(網羅しているわけではありません)
表記方法は
左側:『歎異抄をひらく』の原文←右側:永正本の記述
とします。
漢字・仮名の違い、仮名遣いについては無視します。
また送り仮名も多少の違いは省略します。(例:「乱るる」と「乱る」など)
ただし、永正本に漢字で書かれているものと違った漢字が使われている場合は記します。
★印は、永正本どころか他の主だった古写本にも、『歎異抄をひらく』の「原文」のような記述がないものです。
『歎異抄をひらく』独自の「原文」と思われます。
原文が違っていたら、解説にならないでしょう。
これでは「どちらが異端か」以前の問題です。
☆印は、比較的新しい写本(慧空本)や法要本、東本願寺仮名聖教にあって、永正本にはないものです。
中には意味が変わる場合もありますので、注意が必要です。
【序】
自見の覚悟←自見の覚語
【第一章】
善なきがゆえ←善なきゆえ
【第二章】
こころにくくおぼしめして~はんべらば←こころにくくおぼしめして~はんべらんは
かのひとびとにも←かのひとにも☆
地獄におつるべき←地獄におつべき★
自余の行を←自余の行も☆
愚身が←愚身の
【第三章】
生死をはなるることあるべからざるを←生死をはなるることあるべからずを
【第五章】
父母の孝養のためとて念仏一辺にても←父母の孝養のためとて一辺にても念仏☆(←★から☆に修正)
【第九章】
他力の悲願はかくのごときのわれら←他力の悲願はかくのごとし われら☆
【別序】
聖人のおおせにあらざる←上人のおおせにあらざる
【後序】
ひとのくちをふさぎ相論をたたんために←ひとのくちをふさぎ相論のたゝかひかたんがために
故親鸞聖人のおおせごと←古親鸞のおおせごと
【流罪記録】
幡多←幡田
浄聞房←浄円房
奏聞←奏問
修正
1.最初にあげたものに誤字・脱字がありましたので、少し修正しました。
本質的には変わっておりません。
2.「総じて」・「惣じて」については、本によってかなり相異・混乱がありますので削除しました。
3.第五章については、調べた結果、東本願寺の仮名聖教(江戸時代の版本)の一種にこのような記述がありました。しかし、今日のほとんどの歎異抄解説書では、古写本にない「念仏一辺にても」は採用していません。
いつもこのように仰っていたのでしょうね。
法然聖人の日頃のお言葉を、50年後に、しみじみとまるで目の前に法然聖人がおられるかのように語られる親鸞聖人もまた素晴らしい。
「浄土宗の人は愚者になりて往生す」
私はずっと、愚者になりたいと思っておりました。
【法然聖人 一枚起請文】(註釈版聖典1429頁)
もろこし(中国)・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細候はず。ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。
このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
[浄土宗の安心・起行、この一紙に至極せり。源空が所存、このほかにまつたく別義を存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しをはりぬ。]
[建暦二年正月二十三日]
【親鸞聖人 御消息】(註釈版聖典771頁)
なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとに申され候ひける、すこしもたがはず候ふなり。としごろおのおのに申し候ひしこと、たがはずこそ候へ、かまへて学生沙汰せさせたまひ候はで、往生をとげさせたまひ候ふべし。
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまでおもひあはせられ候ふなり。ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせたまはずして、おのおの御往生候ふべきなり。ただし、ひとにすかされさせたまひ候はずとも、信心の定まらぬ人は正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる人なり。
乗信房にかやうに申し候ふやうを、ひとびとにも申され候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。
文応元年十一月十三日 善信[八十八歳]
乗信御房
【歎異抄 第12章】(註釈版聖典839頁)
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。
一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。
(歎異抄第12章 註釈版聖典 839頁)
とありますように、あれもこれも、たくさん読めばいいというわけではなくて、阿弥陀仏の本願が書かれている本を読めばよろしいのです。
このブログの中にはいろいろな本が出てきますが、僧侶とか研究者でないのなら、全部読まなければならないということはありません。
私自身の勉強もまだ始まったばかりです。
今日は、「勉強」というより、「信を求めて」という意味で書きます。
本当は「求めて」というのはあまり使わない方がいいと思うのですが、求めている人の気持ちからいうと「求めて」になってしまうのですね。
言葉は難しいです。
阿弥陀仏によって救われるのであり、本を読むことによって救われるのではないということを踏まえた上で、聴聞としての聖教・仏教書の拝読という意味で、私なりに思いを述べます。
前回書いたものは基本的に省きます。
さて、本題です。
よく何を読んだらいいですかと聞かれます。
親鸞聖人の『教行信証』(『教行証文類』)を読むことのできる人ならそれば一番いいでしょうが、難しいですから、蓮如上人の『御文章』がよいと思います。
蓮如上人はどうも・・・という人は、親鸞聖人の和語聖教(『唯信鈔文意』とか『一念多念証文』など)がよいと思います。
ちなみに、大法輪12月号の特集は「浄土真宗聖典ガイド」です。
現代の人の書かれた書については、このブログで取り上げた方々、つまり、
深川倫雄師
加茂仰順師
梯 實圓師
紅楳英顕師
の著書はお薦めです。
他にも素晴らしい方がおられるでしょうが、私自身がまだお話を聞いたり、本を読んでいないので何とも言えません。
この4師の著作がいいと思いますが、コレクションをするわけではないでしょうから、全部で数冊でよいと思います。
(特に難しいものは信心を獲てから読まれたらよろしいでしょう。読まなければならないというものでもありませんけれど)
深川師の著作で手に入れやすいのは『仏力を談ず』(永田文昌堂)です。
![]() | 仏力を談ず (1996/09) 不明 商品詳細を見る |
加茂師の著作で手に入れやすいのは『浄土真宗 信心』(永田文昌堂)と『真宗の信心』(探究社)です。
梯師の著作はCDも含めて既に何度も言及しました。
紅楳師の著作については前回述べました。
