帖内・帖外のすべての御文章を現代語訳にされたものでなかなかのものです。
ただ、読む際に気をつけなけらばならないところを、とりあえず一つ指摘しておきたいと思います。
【原文】
このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。(御文章四帖目第八通 八カ条 最後の一カ条の後半)
【『蓮如の手紙』p121】
このゆえに、南無とお従いするわたくしどもの「機(救われる側の信心)」と、阿弥陀仏のおたすけくださる「法(阿弥陀仏の本願)」とが一つとなるところをさして、「機法一体の南無阿弥陀仏(救われる側の信心と、その者を救う阿弥陀仏の本願のはたらきとが一つであるところの南無阿弥陀仏)」といいます。
【私の指摘・補足】
上の文章の「一つとなる」という箇所が間違いです。
その後のフレーズの中では、きちんと「一つである」と書かれています。
「一つとなる」と「一つである」とは全く違います。
原文は「一体なる」であり「一体になる」ではありません。「一体である」という意味なのです。
難しい言葉でいえば「一つとなる」だと「転成一体」であり、「一つである」は「本来一体」です。
蓮如上人が機法一体とおっしゃるのは「本来一体」ですので、あとのフレーズが正しいのです。
このように、「タノム」「タスケタマヘ」「タスケタマヘトタノム」「タノムタスケタマヘ」や「機法一体」についての箇所は注意して読んでください。
理由
・タノム等は現代と意味が異なる。
・機法一体はいろいろな意味がある。
〈4帖目第14通 一流安心〉
一流安心の体といふ事。
南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)といへり。まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。
さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、決定極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず。このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。
(註釈版聖典 1186頁)
〈4帖目第8通 八か条〉
当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
(註釈版聖典 1179頁)
[補足]
4帖目第14通は、二字四字分釈による機法一体のご文です。
4帖目第8通は、青字が六字皆機の釈、ボールド体が二字四字分釈、赤字が六字皆法の釈です。
大事なことは「衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころ」は「南無」であり、阿弥陀仏から与えられるということです。
【善導大師『散善義』 『教行証文類』信文類の引文より】
白道=機=信心という説明
〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
(註釈版聖典 225頁)
白道=法=願力という説明
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。
(註釈版聖典 226頁)
[補足]
二河白道の譬の「白道」は、信心であり、また願力であるということです。
つまり機法一体なのです。
この一体という意味は、二つのものが一つになるという一体ではなくて、本来一体であるということです。
間違えないようにしましょう。
また、「二尊の意に信順」が「タスケタマヘトタノム」に当たります。
但し、原文は真宗聖典註釈版によります。
思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案の道理に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと[云々]。
(註釈版聖典1311頁)
【意訳】
「思案の最上」というのは阿弥陀如来が我等をたすけるために五劫思惟の本願にすぎたものはない。この御思案の道理に同心すれば仏になるのである。同心というても別にあるのではない。機法一体の道理――すなわち、五劫思惟の本願というもただわれらをたすけ給うためである。弥陀をたのむ一念のときそのたのむ衆生の機と阿弥陀仏の法とが一体になる。その機法一体の道理を聞信することである。
【解説】
仏の思惟をさしのけて、自分のはからいを容れる余地はない。五劫に思惟された本願の名号を信受(まうけ)するのである。名号は機法一体である。南無というたすかる信心と阿弥陀仏というたすける法体(おみのり)と互具互成する名号を信受する、これが仏智におまかせする同心である。
