しかし、それは決して「法界身」の教えが大事ではないということではありません。
もう一度、法界身の文を見てみましょう。
繰り返しますが、大切なところです。
観無量寿経疏には「無礙」の説明もあります。
下に引用する文は、このブログに上げなくても、すべてインターネットで見ることができますし、聖典(註釈版、註釈版七祖篇、現代語版聖典の3冊)があれば分かることですが、一目で見ることができるようにまとめたものです。
☆観無量寿経 第八像観の法界身のところ
【経文:書き下し文】
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、
「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。
このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。
諸仏正遍知海は心想より生ず。
このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。・・・
(注釈版聖典 99~100頁)
〔註〕
○諸仏正遍知海
正遍知は梵語サムヤック・サンブッダ(samyak-saſbuddha)の漢訳で、如来十号の一。
等正覚ともいう。
仏の智慧が広大であることを海に喩えていう。
正しく完全に真理をさとったあらゆる仏の意。
○多陀阿伽度(ただあかど)
梵語タターガタ(tathāgata)の音写。如来と漢訳する。
○阿羅訶(あらか)
梵語アルハット(arhat)の音写。応供・阿羅漢ともいう。如来十号の一 →如来
○三藐三仏陀(さんみゃくさんぶっだ)
梵語サムヤック・サンブッダ(samyak-saſbuddha)の音写。等正覚、正遍知と漢訳する。正しいさとりを得た者。最高至上の仏。如来十号の一。→如来
○如来
梵語タターガタ(tathāgata)の漢訳。
真如(真理)より現れ来った者、あるいは真如をさとられた者の意で、仏のこと。
十種の称号がある(如来の十号)。
①応供(おうぐ)。供養を受けるに値する者。
②等正覚(とうしょうがく)。平等の真理をさとった者。
③明行足(みょうぎょうそく)。智慧と行とが共に完全な者。
④善逝(ぜんぜい)。迷界をよく超え出て再び迷いに還らない者。
⑤世間解(せけんげ)。世間・出世間のことをすべて知る者。
⑥無上士(むじょうし)。最上最高の者。
⑦調御丈夫(じょうごじょうぶ)。衆生を調伏・制御してさとりに導く者。
⑧天人師(てんにんし)。神々と人間の師。
⑨仏。覚れる者。
⑩世尊。世間で最も尊い方。
この十号は、如来を入れると十一号になる。それを合わせて十号と呼ぶ数え方に諸説がある。
【現代語訳】
釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。
「この観が終わったなら、次に仏を想い描くがよい。なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入り満ちてくださっているからである。
このため、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となるということになり、そして、この心がそのまま仏なのである。
まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心にしたがって現れてくださるのである。
だからそなたたちはひたすら阿弥陀仏に思いをかけて、はっきりと想い描くがよい。・・・
〔註〕
○三十二相八十随形好
仏の身にそなわる32の大きな特徴と、80の微細な特徴のこと。
☆観無量寿経疏 法界身の説明
意、有縁に赴く時、法界に臨むことを顕さんと欲す。
「法界」といふは三義あり。
一には心遍するがゆゑに法界を解す。
二には身遍するがゆゑに法界を解す。
三には障礙なきがゆゑに法界を解す。
まさしくは心到るによるがゆゑに、身また随ひて到る。身は心に随ふがゆゑに「是法界身」といふ。
「法界」といふはこれ所化の境、すなはち衆生界なり。
「身」といふはこれ能化の身、すなはち諸仏の身なり。