![]() | 浄土真宗がわかる本 (15) (2009/06) 紅楳 英顕 商品詳細を見る |
![]() | 浄土真宗がわかる本 (続) (伝道新書 (16)) (1998/04) 紅楳 英顕 商品詳細を見る |
各師それぞれの味がありますので、読む人との相性もあるでしょうから、どなたが一番いいということではないです。
これとは別に、妙好人のいろいろなお話はいいですね。
私はお軽同行が好きですが、これも好みです。
歎異抄第12章に書かれてある言葉を忘れず、読んだり聞いたりして下さい。
例えば平成21年10月号では
第3回 「急ぎ仏になりて」は、死に急がせているのか
と題して、数冊の解説書と比較しています。
比較しているのは、
・『初めての歎異抄』 山崎龍明著
・『歎異抄 全購読』 安良岡康作著
・『歎異抄 その批判的考察』 石田瑞麿著
・『歎異抄論註』 佐藤正英著
の4冊で、「急ぎ仏になりて」の解釈の比較に5頁を割いています。
他、顕正新聞でもこの部分の解釈の違いにかなりの紙面を割いていました。
このうち、「急ぎ仏になりて」を死に急がせていると書いているのは石田瑞麿氏の本のみです。
顕真の記事の作者は上記4冊だけが歎異抄の解説書だと思っているということはないでしょうが、あたかも『歎異抄をひらく』が古今楷定の解釈をしているかのような(ある意味そうなのですが)、記述をしているのはいかがかなものかと思います。
この「急ぎ仏になりて」に限定していえば、
『講座 歎異抄』(中西智海 永田文昌堂)の説明では、
とあります。(念仏して)ただちに仏に成って。「いそぎ」は即刻、ただちに意。何よりも急がねばならないことはひとりひとりが本願を信じ、念仏申す身となることである。「急いで死んで」という意味ではない。
これは2001年6月20日発刊で、発刊当時、著者の中西智海師は西本願寺司教でした。今は勧学です。
(ちなみに『歎異抄をひらく』の発刊は2008年3月3日です)
なお、佐藤正英氏の解釈を
「念仏」と「諸善」を比較して言われたのだという珍解釈
と批判していますが、これは別に珍解釈ではなく、「竪超」「竪出」「横出」などの自力の教えに対して、「横超」の意味を表すということで、解釈としては正当なものだと思います。
タグ : 歎異抄
私は大学の研究者ではありませんので、あまり考えずに買っております。
近くに良い図書館がなく、買うしかないのです。
すべてを熟読したわけではありません(特に下の分類中「思想」と「その他」)が、
私の推奨本は、
・歎異抄(聖典セミナー) 梯 實圓
・歎異抄事典 谷川理宣、土井順一、林智康、林信康
・歎異抄(角川ソフィア文庫) 千葉 乗隆
です。
興味のある人は了祥師の『歎異抄聞記』に挑戦されるといいでしょう。
あくまでも私の主観ですのでご了承下さい。
【研究書】
歎異抄聞記 妙音院了祥
歎異抄略註 多屋 頼俊
歎異抄全講読 安良岡康作
<定本>歎異抄 佐藤正英
歎異抄講讃 林 智康
【講義・講話】
歎異抄(聖典セミナー) 梯 實圓
歎異抄を読む 緒方正倫
歎異抄講話(講談社学術) 暁烏 敏
歎異鈔講話 瓜生津隆雄
【事典】
歎異抄事典 谷川理宣、土井順一、林智康、林信康
【思想】
わが歎異鈔(上・中・下) 暁烏 敏
歎異抄(法蔵館) 金子大栄
歎異抄を生きる 山崎龍明
【入門書】
歎異抄(角川ソフィア文庫) 千葉 乗隆
歎異抄 現代語訳付き(文庫) 梯 實圓
歎異抄(岩波文庫) 金子大栄
歎異抄(ちくま学芸文庫) 阿満利麿
歎異抄(講談社学術文庫) 梅原 猛
歎異抄・正信偈・和讃 池田 勇諦, 中西 智海
現代語 歎異抄 いま、親鸞に聞く 親鸞仏教センター
初めての歎異抄―親鸞との出会い 山崎龍明
歎異抄を読む(講談社学術文庫) 早島鏡正
親鸞と歎異抄入門 大法輪閣編集部編
【現代語のみ】
浄土真宗聖典 歎異抄 浄土真宗教学研究所
現代語訳 歎異抄 野間 宏
歎異抄 教行信証(中公クラシックス) 石田瑞麿
【その他】
絶望と歓喜 上・下―歎異抄入門 遠藤 誠
歎異抄 (FOR BEGINNERSシリーズ) 遠藤 誠
私訳歎異抄 五木寛之
タグ : 歎異抄
【原文】
「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」
(五会法事讃)
「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。
(註釈版聖典 699-700頁)
【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
『五会法事讃』に、「如来尊号甚分明 十方世界普流行 :但有称名皆得往 観音勢至自来迎(如来の尊号は、はなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ)」といわれている。
「如来尊号甚分明」について、この文の意味は、「如来」というのは無礙光如来である。「尊号」というのは南無阿弥陀仏である。「尊」は尊くすぐれているということである。「号」は仏になられてからの後のお名前をいい、「名」はまだ仏になっておられないときのお名前をいうのである。この如来の尊号は、たたえ尽すことも、説き尽すことも、思いはかることもできないのであって、すべてのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせてくださる、大いなる慈悲のお心があらわれた誓願の名号なのである。この仏の名号は、あらゆる如来の名号よりもすぐれている。なぜなら、この名号は、誓願そのものだからである。「甚分明」というのは、「甚」は「はなはだ」ということであり、すぐれているという意味である。「分」は「わける」ということであり、あらゆる凡夫を一人一人見分けて救うという意味である。「明」は「あきらかである」ということである。すべてのものをことごとく助けてお導きになることが、明らかであり、一人一人を見分けて救うのであり、それがすぐれているというのである。
【補足といいますか、味わいといいますか】
ここで、親鸞聖人は「甚分明」について詳しく説明しておられます。(青の強調箇所)
歎異抄の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」のお言葉に通じるものがあります。
阿弥陀仏は十方衆生を助けるという本願を建てておられますが、それは「私一人」を助けるための本願なのです。
その本願・名号を「私が」聞くことを、本願成就文には「聞其名号」と言われ、親鸞聖人は「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と釈されたのであって、他人のことを言われたのでありません。
歎異抄の先程の言葉の少しあとにある
「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり」
をかみしめたいと思います。
となっております。・序