-----ここまでが引用
【私の補足】
上の意訳中「弥陀をたのむ一念のときそのたのむ衆生の機と阿弥陀仏の法とが一体になる」のところは注意して読む必要があります。
『やさしい 安心論題 ⑿「機法一体」』や上の解説を読めば分かりますように、「たのむ衆生の機」というのは私がおこした心ではありません。機法ともに南無阿弥陀仏なのです。
(12)機法一体
一
「機法一体」という言葉は『安心決定鈔』の中に多く見られ、覚如上人の『願願鈔』(真聖全三―四六)や、存覚師の『六要鈔』(真聖全二―二八二)、『存覚法語』(真聖全三―三六六)などにも出ています。それらの文にあっては、救われる衆生(機)と救う如来(法)とが一体である、あるいは一体になるという意味で、次のようなさまざまな宗義を「機法一体」として示されています。
⑴往生正覚不二の義
衆生往生せずば正覚を取らじと誓いたもうて、その本願を成就されたのが果成の南無阿弥陀仏である。すなわち南無阿弥陀仏は衆生の往生(機)と仏の正覚(法)とを不二一体に成就されているということ。これは『安心決定鈔』(真聖全三―六一五等)に多く示されています。
⑵信の法徳として一体になる義
信心をうれば、仏の功徳の全体が衆生の上にそなわって、仏の功徳に一体となること。『安心決定鈔』に(真聖全三―六二二)、
信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なり。
等と示され、『願願鈔』に(真聖全三―四六)、
信心歓喜すれば機法一体になりて、能照所照ふたつなるににたれどもまったく不二なるべし。
とある。『六要鈔』(真聖全二―二八二)に示されている機法一体も、これと同じ義であります。このような信の法徳のことを、蓮如上人は「仏凡一体」としてお示しくださっています。
⑶彼此三業不離一体の義
阿弥陀仏の身口意三業によって成就せられた名号を衆生が領受するのであるから、衆生の信後の称名(口業)、礼拝(身業)、憶念(意業)は、仏とあい離れないということ。『安心決定鈔』(真聖全三―六二五等)に出ています。
このように、「機法一体」という言葉は、さまざまな宗義を示す用語として使われています。
しかしながら、いま「機法一体」という論題でうかがうのは、主として蓮如上人の『御文章』にお示しくださった「機法一体」の意味についてであります。
蓮如上人のいわれる機法一体の「機」とは南無帰命の信心であり、「法」とは阿弥陀仏の摂取の願力であります。したがって、衆生の上に発起せしめられる信心と、阿弥陀仏の摂取の願力とは一つの体である、という意味を「機法一体」として明らかにせられます。つまりこれは行信不二の義であります。
これを仏辺成就の上でいうならば、衆生を南無せしめて摂取したもうのが南無阿弥陀仏であるということになります。またこれを衆生領受の上でいうならば、私どもの南無帰命の信心は阿弥陀仏の摂取の法が届いてくだされたすがたにほかならないということであります。
二
「機」というのは法に対する語で、可発の義であるといわれます。これは法によって救われるべき者(衆生)を意味します。けれども、蓮如上人の仰せられる機法一体の「機」とは、南無帰命の信心を指して機といわれます。なぜ信心のことを機というのかと申しますと、南無の信心は救われる衆生(機)の側に発起せしめられるものであるから、この信心を機といわれるのです。宗祖親鸞聖人にあっても、『本典』行巻の念仏諸善比校対論の二機対のところに(真聖全二―四一)、
しかるに一乗海の機を按ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり。
と示されています。これも信心のことを機といわれた用例であります。
次に「法」というのは、これは機に対する法のことで、阿弥陀仏の救いの法、すなわち衆生を摂取したもう願力のことであります。
「一体」とうのは、一つの体である、体は一つであるということであります。衆生の南無の信心は、助くる法とは別に、衆生がおこすものではありません。助くる法のおんはたらきによって発起せしめられる信心であります。いいかえますと、衆生に南無せしめて摂取したもうのが阿弥陀仏の法であります。このゆえに機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのです。『御文章』四帖目第十四通に(真聖全三―四九七)、
南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたもうかたの法なるがゆえに、これすなわち機法一体の南無阿弥陀仏ともうすこころなり。
