その頃の関東の宗教事情はまことに複雑でしたし、念仏者に対する為政者の風当たりは厳しいものがありました。そのうえ宗教的、世俗的さまざまな誘惑もあったに違いありません。そんな中で、強力な指導者である親鸞聖人と離れた彼が純粋な念仏者として生きていくのには、さまざまな問題があったはずです。それにもかかわらず彼が純粋な念仏者としての生涯を全うすることができたのは、偏に阿弥陀如来の摂取不捨の願力が、彼の真実信心を守りつづけてくださったからに違いありません。そのお陰で迫害にもたえ、さまざまな邪見の誘いも惑わされることなく、美しい念仏の行者としての生涯を送り、浄土へ迎え取って頂いたのだとお慶びになったのでしょう。
同じ趣旨の『親鸞聖人御消息』第四通にも、明法房の往生に引きかけて、
明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがことをおもひなんどしたるこころをもひるがへしなんどしてこそ候ひしか。われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもおもひ、いふまじきことをもいひなどすることはあるべくも候はず。(中略)よくよくこの世のいとはしからず、身のわろきことをおもひしらぬにて候へば、念仏にこころざしもなく、仏の御ちかひにもこころざしのおはしまさぬにて候へば、念仏せさせたまふとも、その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん。(『註釈版聖典』七四三頁)
と厳しく誡められていました。
十
法然聖人は、念仏者は「煩悩を主とし、念仏を客とする」ような生き方をしてはならない、「念仏を主とし、煩悩を客として生きよ」と言われていました。煩悩が主人公になって念仏を客とするような生き方は、煩悩を満足するために、如来さまや念仏を利用しようとしている極めて利己的な生き方でして、まさに迷いの生活そのものになってしまうからです。それに引き替え、煩悩の現実を離れることのできない浅ましい凡夫だからこそ、わが心にまかせることなく、常に如来さまを、念仏を心の主として、如来さまに導かれるように心がけなければならないと言われたのでした。
それを承けて蓮如上人は、『御一代記聞書』の中に、
仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと[云々]。
と仰せられました。上人の人生観の基本を述べられたものです。仏法とは阿弥陀仏の本願を信じて念仏し、生死を超え、愛と憎しみを超えた浄土を目指して生きることでした。それに対して世間とは、名誉欲と財欲に振り回されながら生きる私どもの世俗の日常生活を意味していました。ここでは真理についての無知と、愛欲と憎悪が支配しています。
蓮如上人は、この仏法と世間とに主客を立てられたわけです。仏法を主人とし、世間を客人とするということは、仏法を中心として世俗を生きなさいといわれているのです。それは世俗の日常生活を、念仏の縁として生きることであるともいえましょうし、この世を仏法の真実を確かめる道場とみなして生きることであるともいえましょう。それは念仏のなかに営まれる真摯な生活を意味していました。
その反対は、世間を主人とし、仏法を客人とみなすような生き方です。この世をうまく生きるための手段として仏法を利用しようとするものです。仏法を主とし、世間を客とみなす生き方は、世間を仏法化していきますが、世間を主とし、仏法を客とするような生き方は仏法を世俗化してしまいます。世俗化した仏教に世俗を救う力はありません。ただ世俗に追随するだけの仏法になってしまいましょう。親鸞聖人が現生で正定聚を語り、現生における阿弥陀仏の救いを強調されたことは、そのような念仏を中心にした新しい精神の秩序の成立を告げる教説だったのではないでしょうか。
文明五年二月一日付の帖外『御文章』には、「物取り信心の異義」と呼ばれる世俗化した信仰形態を厳しく批判されています。それは金品をたくさん寺へ納める門徒を信心深い人とよび、往生間違いないと保証するようなものをいいます。また同じような異義に「施物だのみ」というのがあります。金品さえたくさん寺へ寄進すれば、その功徳によって浄土に往生できるであろうという信心でした。それがのちに述べますような知識帰命の異義と結合すると、善知識にたくさん寄進すれば、自分の信心の足りないところは、善知識が補って往生させてくれるであろうと考えているような信仰になっていきます。
この『御文章』は、去年の冬のことだったが、ある人からこんなお話を聞きましたという書き出しで、一人の住職の「物とり信心」を、ある人が批判して改悔・懺悔させるというかたちで説かれています。
あるとき私は道端で一人の一癖ありげな住職に出会いました。この住職は、信心について問いただせば、領解の言葉は型どおりにいうけれども、ほんとうの信心を得ていないことは言葉の端々に見えていました。そればかりか、「門徒のかたより、物とり信心ばかりを存知せられたる」人と見受けられました。そこで厳しく追及すると、「恥ずかしいことですが、自分はただ口まねの領解しかいえません、正しい信心のいわれをきかせてほしい」と本音を吐きました。そこで、「そなたが、もろもろの雑行を捨てて、一心一向に弥陀に帰すと言われていることはただ言葉だけのことで、本当にそうなっていないところに問題があるのだ」といって、
もろもろの雑行をすててとまうすは、弥陀如来一仏をたのみ、余仏・余菩薩にこころをかけず、また余の功徳善根にもこころをいれず、一向に帰し、一心に本願をたのめば不思議の願力をもてのゆえに弥陀にたすけられぬる身とこころゑて、この仏恩をかたじけなさんい、行住坐臥に念仏まうすばかりなり。これを信心決定の人とまうすなり。
と、くわしく浄土真宗のこころを述べると、その住職は、感涙にむせび、改悔(悔い改め)しました。
こうして信心を獲得したその住職は、今まで門徒からの反発をおそれて真実を語り得なかった自分の弱さを懺悔し、これからは正しい法儀にもとづいて、門徒の反抗を恐れずに教化していきますと誓って、次のように話を聞かせてくれました。
自分の寺に大金持ちの有力門徒がいますが、その人に「そなたは信心がないからもっと聴聞せよ」と勤めたことがありました。ところが、彼は眼をいからせ、声を荒くして、「わたしの家は親の代から寺のために尽くしてきた、寄付金などは真っ先にさしあげ、寺の建物の修理をするときなどは大金を出して助けてあげたではないか。私も寺になにか思いがけない出来事があれば金品を出して援助してきた。そのほかに季節に応じた贈物も今日にいたるまで欠かしたことがない。これほど金品を住職に進上するのは信心の厚い証拠ではないか。そればかりか後生のためと思って念仏もよく称えている。一体私のどこに欠点があって信心がないなどといわれるのか、そのようなことをいわれるのならば門徒をはなれます」というのです。
