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武邑尚邦

2010/07/31(土)
武邑尚邦氏の『仏教思想事典』(教育新潮社刊)を拾い読みをしておりました。

「苦行」の説明
 もともと、「苦行」とは、インドにおいて生死輪廻と、そこでおこる苦しみからの解放をねがって実行される苦しい修行のことをいう。
 インドにおいて古くから輪廻という考え方が人々の間に定着するようになると、人々はこの輪廻からの脱却を願って、解脱涅槃の境地を求めようとした。思うようにならない、この現実苦が死後においても、永久に続いてゆく、そして人間は未来永劫に苦しみを受けねばならないという思想の中で彼らは苦しんだ。そして、そのような輪廻の苦をたちきろうとして苦行を実行し、死後の生天を願い楽を得ようとの願いをもったのである。
 というのは、現実のこの苦は前生の報いであると考えた彼らは、この過去の結果としての苦を積極的に苦しみ、早くそれを精算して、未来の楽果を求めようとしたのである。このような考えをもった人々を宿作外道と仏教の側からよんでいるが、この人々は世の中には苦と楽とよりほかはないとし、過去の因により。いま苦果をうけたのだから、これを早くなしおえて楽果をえようと期待したのである。
 さて、かれらの実行した苦行がどのようなものであったかについては、経典中にいろいろと伝えられている。たとえば『涅槃経』などの所説である。また『百論』などにも仏教側からするいろいろの説明がなされているが、これらを六種にまとめてみるとことが古来行われている。すなわち(一)自餓(二)投渕(三)赴火(四)自坐(五)寂黙(六)牛狗の六種である。
 まず自餓とは自ら飲食を求めずして、長く飢餓にたえる苦行をいう。投渕とは寒い時期に深い渕に入って、そこで凍りつくような寒さをうけ、それをたえしのぶ苦行をいう。赴火とは身体を酷熱にさらし、その熱悩にたえる苦行をいう。自坐とは常に裸形にして、寒い時も暑い時も、屋外に坐して、その苦を忍受する苦行をいう。寂黙とは屍林や墓場などで生活し、他と全く言葉を語らずして、孤独に堪える苦行をいう。牛狗とは自分は前世に牛や狗の世界であったとして、草を食し、汚物をとって牛狗と同じように生活し、生天を願って苦行することをいうのである。
 これらの種々の苦行を修行して、苦の解消を願って、未来に楽のみの世界を期待したのである。すなわち、このような人々は、人生には苦楽の二面のみがあるとし、その苦の一面をなくしてしまえば、他の楽の一面のみが残ることとなるから、苦痛を自ら継続して受けることによって苦をなくしてしまおうとしたのである。
(以下略)


 なるほど、宿作外道ってこういうのなんですね。
 でも今でもどこかでありそうな気がしました。
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タグ : 武邑尚邦 宿作外道

2009/09/14(月)
方便については既に述べています(観無量寿経 覚書 その7 8月16日の記事)が、意味を間違っている人や、混乱している人がいるようですので、もう一度、確認したいと思います。

仏教思想辞典(武邑尚邦著 教育新潮社刊 ISBN 4-7633-0106-3 C1315)より
方便(upāya)

 梵語ウパーヤ<upāya>は「近づく」「到達する」などの意味の動詞ウペー<upe>をもととする言葉である。そのもとの意味から「目的に近づき、それに到達するための手段方法」という意味に用いられるものである。その点、この文字自体は「目的達成のための実際の行為」についていわれるものであり。
 仏教では、この方便という文字を悟りそのものとして般若の智慧に対して、その智慧のはたらきという意味で用いる場合と、いわゆる暫用還廃の意味で、しばらくの仮の手だての意味で用いる場合とがある。すなわち、前者は般若〔=智慧〕に対する方便後者は真実に対する方便の意味である。この二つの意味の混雑は、仏教を理解するについては、十分注意しないと思わぬ誤りをおかすことになる。「嘘も方便」などといわれるのは、そのいずれでもない。これなどは方便を全く誤用したものである。
 さて、前者の場合については、善巧方便<upāya‐kauśalya>などと用いられ、「人々をして悟りの智慧を得させるための巧みにして適当な手段方法」の意味である。このような場合、方は方法、便は便用の意味で人々を導くために、その相手に適当な方法を使用するという意味である。また、方は方正の理、便は巧妙な言葉と解釈し、正しい道理と巧妙な弁説で人を正しい智慧の獲得に導くという意味、さらに方は方域、便は便法の意味で場所や地域を考えて、そこに適する便法を用いて人々を導くことであるともいわれる。
 いずれにしても、これらは人々を悟りへ導く手段方法の意味である。このようなことを方便引入といい、また、そのような人々を導くための仏の智慧を方便智といい、その方便引入のための準備的な手段や行為を方便道という。これらは、みな真実を完成するための方法である。したがって、その方法も達成される真実にうらづけされていなければならないから、それはすでに般若の智慧の働きをもっていなければならない。この点で、単なる手段として捨てられるものでなく、その方法を用いることがすでに悟りへの道として意味をもつのである。経典の中で「方便品」という章があるのは、このような意味での方便である。
 たとえば『法華経』の第二方便品、『維摩経』の第二方便品のごとくである。この『法華経』の方便について、天台の人々が方は秘、便は妙で、この「方便品」には秘密の妙義が説いてあるのだと、方便即真実、真実即方便を主張するのは、このためである。この場合、真実の外に方便があるのでなく、方便の外に真実があるのでもないのである。
 また、十波羅蜜の中で、方便波羅蜜とは、人々を悟りの彼岸に到達せしめるために、それぞれの人々に適応した手段方法で導くことであるのも、この意味である。また、このような意味で仏について方便法身という。この場合の方便の方は正直、便は己を外にするという意味と解釈されるように、人々を救うために成仏した仏ということである。したがって、このような仏は衆生を救済するという目的のために仏となった仏の意味であって、間違って方便だから、仮の仏だとか、うその仏だとか解釈することは、仏教の立場をしらない人の主張であるから注意しなければならない。
 しかし、初めにもいったように、他方には暫用還廃の意味の方便という使い方もある。これを権仮方便という。すなわち、真実に対して方便というので、この場合には真実は真実、方便は方便で別のものなのである。方便願方便仮門方便化身、などの使い方は、このような意味である。


また、註釈版聖典の補注15「方便・隠顕」にも説明があります。
持っておられなくても、インターネットで見ることができます。


ところで、蓮如上人御一代記聞書の

蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。
(註釈版聖典 1286頁)

を見てみましょう。

「方便」という言葉が3回出てきますが、
1つ目の方便は、方便一般、つまり善巧方便権仮方便の両方を表します。
(つまり、「嘘も方便」などの誤用を正されたものです)
2つ目の方便は、権仮方便のことです。(廃立とありますから、暫用還廃の意味です)
3つ目の方便は、善巧方便です。(書かれている通りです)

2つ目の方便と3つ目の方便を同じ意味と取ると読み誤ります。
親鸞会のほとんどの人は、間違えていると思います。
読み間違えないように、注意しましょう。

タグ : 方便 権仮方便 善巧方便 武邑尚邦

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