梯實圓

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2009/09/16(水)
如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなほもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり

(正像末和讃 誡疑讃 註釈版聖典612頁)

親鸞会ではこの御和讃は、諸善万行や自力念仏を勧め、称賛されている意味であると説明されています。
親鸞会公式HP http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/zougyou.htm
この御和讃の意味に関しては既に何年も前に、某巨大掲示板で議論されていますが、知らない人もいるでしょうから、再度取り上げます。
これは、誡疑讃・疑惑和讃23首の一つです。
特にこの御和讃に始まる10首ばかりは、大無量寿経の胎化段を受けて、信疑得失を表されたものです。
信疑得失とは、本願を信ずる者は報土往生し、疑う者は化土にとどまることを示し、仏智疑惑とその結果の化土往生を誡められたものです。
したがって、どう味わうかはともかく、まるで諸功徳や自力念仏を勧められたかのように解釈し、説明することには問題があります。
(味わいでしたらいくらでも自由になさって下さい)

〔語句の説明〕
・如来の諸智
  大経に説かれている
  仏智、不思議智、不可称智、大乗広智、無等無倫最上勝智の五智のこと
  なので「もろもろ」と言われました。
・罪福を信ずる
  罪悪(五逆十悪等)を造れば苦報があり、福徳(五戒十善等)を修めれば
  楽報があるという、仏教一般の善悪因果の道理を信ずる。
・善本
  自力の念仏
・すぐれたり
  多い

〔現代語訳〕
種々の本に解説され、現代語訳がされていますが、今は聖典セミナーの浅井成海師のものをあげます。

 如来のいろいろな智慧を疑って、他力の念仏を信じることができないまま、やはり善悪因果の道理のみを信じ、自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです。
(聖典セミナー 正像末和讃 浅井成海著)

※浅井師は「すぐれたり」を「すぐれている」と「励んでいる」の2つの意味にかけて訳しておられるようです。御和讃自体の意味は、基本的には変わりません。

この御和讃の説明を直接されているわけではありませんが、梯 實圓師が分かりやすく説明しておられます。
顕浄土方便化身土文類講讃(梯 實圓著 永田文昌堂 ISBN978-4-8162-3556-6 C3015)より引用します。
強調は私が加えました。

三願真仮の根拠 pp36-38
 こうして親鸞聖人は、三願は各別の往生の因果を誓った生因願であるとみとめつつ、第十九願第二十願第十八願へ調機誘引する方便願として位置づけられた。聖道の機を浄土門へ、諸行往生の機を真門自力念仏往生へ、さらに果遂の願功として弘願真実へ誘引するという暫用還廃の機能をはたしているとみられたからである。「大経和讃」に
 臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり
と聖道門から浄土門へと導く第十九願の願功をのべ、さらに
 定散自力の称名を 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に 真如の門に転入する
といって、要門から真門に回入した機をさらに第十八願へと転入させる第二十願の願功をたたえられた所以である。
 ところで親鸞聖人が、三願に真仮を分判された根拠は、すでに幾たびも触れたように『大経』の胎化段の教説が重要な指南となっていた。そこには往生者には、胎生と化生の区別があり、胎生のものは、真実の智慧がなく、三宝を見たてまつらず、仏を供養することが出来ず、菩薩の方式としての利他行を知らず、大利を失うものとされている。それにひきかえ化生のものは勝れた智慧をもち、自利々他円満の利益を得るものとされている。その差異は、往生の因に、明信仏智と疑惑仏智の違いがあったからであるといわれている。明信仏智とは、不可思議の仏智の顕現である第十八願を信ずることをいい、疑惑仏智とは第十八願を疑うことをいう。しかし仏智を疑惑するが、罪福を信じ、諸功徳を修し、あるいは善本を修習して願生する善人は、第十九願力、第二十願力の方便願のはたらきによって、方便化土へ胎生するのである。罪福を信ずるとは、善因楽果、悪因苦果と言う因果応報の道理、廃悪修善の道理だけを信じて仏智不思議の本願を信じない者をいうのである。それは諸行往生を信じ、自力念仏往生を信ずるものに共通する自力心(定散心)をいう。善本を修習するとは、第二十願の植諸徳本と同じく自力念仏を意味すると宗祖は見られていた。こうして第十八願を信ずる明信仏智のものは化生往生の利益を得るが、第十八願を疑いながらも、罪福を信じて自力諸行を修する第十九願の機と、自力念仏を修する第二十願の機は胎生し、大利を失うと説かれていた。このようにして胎生して大利を失う自力疑心のものに対して、化生の利益を得る明信仏智の本願念仏を大利無上功徳の法として付属されたのが『大経』の付属流通分であった。この教説を根拠として第十八願と第十九願第二十願の間に真仮の別を見、それを六三法門といわれるような真実権仮の体系として展開されたのが『教行証文類』である。