彼は私の寺にとっては一番大事な有力門徒ですから、万一門徒をはなれるようなことがあれば、寺のささえを失うことになります。そこで私は「たしかにあなたのいわれるとこには道理があります。ただ他の人があなたのことを信心が足りないといっているのを聞いたものだから、言ったまでで、今後は決してこのようなことは申しませんから、他の寺の門徒になるなどとはいわないでほしい」と謝ったような次第です。しかし今にしておもえば、これはわたくしの誤りでした。懺悔いたしますといって、涙ながらに改悔したというのです。
また文明六年八月十日付けの、帖外『御文章』にも
名をばなまじゐに当流にかけて、ただ門徒といえるばかりをもて肝要とおもひて、信心のとをりをば手がけもせずして、ただすすめといふて銭貨をつなぐをもて、一宗の本意とおもひ、これをもて往生浄土のためとばかりおもへり。これ大きにあやまりなり。
と批判されています。これらによってそのころ、北陸に懇志をたくさん収める者が信心の暑い者であるみなす「施者だのみ」の風潮が、僧侶のなかにも、在家の信者のなかにも拡がっていったことがわかります。
蓮如上人の義理の叔母にあたる如勝尼は、「知識帰命」的な信仰をもっていて、「施者だのみ」のような異端的な信仰の持ち主であったようです。如勝は、上人が本願寺の宗主になられたときの最大の恩人であった叔父の如乗の妻であり、上人の次男の蓮乗の養母でもありました。如乗がなくなった後も加賀の二俣の本泉寺にあって、その実権を握り「本泉寺の尼公」と呼ばれて、北国第一の実力者といわれた人でした。しかしこの人は自身の信心がなかなか定まらなかったようで、おおいあぐねて蓮如上人に多くの布施をし、その功績によって、自分の信心の足りないところを上人に補っていただいて往生しようというような、信仰をもっていたわけです。そのように、善知識に対して多くの布施をした功績によって、善知識の力で救いに預かろうとするような信心は、「知識帰命の異義」と、「施物だのみの異義」とをあわせたものであるといえましょう。上人は彼女のそうした心の内を見抜いて、
五しょう(後生)を一大事とおぼしめし候はば、ただひとすじに弥陀をたのみまひらせて、もろもろのぞうぎょう(雑行)、物のいまはしきこころなどをふりすてて、一心にふたごころなくたのみまいらせ候てこそ、ほとけにはなり候はんずれ。さように人に、ものをまいらせ候て、そのちからにてなどとうけ給候。なにともなきことにて候。よくよく御心へ候べく候。
と、厳しく誡められたことが「六日講四講御文」にみえます。
もっとも上人は、信心の行者が。その救われた喜びから、この教法を伝道したり、聞法の道場である寺を維持していくために、住職にも、寺にもできるだけの経済的援助をしなければならないと勧めておられることはいうまでもありません。しかしそれは御恩報謝としてなすことであって、往生の条件として為す行ではないと言われるのでした。文明五年二月八日付けの一帖目第五通には、加賀・能登・越中の門徒たちに、信心を決定すべき旨を説かれたのちに、「このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、こころざしをもいたすべきものなり」といわれたものなどがその一例です。
いずれにせよ、このような『御文章』が、あるいは寺の本堂で多くの僧侶や門徒を前にして読みあげられ、また講の席上で読みあげられて、それを寄合談合の話題の中心としてとりあげられたとき、集まった人々の心にどんなに強烈な印象を与えたかを想像できましょう。衆人の前で公然と批判され改悔、懺悔を迫られる大寺の住職や富裕な有力門徒の姿をまのあたりにしたとき、民衆は、なにものもおそれずに「聖人一流の御勧化のおもむき」を説きつづける蓮如上人に絶大な信頼を寄せずにおれなかったと思います。
こうして蓮如上人の異義批判は本願寺の内部にまで及びます。ことに文明五年九月付けの帖外の『御文章』には、「京都の御一族(本願寺一族)」を名のる人の懈怠を厳しく誡めています。その京都の御一族というのは「ある若衆」となっていますが、どうもないようからみて、加賀に一寺を与えられた上人のご子息の一人ではないかと思われます。彼は何時も人に向かって
安心のことはこころへ候つ、また念仏はよくまふしさふらひぬ、また雑行とては、さしてもちゐなくさふらふ間、ことにわれらは京都の御一族分にて候あひだ、ただいつもものうちよくくひて候ひて、そののちはねたく候へば、いくたびもなんときも、ふみぞりふせり候。また仏法のかたは、さのみこころにもかからず候。そのほかなにごとにつけても、ひとのまふすことをばききならひて候あひだ、聖人の御恩にてもあるかなんど、ときどきはおもふこころもさふらふばかりにて候。
と公言していたということです。私は、安心のことはよくこころえているし、念仏もちゃんと称えている。はじめから阿弥陀仏だけを礼拝していて、余の仏・菩薩をまつっているわけでもないから雑行などするわけがないといっていたようです。しかも「仏法のかたは、さのみこころにもかから」ないが、少しは聖人のご恩と思う心もないではない。しかし毎日は、食いたいでけ食い、眠くなれば、ふんぞり返って寝るばかりというような懈怠がちの人物でした。この人物に対して、多くの人は本願寺の一族であるというので遠慮をしていさめることもしません。そこである人が、これを厳しく批判するという設定になっています。
「まことに恐れ多いことだが仏法のことであるから、お心得違いを言わせていただきます」と断ったうえで、
当流の次第は、信心をもって先とせられさふらふあひだ、信心のことなんどはそのさたにおよばず候。京都ご一族を笠にめされ候こと、これひとつおほきなる御あやまりにて候。
と厳しく誡めます。本願寺の蓮如上人の権威を笠に着て、何よりも大切な、信心について談合することもなく、ご法儀を軽んずるということは決して許されることではないというのです。そして「御一族にて御座候とも、仏法の御こころざしあしくさふらはば、報土往生いかがとこそ存じさふらへ」といい、仏法の世界に特権階級は存在しないことを思い知らせていくのでした。
このように文明三、四、五年ごろの『御文章』には、「聖人一流の御勧化のおもむき」を真向から説き進め、聖人の御流に背くものはどんなに勢力を持っている大坊主であれ、有力門徒であれ、身内のものであれ、容赦なく批判して改悔・懺悔を迫っていくという、まことに厳しい、まさに捨て身の「攻めの伝道」をつづけていかれたのでした。こうした上人の真剣なご教化が人々の心を打ち、上人を慕って人々は吉崎に群参するようになってきました。
(梯 實圓著 大法輪閣 ISBN4-8046-4102-5)より
他力とは何もしないことではなくて、真剣に聞法し、念仏し、敬虔に礼拝していることを「如来われを動かしたまう不可思議の徳の現われ」と仰いでいることをいうのであった。念仏を励むことが自力なのではなくて、念仏しないことが自力のはからいに閉ざされていることなのである。また、たまわった念仏を自分が積んだ功徳と誤解していることを自力というのであって、念仏する身にしていただいていることを喜ぶのを他力というのである。それを親鸞は、「他力と申し候ふは、とかくのはからひなきを申し候ふなり」(聖典・七八三頁)といわれたのであった。
