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歎異抄をひらく

2010/02/17(水)
歎異抄をひらく』は「永正本」をもとにしたと書かれていますが、『歎異抄をひらく』の「原文」と「永正本」にはいくつかの違いがありますので、気が付いたいくつかを指摘します。
(網羅しているわけではありません)

表記方法は
 左側:『歎異抄をひらく』の原文←右側:永正本の記述
とします。

漢字・仮名の違い、仮名遣いについては無視します。
また送り仮名も多少の違いは省略します。(例:「乱るる」と「乱る」など)
ただし、永正本に漢字で書かれているものと違った漢字が使われている場合は記します。

★印は、永正本どころか他の主だった古写本にも、『歎異抄をひらく』の「原文」のような記述がないものです。
歎異抄をひらく』独自の「原文」と思われます。
原文が違っていたら、解説にならないでしょう。
これでは「どちらが異端か」以前の問題です。


☆印は、比較的新しい写本(慧空本)や法要本、東本願寺仮名聖教にあって、永正本にはないものです。

中には意味が変わる場合もありますので、注意が必要です。

【序】
自見の覚←自見の覚

【第一章】
善なきゆえ←善なきゆえ

【第二章】
こころにくくおぼしめして~はんべら←こころにくくおぼしめして~はんべらんは
かのひとびとにも←かのひとにも☆
地獄におつべき←地獄におつべき★
自余の行←自余の行
愚身←愚身

【第三章】
生死をはなるることあるべからざるを←生死をはなるることあるべから

【第五章】
父母の孝養のためとて念仏一辺にても←父母の孝養のためとて一辺にても念仏☆(←★から☆に修正)

【第九章】
他力の悲願はかくのごときのわれら←他力の悲願はかくのごと われら☆

【別序】
聖人のおおせにあらざる←上人のおおせにあらざる

【後序】
ひとのくちをふさぎ相論をたたんために←ひとのくちをふさぎ相論のたゝかひかたんがために
故親鸞聖人のおおせごと←古親鸞のおおせごと

【流罪記録】
←幡
房←浄
←奏

修正
1.最初にあげたものに誤字・脱字がありましたので、少し修正しました。
  本質的には変わっておりません。

2.「総じて」・「惣じて」については、本によってかなり相異・混乱がありますので削除しました。

3.第五章については、調べた結果、東本願寺の仮名聖教(江戸時代の版本)の一種にこのような記述がありました。しかし、今日のほとんどの歎異抄解説書では、古写本にない「念仏一辺にても」は採用していません。
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タグ : 歎異抄をひらく 歎異抄

2009/11/18(水)
歎異抄をひらく』の150頁から151頁にかけて次のように書かれています。

 この「他力信心」以外、聖人の教えはないから、「信心為本」「唯信独達の法門」と言われるのだ。
 簡潔な文証を二、三、あげてみよう。

涅槃の真因は唯信心を以てす (教行信証)
浄土往生の真の因は、ただ信心一つである。

正定の因は唯信心なり (正信偈)
仏になれる身になる因は、信心一つだ。



この部分を読んで、なぜかしっくりこないと思っていました。
それは正信偈の「正定之因唯信心」の説明にあります。

仏になれる身になる因は、信心一つだ。

とありますが、これはおかしいですね。
信心正因を表す文証として、教行信証の言葉とともにあげられているのに、2つの現代語訳は違います。
「涅槃の真因は唯信心を以てす」の訳はいいのですが、「正定之因唯信心」の訳は「仏になれる身(正定聚)になる因は、信心一つだ」となっています。
これは「正定」を「正定聚」が略されたものと理解しているところから来るのでしょう。
親鸞会の正信偈解釈は“「正定」ときたら必ず「正定聚」”となっていますので、「本願名号正定業」も「本願の名号には正定聚にするはたらきがある」と説明します。
(これもおかしいのですが)

これだと信心正因を正しく示していません。
「正定之因唯信心」の意味は「涅槃の真因は唯信心を以てす」と同じであって、「往生成仏の正因はただ信心だけである」です。
両重因縁釈(光号因縁釈)にもありますように、信心が因で、往生成仏・報土の真身が果です。

必ず成仏することが決定した仲間のことを正定聚といいます。
親鸞聖人は現生で往生成仏が決定するから、現生正定聚と教えられたのです。
仏因円満の法である信心を領受しているから正定聚であると言われたのです。
しかし、正定聚の因が信心であるという説明は親鸞聖人から聞いたことがありません。
「正定聚」と「滅度」を混同していますと、一益法門に陥る危険性があります。