と仰せられています。
三
蓮如上人の仰せられる機法一体の釈相をうかがいますと、二字四字分釈のいい方と、六字皆機皆法とされるいい方とが見られます。
二字四字分釈というのは、「南無」の二字はたのむ機のかた、すなわち衆生の信心とし、「阿弥陀仏」の四字はたすくる法のかた、すなわち摂取の願力、というふうに分けて示され、その南無の機と阿弥陀仏の法とが一体に成就されているのが機法一体の南無阿弥陀仏である、といういい方であります。四帖目第八通(真聖全三―四九)に示される機法一体の釈も、この二字四字分釈にされています。
これは六字の中で、一応その主たる意味によって、南無を機、阿弥陀仏を法というふうに分けて示されたので、、古来このようないい方を拠勝為論(勝れたところによって、論をなす)といわれています。
六字皆機皆法というのは、南無阿弥陀仏の六字全体がたすくる法であり、また六字全体がたのむ信であるといういい方です。
阿弥陀仏のたすくる法は、衆生に南無の信をおこさせて、これを摂取したもう法でありますから、南無を抜きにした阿弥陀仏ではありません。南無を具する阿弥陀仏であります。ですから、南無阿弥陀仏の六字全体がたすくる法であります。これを六字皆法といわれます。一帖目第十五通に(真聖全三―四二三)、
この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたもうという道理なり……これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまえるすがたぞとこころうべきなり。
と仰せられ、五帖目第八通には(真聖全三―五〇五)、
ただわれら一切衆生をあながちにたすけ給わんがための方便に、阿弥陀如来御身労ありて、南無阿弥陀仏という本願をたてましまして、……弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚とらじとちかいたまいて、南無阿弥陀仏となりまします。
等と仰せられています。これは南無阿弥陀仏の六字全体をもって、たすくる法とされるものであります。
また南無の信は、阿弥陀仏のたすくる法が到り届いてくだされた信であって、阿弥陀仏の法と別なる信心ではありません。衆生に南無せしめて摂取したもう阿弥陀仏の法、すなわち南無阿弥陀仏をその体とする信心であります。これを六字皆機といわれます。三帖目第二通に(真聖全三―四五二)、
さてその他力の信心というは、いかようなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり。
と仰せられ、四帖目第八通には(真聖全三―四九〇)、
当流の信心決定すという体は、すなわち南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとこころうべきなり。
と示され、五帖目第九通にも(真聖全三―五〇六)、
されば、他力の信心をうるというも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字の心なり。
と仰せられています。「しかしながら」とは、すべてそのままという意味です。これらの文は、南無阿弥陀仏のがそのまま衆生の信心となるといういい方で、六字全体をたのむ信の体とされています。
六字皆法のたすくる法なるがゆえに、その法が衆生に届いて六字皆機の信心となってくださるのです。このように、六字皆機皆法といういい方を古来、尅実通論といわれています。尅実通論というのは実を尅して通論すればという意味で、実義をつきつめていえば、南無阿弥陀仏の全体がたすくる法であり、その南無阿弥陀仏の全体がたのむの信となる、というのであります。
前の二字四字分釈のいい方は、この六字皆機皆法の宗義をわかりやすく二字と四字とに分けてお示しくださったものといえましょう。
先哲の歌に、
左文字おせば右文字たすくるの ほかにたすかるこころやはある
というのを聞いたことがあります。判は左文字に彫ってあって、それを紙に押すと、そのまま右文字が現れます。必ず助けるぞよの願力が私に届いたすがたが、お助けを喜ぶ信心であって、仏の助くるのほかに私の助かる心(信)があるのではないという意味でありましょう。
また、他家の娘が嫁入りしてきて自家の嫁となる。娘と嫁と呼び方は変わっても体は一つです。如来の名号願力が私に届いて信心となってくださるので、名号願力のほかに別に信心があるわけではありません。
四
善導大師は『玄義分』の六字釈に(真聖全一―四五七)、
「南無」というはすなわちこれ帰命なり。またこれ発願廻向の義なり。「阿弥陀仏」というはすなわちこれその行なり。この義をもっての故に必ず往生をう。
