深川倫雄

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2010/08/04(水)
 第一、機の深信。
 現にこれとは、三世の中の現在。過去を受けた現在である。次の曠劫以来現在までの過去に対する語である。従って又、後の出離の縁なしとは未来に属する。過去、現在、未来に亘っての罪重のことを述べる。罪悪生死とは、罪悪によって生死を流転するので、罪悪の凡夫、生死の凡夫である。凡夫とは愚痴闇冥であって、我身、我見に執するを性とする者。『一念多念文意』多念章に

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

といわれる。曠劫以来とは『信巻』至心釈には無始以来とある。以来というよりも、凡夫としての存在そのものの本質であるから浄土教ではこうあらあすのである。常没とは沈没であって、三悪道に沈没する。流転とは、六道を輪廻転生すること。疏主大師の『法事讃』に、

もつぱらにしてもつぱらなれと指授して西路に帰せしむれども、他のために破壊せられてまた故のごとし。曠劫よりこのかたつねにかくのごとし。これ今生にはじめてみづから悟るにあらず。まさしく好き強縁に遇はざるによりて、

とされる。この意味を『高僧和讃』善導讃に、

西路を指授せしかども
 自障障他せしほどに
 曠劫以来もいたづらに
 むなしくこそはすぎにけれ

と和讃される。法蔵因位の願行は罪重流転の衆生を生起とし、その第十七願には諸仏の咨嗟称が誓われ、その成就の相たる諸仏証誠は『小経』に詳しい。あれが諸仏無倦の指授である。今、曠劫流転という時、自ら障碍し、他を障碍して、空しく過ぎて来たわれらの過去を顕す。出離之縁とは弥陀の強縁に遇わないならば、未来もまら流転であろうという。これを『源空讃』に用いられる。

曠劫多生のあひだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし

 この機の深信を知る者は決して自己ではない。如来は一切衆生の実態を思惟して四十八願を選択されたのであるから、四十八願所被の機がここに示される。過去、現在、未来のわれらの実態であると、弥陀如来によって案ぜられ、諸仏によって告げられる。
 『往生礼讃』前序には、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

と。『散善義』深心釈の解釈に大層な示唆を与えるものである。それは、ここでは深心釈が二項目しかない。即ち第一、機の深信と、第二、法の深信の二つだけであるということである。これは七深信でなくても、機法二種深信で足りておるということである。即ち七深信はこの二種に収まるということである。この機の深信では、善根薄少として、一見表現が軽いようであるが、流転の果報の因として信受するものであるから、『散善義』と変わらない。これを信受信知するのが第一、機の深信である。それは次の法の深信の四十八願を離れては成立し得ないものである。

 ついで出離の縁たる四十八願等の法を標して二者とする。いわゆる法の深信である。この一には、二にはについて「機法二種の深信」といったのは『六要鈔』である。西山の証空上人は『観門義鈔』に信機信法の語を使ってある。さきに、七深信の相互の関係を述べ、第二深信を『大経』深信であるといった。それでも四十八願とあって、『大経』とはない。そこで『礼讃』の二種深信が教えてくれるといった。第二深信には『三部経』が収まるというよりも、四十八願の法義が『三部経』に開説されていて、いま四十八願という。『礼讃』では「弥陀の本弘誓願」と言った。出離の縁あることなしという自身の出離の縁が四十八願の法である。『法事讃』には「正しく好き強縁」とある。『源空讃』では「出離の強縁」と使われ、『本典』総序にも「弘誓の強縁」とされる。この「強縁」とは縁の字を使うけれどもこれは因、強因、正因の意である。深信釈でいう出離の縁とは出離の強縁であって、正因である。
 衆生を摂受してとは第十八願の意である。衆生とは第一深信に示された、無有出離の縁である。摂取の語は『大経』五劫思惟段に、荘厳仏国清浄之行を摂取とあるが、今は『観経』第九観の、念仏衆生摂取不捨の摂取を取っての摂受であろう。第十八願の意を述べるのに四十八願はと出すのは、四十八願の主意は、仏身、仏土、聖聚の三厳を誓うけれども、それはただ一筋に迷いの衆生を来生させる意に基づく。従ってその意を『玄義分』には「一一願言」といい、『般舟讃』には一一誓願為衆生と讃ずる。今は逆に四十八願の語を標して、第十八願の意を述べるのである。この第二深信の文は、前半が約仏、後半が約生の仕立てになっている。疑い無くはその中間にあるので、仏の無疑か、衆生の無疑か、二義あり得る。次に無慮と続くので、無疑の前に「衆生」を入れて、これは以下を約生の文とするのがよい。即ち無疑とは下の彼の願力に乗じてである。『六要鈔』は、