・師訓篇(第一部、親鸞聖人の語録) 第1章~第10章
・中序(別序) ※第10章に含める場合もありますが、それでも内容は後半の序です
・異義篇(第二部、歎異篇) 第11章~第18章
・後序(結、後述、後記)
・流罪記録 ※ないものもあります
・蓮如上人奥書
師訓十章を妙音院了祥師の説などによって分けると
となります。・安心 第1章、第2章、第3章
・起行 第4章~第9章
・利他 第4章、第5章、第6章
・自利 第7章、第8章、第9章
・深信終帰 第10章
これまで、第1章~第6章までについて述べましたが、第1章が全体の総括であることは多くの人の一致するところです。
また、了祥師は第10章を重要視しています。
第9章は師訓篇のなかで唯一、質問が書かれているという特徴があります。
師訓篇でまだ述べていない、第7章~第10章までの内容を、歎異抄講讃(林 知康著 永田文昌堂)から引きます。
第7章 念仏は何ものにも障碍されない唯一絶対の大道であると述べ、さらにその大道を歩む念仏者の自由性を示す。
第8章 念仏は自力のはからいによる行でもなく善でもない、ただ阿弥陀仏の本願力のはたらきであるから非行非善というのであると述べる。
第9章 唯円と親鸞聖人との念仏往生の問題についての対話である。念仏と踊躍歓喜の心境、念仏と欣求浄土の気持ちが直接結びつかないのは、煩悩のしわざである。その煩悩を持った凡夫のために阿弥陀仏の大慈大悲の本願がある。それゆえ浄土往生は決定していると述べる。
第10章 行者の自力のはからいを否定して、念仏の他力性を明らかに示す。親鸞聖人の語録の結語にあたり、また後の異義批判の基準ともなっている。
確かに、第7章と第8章とはセットで読んだ方が理解できます。
「無碍の一道」の無碍は、「無碍人」からきているでしょうが、無碍人とは諸仏のことですので、勘違いする人も出てくる可能性があり、それを否定するためにも、第8章の記述は必要だったと思います。
これらの章の理解には、親鸞聖人の御消息を読まれるといいでしょう。
長いですが、強調箇所だけでも読んで下さい。
諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。念仏往生の願(第十八願)は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそ、きこえて候へ。また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。
かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。
他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。このひとびとの仰せのやうは、これにはつやつやとしらぬことにて候へば、とかく申すべきにあらず候ふ。また「来」の字は、衆生利益のためには、きたると申す、方便なり。さとりをひらきては、かへると申す。ときにしたがひて、きたるともかへるとも申すとみえて候ふ。なにごともなにごとも、またまた申すべく候ふ。
(御消息19 註釈版聖典 776ー777頁)
笠間の念仏者の疑ひとはれたる事
それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。
「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。このゆゑに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。しかれば恵心院の和尚(源信)は、『往生要集』(下)には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」(意)と仰せられたり。「真実の信心をえたる人は摂取のひかりにをさめとられまゐらせたり」(同・意)と、たしかにあらはせり。しかれば、「無明煩悩を具して安養浄土に往生すれば、かならずすなはち無上仏果にいたる」と、釈迦如来説きたまへり。
しかるに、「五濁悪世のわれら、釈迦一仏のみことを信受せんことありがたかるべしとて、十方恒沙の諸仏、証人とならせたまふ」(散善義・意)と、善導和尚は釈したまへり。「釈迦・弥陀・十方の諸仏、みなおなじ御こころにて、本願念仏の衆生には、影の形に添へるがごとくしてはなれたまはず」(同・意)とあかせり。
しかれば、この信心の人を釈迦如来は、「わが親しき友なり」(大経・下意)とよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり。この人を正念に住する人とす。この人は、〔阿弥陀仏〕摂取して捨てたまはざれば、金剛心をえたる人と申すなり。この人を「上上人とも、好人とも、妙好人とも、最勝人とも、希有人とも申す」(散善義・意)なり。この人は正定聚の位に定まれるなりとしるべし。しかれば弥勒仏とひとしき人とのたまへり。これは真実信心をえたるゆゑにかならず真実の報土に往生するなりとしるべし。
この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。
仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御案ども候ふべし。これさらに性信坊・親鸞がはからひまうすにはあらず候ふ。ゆめゆめ。
(御消息6 註釈版聖典 746-749頁)
如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし。真実信心の定まると申すも、金剛信心の定まると申すも、摂取不捨のゆゑに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを不退の位とも正定聚の位に入るとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころの定まるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふなり。このゆゑに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処の弥勒とおなじとも申すなり。
この世にて真実信心の人をまもらせたまへばこそ、『阿弥陀経』には、「十方恒沙の諸仏護念す」(意)とは申すことにて候へ。安楽浄土へ往生してのちは、まもりたまふと申すことにては候はず。娑婆世界に居たるほど護念すとは申すことなり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来のほめたまへ ば、仏とひとしとは申すことなり。
また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。諸事恐々謹言。
(御消息20 註釈版聖典 778-779頁)
第7章~第10章を理解するには「現生十種の利益」の意味を知ることが大切と思います。