この本は2年前に刊行されたものですので、まだ入手できると思います。
(1万円近くしますが)
三願転入について詳しく書かれていますので、関心のある方は読むことをお薦めします。

タグ : 梯實圓 疑心 三願真仮 第十八願 第十九願 第二十願

2009/08/07(金)
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

「おはしまさば」は文法的には、未然形+接続助詞「ば」で、仮定を表します。このあとの文も「おはしまさば」「ならば」「ならば」と同じですので、仮定として訳すべきでしょう。
これは「仮定ではない」という人もいます。その理由は「阿弥陀仏の本願まことは明らかだから、仮定で本願を語られるはずがない」というものですが、はたしてそうでしょうか。
確かに親鸞聖人にとって「阿弥陀仏の本願まこと」であったことは言うまでもないのですが、聖人直筆の文ではないにしろ、直接聞いた歎異抄の著者がこのように書いているのですから、自分の思いで文章自体を変えてしまうのではなく、親鸞聖人のお言葉の深意・真意を汲み取ろうとすることに努力すべきではないでしょうか。

このことについては、梯實圓勧学が説明しておられますので、そのまま紹介します。


しかし、このことをいうのに「まことにおわしまさば」という仮定の言葉をつらねておられる点に、奇異な感じをうけます。そこには、反語的に意味を強めるようなひびきも感じられますが、何よりも「親鸞が申すむね、またもってむなしからず候ふか」という謙虚な領解の言葉を述べるためだったと思います。
ふつう絶対真実の法の伝統を語った後は、「法然の仰せまことなるがゆえに、親鸞が申すことも決していつわりではない」と断言するでしょう。そして「親鸞の信心はかくのごとし、このうえは、面々、念仏をとりて信じたてまつるべし」と結ぶでしょう。そうなれば、教法の権威をかりて、門弟に信を強制する高圧的な「人師」のイメージが強くなり、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(『註釈版聖典』八三五頁)といいつづけられた親鸞とは、ちがった人格になってしまいます。
 聖人は、「法」の名によって「私」を主張することを厳しく自戒されています。自分がいただいている教法が貴いということは、自分が貴いことでは決してありません。むしろ、教法の貴さがわかればわかるほど、自身の愚かさを思い知らされていくはずです。仏祖の名を利用して、名利をむさぼったり、「よき師」の名をかりて、自己を権威づけようとするほど醜いものはありません。
 こうして親鸞は「愚身の信心におきてはかくのごとし」と述べ、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」とおことばを結ばれています。率直に自身の信心を表明された聖人は、門弟たちの一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか。したがわぬかを決断する以外に道のない、仏法の厳しさを知らしめられていたといえましょう。
(『聖典セミナー 歎異抄』102-103頁 梯 實圓著 本願寺出版社 ISBN978-4-89416-565-6)
(『親鸞』70-71頁 梯 實圓著 大法輪閣 ISBN4-8046-4102-5 にもほぼ同じ文があります)


私もこの通りと思います。
梯師の文章でもう1点注目すべきは、「一人ひとりが如来のまえにたって・・・」という箇所でしょう。
「信心獲得したいのです」と口では言っていても、直接阿弥陀仏に対峙せず、「私はまだ・・・」「なかなか・・・」「環境が・・・」などと言い訳を言って逃げていては、無常との競争以前の問題です。

タグ : 歎異抄をひらく 歎異抄 梯實圓

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