タグ : 歎異抄をひらく 信心正因

2009/09/15(火)
歎異抄をひらく』を読んだ感想の一つです。
歎異抄第8章について書かれた、第2部『歎異抄』の解説(14)に次の文章があります。

 まさに、信心も念仏も、弥陀より賜る大信心であり、大行なのである。
 南無阿弥陀仏の大功徳が耳から攬入し、全身を貫き口に溢れて、南無阿弥陀仏の大宝海にかえるのだ。
 嬉しい思いも、寂しい心も、頼りにせず、障りにもならぬ。“信に信功をみず、行に行功をみず”、信行ともに、不可思議の願海に帰入するのである。
 信ずる心も称える心も、みな南無阿弥陀仏の独り働きとなり、私をして動かすものであり、私は動かされているだけなのだ。
 聖人の教えを「絶対他力」と言われる所以である。
(240-241頁)

間違いだとは言いません。
しかし、なぜ「信ずる心も称えるも」なのかという疑問が起きるのです。
信ずる心と称える心だと、ともに「心」で同じではないですか。
その前の文章で「信心も念仏も、弥陀より賜る大信心であり、大行なのである」「信行ともに、不可思議の願海に帰入するのである」と書かれているのに、なぜ「信ずる心も称える念仏も」と書けないのか。
念仏という「行」を軽んじている表れだと思います。

タグ : 歎異抄をひらく 念仏

2009/09/13(日)
歎異抄をひらく』の第7章から第10章を読む

【第7章】
○「仏教の究極の目的は、“浄土往生”である。」については、指摘される人もあるかもしれないですが、ここではとりあえずパスします。
○しかし、バイアスがかかっている箇所があります。(このことは、この章には限りません)
 ・歎異抄第1章の言葉の説明
  「どんな罪悪を犯しても、、自分の罪の深さに怖れおののき、
   浄土往生を危ぶむ不安や恐れは皆無となる。」
  往生一定が変わるわけではありませんが、これだと、罪悪感が無くなる
  ような誤解を与えます。
 ・「念仏者」に3通りあるという表現
  こういう言葉を聞いたことがありません。
  これだと念仏を称えたことがあるすべての人が念仏者になってしまいます。
  念仏者はあくまでも阿弥陀仏に救われた人ととらえるべきです。
  「3通りの念仏」自体は間違いではないですが、ここでその説明する
  必要はないでしょう。

【第8章】
問題点はすでに指摘済みです。

【第9章】
○ここでは教義上の問題というよりも、全体を通して文章が高圧的な感じがします。
 「懺悔も歓喜もなく、喜ばぬのを手柄のように思っている、偽装信仰者の不満とは全く違うのだ。」
 「仏法の入り口にも立たない者が、・・・と開き直っているのとは、全然次元が異なるのだ。」

○なぜか読みにくい文章
 理由を考えてみました。
 ・上に述べたこととも重複しますが、この9頁の中に「当然」という単語が4か所
  出てきます。
  2箇所は誤解している人の言葉として、2箇所は著者の言葉としてですが、
  多すぎるでしょう。
 ・ここの章だけではありませんが、「言う」とか「書く」という動詞をいくつもの
  違う言葉で表現されています。
  第7章から第10章だけでも
  「公言する」「喝破する」「詳説する」「道破する」「断言する」「歓声が轟く」
  「解説する」「教導する」「詳述する」・・・と多いです。
  たぶん「同じ言葉を使うのは下手な文章である」という固定観念がある
  と思います。
  確かに一本調子ではいけないのでしょうが、あまりにも多すぎます。

○文法上おかしい言葉
 ・『歎異抄』の危ぶさ
   動詞を名詞化する時にこのようなことは言いません。
   「さ」をつけて名詞化するのは形容詞です。
   たぶん「危うさ」の間違いでしょう。

【第10章】
○文法上おかしい言葉
 ・弥陀が、・・・大宇宙の功徳(善)を結晶されたのが、
 「南無阿弥陀仏」の名号なのである。
   名詞に「する」をつけて動詞にできるものがあります。
   このような語をサ変動詞と言います。
   動詞には、自動詞と他動詞の別があります。
   自動詞とは目的語を持たないもの、他動詞とは目的語も持つものです。
   一つの動詞が自動詞にも他動詞にもなる場合があります。
   たとえば「決意」と「決心」とは同じような意味の名詞ですが、
   これらを動詞にした
   「決意する」と「決心する」とは違ってきます。
   「決意する」は自動詞にも他動詞にもなりますが、
   「決心する」は自動詞です。
   「結晶」が動詞になった「結晶する」は自動詞であり、
   「○○を結晶する」というのは文法上間違っているのです。
○文章がおかしい
 ・255頁の
  故に、「念仏には無義をもって義とす」とは、他力の念仏は、
  私たちの想像や思慮の、自力の心の浄尽した念仏だから、
  「不可称・不可説・不可思議のゆえに」と、聖人は言われた
  のであろう。
  ですが、故に・・・と、聖人は言われたのであろう。の・・・の部分が
  文章になっていないので、どれだけ読んでも意味が分かりません。