------引用はここまで
この梯和上の本は分かりやすいですよ。
上の文章などは素晴らしいですね。
『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』(梯 實圓著)380頁の【語註】から引用します。
方便とは、梵語ウパーヤupāyaの訳語で、「近づいていく」という意味の言葉であるが、教義的には如来が真実の大悲をおこして衆生に近づき、巧みな方法を講じて救済していくことを善巧方便という。それにひきかえ、真実の教えをただちに受け容れることのできない未熟なものを育て、真実へと誘い引く(調機誘引)ために、その理解能力に合わせて程度を下げて説かれた教えを権仮方便という。それは暫く用いるが、真実の教えを受け容れるところまで理解能力が育てば、捨てて、真実の教えを与えていくから、暫用還廃(暫く用いるが還って廃する)の教法と呼んでいる。
今までも述べたように、方便には「善巧方便」と「権仮方便」とがありますが、この2つは「方便」の意味が違うのです。
ウパーヤには「近づく」「到達する」という意味があります。どこに近づくのかというと、「さとり」に近づくというのが本来の意味です。
私→→→→→さとり
ということです。
しかし、善巧方便の場合の「近づく」というのはそうではなくて
阿弥陀仏→→→→→私
なのです。
権仮方便は
私→→(権仮方便①を使う)
→→(権仮方便②を使う)
→→(権仮方便③を使う)→→真実
という図式になります。(「使う」の主語は仏、知識)
善巧方便と権仮方便との区別が混乱している人は、このように考えてはどうでしょうか。
念仏によって知らされる、私のふさわしい生き方
ところで親鸞聖人は八十歳の時『御消息』(第二通)をとおして、次のような誡めを常陸の各地に住んでいるお弟子たちに示されています。
まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。 (註釈版聖典739頁)
「もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに」というのは、仏法を聞くまでの自分の生活態度を示されたお言葉です。今までは無明の酒に酔っぱらって煩悩という毒を好んで食べていた私どもであったといわれるのです。
「無明」というのは、愚痴ともいい、無知のことです。無知というのはただ智慧がないということではなくて、真実を知らないということです。真実を知らないということは、誤った見解を正しいと思いこんでいるということです。それは真実を虚偽と思い、虚偽を真実と思いこんでいることですから、愚痴(おろか)というのです。それは私どもが、あらゆる事柄について自分を中心に考え行動していながら、それが自分本位の考え方に過ぎないということに気付かず、したがって自分は偏見をもち、誤った考え方をしていると気づいていないことを無明というのです。そのような無明の状態を、酒に酔っぱらって正しい判断力を失っているすがたにたとえて、「無明の酒に酔ひて」といわれたのです。
このような無明の精神状況にありますから、私どもはあらゆる事柄をいつも、自分にとって都合のいい人と、自分にとって都合の悪い人と、自分にはどうでもいい人とに区分けして見ていくようになります。自分に都合のいい人や状況は、善い人であり、愛すべき人であり状況ですから、何時までもつづいて欲しいと思っています。それを仏陀は貪欲、すなわち我欲といわれたわけです。反対に都合の悪い人や状況は、腹立たしい状況ですから、一刻も早くなくなって欲しいと思います。その腹立たしい精神状況を瞋恚とよび、怨憎といわれているのです。なおどうでもいい人については、いてもいなくても私には関係はないと思っていますから、冷淡に対応し処理していきます。こうして私どもの心は、愛と憎しみと冷淡に揺れ動きながら生きているわけです。とりわけはげしい愛欲や、瞋恚の心を口に言い表し行動に示すようになりますと、さまざまな葛藤を生み出し、さらに迷いを増幅し罪を造っていきます。こうして短い人生を虚しく苦悩の中で終わっていかねばならないわけです。
そういう私たちを憐れんで救おうと願い立たれた阿弥陀さまのお育てによって、ご本願を聞く身にしていただき、ようやく少しずつ変化が現れはじめてきているのが私どもの只今のすがたであるといわれるのです。
すなわち阿弥陀如来さまのご本願を聞き、如来さまの智慧と慈悲のお働きこそまことであると聞き受ける身にしていただいたことによって、ようやく何が正しく、何が間違っているかということが少しずつ分かるようになり、いよいよみ教えを聞きたいと思うような心になっておられる。それがあなた方の今の状況なのですよと確認されているのです。
み教えを聞くにつれて、まるで酒の酔いが少しずつ醒めるように、自分本位の考え方が間違っているということが少しずつうなづけるようになっていきます。そして貪欲の醜さ、瞋恚の煩悩の恐ろしさを知らされるにつけても、少しずつ慎まなければ如来さまに申し訳がないと思うようになり、少しずつではあるがお念仏の薬を好んで飲もうというような身になってきておられる。それがあなた方の精神状況ですよね、と念を押されているのです。
ここに「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして」と、「少しずつ」という言葉が使われています。これは大変大事なことだと思います。たしかに信心は、本願を疑いなく聞き受けるこころですから、疑いをまじえずに聞き受けるとき即座に成就します。手間も暇もかかりません。如来さまは絶えずわたしどもに向かって、「わが真実なる誓願を疑いなく受け容れて、さとりの領域である浄土へ生まれることができると思いなさい」と喚び続けておられます。その如来の言葉が南無阿弥陀仏であり、その心を誓いの言葉として表現されているのが第十八願だったのです。この大悲智慧の結晶である本願招喚の勅命を疑いをまじえずに聞き受けるとこを信楽とも信心ともいうのですから、信心が成立するには手間も暇もかかりません。しかもその信心とは、如来の仰せが真実であることを知らされたことであり、同時に自分が、たのみにならない虚仮不実の凡夫であることを思い知らされていることでもありました。
その意味で信心とは、自分のはからいに誤魔化されずに、仏法をまことと聞き受ける心の耳を開いていただいたことであるともいえましょう。したがって信心を得たということは、これからがまことの聞法が始まるということでもあります。そして、これからまことの教えが徐々に身に付いていく過程の始まりでもあるのです。