この文は浄土真宗とはどういう教えなのか。阿弥陀仏の救いとはどういうものなのかを短い言葉で表わされたものです。
第1章の解説は世の中にはいろいろな本がありますし、インターネットでも検索すれば、いくらでも書かれていますので、そちらにお任せしますが、下に述べる浄土真宗の構造を頭に入れて読まれると、理解しやすいと思います。
この文は3つの内容に分けることができます。
①弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて
②念仏申さんとおもひたつこころのおこる(とき)
③(すなはち)摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり
①が信
②が行
③が得益
です。
第18願の願文にあてはめるならば、
①至心信楽欲生我国
②乃至十念
③若不生者(不取正覚)
真実五願にあてはめるならば、
①第十八願
②第十七願
③第十一願(+第十二願、第十三願)
となります。
現生は正定聚の身となり、当来は阿弥陀仏がつくられた報土に往生し成仏するという結果(得益)に対して、その原因(往因)を教えられたのが「信」と「行」です。
そしてそれは阿弥陀仏の回向の法であること。
往生の正因は信心であること。
これが浄土真宗です。
前にも述べましたが、歎異抄を読み解く言葉は「本願念仏」と「善悪」です。
第1章は「弥陀の救いは死後である」という誤解を正すために書かれたという人もいますが、歎異抄が書かれた当時の異義は
・造悪無碍
・専修賢善
・誓名別執
・知識帰命
などが中心であり、いつ救われるかということは問題になっていませんので、その指摘は的外れでしょう。
そもそも浄土門においては、「平生か臨終か」ということは問題になっても、「平生か死後か」ということはそれほど問題にはなりません。
浄土往生は死後のことなのですから。
死後救われると言うのは当たり前のことなのです。
その死後の救いを否定したり、否定しなくとも軽視するかのような表現は慎むべきでしょう。
問題となるのは、浄土往生の業事が定まるのが平生か臨終かなのです。
親鸞聖人は臨終の善悪によって往生が決まるのではない、平生、聞即信の一念で往生の業事が定まると教えられたのです。
これを平生業成と言われます。
【訂正】
五願の説明のところで、間違いがありましたので、本文を訂正しました。
タグ : 歎異抄
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。
「往生極楽の一段」であるということをはずさなければ、難しい文章ではありません。
しかし、第3章や第13章と同様、読み間違えて「造悪無碍」になる危険性はあります。
その点は注意したいものです。
一方、「ただ信心を要とすとしるべし」という文をもって、「称名正因」を否定されたものであるという人もいますが、この文はそのようなことを言わんとしてのものではありません。あくまでも「老少善悪」などの差別はないということを示されたものです。ここでは「老少」と「善悪」とあげられていますが、「出家在家」「男女」「賢愚」・・・など一切の差別のない救いです。世の中のこのような差別はいろいろあるのですが、それらは「善悪」におさまるでしょう。それで、この後の文には、善悪に左右されないということが書かれているのであり、歎異抄全体を通して善悪の問題に多く言及されています。
「ただ信心を要とすとしるべし」は「善悪」が問題ではなく「信疑」が問題なのだということをおっしゃったもので、称名念仏と比較してのことではありません。
このような流れの中で、「信」とは疑いのなくなった「二種深信」であると説明するのならいいのですが、「二種深信」だから「悪をもおそるべからず」というのは、二種深信(特に機の深信)の正しい理解とは言えません。
二種深信については、私の「ともだち」の運営している「安心問答」でも議論されていました。
そこで「あほうどり」のハンドルネームでコメントしていたのが私ですので、そのコメントをまとめて、若干手直しして再掲したいと思います。(主に機の深信について述べています)
二種深信は、善導大師が観無量寿経の「深心」を表されたものです。
善導大師の「二種深信」のお言葉と言われるものは次の2つです。
「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (観無量寿経疏 散善義)
二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、いまし一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 前序)
この場合、観無量寿経の「深心」と言っても、隠彰弘願の意味ですので、大無量寿経の「信楽」のことであり、真実信心のことです。
従いまして、二つの心があるのではありません。
真宗学の学者や哲学者の表現の中に「矛盾的」とか「矛盾性」とか「矛盾のように感じる」というものはあっても、それがそのまま矛盾であると言うのは間違いです。
上にあげた善導大師の2つのご文を読んで分かることは何でしょうか?
何を深く信ずるのか、何が信知させられるのでしょうか?
散善義のご文を使って縮めて言いますと、
「自身は無有出離之縁の者なり」
となります。
では「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」は何を表しておられるのかというと、「自身」の様を表して、「無有出離之縁」の理由を示されたものです。
往生礼讃はその部分が、「善根薄少」となっています。
極悪最下とは書かれていません。
ところが、「散善義」のご文で「無有出離之縁」よりも「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」に重点を置いた読み方をしますと、罪悪観の極まりが機の深信であると誤解するのです。
重点は「無有出離之縁」にあります。
機の深信についてのよくある間違いは、「自己の罪悪を掘り下げていき、徹し切ったところに、いわゆる機の深信が立ち、救いがある」といった類のものです。
簡単に言えば罪悪観と機の深信との混同です。
浄土真宗の異安心の歴史で言いますと、江戸時代、近江(滋賀県)の光常寺で起きた「地獄秘事」などはその典型です。
機の深信とは
煩悩具足・罪悪深重の私は、迷いの世界から出離するのに間に合うものは一つも持ってはおらず、過去も現在も未来も、生死流転から抜け出せる自分でない、と信知する。
となります。
機の深信とは極悪最下の者とすべての人が知らされることではありません。
「二つの正反対のことが一念同時に知らされる」という人がいますが、二種深信は二つの心ではなく一つの心であり、前後があるのでも、並んで起きるのでも、いずれか一方が他方の条件であるのでもありません。
二種深信は機法二種一具の深信であり、図示しますと
機の深信=自力無功=捨自