タグ : 歎異抄をひらく

2009/09/12(土)
歎異抄第6章についてはカウフマン氏がご自身のブログで語っておられますので、ここでは簡単にしておきましょう。
http://kauffman0521.blog88.fc2.com/

【歎異抄第6章の構成】
1.親鸞聖人が耳にされた「わが弟子、ひとの弟子といふ相論」の誤りであること
2.その理由
 ①「親鸞聖人は弟子一人も待たず」の言葉とその理由
 ②誤った考えに対する誡め
 ③付言

【弟子一人も持たず の意】
親鸞聖人が「弟子一人も持たず」とおっしゃった心を、梯實圓師の著作に分かりやすく書いてありましたので、抜粋します。
精読・仏教の言葉 親鸞(大法輪閣 ISBN4-8046-4102-5)です。
比較的入手しやすいので、お薦めします。
歎異抄第6章の一節については、79-82頁です。
三つあげてあります。

①自分はあくまでも法然上人の弟子であって、その教えを取り次ぐだけのものであるから、門弟たちとは法然門下の兄弟弟子であるという思いを持っておられた。

②念仏者はすべて釈迦、諸仏の弟子であるという考えを持ったおられた。

③念仏者は、根源的には阿弥陀仏の本願力に育てられて念仏者になっている阿弥陀仏の御子であり弟子であるということの確認があった。


そして最後に

こうして念仏者とは、互いに如来の御子として兄弟であり同朋であることに気づき、そこから互いに敬意をもって対応し、深い親愛の情をもって交際しようとするものである。それが浄土の旅をともにする同行の倫理である。こうして浄土真宗の念仏者とは、つねに聞法者、弟子の座にあって、仏恩、師恩を仰ぐものであり、決して自身を師の位置に上げて傲慢な振る舞いをすることなく、同行あい敬愛しながら浄土を目指して生きようとするものである。

と結んであります。

【『歎異抄をひらく』の第6章を読む 】
この本の中では、第6章について書かれている部分を、一番読むべきではないかと思います。
前半 寺の現状      2頁分
後半 弟子一人も持たず 4頁分
       内 御和讃  2頁分
の構成になっています。

前半では、
・門徒や檀家を財産のように考え、離れていくと資産が減るように思って、ビクビクしている僧職が多い。
・門徒の少ない寺ほど、各家の「割り当て」が多くなるのもうなずける。「布施は自由意志といいながら…」
・参詣者は減るばかりだから寺院経済はどこも火の車で、(中略)、どちらが本職かわからない有様だ。
・著名な布教使が地元に来ると、門徒を取られはしないかと戦々恐々、その布教使を中傷し、悪口雑言を門徒衆に吹き込んで追い出そうと画策する。

などと書かれています。
どうして「ケロリと、こんなことを、いいのける。」ことができるのかと、「カンシンさせられる。」し、
「開いた口が、ふさがらないとは、こういう、ことだろう。」
「余りにも、無神経な」
「まさに、つける薬がない。さすがと、言うべきか。」

本当に「情けなく、思うだけ。」です。

ところでこの「著名な布教使」とは誰のことなのでしょうか。
通常、著名な布教使が来て門徒を取られはしないかと思う人はいないでしょう。
もし、これを著者自身のことだと思って書いているならば、「極めたる荒涼のこと」と思います。


後半は一読すると大きな間違いはないように思えますが、実は、一つ一つの文章にかなりのバイアスがかかっています。
(特に和讃3首、「生死の一大事に驚き、聞法に燃え」の表現、最後の「燃える同朋愛の発露」など)
一応無難なところでまとまっているように見えるのは、批判をかわすための「配慮かと、カングルほかない」と言いたくなります。

【補足説明】
上の文章中、青色の部分は同じ著者による「本願寺 なぜ答えぬ」から引用しました。

私の言葉ではありません。

タグ : 歎異抄をひらく

2009/09/12(土)

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと[云々]。



【歎異抄第5章を読む時のポイント】
第5章はそれほど複雑ではありません。
細かく分ければ、4つの部分からできています。
1.テーマ
 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
2.理由 2つ
一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。
3.どのように有情にかかわっていくのか
 ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなり
※ここは、第4章の「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべき」の言葉との関連が感じられます。