「入衆生心想中」といふは、すなはち衆生念を起して諸仏を見たてまつらんと願ずるによりて、仏すなはち無礙智をもつて知り、すなはちよくかの想心のうちに入りて現じたまふ。ただもろもろの行者、もしは想念のうち、もしは夢定のうちに仏を見たてまつるは、すなはちこの義を成ずるなり。
(定善義 註釈版聖典七祖篇431頁)
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聖者でも賢者でも善凡夫でもない「悪凡夫」が救われるとはどういうことなのかを知るのに大事な経文です。
ただ今現在、信心決定したいと真剣に思っている人は最後まで読んで下さい。
「そこまではー」という方は、後で読んで下さい。
法界身とは何かということについて、
善導大師は諸仏
親鸞聖人は阿弥陀仏(つまり、観経に「諸仏如来」とあるのは阿弥陀仏のことと)
と解釈しておられます。
また、善導大師の釈の後半に「指方立相」が教えられているのも、悪凡夫の救いを表されたもの言えます。
一切の仏土みな厳浄なれども、凡夫の乱想おそらくは生じがたければ、如来(釈尊)別して西方の国を指したまふ。(法事讃巻下 註釈版聖典552頁)
などからも分かります。
なお指方立相には2つの意味があります。
・方処を指示して、相状を弁立する。(釈尊の指方立相 善導大師)
・方処を指定して、相状を建立する。(阿弥陀仏の指方立相 道綽禅師)
以下、「観経」「観経疏」などのお聖教のご文を列記します。
難しければ、ボールド体のところだけ見て下さい。
(安心決定鈔は読まれたらよろしいでしょう)
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀を観ずべし。
(観無量寿経 注釈版聖典 99~100頁)
八に像観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。
すなはちその十三あり。
一(略)
二に「諸仏如来」より下「心想中」に至るこのかたは、まさしく諸仏の大慈、〔衆生の〕心に応じてすなはち現じたまふことを明かす。この勝益あるがゆゑに、なんぢを勧めてこれを想はしむ。
問ひていはく、韋提の上の請にはただ弥陀を指す。いぶかし、如来(釈尊)いま総じて諸仏を挙げたまふ、なんの意かあるや。
答へていはく、諸仏は三身同じく証し、悲智の果円かなること等斉にして二なく、端身一坐にして影現すること無方なり。意、有縁に赴く時、法界に臨むことを顕さんと欲す。
「法界」といふは三義あり。
一には心遍するがゆゑに法界を解す。
二には身遍するがゆゑに法界を解す。
三には障礙なきがゆゑに法界を解す。
まさしくは心到るによるがゆゑに、身また随ひて到る。身は心に随ふがゆゑに「是法界身」といふ。
「法界」といふはこれ所化の境、すなはち衆生界なり。
「身」といふはこれ能化の身、すなはち諸仏の身なり。
「入衆生心想中」といふは、すなはち衆生念を起して諸仏を見たてまつらんと願ずるによりて、仏すなはち無礙智をもつて知り、すなはちよくかの想心のうちに入りて現じたまふ。ただもろもろの行者、もしは想念のうち、もしは夢定のうちに仏を見たてまつるは、すなはちこの義を成ずるなり。
三に「是故汝等」より下「従心想生」に至るこのかたは、まさしく利益を結勧することを明かす。
これ心を標して仏を想ふことを明かす。ただ仏解をなして頂より足に至るまで心に想ひて捨てず、一々にこれを観じてしばらくも休息することなかれ。あるいは頂相を想ひ、あるいは眉間の白毫乃至足下千輪の相を想へ。この想をなす時、仏像端厳にして相好具足し、了然として現じたまふ。
すなはち心一々の相を縁ずるによるがゆゑに、すなはち一々の相現ず。心もし縁ぜずは衆相見るべからず。ただ自心に想作すれば、すなはち心に応じて現ず。ゆゑに「是心即是三十二相」といふ。「八十随形好」といふは、仏相すでに現ずれば、衆好みな随ふ。これまさしく如来もろもろの想者を教へて具足して観ぜしめたまふことを明かす。「是心作仏」といふは、自の信心によりて相を縁ずるは作のごとし。「是心是仏」といふは、心よく仏を想へば、想によりて仏身現ず。
すなはちこの心仏なり。この心を離れてほかにさらに異仏なければなり。「諸仏正遍知」といふは、これ諸仏は円満無障礙智を得て、作意と不作意とつねによくあまねく法界の心を知りたまへり。ただよく想をなせば、すなはちなんぢが心想に従ひて現じたまふこと、生ずるがごとしといふことを明かす。