若不生者不取正覚。正覚すでに成ず。ゆえに疑無く、即得往生住不退転。一念誤り無し。ゆえに無慮という。

とする。願が成就した。仏願は因願から果成に至るまで、仏の思慮周到であるから、衆生においては信受するだけで、慮り無用である。彼の願力とは『論註』下、不虚作住持功徳釈に、

いふところの「不虚作住持」とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに「成就」といふ。

とあって、願力とは、因願に相苻の果成の名号である。即ち乗彼願力とは聞其名号信心歓喜である。いま彼の願力に乗じて定んで往生を得というのは、『礼讃』の二種深信では、「名号を称すること下至十声一声に至るまで、定んで往生を得しむ」とされるに当たる。今は経の疏釈であるから、深信を列する。第二では乗彼願力といい、第七では一向専念弥陀名号、順彼仏願といわれる。『礼讃』は行儀の書に置く短い前序であるから弘願義を略示するもので、両書の所顕に差異はない。定んで往生を得とは『六要鈔』の示唆するように本願成就文の即得往生住不退転である。
 宗祖は『愚禿鈔』に七深信の整理をするについて、まず、第一と第二とを引用して、

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

といわれる。即ち「文の意」を七深信と理解した上で、なお深信は第一と第二に尽きるとされたのである。こう見込まれるには、『礼讃』の深心釈が大きな参考であったと思われる。金剛心は具さには金剛の真心。『信巻』では「金剛の真心は無碍の信海なり」という。広大な大慈悲の救済世界である。これは他力至極である。至極というのは自力の残滓の一片もない。純他力の義である。『行巻』行一念釈に選択易行の至極という。易の至極である。他力の至極は純他力にして自力なしの意を顕わした。一乗無上とは『行巻』に一乗海を釈して、「ただこれ誓願一仏乗なり」というように、仏教界唯一成仏法であって、即ち無上功徳を体徳に持つ真実信の世界である。この真実は、近くは次上至誠心釈に宗祖のいう利他真実であるから、仏辺に真実心中作の行徳を体とする信心である。
 このように名づけるのが第一深信と第二深信とを一つにまとめての名である。逆に言えば、一つの深信の心を開いたものである。この意味を解するには、次の七深信の標列を見ねばならない。そこには、第一深信から第七深信まで列ねてあり、第一、いわゆる機の深信には、「自利の信心なり」とあり、第二、法の深信には「利他の信海なり」とある。第二にこうあるのは、第二深信単独で利他の信海ならば、この前の機法二種を一つにしての他力至極の金剛心というのと同じである。第一、機の深信単独では自利信心というのは、機法二種を一つにしての真実信海というのとは逆である。単独では自力信心であるが、機法二種を一つにした時は他力信心である。法の深信は単独でも他力信心である。
 機の深信を第一深信釈として、深心釈に組み入れたのは、疏主においては如何なる意であろうか。十一門科は九品に通ずるとしたので、第四門、三心を弁定して正因となす項も当然九品に通ずる。第六門にはそれぞれの行について、受法の不同を明かすとし、行には品毎に差があるが、これを因とはしない。ひたすら三心を正因とする。この正因の中心は深心である。それは深信である。深信とは唯信仏語(第五深信)である。順彼仏願(第七深信)である。それに機の善悪、智慧は関係ない。
 仏願建立の正所被の機は賢聖の智人ではなくて、罪重の凡夫である。第十八願所誓の行である念仏が与えられているのは下三品の機である。下三品の機こそ本願の正所被であると示してあるのが『観経』である。散善三輩九品は、『観経』である。散善三輩九品は、韋提の所謂にはないものを、釈迦自ら開説して、四十八願、即ち第二深信の機は、これであるとして第一深信の機、即ち下品の機をこの深心釈に明らかにされたのである。こう疏主は示して下されたものである。
 法然聖人は善導大師のこの釈意を『往生大要鈔』(『和語灯録』)に、