1と3は分かると思いますので、2の理由について述べます。
①すべての衆生は遥か過去において、お互いに父であり母であり、兄弟であった。だから、現在の父母だけが縁があるのではなく、すべての衆生が私と縁がある。父母という限定された範囲ではなく、一切衆生が相手になってしまうが、それらに対して、凡夫の私が念仏を申して救うことなどできない。
仏になってからはじめてできることなのだ。
②念仏は私がつくったものではなく、阿弥陀仏から私に回向されたものだから、私が他人に回向するものではない。また、私が回向する云々ではなく、阿弥陀仏が一切衆生に南無阿弥陀仏を回向しておられる。
ということです。

第5章の意味は、第4章と同じように「人を救いたいと思うのなら、まず自分が救われなさいよ。」となりますね。

【『歎異抄をひらく』の第5章を読む 】
わざわざ一つのエントリーを設けるほどでもありませんので、ここに書きます。
葬式や法事・読経の話ばかりで、肝心の第5章の解説になっていませんので、コメントすらできません。
一つだけ指摘しますと、217-218頁に

そんな聖人が、
「父母の追善供養のために念仏を称えたことなど、一度もない」
と言われる。無論これは、念仏だけのことではない。亡き人を幸せにしようとする読経や儀式、すべての仏事を「念仏」で総称されてのことである。
 言い換えれば
「親鸞は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事をしたことは、一度とてない」
の断言だから驚く。


とありますが、これは間違いです。
読経はともかく、どうして念仏が法要などの仏事と同じなのでしょうか。
(もちろん読経と念仏も違いますよ。阿弥陀仏が読経を回向されるのではありませんから)
こっちの方が本当に驚きます。
「念仏」を「念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事」と置き換えて、第1部の意訳の文(65頁)に入れてみれば、おかしいことが分かります。

「念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事」が自分で励む善根ならば、その功徳をさしむけて、父母を救えるかも知れないが、「念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事」は私の善根ではないからそれはできない。

となります。
先の文章は、他力と自力をごちゃごちゃにして、あまりにも念仏を軽んじています。
念仏を軽んずるということは、信心も軽んずることになります。
親鸞聖人は次のようにおっしゃっています。

 四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
(親鸞聖人御消息7 註釈版聖典749-750頁)


タグ : 歎異抄をひらく 念仏

2009/09/11(金)
【ものとはなにか?】
まず、第1部『歎異抄』の意訳 第4章(58-60頁)からです。
「聖道の慈悲というは、ものを憐み愛しみ育むなり。」の中の「もの」の訳が問題です。
この「もの」「他人や一切のもの」と訳されています。
本来、この「もの」は一切衆生という意味ですから、「一切の生きとし生けるもの」「すべての人」「すべてのもの」あるいは単に「人」と訳すべきです。
しかし、ここでは「他人」「一切のもの」区別していますから、後者の「一切のもの」は「一切の生きとし生けるもの」ではないことが分かります。
もし「一切のもの」=「一切の生きとし生けるもの」ならば、前者の「他人」という言葉は無意味だからです。
では「一切のもの」の「もの」とは何でしょうか?
通常「他人」と並べる言葉は「自分」「家族」「親類」などでしょうが、ここではそういう意味ではないでしょう。
すると、この表現から考えるに、無生物(いわゆる非情のもの)を指しているのだと思われます。
たとえば、現代ならば「家」「自家用車」「貯金通帳」「壁画」「壺」「靴下」「カレーライス」などのことでしょう。
これら非情のものに対する「慈悲」とはどのような慈悲でしょうか?
これらのものを大事にするということなのでしょうか?
はなはだ疑問です。
以上のように、この部分の意訳は間違いです。

【仏になりてとは?】
次に、第2部『歎異抄』の解説(10)(204-213頁)です。
意訳では「念仏して急ぎ仏になりて」「はやく弥陀の本願に救われ念仏する身となり、浄土で仏のさとりを開き」と訳されています。
ところが、本文では「急ぎ仏になりて」「急ぎ、仏になれる身になりて」であり「はやく弥陀の救いに値って」の意味であると書かれています。
これだと、「念仏して急ぎ仏になりて」は「念仏してはやく弥陀の救いに値って」となりますが、意訳の中では「念仏して」「弥陀の本願に救われ念仏する身となる」ことですので、同じ意味を重ねて言われたことになります。
「仏になりて」から見ると、意訳では「浄土で仏のさとりを開き」ですが、本文ではそれが変えられています。
ここに二重構造があります。
わずか3頁にも満たない文の中で、意味が錯綜しています。
文中「明らかに誤り」とか「明白だろう」と何度も言われていますが、全く分かりません。
どちらかに統一してもらえばよいのですが、違う意味で訳されているということです。
これでは解説になるどころか、余計混乱することになるでしょう。

