機の深信

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2009/11/30(月)
顕正新聞(平成21年11月15日号)を読みました。
法友通信 「罪悪観」と「機の深信
のページに2人の会員の手紙の要約が書かれていました。

Aさんの手紙の一文
このたび、罪悪観は自力であり、目的である信心決定(二種深信)に近づけるための方便であるから、大変大事ではあるけれども、「罪悪観」をどれだけ深めても「機の深信」にはならないと聞かせていただきました。

Bさんの手紙の一文
罪悪観」は自力・方便であり、もっと大切なのが「機の深信」が立っているかいないかの信心の沙汰である。自力からしか他力へは入れないが、幾ら罪悪観を深めても、機の深信にはならない、と教えていただきました。

声が出ませんでした。
何ですかね、これは。
罪悪観」をどれだけ深めても「機の深信」にはならない
というのはいいですよ。
問題はその前の文。
2人とも同じことを書いていますので、これが親鸞会で教えられていることなのでしょう。
本当にびっくり仰天です。
恥ずかしいから、こういうのを書くのをやめてもらいたいです。

注:
 本願寺の学者・布教使が「罪悪観は自力である」と書いたり言ったりする場合の罪悪観は、信罪福心のことをさしています。信罪福心は自力心の異名です。
 上の2通の手紙の中の「罪悪観」はそういう意味では書かれていません。
 百歩譲って、上の手紙の罪悪観を信罪福心と解釈した場合でも、信罪福心は方便とは言わないですね。
 やはりおかしいです。
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タグ : 機の深信 罪悪

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