 善導和尚は未来の衆生の、この疑を起さん事をかえりみて、この二種の信心をあげて、我らが如き煩悩をも断ぜず、罪悪をも作れる凡夫なりとも、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声一声にいたるまで決定して往生するむねをば釈し給える也。

と窺われた上で、この実践の行者に示して、

正しく弥陀の本願の念仏を修しながらも、なお心にもし貪欲、瞋恚の煩悩をもおこし、身に自ら十悪・破戒等の罪業をもおかす事あらばみだりに自身を怯弱して返りて本願を疑惑しなまし。まことに此弥陀の本願に、十声・一声にいたるまで往生するいう事は、おぼろげに人にてはあらじ。妄念をもおこさず、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこし、強盛の心をもちて申したる念仏にてぞあるらん。われらごときのえせものどもの、一念・十声にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。

といわれる。罪深く、救いがたき汝をこそ救いたまう法なるぞということである。

 宗祖が二種一具を他力信とし、第一機の深信単独は自力信、第二法の深信単独は他力信とする点を整理すれば、
 第一は第二から開き出したもの
 第一は第二の中に含まれるべきもの
という解釈である。即ち、罪重の機は如来の願意の中に籠められているものである。われら衆生の罪重にして一点の出離の縁もないということは、われら自身で知るべくもないのである。知られる側の私は、私によって知ることが出来るが、その、知る側の私を知る私は居ない。知られる側の私は、罪深い者であると、私の側の私によって知られるだろうが、罪が深いと知れば知る程、知る側の私は賢く、憍慢の自力である。知る側の私を捨てようとすれば、なお捨てようとする自身が残っている。自己の内省、自己否定、求道などということを立てる限り、解くことの出来ない矛盾であり、自分では克服することは出来ない。それが出来るのは、他者に依らねばならない。そこに、他力の如来があって、汝は罪重し、無有出離之縁と私を徹見し、その故にこそ超世希有の願を建立されたのである。衆生としては唯信仏語という。仏語の中に機の深信を聞信するのである。それが第二深信である。機の深信は法の深信から開いて示したので、法の深信に内包されるものである。疏主が四十八願をもって出す所の『大経』弥陀分、即ち弥陀の因果を説示する中には、一語も衆生に罪重と告げる所はない。ないけれども、七高僧、殊に曇鸞大師が『浄土論』の二十九種荘厳を註解するに当って、後に末註諸家のいう所為の境、能為の願、成就の相という項目でもって示したことの中、所為の境が、迷界の依報、正報の救いがたい苦悩の姿である。更に道綽禅師は時に約し機に被らしめて、唯有浄土一門、可通入路と見られた。このような先賢の卓見を受けて、ここに至って浄土教の中心問題である深信の構造が、二種深信という形で明示されたのである。
 『大経』本願成就文の聞其名号を宗祖は。仏願の生起本末を聞くと釈した。如来は如より来生して因位の大乗菩薩を現じた。その現ずる所以は一切衆生にこの大乗菩薩の本末を示現呈示するにある。そこを一切衆生に説示したのが、釈尊の『大経』教説であり、それが釈尊出世の本懐であった。釈尊は『大経』に従如来生の、弥陀の因果を説いた後、釈迦分に、三毒段、五悪段を説いて衆生に勧信した。この三毒五悪の段に七高僧が仏願の「生起」即ち四十八願の正所被の機を見た。無有出離之縁の衆生であると見抜く示唆が、三毒五悪の所にあるのであろう。疏主に至っては、本願及び成就文の唯除五逆、誹謗正法の文の中に、むしろ能被の慈悲と所被の機を見、機の深信にいう無有出離之縁の者と顕された。
 法然聖人は機の深信の独立単行を案じて、『往生大要鈔』に、