法の深信=他力全託=帰他
となります。
そして、初起の一念より臨終まで一貫します。
親鸞聖人の正信偈の源空章の四句を読まれると、二種深信の意(こころ)がお分かりになると思います。
還来生死輪転家
決以疑情為所止
速入寂静無為楽
必以信心為能入
この前二句が機の深信の意、後二句が法の深信の意と思われたらよいでしょう。
おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。
関東の門弟たちは、親鸞聖人に「往生極楽の道」を聞きに行ったのであり、「おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ」たことが「往生極楽への道」ではありません。
「仏法は聴聞に極まる」と教えられますように、親鸞聖人や蓮如上人は、信心獲得を目指している人(未信の人)に、真剣な聞法を、勧めておられます。
(なお、聞法は信前信後を通して大切なことです。信後は信前と心は違いますが、ある意味、信後の聞法の方が重要かもしれません。)
何を聞くのかというと、
本願成就文に「聞其名号」とあり、
教行信証に「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」とありますように、阿弥陀仏のみ心を聞かせて頂くのです。
何を聞くのかが忘れられ、「話を聞くこと」「どこかへ参詣すること」が大切なのだと誤解し、仏法を聞いておればそのうち信心獲得できると思っているならば、それは親鸞聖人や蓮如上人が勧められた「聴聞」ではないでしょう。
ましてや、「どこかへ参詣することは悪いことではないから、とにかく苦労して聞いていれば、今生は信心獲得は無理でも、次生、次々生・・・での御縁になるだろう」などと思っている(思わせている)ようでは、浄土真宗とは言えません。
もちろん、何もしないでボーっとしていればいいとか、求道しなくてもいいということでは決してありません。(十劫安心、無帰命安心は正意の安心ではないことは言うまでもないですし)
しかし、しつこく繰り返しますが、「恰好」や「形」だけしか問題にせず、「一生懸命やっていればそれでいいのだ」では、まさに「木に縁りて魚を求む」ことになります。
(「縁木求魚」と「コペルニクス的転回のすすめ」を参照)
【参考1 お聖教より】
浄土和讃 讃阿弥陀仏偈和讃
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり
この御和讃は曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈」の翻訳にあたる御和讃ですので、讃阿弥陀仏偈の原偈を挙げます。
讃阿弥陀仏偈(聖典 七祖篇 170頁)
たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。
阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。
(設満大千世界火 亦応直過聞仏名 聞阿弥陀不復退 是故至心稽首礼)
さらに大無量寿経の該当する経文はご存じとは思いますが、書いておきます。
仏説無量寿経 流通分
このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。
(是故弥勒、設有大火充満三千大千世界、要当過此聞是経法、歓喜信楽、受持読誦、如説修行)
仏説無量寿経 往覲偈
たとひ世界に満てらん火をもかならず過ぎて、要めて法を聞かば、かならずまさに仏道を成じて、広く生死の流れを済ふべし
(設満世界火 必過要聞法 會当成仏道 廣済生死流)
【参考2 おかる同行の歌より】
聞いてみなんせまことの道を 無理なおしへじゃないわいな
まこときくのがおまへはいやか なにがのぞみだあるぞいな
(この2首はおかる同行35歳の時の歌です)
しんくさしたりかんなんくろう こゝろむつれのわしゆえに
(辛苦) (艱難苦労)
こうも聞こえにゃ 聞かぬがましよ
聞かにゃおちるし 聞きゃ苦労
今の苦労は 先での楽と
気やすめいえど 気はすまぬ
すまぬこゝろを すましにかゝりや
雑修自力とすてられゝ
すてゝ出かくりゃ なほ気がすまぬ
思えば有念 思わにゃ無念
どこにお慈悲があるのやら
どうで他力になれぬ身は
自力さらばとひまをやり
わたしが胸とは手たたきで
たった一声聞いてみりゃ
この一声が千人力
四の五の云うたは昔のことよ
ぢゃとて地獄は恐ろしや
なんにも云わぬが こっちのねうち
そのまま来いのお勅命
いかなるおかるも 頭がさがる
連れて行かうぞ 連れられましょぞと
往生は投げた投げた
おかるさんは「無理な教えじゃないよぉ」と言っていますね。
そのおかるさんの別の歌からは、道を求めるのに苦労したかということも分かりますね。
この2つのことはけっして矛盾ではないのです。
さて、関係ないついでに、歎異抄とは全く関係ないですが、蓮如上人御一代記聞書から引用します。
総体、人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふなり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。理をみて情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。
このお言葉は信前の人におっしゃったのでしょうが、信前信後通じて大切なことだと、自戒してゆきたいと思います。
以上で「歎異抄第2章を読む」を一旦終了し、次に何故か第1章に戻ります。
気まぐれなもので・・・すいません。じゃなかった、済みません。
まず全文を掲げます。
おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。
歎異抄を語る時に、解説をしたり、現代語訳・意訳を試みるのも一つの方法でしょうが、やはり原文を読んで、味わうのが一番でしょう。
親鸞聖人がおっしゃったと言われる言葉ですので、「誰に」「何を」「なぜ」ということを押さえて下さい。
「誰に」は「数人の関東の門弟」です。
どのような人たちかは分かりませんが、歎異抄の著者がいたことは想像できます。
歎異抄の著者は唯円房だと言われています。
唯円は、親鸞聖人没後、本願寺3代目の覚如聖人に教えを伝えたと言われるような高弟でした。
そんな唯円のように親鸞聖人から長く聞いてきたような人が、命がけで京都まで訪ねて行ったのです。
次に「なぜ」かです。
親鸞聖人帰京後の関東に起きた惑乱が原因であることは誰もが一致するところでしょう。
問題はどんな惑乱であったかです。
当時関東では「造悪無碍」の異安心が広まっていました。
そのことは親鸞聖人御消息からもうかがわれます。
親鸞聖人はその打開のためということもあり、善鸞を関東に派遣されました。
それは親鸞聖人80歳頃と言われています。
ところがその善鸞が種々問題を起こしました。
どのようなものであったのでしょうか?