すなわち如来さまの仰せをまことと聞き受け、聞き続ける聞法の生活が始まるわけですが、この聞き受けたみ教えが、少しずつ私の物の考え方、味わい方、行動を内側から呼び覚まし導きながら、少しずつ軌道修正をしてくださるのです。お育てといわれる如来さまの教育が始まるのです。教えが心を育ててくださいますから教育というのですが、教育には時間がかかります。また一進一退もつきものです。人間は粘土細工じゃないんですから、一瞬にして行動様式が変わるというようなことはありません。それを聖人は「ようよう少しずつ」と仰せられたのです。「ようよう少しずつ」という言葉に深く気をつけておく必要があります。ここのところが分からないと、聖人が私どもに伝えようとされている、大事なメッセージを聞き損なう恐れがあるからです。そこに、「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして」と仰せられた言葉の重さがわかってまいります。
こうしてお浄土から届いたお念仏に導かれながら、「三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし」といわれるような、生活が開かれてくるわけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、うれしいにつけ、悲しいにつけ、腹が立つにつけ、欲が起こるにつけ、煩悩具足の凡夫であることの悲しさと、浅ましさをかみしめながら、少しずつ軌道修正をするように努めていくのが念仏者のすがたなのでしょう。
この本をお持ちでない方は、よく読んで下さい。↓
お持ちの方は、この箇所を、よく読んで下さい。
浄土真宗はこの梯和上の一文が分かれば分かるでしょう。
親鸞聖人は、釈尊の教意をうけて、有縁の人びとに本願の行信を勧められます。それが「穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」で始まる厳しい訓誡の言葉です。
さいわいに仏法に遇い、煩悩に汚れ、さまざまな苦悩に満ちた穢土の厭い捨てるべきことを聞き、涅槃の境界の欣い求めるべきことを知らされながら、自力のはからいに遮られて本願の言葉を疑って受けいれないために、生の依るところを見失い、死の帰するところを知らないというありさまです。人生の根源的な拠りどころをもたず、生きていることの意味と方向を見失っている状態を、迷いというのです。本願を疑うものは、愛憎の煩悩を超えていく真実の行道をいただくことができず、生と死をゆだねる真実に遇うことができません。たのむべからざるものをたのんで生きる人生は、不安に揺れ続けます。確信をもって歩む道をもたない人の心は暗く、むなしく愛欲と憎悪に翻弄されながら一生を過ごすしかありません。そして煩悩に狂わされてつくる罪障ばかりが重くわが身に積もっていくのです。
しかし、このような哀れむべき凡夫をこそ救いとろうとして、阿弥陀仏は念仏往生の本願を成就し、釈尊はそのこころを『無量寿経』のなかに説き表して、『本願を信じて念仏をもうし、浄土をめざして生きよ』と発遣されているのです。それゆえ人生の帰趣に迷うものは、ことに釈尊の勧めに随順して、南無阿弥陀仏という最もすぐれたさとりの道に身をゆだね、仰せのままにひたすら名を称え、「必ず救う」と確信をもって招喚される本願の言葉をたのみたてまつるべきです。
ここで親鸞聖人は、行信を勧めるのに「もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ」といわれています。これによって真実の行信は、わがはからいによって行ずるものでも、信ずるものでもなく、阿弥陀仏よりたまわった本願力回向の南無阿弥陀仏につかえているのが称名であり、心に響き込んでくださる阿弥陀仏の救いの名のりを崇め尊んでいるのが信心だということがわかります。信も行も阿弥陀仏が私のうえではたらいている姿だったのです。一声の念仏も、わがはからいによって出てくるものではありません。南無阿弥陀仏という、最勝にして至易なる行を選び取って、お願いだからわが名を称えてくれよと呼びかけ、われらを念仏するものに育てたもうた本願力がなかったら、一声の念仏も口をついて出ることはなかったのです。一声一声が阿弥陀仏の本願海から恵み与えられた行であることを、親鸞聖人は『行文類』のはじめに、
大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり。(中略)しかるにこの行は大悲の願より出でたり。
(註釈版聖典141頁)
と説かれています。阿弥陀仏よりたまわった行を行じているということは、阿弥陀仏のはからいに「つかえ」ているということになります。称名の主体はどこまでも阿弥陀仏であって、私は「もつぱらこの行につかえ」るばかりなのです。
阿弥陀仏に背き、本願の言葉を受けいれようとしないのが人間の地体でした。それがいま本願の言葉を真実と聞き開いているということは、まことに不思議といわねばなりません。「難信金剛の信楽」とは、その本体は阿弥陀仏の大悲の智慧であり、「必ず汝を救うて涅槃の浄土に生まれしめる」と確信をもって私たちに呼びかけられている大悲の願心なのです。衆生を救うことにいささかの疑いもない阿弥陀仏の、確信に満ちた言葉が響き込むとき、疑い殻を破られて仰せをまことと受けいれるようになります。そのとき何一つ思い定めることのできないわが心に、往生一定の思いが恵まれてくるのです。それゆえ信心とは、私の能力によって確立する思いではなくて、ただ阿弥陀仏の言葉をはからいなく聞いて崇め尊ぶところに自然に成就する事実だったのです。そのことを「ただこの信を崇めよ」と説かれたのです。
思えば、真実に背を向けて虚構の想念のなかに埋没し、阿弥陀仏に背いて煩悩の泥にまみれつつ、それを当然のこととしているだけであり、いくたび生をかえても、本願の縁に遇うことはできません。まして本願を信ずるというような清浄真実の心は、どんな長い時間をかけても、わが身のうえに獲得できるものではありません。それがいま、はからずも釈尊の教えと師友の導きにより、本願を行信する身にならしめられたのです。これひとえに、私を念仏の衆生たらしめようとして、さまざまなよき縁を恵んで導きたもうた阿弥陀仏をはじめとする諸仏菩薩の遠い過去世からのお育てのたまものであると慶ぶべきです。
もしまたこのたびも小賢しいはからい心にたぶらかされて、疑いの網に覆われるならば、ふたたびむなしい迷妄の生と死を果てしなく繰り返していくに違いありません。思うてここにいたれば、慄然たるものがあります。
こうして親鸞聖人は、真実の教えへの絶対の信順を勧めて疑惑を誡め、「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」といって、この一段を結んでいかれたのでした。
「信相」とは、私たちの心(機)の上の(機相)に、はっきりと現れている信心のありさまのことです。また信心にかぎらず私たちにはっきりと識知できる信心に関する心のはたらきを、一般に「心相」とも「機相」ともいいます。それに対して、如来より与えられている名号の徳義である大智大悲の真実心は、仏のみがしろしめすさとりの領域であって、私たちの思慮分別を超えていますから、識知することはできません。それを古来法徳(法の徳義)と呼んでいます。しかし、その不可思議の仏智を嘘・偽りのない真実と疑いなく受け容れているのが信楽ですから、信楽(信心)の本体は不可思議の真実心(至心)です。そこで至心を信体(信心の本体)と呼び、疑いなく受け容れている信楽を至心の信相と呼ぶわけです。
