痴無明

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2009/11/13(金)
ちょっと難しいかもしれませんが、非常に大切なことです。

まず、加茂仰順師の『親鸞教学研究』より

第五節 真宗法義の立場
第一項 法義の位置づけ
一、廻向による分類(省略)
二、修・性の二徳による分類
 法界の如実相は、性徳・修徳の二面があって、しかも修性不二である。その中、性徳にすわる教えと修徳にすわる教えとがある。
 性…平等の理を語って、その実現を期する聖道門
 修…迷悟の差別を認めて、修徳の利を蒙る浄土門
それ故に、更に詳しくすれば、次のようになる。
 性徳…自力門の修因感果の法…廻向を行者の側に語る立場
 修徳…他力門の修徳顕現の法…廻向を弥陀にかぎる立場
これによって、悉皆成仏の実現は、他力教にかぎるということになる。
ここにまた、行を主格とする自力教と、信、(御廻向の信心)を主とする他力教が分かれてくる。
要するに、真実は「唯信」にあるということになるが、このことが成立するのは、仏随自意の法であるからである。


難しいですね。

理解を深めるために、ここで梯實圓師の『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』から引用します。

虚妄分別を離れた如来の無分別智が、迷っている人びとを救うために無分別後得智をおこしてもうけられたのが、一切衆生を善悪・賢愚の差別なく無礙に救いたまう本願の救いでした。それはまさに不思議の仏智の表現された領域であって、唯仏与仏の知見(ただ仏と仏とのみ知りたまう)の領域でした。ですから、たとえ最高位の菩薩である弥勒菩薩といえども、本願を思議し、計り知ることはできません。その仏智不思議の本願を人間の理知によって思議し、計量して信受しないことを本願疑惑といい、はからいをまじえずに仏智不思議の本願を信受することを信心というのです。したがって、本願疑惑は仏智に背反する心であり、虚妄分別を体としている分別思議を本体とする心です。
 いいかえれば、同じ虚妄分別が、真如という性徳を受けいれないことを無明といい、無礙光如来の本願という修徳を受けいれないことを疑惑といっていたのです。そのように両者は、体は一つであるから、本願疑惑を無明ともいうことができるのです。
 しかし性と修の別がありますから、そのあり方は同じではありません。すなわち疑無明は現生において本願の法を信受するときに破られますが、痴無明は煩悩とともに臨終まであり続けます。しかし体は一つですから、疑が破れたとき、妄念煩悩はあっても生死に迷うことはなくなります。
『正信偈』に、
 たとへば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし
といわれたものは、そのこころをよく表しています。
 なお親鸞聖人は、本願に対するときは必ず疑といって、無明とはいわれません。ただ本願を仏智とみなし、光明と見るとき、それに背反する疑惑のことを無明と呼ばれたのです。これは性と修をはっきり区別し、修より性へという浄土教の教格を厳守されるからです。しかし、信心は無明を破る仏智を体としているというので、「信心の智慧」と表現されるように、信心を智慧と呼ばれるのです。


簡単に言いますと、性徳とは真如法性の理で、それに向かって修行をし、覚るというのが聖道門です。それに対して、我々にはそのようなことはできないので、阿弥陀仏の本願(修徳)を受けいれて救われるというのが浄土門です。
阿弥陀仏の本願を受けいれて、すなわち信心獲得して無くなるのは、修徳に対する疑惑(疑無明)であり、性徳を受けいれない心(痴無明)は死ぬまでなくなりません。しかし、疑無明が破れたときに「生死に迷う凡夫」ではなくなるのです。
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タグ : 加茂仰順 梯實圓 痴無明 疑無明

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