①父親である親鸞聖人から夜中に秘密の法文を授けられたと言った。
②往生するには諸善万行をしなければならないと言った。
③神に仕える者と同じことをした。
④権力者と結びついて、他の弟子たちを訴えた。
などと言われています。
もう一つ、日蓮による「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」の四箇格言の影響も指摘されたこともあります。確かに歎異抄第2章の文中にはそれらしき記述はありますが、関東の門弟たちが命がけで京都に行ったことの理由とは考えにくいことです。
それは、
(1)唯円などの高弟が、迷うようなことではない。
(2)歎異抄第2章前半に「・・・たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し・・・」とあるように、関東の門弟は「往生極楽の道」を問うために来たのであって、不審の一つが「念仏以外の往生の道」があるかどうかというものであった。この文中には、日蓮の「念仏無間」に対する疑問らしいものはない。
などからです。
元に戻って、善鸞のどの主張が関東の門弟をして京都まで行かせたのか考えると、①③④は考えにくいものです。
①については、親鸞聖人ご自身の御消息で否定しておらるので、それで十分である。
③については、四箇格言と同様、唯円のような人が迷うとは考えにくい。
④については、教義上の問題ではないし、①と同様、御消息で注意しておられる。
したがって、②が最も大きい理由であったことが想像されます。
それを裏付けるのが、この後の歎異抄第2章の表現です。
[1]「南都北嶺の学者たちに聞けばいい」南都北嶺の学者たちは専修念仏を批判・弾圧した。
[2]「自余の行もはげみて仏に成るべかりける身」「いづれの行もおよびがたき身なれば」
などの表現から、この点について疑念が生じたと思われる。
[3]専修念仏を伝えられた善導大師と法然上人のお名前があげられている。
歎異抄全体を通しての大きなテーマが「本願念仏」と「善悪」です。
また、この文が“第2章”であることも重要でしょう。
総論的な第1章には「本願念仏」「善悪」ともに述べられています。
第3章は有名は悪人正機について書かれた章です。
第2章はその間に置かれています。
歎異抄を読む場合、第1章→第2章→第3章と並行して、第11章(誓名別信の異義批判)→第12章(学解往生の異義批判=聖道門批判)→第13章(専修賢善の異義批判)と読めば著者の意図が分かってくるのではないでしょうか。
そうすると、第2章に書かれていることもやはり、「本願念仏」の本質的なことについて生じた問題を軸におっしゃったと読みとるべきでしょう。
読み間違えないようにしたいものです。
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「その4」に引き続いて、この文章について考えてみたいと思います。
ここで、親鸞聖人は、
阿弥陀仏ー釈尊ー善導大師ー法然上人ー親鸞聖人
と並べておられます。
阿弥陀仏と釈尊は当然として、善導大師と法然上人のお名前を挙げておられるのは何故でしょうか?
七高僧ならば他にも龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、善導大師、源信僧都がおられます。
しかし、ここで親鸞聖人が善導大師と法然上人をあげておられるのは、このお二人が、「一行専修」「専修念仏」を教えられた方だからです。
「要門考」などで既に述べましたように、
釈尊は観無量寿経に「観仏三昧」と「念仏三昧」を説かれましたが、最後に廃観立称されて、「観仏三昧」を廃し「念仏三昧」を立てられました。
善導大師は「要門」と「弘願」と分けられ、要門を廃し弘願を立てられました。
法然上人は「諸行往生」と「念仏往生」と分けられ、諸行往生を廃し念仏往生を立てられました。
親鸞聖人はここで、二尊と二祖のお名前を出され、念仏より他に往生の道はないことを示されたのです。
もちろん、念仏とは阿弥陀仏の本願(第十八願)であり、南無阿弥陀仏の名号であり、真実信心です。
このことからも、善鸞の説いたいくつかの邪義の中心が「念仏以外に往生する道がある。諸善万行をしなければならない」というものであり、これに動揺した関東の門弟たちが命がけで京都へたずねて行ったと考えられます。
善導大師や法然上人のお言葉を読まれるといいでしょう。
[善導大師]
(ボールド体の部分だけでもいいのですが、参考までに流通分のところを全部あげます)
四に次に流通分を明かす。なかに二あり。一には王宮の流通を明かす。二には耆闍の流通を明かす。いま先づ王宮の流通分のなかにつきてすなはちその七あり。
一に「爾時阿難」より以下は、まさしく請発の由を明かす。
二に「仏告阿難」より以下は、まさしく如来依正を双べ標し、もつて経の名を立て、またよく経によりて行を起せば、三障の雲おのづから巻くことを明かして、前の初めの問の「云何名此経」の一句に答ふ。
三に「汝当受持」より以下は、前の後の問の「云何受持」の一句に答ふ。
四に「行此三昧者」より下「何況憶念」に至るこのかたは、まさしく比校顕勝して、人を勧めて奉行せしむることを明かす。すなはちその四あり。一には総じて定善を標してもつて三昧の名を立つることを明かす。二には観によりて修行して、すなはち三身を見る益を明かす。三にはかさねてよく教を行ずる機を拳ぐることを明かす。四にはまさしく比校顕勝して、ただ三身の号を聞くすらなほ多劫の罪けんを滅す、いかにいはんや正念に帰依して証を獲ざらんやといふことを明かす。
五に「若念仏者」より下「生諸仏家」に至るこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもつて比類となすことを得るにあらざることを顕す。すなはちその五あり。一にはもつぱら弥陀仏の名を念ずることを明かす。二には能念の人を指讃することを明かす。三にはもしよく相続して念仏するものは、この人はなはだ希有なりとなす、さらに物としてもつてこれに方ぶべきなし。ゆゑに分陀利を引きて喩へとなすことを明かす。「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四にはもつぱら弥陀の名を念ずるものは、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることを明かす。五には今生にすでにこの益を蒙りて、捨命してすなはち諸仏の家に入ることを明かす。すなはち浄土これなり。かしこに到りて、長時に法を聞き、歴事供養して、因円かに果満ず。道場の座、あにはるかならんや。
六に「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代(かだい はるか後の世)に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
七に「仏説此語時」より以下は、まさしく能請・能伝等の、いまだ聞かざるところを聞き、いまだ見ざるところを見、たまたま甘露を餐して、喜躍してもつてみづから勝ふることなきことを明かす。上来七句の不同ありといへども、広く王宮の流通分を解しをはりぬ。
(観無量寿経疏 散善義 流通分 註釈版聖典七祖篇498~500頁)
[法然聖人]
つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもって付属流通せず。ただ念仏一行をもって、すなわち後世に付属流通せしむ。知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐(とうえん むなしいこと)せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり、行者知るべし。