と解釈せられ、願行具足の故に次の生には必ず浄土に往生できる旨を明らかにしてくださいました。
親鸞聖人は善導の釈義を承けて、『本典』行巻に六字釈を示され(真聖全二―二二)、南無阿弥陀仏の名号は阿弥陀如来の智慧と慈悲とをまどかにそなえて(悲智円具)、たのみにせよ、よりかかれよ、必ず救う、とよびかけつつある法である旨を顕わしてくださいました。
蓮如上人はそれらの釈義を承けて、阿弥陀仏の摂取の願力が衆生の信心となるのであって、衆生のたのむの信は阿弥陀仏のたすくるの法のほかにはない。たのむの信(機)とたすくる法とが一南無阿弥陀仏に成就せられているという意味で、機法一体の南無阿弥陀仏ということをお示しくださいました。これによって、他力廻施の信心ということをいよいよ明らかにされたのであります。
たしかに「法体成就の機法一体」という言葉はあります。
ただ、これは「法体成就の上で語られる機法一体」の意味であり、これに対するものは「名号を領受した機の上で語られる機法一体」です。
なお、下の文章は参考のためにあげたのであり、勉強していないと難しいですので、無理して読まれなくてもよいと思います。
機法一体については、安心論題関連の書籍やサイトを見て下さい。
一、機法一体について
いま申しますように、蓮如上人のおさとしの法義の特色は、機法一体、仏凡一体、タスケタマヘの義、信因称報の義を明らかにされたということにあります。
しかるに機法一体の御釈は、六字釈に基づく機法不二を以て、他力廻向の信であることを示されるのであります。
即ち善導大師の六字釈は、機法一体義と、願行具足の法義を示されるものです。しかし機法一体義は他力廻向義とその扱いを異にしています。また願行具足義は信心正因を示すものであります。
しかして善導大師の上に於いて、玄義分に示される機法一体義は、法体名号の成就の上で示されるのです。また散善義の三心釈は、三心発起の所に於いて、一切願行成就することを示されるもので、衆生領受の上に機法一体がさとされてあります。
宗祖にあっては、行巻六字釈は、機法一体を法体の上で語り給うてあります。即ち帰命の釈が、勅命に帰せしむる力を成就せりとされるのです。信巻ではこの法体成就の機法一体が、衆生に領受されて、機の上の機法一体義を成ずると釈されています。
蓮如上人は、宗祖の行信不二の釈を承けて、機法一体の名目で語ってゆかれるのであります。そのことを御文章の三帖目の第七通には「されば南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく心得わけたるをもて信心決定の体とす云々」と示されてあります。また御文章の四帖目第八通、同第十二通、同第十四通にもそのことがさとされてあります。
いろいろうかがってみると、「機法二種一具の深信」と「機法一体」そして「仏凡一体」が混乱していることに気が付き、それぞれ簡単にお話ししました。
「二種深信」と「機法一体」は西本願寺の「安心論題」の中にありますので、ネットで検索すれば説明しているサイトがあると思います。
「仏凡一体」は新「安心論題」からは外れましたが、旧「安心論題」にありますので、やはりネット上に説明されているサイトがあると思います。
検索が可能な方は、ご自分で調べて下さい。
当然のことながら、安心論題を説明した本にも書かれています。
ところで、なぜこのようなことになったのか考えてみますと、親鸞会の「教学聖典」中に
3-39
問 法体成就の機法一体とはどんなことか。
答 阿弥陀如来の御手元に十劫の昔から完成しているところの南無阿弥陀仏の大功徳のことを言う。
3-47
問 信念冥合の機法一体とは、どんなことか。
答 信心決定して身も心も南無阿弥陀仏と一体になったことを言う。
という問と答があるからだと思います。
「法体成就の機法一体」「信念冥合の機法一体」という言葉は、私の持っている
『真宗大辞典』(永田文昌堂)
『真宗新辞典』(法蔵館)
『真宗辞典』(同)
『親鸞辞典』(東京堂出版)
のいずれにも出ていない言葉でした。
ネットで検索しても、この言葉を使っているのは親鸞会と大沼法龍師だけでした。
(ネットが全てではありませんので、一応参考まで)
確かに、この教学聖典の説明では、「機法一体」「仏凡一体」それに「願行具足」の意味が混乱するでしょうし、「機法」という言葉の入っている「機法二種一具の深信」とも混同が生ずることも致し方ないと思いました。
「機法一体」という言葉にはいろいろな意味・説相があり、そのうちの一つが「仏凡一体」に当たりますが、浄土真宗ではこれらは別の意味をあらわしますので、きちんと押さえておきたいと思います。
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