【結局、浄土の慈悲とは何か?】
最後の3行で、

 聖人の、“急ぎ仏になりて”の「浄土の慈悲」は、
“はやく仏になれる身になれよ”
の勧めであることを、ユメ忘れてはならないだろう。

と書かれていますが、これだと、せっかく親鸞聖人が「浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて思うがごとく衆生を利益するをいふべきなり。」とおっしゃっていることを全く理解されていない気がします。第1部の意訳(59頁)にはきちんと書かれているのに、なぜ二重構造になっているのか不可解です。第1部を書く時と第2部を書く時と考えが変わったのでしょうか?

タグ : 歎異抄をひらく

2009/09/10(木)

歎異抄第8章
念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。


親鸞会の公式HPに『歎異抄をひらく』の文章がありましたので、歎異抄第4章について書いている途中ですが、第8章について、少し書きます。

弥陀に救われた人の称える念仏を「他力の念仏」という。(中略)
「他力の念仏」は、これら自力の計らい一切が粉砕され、称えさせる弥陀の力強い誓いの念仏である。
 ゆえに「他力の念仏」は、自分の思慮や分別で励む行でも善でもないから、非行・非善、「行にあらず」「善にあらず」と解説されるのだ。(『歎異抄をひらく』237ページ)


この文章は正しいように見えます。
しかし、3番目の文章
 ゆえに「他力の念仏」は、自分の思慮や分別で励む行でも善でもないから、非行・非善、「行にあらず」「善にあらず」と解説されるのだ。
を見ましょう。
この文章では、“自分の思慮や分別で励む行でも善でもないから”は、あとの文節の理由ですから、省略または位置を変えることができます。
するとこの文章で言いたいことは、
 「他力の念仏」は、非行・非善、「行にあらず」「善にあらず」と解説されるのだ。
となります。
確かに第8章は「非行非善章」とも言われますが、そうかと言って、わざわざ誤解させるような書き方をするのは良くないと思います。
省略していい言葉と、省略してはいけない言葉があるのです。
この場合、「行者のために」は省略してはいけません。

参考として、親鸞聖人の御消息を引きます。

『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。本願の名号は能生する因なり、能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。
(親鸞聖人御消息 42 註釈版聖典807頁)


“名号はこれ善なり行なり”とおっしゃっていますね。

頁は前後しますが、先程の文の前には

 ところが八章では、念仏は「行者のために」は善でもなければ、励むべき行でもないと、意外なことが言われている。(『歎異抄をひらく』237ページ)


と書かれています。
これも正しいように見えます。
しかし、原文ではどこにも「励むべき」に当たる語はありません。
親鸞聖人は念仏は励むべき行でないとおっしゃった人だと言う誤解を与えます。
(というか、この本にはそう書いてあるのですが・・・)

参考として、親鸞聖人の御和讃を引きましょう。

弥陀大悲の誓願を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀仏をとなふべし
(正像末和讃 54)

親鸞聖人の“念仏は行者のために非行・非善なり”のお言葉は、決して“励むべき行ではない”とおっしゃったものではありません。

今回は2点の指摘のみで、歎異抄第8章については、後日改めて説明をしたいと思います。

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ
(正像末和讃 42)

タグ : 歎異抄をひらく

2009/08/20(木)
歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
まとめたいと思います。

【これまでの記述のサマリー】
1.「その1」では第1部の意訳についての感想を述べました。
そこでは、「自力の心をひるがえして」の訳が「弥陀の徹見通りの自己に驚き」となっていることを誤りであると指摘しました。

2.「その2」では第2部全体の中で、歎異抄第3章にさかれている量が少ないことを述べました。

3.「その3」では、「テーマ」と「結論部分」がかみ合っていないことを述べました。

4.「その4」では細かい表現について感想を述べました。
 これについては、文中で書いておりますように「重箱の隅をつつく」「アラさがしをする」目的で書いたのではありません。
 一つひとつの例は問題にするようなことではなくても、全体として、型にはめるような方向性があることを指摘しました。
 また、それぞれの例については、読まれた方によっては私と異なる意見をお持ちの方もあるでしょう。そして、「そこまで言わなくてもいいのではないか」「その指摘は的外れだ」と思われたかもしれません。
 例を10列記した理由は上に述べたもので、その点を理解して頂くことをお願いするとともに、不快な思いをなされましたら、この場を借りてお詫び申し上げたいと思います。