(選択本願念仏集 念仏付属章 註釈版聖典七祖篇1273~4頁)
この経とは観無量寿経のことで、上記の内容は「御和讃を読む」のエントリーで[教と相違する]の部分で書いたことですので、もう一度確認して下さい。
「おはしまさば」は文法的には、未然形+接続助詞「ば」で、仮定を表します。このあとの文も「おはしまさば」「ならば」「ならば」と同じですので、仮定として訳すべきでしょう。
これは「仮定ではない」という人もいます。その理由は「阿弥陀仏の本願まことは明らかだから、仮定で本願を語られるはずがない」というものですが、はたしてそうでしょうか。
確かに親鸞聖人にとって「阿弥陀仏の本願まこと」であったことは言うまでもないのですが、聖人直筆の文ではないにしろ、直接聞いた歎異抄の著者がこのように書いているのですから、自分の思いで文章自体を変えてしまうのではなく、親鸞聖人のお言葉の深意・真意を汲み取ろうとすることに努力すべきではないでしょうか。
このことについては、梯實圓勧学が説明しておられますので、そのまま紹介します。
しかし、このことをいうのに「まことにおわしまさば」という仮定の言葉をつらねておられる点に、奇異な感じをうけます。そこには、反語的に意味を強めるようなひびきも感じられますが、何よりも「親鸞が申すむね、またもってむなしからず候ふか」という謙虚な領解の言葉を述べるためだったと思います。
ふつう絶対真実の法の伝統を語った後は、「法然の仰せまことなるがゆえに、親鸞が申すことも決していつわりではない」と断言するでしょう。そして「親鸞の信心はかくのごとし、このうえは、面々、念仏をとりて信じたてまつるべし」と結ぶでしょう。そうなれば、教法の権威をかりて、門弟に信を強制する高圧的な「人師」のイメージが強くなり、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(『註釈版聖典』八三五頁)といいつづけられた親鸞とは、ちがった人格になってしまいます。
聖人は、「法」の名によって「私」を主張することを厳しく自戒されています。自分がいただいている教法が貴いということは、自分が貴いことでは決してありません。むしろ、教法の貴さがわかればわかるほど、自身の愚かさを思い知らされていくはずです。仏祖の名を利用して、名利をむさぼったり、「よき師」の名をかりて、自己を権威づけようとするほど醜いものはありません。
こうして親鸞は「愚身の信心におきてはかくのごとし」と述べ、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」とおことばを結ばれています。率直に自身の信心を表明された聖人は、門弟たちの一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか。したがわぬかを決断する以外に道のない、仏法の厳しさを知らしめられていたといえましょう。
(『聖典セミナー 歎異抄』102-103頁 梯 實圓著 本願寺出版社 ISBN978-4-89416-565-6)
(『親鸞』70-71頁 梯 實圓著 大法輪閣 ISBN4-8046-4102-5 にもほぼ同じ文があります)
私もこの通りと思います。
梯師の文章でもう1点注目すべきは、「一人ひとりが如来のまえにたって・・・」という箇所でしょう。
「信心獲得したいのです」と口では言っていても、直接阿弥陀仏に対峙せず、「私はまだ・・・」「なかなか・・・」「環境が・・・」などと言い訳を言って逃げていては、無常との競争以前の問題です。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と教えられた法然上人のお導きによって救われたのだ、とおっしゃり、続いて逆説的な表現を含めて告白しておられます。
ここでは、「念仏無間」を唱えた日蓮宗を意識されていることも否定できませんが、「自余の行」「いづれの行」などの言葉から、「往生するための念仏以外の行」を唱えた異義に惑わされた門弟へのメッセージと思います。
今日取り上げた箇所の最後の
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
について少し考えてみたいと思います。
ここで「およびがたき」とは何に対して「及び難き」なのかということでしょうか。
歎異抄第3章の
「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを」
という類似の文から分かるように、「生死を離れること」に対して「及び難い」のです。
次の「とても地獄は一定すみかぞかし」とは、どなたかが書いておられましたように、親鸞聖人の深い罪悪観、懺悔からのお言葉です。
「かへつてまた曠劫を経歴せん」(教行信証 総序)
「ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず」(教行信証 行巻 居士張掄)
などの御文と本質的には同じなのですが、自己を深く見つめられて、「とても地獄は一定すみかぞかし」とおっしゃったものです。
それはまた、そういう者を救う力のある阿弥陀仏の本願念仏への讃嘆でもあります。
弥陀仏の本願念仏は、
邪見・驕慢の悪衆生、 (※驕は本来はりっしんべん。以後同じ)
信楽受持することはなはだもつて難し。
難のなかの難これに過ぎたるはなし。
(正信偈)
この御文は正信偈の依経段の結びとして書かれている四句です。
この御文をもって
「なぜ信心獲得することが難しいのか?それは邪見・驕慢の悪衆生だからだ」
と言う人もいます。
しかし、この四句はそのように読むと間違いになります。
一句目の「弥陀仏本願念仏」は法を表し、
二句目の「邪見驕慢悪衆生」は機を表しておられます。
本願に相応する、すなわち信楽を受持することが「難」であると言われているのが、三句目と四句目です。
邪見とは邪に見る
驕慢とは自惚れ
ですが、「邪見」であり「驕慢」である「悪衆生」は、「いづれの行もおよびがたき身」であり、「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」にもかかわらず、自惚れて、「自余の行」・「何かの行」で救われようとするから「難」なのです。
この、「自余の行」・「何かの行」で救われようとするというのが「自力」です。
まとめて言うと、親鸞聖人が「難」とおっしゃっているのは、
・自力で起こす信心ではないから
・阿弥陀仏から賜る(他力の)信心だから
ということであり、さらに
・信心の素晴らしさ
を表現されたものなのです。
私が偉いから、賢いから信心決定したのではない。
またその真実信心をお伝えしているからといって、私が救うのではない。
私にはそんな立派なものは一つもないのだから。
阿弥陀仏のお力一つであり、念仏一つなのだ。
自分が救うと思っているのは、傲慢にほかならない。
との親鸞聖人の御心と拝します。
ところで、ついでに記しておきたいことがあります。
「念仏一つ」ということを表わされた御和讃に
浄土和讃 大経讃(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ假門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
があります。
この御和讃はどういう意味でしょうか?