こうして信楽は至心(名号)を領受した無疑の信相をいい、至心はその本体である如来回向の真実心ですから、「利他回向の至心をもって信楽の体とするなり」といわれるのです。こうして一つの信心を信相でいえば、完全に行者のはからいを離れた疑蓋間雑なき信楽であり、その体徳をいえば至心、すなわち如来の清浄真実なる願心を信体としています。それゆえ金剛堅固の信心であるという信心の超越性と尊厳性が明らかになります。
(梯實圓著『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』204-205頁)
※「信相」「機相」「法徳」の3語の下線は私が引きました。
まず、加茂仰順師の『親鸞教学研究』より
第五節 真宗法義の立場
第一項 法義の位置づけ
一、廻向による分類(省略)
二、修・性の二徳による分類
法界の如実相は、性徳・修徳の二面があって、しかも修性不二である。その中、性徳にすわる教えと修徳にすわる教えとがある。
性…平等の理を語って、その実現を期する聖道門
修…迷悟の差別を認めて、修徳の利を蒙る浄土門
それ故に、更に詳しくすれば、次のようになる。
性徳…自力門の修因感果の法…廻向を行者の側に語る立場
修徳…他力門の修徳顕現の法…廻向を弥陀にかぎる立場
これによって、悉皆成仏の実現は、他力教にかぎるということになる。
ここにまた、行を主格とする自力教と、信、(御廻向の信心)を主とする他力教が分かれてくる。
要するに、真実は「唯信」にあるということになるが、このことが成立するのは、仏随自意の法であるからである。
難しいですね。
理解を深めるために、ここで梯實圓師の『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』から引用します。
虚妄分別を離れた如来の無分別智が、迷っている人びとを救うために無分別後得智をおこしてもうけられたのが、一切衆生を善悪・賢愚の差別なく無礙に救いたまう本願の救いでした。それはまさに不思議の仏智の表現された領域であって、唯仏与仏の知見(ただ仏と仏とのみ知りたまう)の領域でした。ですから、たとえ最高位の菩薩である弥勒菩薩といえども、本願を思議し、計り知ることはできません。その仏智不思議の本願を人間の理知によって思議し、計量して信受しないことを本願疑惑といい、はからいをまじえずに仏智不思議の本願を信受することを信心というのです。したがって、本願疑惑は仏智に背反する心であり、虚妄分別を体としている分別思議を本体とする心です。
いいかえれば、同じ虚妄分別が、真如という性徳を受けいれないことを無明といい、無礙光如来の本願という修徳を受けいれないことを疑惑といっていたのです。そのように両者は、体は一つであるから、本願疑惑を無明ともいうことができるのです。
しかし性と修の別がありますから、そのあり方は同じではありません。すなわち疑無明は現生において本願の法を信受するときに破られますが、痴無明は煩悩とともに臨終まであり続けます。しかし体は一つですから、疑が破れたとき、妄念煩悩はあっても生死に迷うことはなくなります。
『正信偈』に、
たとへば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし
といわれたものは、そのこころをよく表しています。
なお親鸞聖人は、本願に対するときは必ず疑といって、無明とはいわれません。ただ本願を仏智とみなし、光明と見るとき、それに背反する疑惑のことを無明と呼ばれたのです。これは性と修をはっきり区別し、修より性へという浄土教の教格を厳守されるからです。しかし、信心は無明を破る仏智を体としているというので、「信心の智慧」と表現されるように、信心を智慧と呼ばれるのです。
簡単に言いますと、性徳とは真如法性の理で、それに向かって修行をし、覚るというのが聖道門です。それに対して、我々にはそのようなことはできないので、阿弥陀仏の本願(修徳)を受けいれて救われるというのが浄土門です。
阿弥陀仏の本願を受けいれて、すなわち信心獲得して無くなるのは、修徳に対する疑惑(疑無明)であり、性徳を受けいれない心(痴無明)は死ぬまでなくなりません。しかし、疑無明が破れたときに「生死に迷う凡夫」ではなくなるのです。
(信楽の機無釈の一部です)
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
(教行信証信巻 註釈版聖典235頁)
[現代語訳]
ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
(浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類 現代語版 203頁)
私たち迷える衆生は、無始よりこのかた、法爾として清浄真実の信楽がなかったことを明かされています。すなわち、因からいえば真如に背く根源的な無知に閉ざされ、果からいえば生死の苦界を輪廻し続けて、生死を離れることができなかったのは、もともと清浄真実の信楽をおこすことができなかったからです。信楽がないということは、疑心しかないということです。その疑心は真実を覆い隠し、如来より回向されている無上の功徳、すなわち大行に遇うことができず、最勝の浄信、すなわち大信を獲ることができません。往生成仏の因である行信に遇うことができなかったから、無始よりこのかた流転輪廻を続けなければならなかったのです。如来は、このような法爾として信ずる力のないものに、信心を与えて救おうと誓願し、清浄真実な信楽を与えるという不可思議力を成就されたといわれるのです。
なお、ここで「法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし」といわれている文章は、一見すると「もともと信心がないから、最勝の信心を得ることができない」といわれているようにも読める不思議な文章です。しかしこれは、「私たちには、疑いなく法を受け容れるような心(信心)が本来存在しないから、如来が回向されている成仏の因となるような最勝の浄信(仏心)を得ることができない。それゆえ無始以来今日まで迷い続けてきたのである」といわれているのです。いいかえれば、私たちにはもともと如来を信じる能力(真実を真実と認知し、受け容れる能力)がないといわれているのです。その信ずる能力がないはずの私が、いま本願を聞いて疑いなく受け容れるという事実が厳然として存在している、そのことに対する深い感動を表された言葉なのです。それはありえないことが在っているのであって、それはまったく本願の不可思議がしからしめたしかいいようのない事実であるということを知らそうとされている文章です。その不可思議力を説明されるのが、如来が成就された信楽が私のうえに実現しているという本願力回向の教説だったのです。