あるいは行者ありて、この一門の義をもつて唯識法身の観となし、あるいは自性清浄仏性の観となすは、その意はなはだ錯れり。絶えて少分もあひ似たることなし。
すでに像を想へといひて三十二相を仮立せるは、真如法界の身ならば、あに相ありて縁ずべく、身ありて取るべけんや。しかも法身は無色にして眼対を絶す。さらに類として方ぶべきなし。ゆゑに虚空を取りてもつて法身の体に喩ふ。またいまこの観門は等しくただ方を指し相を立てて、心を住めて境を取らしむ。総じて無相離念を明かさず。
如来(釈尊)はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得ることあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、術通なき人の空に居して舎を立つるがごとしと知りたまへり。
(観無量経疏 定善義 註釈版聖典七祖篇430~433頁)
光明寺の和尚は「行者の信にあらず、行者の行にあらず、行者の善にあらず」とも釈したまへり。無碍の仏智は行者の心にいり行者の心は仏の光明におさめとられたてまつりて、行者のはからひちりばかりもあるべからず、これを『観経』には「諸仏如来はこれ法界の身なり、一切衆生の心想のうちにいりたまふ」とはときたまへり。諸仏如来といふは弥陀如来なり。諸仏は弥陀の分身なるがゆへに諸仏をば弥陀とこゝろうべしとおほせごとありき。
(存覚上人 浄土見聞集 真宗聖教全書3 379頁)
かるがゆゑに機法一体の念仏三昧をあらはして、第八の観には、「諸仏如来是法界身 入一切衆生 心想中」(観経)と説く。これを釈するに、「<法界>といふは所化の境、すなはち衆生界なり」(定善義)といへり。定善の衆生ともいはず、道心の衆生とも説かず、法界の衆生を所化とす。「法界といふは、所化の境、衆生界なり」と釈する、これなり。まさしくは、こころいたるがゆゑに身もいたるといへり。弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこに入り満つゆゑに、「入一切衆生心想中」と説くなり。ここを信ずるを念仏衆生といふなり。また真身観には、「念仏衆生の三業と、弥陀如来の三業と、あひはなれず」(定善義・意)と釈せり。仏の正覚は衆生の往生より成じ、衆生の往生は仏の正覚より成ずるゆゑに、衆生の三業と仏の三業とまつたく一体なり。仏の正覚のほかに衆生の往生もなく、願も行もみな仏体より成じたまへりとしりきくを念仏の衆生といひ、この信心のことばにあらはるるを南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに念仏の行者になりぬれば、いかに仏をはなれんとおもふとも、微塵のへだてもなきことなり。仏の方より機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまひたりけるゆゑに、なにとはかばかしからぬ下下品の失念の位の称名も往生するは、となふるときはじめて往生するにはあらず、極悪の機のためにもとより成じたまへる往生をとなへあらはすなり。また『大経』の三宝滅尽の衆生の、三宝の名字をだにもはかばかしくきかぬほどの機が、一念となへて往生するも、となふるときはじめて往生の成ずるにあらず。仏体より成ぜし願行の薫修が、一声称仏のところにあらはれて往生の一大事を成ずるなり。
(安心決定鈔 註釈版聖典1394~1395頁)
「弥陀の大悲、かの常没の衆生のむねのうちにみちみちたる」(安心決定鈔・本意)といへること不審に候ふと、福田寺申しあげられ候ふ。仰せに、仏心の蓮華はむねにこそひらくべけれ、はらにあるべきや。「弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこに入りみつ」(同・本)ともあり。しかれば、 ただ領解の心中をさしてのことなりと仰せ候ひき。ありがたきよし候ふなり。
(蓮如上人御一代記聞書 註釈版聖典1234~1235頁)
〔訂正〕
存覚上人 浄土見聞集の根拠を訂正
真宗聖教全書 2 → 3