ほとけの本願をうたがわねども、わが心のわろければ往生はかなわじと申あいたるが、やがて本願をうたがうにて侍る也。

として、信機の単行は『大経』に説かれる信罪の心を意味する本願疑惑に発する義を説かれた。『愚禿鈔』に機の深信が単独であることは、自力の信であるという意味がここにある。
 先に述べたように、自分による自分の反省、内省は不可能であるとしたが、それが可能であるとして、自身を罪重と見る自身の誤りに着眼出来ず、むしろ自己を罪重と見ることの出来る自己の力を信じているのであり、これは信罪の心である。即ち、自利の信心とする所以である。機の深信単立では自己の完全否定は到底不能である。
 念仏は如来の法である。そのことをあらわすのが第二深信、法の深信である。七深信の列標の第二には、即ちこれ利他の信海なりとある。機の深信は法の深信に含まれるものである。如来が衆生の性を無有出離之縁と見られた上に四十八願は立てられている。如来によって「汝は出離の縁なき者なり」と告げられ、同時に「汝を必ず救う」と告げられているのである。文に衆生を摂受すという衆生とは出離の縁なき一切衆生である。如来の生起本末といわれる五兆の願行は、衆生救済の到徹せる計らいであって、仏智不思議である。この法のはたらきかけにすべてを挙げて託するということは、自己のすべてを捨てるということである。自己を捨て切るには法の摂受が信受されなばならない。この如来の法を願力名号に於いて信受するのを乗じてといった。自力を捨てて他力に乗託するの義であるから、捨自帰他、捨機託法という。如来の、衆生の自力無功という前提を信受することが自力を捨て、自己を捨てる、自己を忘れる、自己の如来による否定を受け入れることである。行き届かざるなき如来の計らいを宗祖は仏智の不思議という。この仏智不思議に帰するのである。
 われわれの受法とは、大慈悲の如来あってこそ自己の全否定が信受するされるのであり、自己の全否定であって大慈悲の如来を信受することが出来る。この二つには前後はなく、二つの事実もない。本願の信楽を機法両面から顕したものである。『愚禿鈔』に、信受本願、前念命終という。信受本願とは成就文の信心歓喜であり、本願に乗託することである。前念命終とはその時に自己のすべてを本願海中に投託するので、曠劫流転の業命は命終する。即得往生は後念即生なりとは、本願成就文の即得往生住不退転というのは、信益同時に、往生成仏への念仏者の命が始まるという程の義である。正定聚の命が始まったのである。前念後念の語は『礼讃』前序に、前念命終、後念即生とあるものの、語を借りたのである。『礼讃』では命終と往生と間髪を入れないことを顕したが、『愚禿鈔』ではそれを信の初際に当てたのである。従って前念後念といっても、信受本願同時に即得往生住不退転であって、いわゆる信益同時である。
 以上第一信機に対して、第二だけを取り切って信法とされたのはなぜか。第三『観経』深信、第四『小経』深信をも含めて、少なくとも信法を大観小の深信としないのは何故かといえば、さきに触れたように『礼讃』前序の深心釈に信機、信法の二項目とし、『観』『小』両経は出ていない。もっとも法の深信とされる第二項にも『大経』とは出ていない。このことは当『散善義』も同じである。『大経』は『三部経』の中でも特別であるという取扱いである。宗祖に至っては『大経』は真実の経であって、『観経』『小経』は第十九願、第二十願開説の経であると見られるので、三経が同等の価値ではない。『観』『小』両経は『大経』法義の持っている慈悲方便の面が説き出されるのであるから、その根本である四十八願を挙げれば、すべての法義を持しているものである。即ち第三深信、第四深信には隠顕があるので今は両経は出さない。その点で『愚禿鈔』に第一と第二とを一組として真実信海とされてあることは、宗祖の研究の成果である。これは深々と釈家の意を尋ねられた答えである。
 以上、宗祖の二種一具の深信義を窺って来た。『選択集』三心章には、『散善義』の三心釈を二河譬まで引用されるが、その釈は誠に簡略であり、深心釈にも宗祖に示唆したものはない。もっとも語としては宗祖には二種深信はない。第一深信と第二深信を合して「二種」と呼ぶことを拒否するものを考えておいでたのが宗祖であろうか。
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タグ : 深川倫雄 二種深信

2009/12/17(木)
信心の人も 煩悩がやまぬ
以前より ひどいこともある
これは 大寒のあとの 余寒のような ものじゃ
やがて 次第に 暖かくなる
          (七里 恒順和上)
法悦百景 深川倫雄和上]より