「急いでおられるのは阿弥陀仏です」も読んで下さい。
悪人正機とは「○○正機」(○○はあなたの名前)なのです。
昔の学僧はこんな譬でそのこころをあらわされています。
京の三条の大橋は、東の橋詰から西に向かえば上りの橋だが、西の橋詰から東に向かえば下りの橋になるように、一句の南無阿弥陀仏を如来様のみ言葉として頂けば、必ず助けるの仰せであり、私の方で頂けば、必ず助けるの信心をあらわしている。助けるという本願力が、助かるという信心となって私の上に実現しているからであって、こういうおいわれを、本願力回向の信心というのである。
と仰せられています。
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『妙好人のことば』(梯 實圓著 法蔵館 ISBN978-4-8318-2313-7 C0015)
もいい本です。
さきに紹介した市原栄光堂の妙好人物語の梯師のもので、この本と同じ人物の場合は、梯師はこの本の文章を朗読している形を取っているのもあります。(全部ではないです)
ではCDはいらないではないかと思いもしますが、
本は目を開けていないと読めませんが、CDは目を閉じて聞けます。
(↑これは非常に大事。途中で目を開けていられなくなるのです)
本は一人でしか読めませんが、CDは多くの人と一緒に聞けます。
本はそれに集中しなければなりませんが、CDはこうやって原稿を書きながらでも聞けます。
CDを携帯プレイヤーに落とせば(やってませんけど)、どこででも聞けます。
など、CDの利点はあります。
持っていない人もおられるでしょうから、ちょっとだけ抜き書きします。
その頃の事情を、現道師の「日記」には、
「今日もおかるがたずねてきて、いろいろと話をしたが、お慈悲がわからんと、泣きながら帰っていった。私に力がないばっかりに、なっとくのいくように教えてやることができない、すまんことだ」
という意味のことが記されているそうです。「お慈悲がきこえません」と悲痛なさけびをあげて帰るおかるのうしろすがたに、合掌しながら自分の力なさをあやまっている住職の姿もまた、こよなく美しいものでございます。妙好人のうしろには、世間的には知られていなくても、尊い善知識がいたことを忘れてはなりません。
(六連島のおかる P58)
現道師みたいな人を「善知識」っていうんですね。
「対談 浄土真宗の信心」より、梯實圓師の言われていることを抜き書きしました。
以下、引用です。
如来さまは称名念仏を決定往生の行と選び定め、「お願いだから、お念仏してくれよ」と願っておられる。そこで念仏するということは、如来さまのお心に随順することであり、決定往生の行であると信知されました。したがってじつは念仏往生と領解するとこのほかに信心はないんですね。念仏往生と信ずることが本願に対する絶対の信順なのです。そして、行というものの意味がこのときに変わるわけなんです。
従来の仏教でしたら、善い行いをすれば悟りが開け、悪い行いをすれば地獄に堕ちるというふうに、善悪の行によって迷いと悟りを決定しようとします。したがって悪人に救いはありえません。ところが法然聖人の宗教は決定的にちがいまして、念仏往生の本願を信ずるか疑うかによって迷いと悟りを決定しようとします。それを信疑決判といいます。そのことを示したのが、「信ずるがゆゑに涅槃に入り、疑ふがゆゑに生死にとどまる」という有名な言葉です。その意味で法然聖人の浄土教は、本質的に信心の仏教なのです。
つまり念仏という行は、わたしが煩悩を断ち切るために行ずるものではなく、煩悩あるがままを救う阿弥陀仏のいますことを信知する行であり、如来の平等の大悲の表現であるような行であるとみられたわけです。
浄土宗(浄土真宗)とは、阿弥陀仏が万人を平等に救うために選び定められた、念仏という本願の行を説く宗教である、ということをはっきりさせるために、念仏往生の旗印をかかげられたわけです。しかしそれはそのまま、念仏往生を誓われた「本願を信じて念仏せよ」と教えることになりますから、信心を勧めたことになるわけです。
法然聖人はそれについて、「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具す」(称名念仏すれば必ず往生を得ると心得れば、おのずから信心はそなわっている)と示されています。つまり、念仏申せば必ず助かると思っていることは、念仏往生を誓われた本願を信じていることにほかなりません。
本願の信心が念仏の声となって表れている以上は、念仏申すほかに信心をわが心の中にさがし求めるな、とさえいいます。これは隆寛律師の『後世物語聞書』の中にはっきり出てきます。また法然聖人は「南無阿弥陀仏と申せば声につきて決定往生のおもひをなせ」ともいわれています。「なんまんだぶ・なんまんだぶ・なんまんだぶ」と聞こえているその声を聞けば、念仏の衆生を摂取して捨てないと誓われた本願がたのもしく味わわれるということでしょう。
たしかに法然聖人は念仏往生を強調されており、親鸞聖人は信心の形而上学といっていいほど信心の徳を強調し、信心が大菩提心であり、成仏の正因であるといわれています。しかしそれは力点の置き方にちがいがあるだけで「本願を信じ、念仏申さば仏になる」という基本的な信条はまったく同じです。
だから法然聖人は念仏往生で、親鸞聖人は信心往生である、というふうに二つの立場に分けてしまう考え方には、わたしは賛成ではありません。もともと念仏往生と信心往生とは行法を語るか、機受をあらわすかのちがい、つまり、どのような行をなすべきかを明らかにする立場と、念仏を疑いなくいただいていく立場のちがいで、一つのことがらをあらわしていました。
前にもいいましたように念仏は善悪、賢愚のへだてなく、万人がそれによって生死を超えるべく、如来が成就された普遍の行法であり、信心とは、その南無阿弥陀仏が、わたしの助かる道であると疑いなく聞き開いたことです。この信によって行がわたしの道になるのですから、信心を肝要とするといわれるわけです。親鸞聖人はこれを行信とよばれています。
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-真宗における知識帰命説の源流-
梯 實圓
この論文の書き出しを紹介します。
先日購入しました、『親鸞教学論叢 村上速水先生喜寿記念』(永田文昌堂 ISBN4‐8162-3028-9 C3015)所収の論文です。
梯師の文章は非常に分かりやすく素晴らしいと思います。
