『仏教の基礎知識』(春秋社 ISBN978-4-393-10608-2 C0015)
『仏教要語の基礎知識』(春秋社 ISBN4-393-10604-0 C0015)
があります。
私は大学生時代から『仏教要語の基礎知識』は持っていたのですが、どちらも新版になっていたので、改めて購入しました。
水野氏はパーリ仏教の権威ですので、浄土真宗の学者ではありませんが、両書は仏教の基礎を知るにはいい本だと思います。
『仏教の基礎知識』から業報説に関する一文を引きます。強調は私がしたものです。
仏教においても常識的な穏健説として業報思想を採用した。この常識的な業報説を受けいれないならば、仏教独自の四諦や縁起の教えに入ることはできないとして、仏教独自の学説に入るための準備として業報説が用いられたのである。三世因果の業報説を疑ったり否定したりすることを、仏教では邪見といっている。仏教では邪見がもっともいけないものであって、これがあるかぎりは、決して仏教信仰に入ることはできないとされる。邪見は善も悪も否定し、善悪の報果も認めないものである。
業報説は、仏教を通じてインド以外の東アジア諸地域にも伝えられ、仏教のあるところには必ず業報説が信奉された。しかしこれは前述のように、仏教にとってはあくまでも初歩的な通俗説であって、極めて低い教えにすぎず、業報説からさらに進んで仏教独自の四諦や縁起の説に向かうべきものである。
この文を読んで分かるように、親鸞会で教えられている因果の道理というのは「業報説」であって、仏教独自の四諦八正道の教え、縁起の説に入る前の導入部分の教えです。もっと言えば、仏教が説かれる以前から一般に信じられていることを取り入れたものです。仏教に教えられていることのように思えるのは以上の経緯によるものであり、せいぜいが仏教で説かれる因果の初歩的なごく一部を教えているにすぎません。
前々回のエントリーで述べましたように、善をしようとするのは当たり前であり、いつまでも通俗的な因果の道理に止まっているということは、かろうじて仏教に入ったかなという程度で止まっているということです。聖道門以前であり、とても浄土門と言えるようなものではありません。
すでに今、阿弥陀仏の救いを求めている人は、聖道門に入る必要はありません。すみやかに弥陀の救いに遇って下さい。
季刊せいてん №50 (2000 春の号)
口伝鈔/善悪二業 (口伝鈔第四章) より
(途中からです pp47-49)
このような「さるべき業縁」とか、「宿業」という言葉が表す領域は、通常の論理で説明しようとするとかえって誤解を招くおそれがあります。たとえば『口伝鈔』に過去の世の善悪業の因(宿因)の報いとして、今生(いまの世)の善悪業が生起するといわれたものがそれです。
■『口伝鈔』の宿因について
『口伝鈔』には、
されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。
宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。(中略)
善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるとこ
ろなり。
といわれていますが、ここにはいくつかの問題があります。まず宿善ということですが、第二章に述べられた宿善とは言葉は同じですが内容は違っています。第二章では、信心を得る善き因縁としての宿善で、その本体は阿弥陀仏の光明のもつ調育の働きでした。しかしここでいわれる宿善は、宿悪に対する言葉で、今生で善をなし得る素質に生れるか悪をなすような素質をもって生まれるかの違いを、前世の善悪業によって説明しようとしたものでした。前者は信心獲得の機に育て上げる如来の働きを表そうとする宿善であり、後者は凡夫が行う善悪の行為についての説明ですから、両者は別物といわねばなりません。
つぎに「善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり」といわれていることが問題です。今生において行う善悪の行為(業)が、すべて過去世の善悪の行為の結果として必然的に現れて来たものならば、過去世の善悪の行為もまたその前世の行為の結果になり、どこまで遡っていっても、行為の主体を捉えることができなくなります。行為とは、自らの自由な意思によって決断して為す行いのことであって、それゆえにその行為の責任は行為者がもつことになります。そのような自己が行為の主体なのです。ところが私が行う善行も悪行も、自分の自由な意思によって決断したことではなくて、過去世に行った善・悪の行為の結果であるとすれば、その行為のまことの主体は現在の私ではなくなり、私は私の行為に対して全く責任を負う必要がなくなります。
さらにまた悪を行うものは限りなく悪を行いつづけ、善を行うものは限りなく善を行いつづけることになり、世俗の倫理も仏道修行も成立しなくなってしまいます。したがってこの論理は仏教がもっとも嫌う決定論・運命論に陥ってしまいます。
実際、仏教ではそのような過ちを犯さないために、善もしくは悪の行為は因であって決して果ではなく、それに報いて成立する果は、苦もしくは楽であって善でも悪でもない「無記」であるといっています。無記とは善とも悪とも記せられない中性的な性質のことです。このように善・悪は、楽もしくは苦なる果報を招く因の名であって、果報の名称ではありません。果報は必ず苦・楽という無記の性格をもっていますから、苦なる状態の中でも善を行うことができるし、楽の中で悪を行うこともできるわけです。こうして苦の現状を転じて業の果報を招来するためには善を行えという教えが成立しうるのです。
覚如上人は、若年の頃から倶舎や唯識といった仏教の基礎理論を学び、廃悪修善の修行の基礎となる業報論を知り尽くしておられました。それにもかかわらず、このような論理を展開されたのは、恐らく、自分では決して処理しきれない自己の深層にふれ、自力の修行では救われ難い自己の内奥を表現するために、あえてこのような論理を用いられたのではないでしょうか。『口伝鈔』の業報論は、機の深信の内容を説明するためのものであって、通常の倫理観や、修行理論を述べたものではなかったと見るべきでしょう。