タグ : 深川倫雄 七里恒順

2009/11/17(火)
私はラーメンが好きです。
というわけで、今回はラーメンの話から。
富山のラーメンといえば、黒醤油ラーメンが有名になりましたが、それとは別です。
富山県射水市のラーメン屋に「ラーメン工房」という店があり、チャンポンを売りにしています。
このラーメン屋があるのが小泉交差点ですが、小泉という場所は、江戸時代の西本願寺の学僧「僧樸和上」の生れた所です。

若い時は勉学に励み、米を炊く時間を惜しむが為に生の米を含んで、水を飲み噛んで食べていたことから、「米噛僧樸」と言われたそうです。
以前のコメントにも書きましたが、ちょっとアレンジして繰り返します。
(なお、このコメントを書いた11月5日は、僧鎔師の亡くなった空華忌だったんですね)

陳善院僧樸師は第四代能化・演暢院法霖から学びました。
44年間の短い生涯でしたが、僧樸門下からはいろいろな学轍が生れています。
 空華轍 陳善院僧鎔師
 石州派 実成院仰誓師(『妙好人伝』などの作者)
     仰誓師の子が履善師、履善師の弟子が大厳師
 芸州派 深諦院慧雲師
  芸州派から龍華派の雲龍師が出ています。
  また、慧雲師の弟子が芿園派の真実院大瀛師と石泉轍の勝解院僧叡師です。
 豊前派 崇廓師
 大同師
  大同師の弟子の遍照院大乗師の弟子が圓成院南渓師です。
 玄智師
 大麟師(『真宗安心正偽編』の著者)

このように、僧樸師の後、西本願寺の江戸宗学の黄金時代が到来します。
(それから間もなく三業惑乱が起きるのですが・・・)
なお、桃花房智洞も若い時に僧樸師から学んだことがあります。

僧樸師のエピソードは『法悦百景 深川法倫法話会報抄』(山口聖典研究会・編 探究社)にも出ています。

Book:ウィキポータル 法悦百景の五十八を読んで下さい。

タグ : 深川倫雄

2009/11/17(火)
浄土真宗の勉強の仕方の続きです。法話・講演会などのことではなくあくまでも書籍に限定してのことです。

 他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。
歎異抄第12章 註釈版聖典 839頁
とありますように、あれもこれも、たくさん読めばいいというわけではなくて、阿弥陀仏の本願が書かれている本を読めばよろしいのです。
 このブログの中にはいろいろな本が出てきますが、僧侶とか研究者でないのなら、全部読まなければならないということはありません。
 私自身の勉強もまだ始まったばかりです。

 今日は、「勉強」というより、「信を求めて」という意味で書きます。
 本当は「求めて」というのはあまり使わない方がいいと思うのですが、求めている人の気持ちからいうと「求めて」になってしまうのですね。
 言葉は難しいです。
 阿弥陀仏によって救われるのであり、本を読むことによって救われるのではないということを踏まえた上で、聴聞としての聖教・仏教書の拝読という意味で、私なりに思いを述べます。
 前回書いたものは基本的に省きます。

 さて、本題です。
 よく何を読んだらいいですかと聞かれます。

 親鸞聖人の『教行信証』(『教行証文類』)を読むことのできる人ならそれば一番いいでしょうが、難しいですから、蓮如上人の『御文章』がよいと思います。
 蓮如上人はどうも・・・という人は、親鸞聖人の和語聖教(『唯信鈔文意』とか『一念多念証文』など)がよいと思います。
 ちなみに、大法輪12月号の特集は「浄土真宗聖典ガイド」です。

 現代の人の書かれた書については、このブログで取り上げた方々、つまり、
深川倫雄
加茂仰順師
梯 實圓師
紅楳英顕
の著書はお薦めです。
他にも素晴らしい方がおられるでしょうが、私自身がまだお話を聞いたり、本を読んでいないので何とも言えません。
この4師の著作がいいと思いますが、コレクションをするわけではないでしょうから、全部で数冊でよいと思います。
(特に難しいものは信心を獲てから読まれたらよろしいでしょう。読まなければならないというものでもありませんけれど)
 深川師の著作で手に入れやすいのは『仏力を談ず』(永田文昌堂)です。
仏力を談ず仏力を談ず
(1996/09)
不明