仏道において善知識が重要な意味を持っていることはいうまでもない。既に天台大師(538-597)も『小止観』のなかに、教授の善知識、同行の善知識、外護の善知識の三種善知識を挙げて詳しく述べられていた。親鸞聖人(1173-1262)も聞法における善知識(知識)の役割を極めて重要視されていることは、『化身土文類』や、『高僧和讃』等に明らかなところである。ことに、法然聖人(1133-1212)という真の知識に遇い得たことを深く喜び、法然を阿弥陀仏の化身、勢至菩薩の化身と仰いでおられた。しかし法然自身は、「十悪の法然房」「愚痴の法然房」と自謙し、親鸞に至っては愚禿と自称し、臨終の一念まで煩悩具足の凡夫でしかあり得ない身であるといい、決して戒師・人師として振る舞うことはなかった。『歎異抄』第六条や、『口伝鈔』第六条などに、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」といわれたことはあまりにも有名である。
ところが親鸞のご在世のころから、その門弟教団の中に自らを知識と称し、有縁の念仏者を「わが弟子」として自専するものがいたようであるが、そうした風潮は親鸞滅後いよいよ激しさを加えていったようである。そうしたなかから、時宗の知識帰命説の影響もあってか、教団の指導者である知識を仏とみなして帰命の対象とし、阿弥陀仏に帰命するといっても知識をたのみ帰命することのほかにないとする知識帰命説が発生していった。こうした知識絶対主義とでもいうべき信仰形態は、必然的に、現身の仏である知識を中心とした排他的な、閉鎖的な信仰集団を作っていったのである。
〈+α〉
「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで
~本願寺と類するものの批難に答える~
(16)無条件服従について(親鸞会への大きな誤解3)より
善知識の言葉(仏説)に無条件に「ハイ」と従ったときが、弥陀の本願を聞いて助かったときです。ここが決勝点であり、ゴールです。
(中略)
求道とは、本当の仏教を説く善知識の言葉を「ハイ」と聞かせて頂くところまで進む道程です。
季刊せいてん №50 (2000 春の号)
口伝鈔/善悪二業 (口伝鈔第四章) より
(途中からです pp47-49)
このような「さるべき業縁」とか、「宿業」という言葉が表す領域は、通常の論理で説明しようとするとかえって誤解を招くおそれがあります。たとえば『口伝鈔』に過去の世の善悪業の因(宿因)の報いとして、今生(いまの世)の善悪業が生起するといわれたものがそれです。
■『口伝鈔』の宿因について
『口伝鈔』には、
されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。
宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。(中略)
善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるとこ
ろなり。
といわれていますが、ここにはいくつかの問題があります。まず宿善ということですが、第二章に述べられた宿善とは言葉は同じですが内容は違っています。第二章では、信心を得る善き因縁としての宿善で、その本体は阿弥陀仏の光明のもつ調育の働きでした。しかしここでいわれる宿善は、宿悪に対する言葉で、今生で善をなし得る素質に生れるか悪をなすような素質をもって生まれるかの違いを、前世の善悪業によって説明しようとしたものでした。前者は信心獲得の機に育て上げる如来の働きを表そうとする宿善であり、後者は凡夫が行う善悪の行為についての説明ですから、両者は別物といわねばなりません。
つぎに「善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり」といわれていることが問題です。今生において行う善悪の行為(業)が、すべて過去世の善悪の行為の結果として必然的に現れて来たものならば、過去世の善悪の行為もまたその前世の行為の結果になり、どこまで遡っていっても、行為の主体を捉えることができなくなります。行為とは、自らの自由な意思によって決断して為す行いのことであって、それゆえにその行為の責任は行為者がもつことになります。そのような自己が行為の主体なのです。ところが私が行う善行も悪行も、自分の自由な意思によって決断したことではなくて、過去世に行った善・悪の行為の結果であるとすれば、その行為のまことの主体は現在の私ではなくなり、私は私の行為に対して全く責任を負う必要がなくなります。
さらにまた悪を行うものは限りなく悪を行いつづけ、善を行うものは限りなく善を行いつづけることになり、世俗の倫理も仏道修行も成立しなくなってしまいます。したがってこの論理は仏教がもっとも嫌う決定論・運命論に陥ってしまいます。
実際、仏教ではそのような過ちを犯さないために、善もしくは悪の行為は因であって決して果ではなく、それに報いて成立する果は、苦もしくは楽であって善でも悪でもない「無記」であるといっています。無記とは善とも悪とも記せられない中性的な性質のことです。このように善・悪は、楽もしくは苦なる果報を招く因の名であって、果報の名称ではありません。果報は必ず苦・楽という無記の性格をもっていますから、苦なる状態の中でも善を行うことができるし、楽の中で悪を行うこともできるわけです。こうして苦の現状を転じて業の果報を招来するためには善を行えという教えが成立しうるのです。
覚如上人は、若年の頃から倶舎や唯識といった仏教の基礎理論を学び、廃悪修善の修行の基礎となる業報論を知り尽くしておられました。それにもかかわらず、このような論理を展開されたのは、恐らく、自分では決して処理しきれない自己の深層にふれ、自力の修行では救われ難い自己の内奥を表現するために、あえてこのような論理を用いられたのではないでしょうか。『口伝鈔』の業報論は、機の深信の内容を説明するためのものであって、通常の倫理観や、修行理論を述べたものではなかったと見るべきでしょう。
「書けば書くほど浄土真宗から離れていきますので、ほどほどになされた方がいいでしょう。」と警告を発しましたが、懲りずに続けておられます。
梯實圓師の著書から引用させて頂きますので、これでも読んで勉強して下さい。
ともあれ信と疑をもって、迷悟を分判するということは、従来の仏教の因果論を超越した、新しい仏道領域の枠組みを提供されているとしなければならない。生死の苦果は、無明煩悩に縁って起こっている。それゆえ、生死の苦を滅して、涅槃の果をうるためには、八正道(あるいは六波羅蜜等)の行を実修して無明煩悩を断じなければならないというのが、苦集滅道の四諦の教説が示す迷悟の因果論であった。それはたしかに迷悟の事実を示していた。従来の仏教体系はこの四諦の因果を座標軸として成立していたのである。それを法然は自力断証の聖道門と名づけられたのであった。
しかし阿弥陀仏の本願力によって一毫未断の凡夫が報土に往生し涅槃を証せしめられるという本願力の救済体系が成就している以上、凡夫が生死海にとどまっているのは、必ずしも煩悩があるからではなくて、本願を信じないからであるといわなければならない。それは自力断証の四諦の因果を認めながらも、それを包んで越えるような思議を絶した救済の因果であった。法然によれば阿弥陀仏の成仏の因果の徳は、すべて名号に摂在せしめられ、それを称える衆生の往生成仏の因となっていくように選択されており、それが本願の念仏であった。いいかえれば本願の不思議力によって如来の成仏の因果が、衆生の往生の因果を成就していくのであって、このような法門を法然は浄土門と名づけられたのであった。