 なお、第10例につきましては、大きな間違いであると思います。「その1」とも関連します。

【感想のまとめ】
1.「善悪」の問題と「信疑」の問題を混同しています。
 それが、“自己に驚き”や“ごまかしの利かない阿弥陀仏”、“邪見におごり自己の悪にも気づかぬ、「自力作善」の自惚れ心”などの表現に出ています。

2.上記1と関連することですが、有名な親鸞聖人の「悪人正機」説に関する記述が少ないことは、著者は「悪人正機」についてあまり述べたくないのではないかと思います。
 言葉を変えて言えば、
「どんな悪人でも救われる」「善悪と弥陀の救いは関係ない」などのことはあまり言いたくなくて、
「自分が悪人と気づかないと救われない」→「助かる為に善をするのは間違いだが、気づく為(まで)にはやはり善をしなければならない」という方向へ誘導されているような感じを受けます。
(もちろん、そのようなあからさまな表現はありません)

タグ : 歎異抄をひらく

2009/08/19(水)
歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
「第2部『歎異抄』の解説」の感想の続きです。

今回は細かい表現について考えます。
これは決して「重箱の隅をつつく」ということではありません。
一つひとつの文章を無批判に正しいと思ってしまうことが重なると、すべてのことに無批判になってしまう危険性がありますので、それを避けるためです。

この章のすべての文について見るわけではなく、いくつかの例をあげたいと思います。

例1“・・・もっとも有名な言葉といわれる。衝撃的な内容だけに、大変な誤解も生んだ。”
・「もっとも有名な言葉といわれる」根拠がありません。
・「大変な誤解」とは何でしょうか。
 読者はコンテクストからは次の「造悪無碍」と読みます。
 しかし、「造悪無碍」は法然上人、親鸞聖人在世の頃よりあった異義で、歎異抄第3章によってこの異義が発生したものではありません。
 歎異抄第3章に「造悪無碍」を生む危険性は当然あるのですが、すべてが第3章のせいではないでしょう。
 事実、今日歎異抄を読んでいるどれほどの人が「造悪無碍」に陥っているのか分かりません。

例2“・・・誰でも思うだろう。”
・本当に誰でも思うのでしょうか?
・少なくとも私は「えっ、どういうこと?分かるように説明して下さい。」と思いました。
 そう思う人も少なくないと思います。

例3“私達は常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて・・・”
・「常識」「法律」「倫理・道徳」は必ずしも同じ善悪の判断を下すわけではありません。
 「常に」という表現は適当ではないと思います。

例4“極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させる”
・極めて抽象的な表現であり、前のフレーズの“だが、聖人の「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではない”に対する言葉になっていません。この場合は“○○の(という)悪人である”という表現が必要です。

例5“悠久の先祖より無窮の子孫まで、すべての人々は”
・訳が反対です。

例6“しかも、それを他人にも自己にも恥じる心のない無慚無愧の鉄面皮”
・この文は至心釈の「機無」の次に書かれています。
 原文にない挿入された文であり、お聖教の言葉に、こう思うべきだという間違ったニュアンスを加えています。

例7“ごまかしの利かない阿弥陀仏に”
・阿弥陀仏が何か私達を監視しておられるようなニュアンスを与えています。
 以前述べた「見聞知」の記述を参考にして下さい。

例8“悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。”
・悪人=全人類、人間の代名詞とするならば、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の説明を途中であってもしなければならないでしょう。
 意味が通らなくなることは予想できます。
 ここで「自分は悪人と思わなければならない」という考えが生まれます。

例9“念仏くらいは称え切れる”
・念仏を称え切るとはどういうことを意味するのか分かりません。

例10“邪見におごり自己の悪にも気づかぬ、「自力作善」の自惚れ心”
・自己の悪に気づかない心と、「自力作善」の自惚れ心とは違いますが、この文ですと同じ意味になっていまいます。
 この部分の間違いは重要です。

このように、時には大きな、多くの場合は気付かないほどの小さな「間違った表現」「あいまいな表現」によって、読者は潜在意識下に「特定の」「共通した」考えを抱くことになります。
「その1」にも述べましたが、たとえそれが「自己に驚く」という5文字であっても、それがネックとなってしまい、「今救われる教え」が「永久に救われない教え」になってしまうのです。

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2009/08/19(水)
歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)の読後感想です。
「第2部『歎異抄』の解説」の感想の続きです。

今回は全体の構成について考えます。

見出しが、
なぜ善人よりも悪人なのか?
リード文が、
「善人なおもつて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
ですから、
この章の「テーマ」はリード文に書かれているように、「誤解を正された親鸞聖人のお心を明らかにすること」または、「純粋に“悪人正機”の正しい意味を明らかにすること」でしょう。