浄土真宗聖典(原典版)で調べました。
少し難しいですので、飛ばして頂いてもいいです。
三帖和讃の底本、対校本は下記の通りで、何を底本にするかは、書物によって異なりますが、浄土真宗聖典では文明本です。
底本 龍谷大学蔵文明5年蓮如上人開版本
対校本 甲 本山蔵版本(昭和改譜本)
乙 高田派専修寺蔵国宝本
丙 高田派専修寺蔵顕智上人書写本
丁 大阪府顕証寺蔵本(御草稿和讃)
(なお、乙は御草稿本とも言われ、一部に親鸞聖人の真筆を含むとされます。)
「真宗」についての左訓
丙 シンチホンクワンナリ
丁 眞実本願ナリ
「假」について
乙 要 「假」と頭書
「假門」についての左訓
丙 ハウヘンケモンナリ
丁 方便假門ナリ
「権・・・」の左訓
丙 ハウヘンノセントシンチノセイクワンヲワカストイフ
丁 方便ノ善ト眞実ノ誓願ヲワカストイフ
何を言おうとしているか分からないかもしれませんが、上の御和讃は、親鸞聖人の真筆を含む草稿本(国宝本)では、
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ要門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
となっているということです。
知っておられたらよろしいでしょう。
ある本によると「假門」=「他の仏教」と書かれていました。
つまり「要門」=「他の仏教」=「浄土真宗ではない」となります。
もっと詳しく書かれた方がよかったのかもしれませんね。
歎異抄第1章の書き出しです。
この中で、動詞を含む文節は、
1.「たすけられまゐらせて」
2.「とぐるなり」
3.「信じて」
4.「申さん」
5.「おもひたつ」
6.「おこるとき」
7.「あづけしめたまふなり」
です。
これらの主語・主体は何でしょうか
1~5は行者
6は行者の「こころ」
ですね。
したがいまして、1~6は行者側のことになります。
では7の文節を含む句「すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」の主語・主体は何でしょうか。
文章をしっかり読めば、阿弥陀仏と分かりますね。
ですから、第1章の書き出しに主語を補って書きなおすと、
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち(阿弥陀仏は)(行者を)摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
となるでしょう。
現代語訳にする時は、「行者に」という訳もできるかと思います。
主語が阿弥陀仏か行者かは、この歎異抄第1章の解釈では大きな違いが出てこないように感ずるかもしれませんが、お聖教のご文によってはとんでもない誤解を生んでしまいますので、気をつけたいと思います。
歎異抄の解説本はたくさんありますが、一例をあげましょう。
「聖典セミナー 歎異抄」(梯実圓著 本願寺出版社)ではどのように訳されているかといいますと、
阿弥陀仏の誓願の思いも及ばぬおはからいに救われて、往生を遂げさせていただくことであると信じて、念仏を申そうと思いたつ心がおきるとき、即座に阿弥陀仏は大悲の光明のなかにおさめとりたまい、決して見捨てぬという救いの利益にあずからせてくださいます。
となっています。
ちなみに、第2章の書き出しはどのように訳されているかも紹介します。
【本文】
おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、・・・
【現代語訳】
あなたがたが、十幾つもの国々をこえ、いのちの危険もかえりみず、私をたずねてきてくださった、その目的は、極楽に生まれてゆく道を問いただしたいという、ただその一事のためでした。ところが、もしあなたがたが、親鸞は念仏以外に、往生の道を知っているのではないかとか、あるいは往生に関する特別の教説なども知っているのではないか、その真相を知りたいものだと思っておられるのでしたら、それは大きな誤解です。もしそういうことを聞きたいのならば、・・・
少し補足しますと、
この歎異抄第2章の書き出しの中で、
3番目の文のはじめの「もししからば」の「しからば」は
2番目の文の中の「こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは」指しています。
「こころにくく」を太字にしたのは、前の記事との関連です。
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最近、古語辞典を買いました。(岩波 古語辞典 補訂版)
(別に推奨しているわけではありません)
国語辞典や漢和辞典、英和辞典、英英辞典はいくつか持っていますが、古語辞典は、高校時代に使っていた旺文社古語辞典以来です。33年ぶりです。
昔を懐かしんで、早速「こころにくし」を調べてみました。
下のように概括的な説明と6通りの語義が書かれていました。(用例は省略しました)
こころにく・し【心憎し】[形ク]
《ニクシは親しみ・連帯感・一体感などの気持ちの流れが阻害される場合の不愉快な気持ちをいう語。ココロニクシは、対象の動きや状態が思うようにならず、もっとはっきりしたい、もっと知りたい、と関心を持ちつづける意》
①よく見えない。はっきりしない。
②どこか気持ちの通じない所がある。
③(様子がはっきりしないので)気にかかる。
④深く含みがある。奥ゆかしい。
⑤(底が知れず)なんとなく恐ろしい。
⑥どうも怪しい。いぶかしい。
高校の試験などでは④の奥ゆかしいという意味で問題が出される場合が多いのではないかと思いますが、6通りの語義は微妙にニュアンスが違いますね。
《》内の概説はうまく説明してあるように思いました。
「こころにくく」思うことは必要なこともありますね。
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