ー中略ー
こうして自力の断証という自行の因果を座標軸として構築されていた聖道門に対して、本願他力の不思議を信じて念仏するという本願他力の信を座標軸の原点とする新しい宗教的世界観を樹立していかれたのであった。聖道門的世界観にあっては、自己の行為の善悪によって宗教的世界が形成されていくのであるから、善悪が価値の基準となっていたが、浄土教的世界観においては、不可思議なる本願を信ずるか疑うかという信疑が価値観の基準となっていた。
ー中略ー
(正如房に与えられた法語)
(唯信鈔の言葉)
(歎異抄の言葉)
かくて法然、聖覚、親鸞によって確立し展開せしめられた浄土教においては、行為の善悪よりも本願への信疑が最大の問題となっていたことがわかる。如来に対する最大の反逆は、仏智をうたがうことであった。親鸞が「誡疑讃」において「仏智うたがふつみふかし、この心おもひしるならば、くゆるこゝろをむねとして、仏智の不思議をたのむべし」といわれた所以である。
(梯實圓著 永田文昌堂刊 『法然教学の研究』pp298-300 ISBN8162-2108-5 C3015)
次の著作物は私が把握しているものの一覧です。
他にもあるでしょうが、分かりません。
皆さん、求められる時に、参考にして下さい。
◎は上級、いわゆる論文です。
○はその他です。
お薦めは全部ですが、比較的入手しやすいと思われるものの中で、
・『聖典セミナー』の4冊
・『本願のこころ』
・『精読・仏教の言葉 親鸞』
をあげておきます。
下記の書籍以外に、
・季刊「せいてん」
・季刊「一味」(編集発行人が梯 實圓師です)
・月刊「大法輪」
・「真宗学」
などに寄稿しておられます。
このうち、「大法輪」のものは「浄土真宗Q&A」で、現在は「悪人正機について」です。
なお、「聖典による学び 梯實圓和上」もご覧下さい。
このサイトには、いつもお世話になっております。
この場を借りまして、お礼申し上げます。
☆私の手許にあるもの
【著作】
◎一念多念文意講讃(永田文昌堂)
◎顕浄土方便化身土文類講讃(永田文昌堂)
◎教行信証の宗教構造 真宗教義体系(永田文昌堂)
○白道をゆく 善導大師の生涯と信仰(永田文昌堂)
○聖典セミナー 教行信証[教行の巻](本願寺出版社)
○聖典セミナー 教行信証[信の巻](本願寺出版社)
○聖典セミナー 観無量寿経(本願寺出版社)
○聖典セミナー 歎異抄(本願寺出版社)
○真俗二諦(本願寺出版社)
○歎異抄 現代語訳付き(本願寺出版社)
○本願のこころ 『尊号真像銘文』を読む(法蔵館)
○妙好人のことば(法蔵館)
○精読・仏教の言葉 親鸞(大法輪閣)
○親鸞聖人の信心と念仏(自照社出版)
【共著】(共著といいましても、文章自体は個別です)
○親鸞聖人と承元の法難(自照社出版)
○正信偈のこころ(自照社出版)
○お念仏のこころ(自照社出版)
○ご本願のすくい(自照社出版)
○如来のよび声に気づく(自照社出版)
○歎異抄のあじわい(自照社出版)
○「ただ念仏」に聞く(自照社出版)
○親鸞聖人のご信心をおもう 恵信尼さまのお手紙より(自照社出版)
○仏・法・僧をうやまって生きる(自照社出版)
○念仏と流罪 承元の法難と親鸞聖人(本願寺出版社)
【CD】(すねいる)
○浄土真宗法話 聖典法話 正信偈講話 源空章八句 2枚
○私の浄土真宗 歎異抄に探る 遇法のよろこび 第九条
○私の浄土真宗 歎異抄に探る 信のよろこび 第八条、第十条
○佛説観無量寿経に遇う CD24枚
★持っていないもの
◎玄義分抄講述 ― 幸西大徳の浄土教
◎法然教学の研究
◎浄土教学の諸問題 〈上・下巻〉
○蓮如 その生涯の軌跡
○蓮如上人とともに 法話集
○蓮如上人 ― その教えと生涯に学ぶ
○お念仏はひとつご信心もひとつ
○仏の願いに遇う
○生かされて生きるいのち
○今をよろこべる心
○光をかかげて
○花と詩と念仏
※多人数による書籍(例:親鸞と歎異抄入門 大法輪閣刊など)への寄稿や、
監修(例:新編 現代真宗 法話集 法蔵館刊など)もあると思いますが、
省略します。
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親鸞会の講師ならば「亦因亦果」「非因非果」「仏因仏果」などの言葉くらいは知っているはずです。
今日は、そんな難しいことは書かず、梯 實圓師の著作から引用致します。
しかし親鸞聖人によれば、たとえ四聖諦という自力成仏の因果を信じていても、自力の因果を超えた阿弥陀仏の願力不思議の法を信受しないかぎり、その信は疑惑であるといわれていたのです。すなわち「善因楽果 悪因苦果」という自力の因果を信じていても、そのような思議の領域に止まって、善人も悪人も、知者も愚者も分け隔てなく救いたまう絶対平等の救いを受けいれないものを、疑心自力の行者といわれたのです。『無量寿経』では、そのような疑心を「信罪福心」(罪福を信ずる心)といい、善悪無礙の救いを説く「不思議の仏智」を疑う疑惑の行者とされています。
(聖典セミナー 教行信証[教行の巻] 208頁
梯實圓著 本願寺出版社 ISBN4-89416-500-7 C3015)
なお、梯師の著作はたくさんあり、以前も言及しました。
ちょっと難しいものもあるかもしれませんが、読まれることをお薦めします。
講師は梯 實圓和上です。
歎異抄後序の信心一異の諍論のお話でした。
ちなみに、「後序」は「ごじょ」と読みます。
後跋(ごばつ)ともいわれるそうです。
梯和上と打ち合わせをしたわけではありませんが、お話の中で『一言芳談』を引用されました。
むかしの上人は、一期、道心の有無を沙汰しき。次世の上人は法文を相談す。当世の上人は合戦物語。
〔現代語訳〕
むかしの坊さまは、一生、道心の有無を沙汰した。次の時代は、経文について話し合った。今の坊さんたちは、合戦物語ばかり話題にしている。
※「上人」とは浄土宗の僧という意味のようです。
〔もう少し詳しく訳しましょう〕
法然聖人の頃のお弟子たちは集まると、安心の沙汰をずっとしていた。
法然聖人がお亡くなりになって、弟子と孫弟子頃の時代になると、安心の話ではなくて教学の話ばかり話すようになった。
第3世代である今は、孫弟子・ひ孫弟子の時代だが、政治の話ばかりしている。
ところで、西本願寺ではこれまで「法然上人」と言っていたのを今後は「法然聖人」とすることに改めました。
それは、親鸞聖人が「法然しょうにん」のことを書かれた場合には常に「聖人」と書かれているからだそうです。
また覚如上人が、法然聖人と親鸞聖人のお二人を同時に書かれる場合は「法然聖人・親鸞上人」と書き、親鸞聖人お一人の時は「親鸞聖人」とされているということでした。
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