通常、文章は
「起承転結」の4部構成、または
「序破急」の3部構成、または
「起承転転結」の5部構成
で書かれます。
もちろん、小説などの場合はこの限りではありませんが、人に分かるように説明する時には、通常はセオリーを重んじます。
この場合でも「テーマ」「論題」は構成以前の問題として、まず第1に押さえておかなければならないことです。

さて、この章ではどうなっているかというと、
1.歎異抄第3章の誤解されやすいこと
2.誤解を正すには「善人」「悪人」の認識を徹底して明らかにすべきこと
が述べられています。
次いで
3.「悪人とは」の説明に3頁
  根拠として歎異抄から1文、教行信証信巻至心釈から1文
4.「善人とは」の説明に1頁
5.「疑心の善人でも、自力を捨てて他力に帰して往生する」ことに半頁
と説明されています。
ここまでが「悪人正機」の説明です。

続けて「善人であれ悪人であれ、要するに・・・」と「善悪」の問題から「捨自帰他」に移ります。
6.「他力をたのむことが大切」に2頁
  根拠として唯信鈔文意から1文
7.結論として「善人悪人、一応、分けてはあるが、弥陀の救いの焦点は、他力信心一つに絞られていることが、明々白々である。」・・・とされています。

これで果たして、テーマと結論が一致しているでしょうか。
最初に「誤解を正す」と示し、それには「悪人」「善人」を明確にすることが大切とされていながら、途中で「善人であれ悪人であれ」と言い、最終的に「善人悪人、一応、分けてはあるが」と善悪の問題に言及することが避けられています。

原文はあげられていても「悪人正機」についての結論がなく、他力信心の問題とすり替わっていることが分かります。
もちろん「他力信心」について語ることは大事なことですが、ここはあくまでも、テーマに添って文章を展開し、阿弥陀仏の本願は「悪人正機」であることを明らかにすべきです。
そうしなければ「誤解を正す」ことはできないと思います。
やはり先に述べたように、「悪人正機」の説明を2000字ほどで済ませることには無理があるでしょう。

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2009/08/19(水)
歎異抄をひらく』(高森顕徹著 1万年堂出版 ISBN978-4-925253-30-7)を読みました。
「はじめに」に「読者諸賢のご批判に待つ。」と書かれてありましたので、「賢」ではありませんが、少し感想を述べます。
もちろん、歎異抄第3章の箇所だけです。

歎異抄をひらく』の中で歎異抄第3章について書かれてあるのは、次の2箇所です。
(原文のみの頁は省略します)
1.第1部『歎異抄』の意訳
   第三章 有名な悪人正機を言われたもの p52-55
2.第2部『歎異抄』の解説
   9 なぜ善人よりも悪人なのか?     p194-202
    「善人なおもつて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
    の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉

今回は1について述べ、次回、2について言及する予定です。

では早速読んでみましょう。
下段に「原文」、上段に「意訳」となっています。
意訳とありますので現代語訳とは違うのかと思いますが、それはそれとしまして、内容を見てまいりましょう。

まず文字数を数えます。(フォントによってずれますが御了承下さい)
 漢字   157文字
 かな   305文字
 他の字   1文字(「々」)
 句点    12文字分
 読点    29文字分
 括弧記号 10文字分

合計514文字の文章です。(純粋に文字だけですと463文字となります)

私の感想を申します。

文字数の比率で言いますと、99%正しいと思います。

1%間違っているということです。
その1%はどこかというと、
「自力の心をひるがえして」の訳に当たる「弥陀の徹見通りの自己に驚き」というフレーズの中の「自己に驚き」の5文字です。

「自力の心をひるがえして」と「(弥陀の徹見通りの)自己に驚き」は明らかに異なります。
「自己に驚く」とは私達の心のこと(意業)であり、これですと自力で助かることになるからです。
また、驚かなければ助からないとも取れます。
つまり、これを読んだ人は「驚く」ことに目が行きます。
驚こうとするのです。
このままでは20年や30年、50年どころか1億年求めていてもダメです。
驚く心など無いのですから。

先に99%正しいと書きましたが、100点満点の99点ということではありません。
あくまでも文字数で見た時の分量が99%正しいと言ったまでです。

したがいまして100点満点としますと、「捨自帰他」「信疑決判」という最も大事なところが間違っていますので0点です。
「画竜点睛を欠く」とでも申しましょうか。

ちなみに第2部の同じ原文に対する現代語訳は「本願を疑う自力の心をふり捨てて」となっており、こちらは正しいと思います。
第2部の訳をこっちへ持ってくれば、100点近くになります。
(純粋に文章表現のみの問題については考慮しません)