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 加茂師の著作で手に入れやすいのは『浄土真宗 信心』(永田文昌堂)と『真宗の信心』(探究社)です。
 梯師の著作はCDも含めて既に何度も言及しました。
 紅楳師の著作については前回述べました。
浄土真宗がわかる本 (15)浄土真宗がわかる本 (15)
(2009/06)
紅楳 英顕

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浄土真宗がわかる本 (続) (伝道新書 (16))浄土真宗がわかる本 (続) (伝道新書 (16))
(1998/04)
紅楳 英顕

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 各師それぞれの味がありますので、読む人との相性もあるでしょうから、どなたが一番いいということではないです。

 これとは別に、妙好人のいろいろなお話はいいですね。
 私はお軽同行が好きですが、これも好みです。

 歎異抄第12章に書かれてある言葉を忘れず、読んだり聞いたりして下さい。

タグ : 歎異抄 深川倫雄 紅楳英顕

2009/10/23(金)
釈尊の沈黙の意味については既に一度書きました。
観無量寿経 覚書 その2
ところで
「私は仏法を聞いているのになぜ救われないのだろうか?」
という疑問を持っている人もいるでしょう。
先の「極難信」に引いたこととは違った観点から言いますと、それは、
「あなたの聞いている“仏法のようなもの”が正しくないからです。つまり、正しい仏法を聞いていないからです。」
とも言えます。
(某ブログなどに書かれている「因果の道理」などはとても仏の教えとは言えません)
「釈尊の沈黙の意味」一つをとっても、真逆の意味で説明している人もいます。
これでは阿弥陀仏、釈尊の心を知ることはできないでしょう。
『観経疏散善義講讃』深川倫雄著 320頁より引きますので、読んで下さい。

捨てて流転せしむべからずとは、仏の慈悲の心である。罪業の衆生を救うという如来は決して罪業の奨励も許可もしない。人はみな現在を生きる。未来に向かって生きる。過去はそれが善悪の何れであれ、どうすることも出来ない。
 例えば『観経』の序分、韋提希夫人の王宮に降臨された世尊は、怨を子に致して、悶絶号哭し、何等因縁と問い奉るに対して、黙然として語りたまわず。過去を解明してもどうすることも出来ない。現在の苦を知らんと欲せば過去の因を見よという言葉(註⑦)は、理かは知らねども慈悲なき言葉である。過去が現在を救いはしない。夫人の心が未来に向い、我を教えて清浄業処を観ぜしめよと請い奉ると、忽ちに光台現国以下、身業、口業の説法が始まった。太子、父王、夫人、その他の織りなした逆悪など、既に造れる罪業を問責するものではないことを示している。ことは未来にある。
既に造った罪業は、その苦報を思うにつけ捨ててはおけないのが如来の慈悲である。それが五劫思惟の時、一切衆生の曠劫流転の姿をみそなわした慈悲の心である。


註⑦ この語は伝聞して『因果経』にありというが、因果経は現存せず、文を検し得ない。

タグ : 深川倫雄 観無量寿経

2009/10/23(金)

すなはちみづから思念す。「われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし」と。

自ら思念すらくとは要門の機、信罪福の行者の自らの思案の仕所である。
迴らば亦死せん、住まらば亦死せん、去かば亦死せんとは、俗にこれを三定死という。
定死とは定んで死せんの語による。
迴えるとは、世間に交って、道徳の世界に安住するをいう。
これは曠劫以来繰り返して来た三途流転の道である。
住るとは煩悩の二河の前、東岸で左右する、即ち南北すること。
ここかしこに三乗の道を求め、ある種の宗教的世界に止まっても、所詮それは出離は難く流転は免れない。
とは人天、とは聖道、とは浄土とする解もあって佳し。
去くとは諸の善根を積植して西方へ往生を願じても、己の水火二河の煩悩の罪の重さに打ち勝つ自信はない。
即ち、進むも、流転に帰する。
この三定死は、今日、真剣な求道と称する者の自覚の時点であって、この時点では、この人は自力要門、信罪福の者である。

(『観経疏散善義講讃』深川倫雄著 254頁より)
※強調は深川師によるものです。見やすいように改行のみ変更してあります。

タグ : 深川倫雄 三定死

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