以上が私の感想です。
次回は第2部について述べます。

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2009/08/18(火)
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意

浄土真宗には他力回向の救いを表す「機無円成回施成一」という言葉があります。

 機無 私達には生死を離れることのできるような、清浄真実の心は全く無い。

 円成 阿弥陀仏が私達に代わって、清浄真実な至徳(=名号)を完成された。

 回施 阿弥陀仏が至徳(=名号)を私達に等しく与えて下さる。

 成一 至心も欲生も、無疑の一心=信楽に帰一する。


歎異抄第3章の「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」は、機無を表します。

この「機無」ということが、歎異抄第3章で言われる「悪人」なのですが、あくまでも、「迷いの世界を抜け出すのに役立つような、清浄真実の心は全く無い」ことであって、「無間地獄しか行き場のない無類の極悪人」ということではありません。
間違えやすいところですが、注意して下さい。

三心釈で機無の部分をお示しします。

[至心釈]
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。
この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(教行信証信巻 註釈版聖典231~232頁)

[信楽釈]
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。
これを利他真実の信心と名づく。
(教行信証信巻 註釈版聖典234~235頁)

[欲生釈]
次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。
しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。
欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
(教行信証信巻 註釈版聖典241頁)

歎異抄の「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」の中の「いづれの行もおよびがたき身」も同じ意味です。

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2009/08/07(金)
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

「おはしまさば」は文法的には、未然形+接続助詞「ば」で、仮定を表します。このあとの文も「おはしまさば」「ならば」「ならば」と同じですので、仮定として訳すべきでしょう。
これは「仮定ではない」という人もいます。その理由は「阿弥陀仏の本願まことは明らかだから、仮定で本願を語られるはずがない」というものですが、はたしてそうでしょうか。
確かに親鸞聖人にとって「阿弥陀仏の本願まこと」であったことは言うまでもないのですが、聖人直筆の文ではないにしろ、直接聞いた歎異抄の著者がこのように書いているのですから、自分の思いで文章自体を変えてしまうのではなく、親鸞聖人のお言葉の深意・真意を汲み取ろうとすることに努力すべきではないでしょうか。

このことについては、梯實圓勧学が説明しておられますので、そのまま紹介します。


しかし、このことをいうのに「まことにおわしまさば」という仮定の言葉をつらねておられる点に、奇異な感じをうけます。そこには、反語的に意味を強めるようなひびきも感じられますが、何よりも「親鸞が申すむね、またもってむなしからず候ふか」という謙虚な領解の言葉を述べるためだったと思います。
ふつう絶対真実の法の伝統を語った後は、「法然の仰せまことなるがゆえに、親鸞が申すことも決していつわりではない」と断言するでしょう。そして「親鸞の信心はかくのごとし、このうえは、面々、念仏をとりて信じたてまつるべし」と結ぶでしょう。そうなれば、教法の権威をかりて、門弟に信を強制する高圧的な「人師」のイメージが強くなり、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(『註釈版聖典』八三五頁)といいつづけられた親鸞とは、ちがった人格になってしまいます。
 聖人は、「法」の名によって「私」を主張することを厳しく自戒されています。自分がいただいている教法が貴いということは、自分が貴いことでは決してありません。むしろ、教法の貴さがわかればわかるほど、自身の愚かさを思い知らされていくはずです。仏祖の名を利用して、名利をむさぼったり、「よき師」の名をかりて、自己を権威づけようとするほど醜いものはありません。
 こうして親鸞は「愚身の信心におきてはかくのごとし」と述べ、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」とおことばを結ばれています。率直に自身の信心を表明された聖人は、門弟たちの一人ひとりが如来のまえにたって、仰せにしたがうか。したがわぬかを決断する以外に道のない、仏法の厳しさを知らしめられていたといえましょう。
(『聖典セミナー 歎異抄』102-103頁 梯 實圓著 本願寺出版社 ISBN978-4-89416-565-6)
(『親鸞』70-71頁 梯 實圓著 大法輪閣 ISBN4-8046-4102-5 にもほぼ同じ文があります)


私もこの通りと思います。
梯師の文章でもう1点注目すべきは、「一人ひとりが如来のまえにたって・・・」という箇所でしょう。
「信心獲得したいのです」と口では言っていても、直接阿弥陀仏に対峙せず、「私はまだ・・・」「なかなか・・・」「環境が・・・」などと言い訳を言って逃げていては、無常との競争以前の問題です。

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