【原文】
「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。
(註釈版聖典 701頁)
【現代語訳】(浄土真宗聖典 現代語版より)
「但有称名皆得往」というのは、「但有」とはひとすじに名号を称える人だけが、みな往生するといわれているのである。このようなわけで「称名皆得往」というのである。
【補足】
・この部分に限りませんが、『唯信鈔』のご文を読んだ方がいいです。
国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せ られんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。
(註釈版聖典 1340-1341頁)
・唯信鈔で聖覚法印が第17願を引いておられるところが重要です。
・「称名」の「称」はただ口に「となえる」だけではありません。「唱」も「となえる」ですが、念仏の場合は「唱」ではなく「称」です。それは「称」は「称揚」の称であり、「ほめたたえる」という意味があるからです。
「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。
(尊号真像銘文 本 註釈版聖典 655頁)
〔聖典の脚注〕
仏をほめたてまつるになる
本願を信じて念仏すれば仏を讃嘆していることになる。念仏は讃嘆の徳をもつ行業として私たちに与えられているので、「…になる」という。
〔現代語訳〕
「称仏六字」というのは、南無阿弥陀仏の六字を称えるということです。
「即嘆仏」というのは、つまり南無阿弥陀仏を称えることは仏を讃えたてまつることになるということです。
(聖典セミナー 尊号真像銘文 白川晴顕著 ISBN978-4-89416-862-6)
〔補足〕
ここで大事なのは、「ほめたてまつるなり」ではなく、「ほめたてまつるになるとなり」と言われているところです。
私たちには名号の値を知る能力も、ほめる資格もないのですが、名号は阿弥陀仏が造られ、回向して下されたものなので、「ほめることになる」のです。
本来、私たち凡夫に阿弥陀仏のお力の値は分かりませんから、はかることも、ほめることもできないのです。
はかることができ、ほめることができるのは、仏だけなのです。
これを「唯仏与仏の知見」と言います。
(なお、唯仏与仏の知見は法華経に出ている言葉で、そこでは仏のみが諸法実相を知ると言われているのです。仏と仏のテレパシーという意味ではありません)
私たち凡夫が称えても、ほめることになる
「南無阿弥陀仏」
「帰命尽十方無碍光如来」
を阿弥陀仏がつくって下さり、与えて下さったのです。
それを称名念仏は簡単だから、誰でもできるからと軽く見ているのはとんでもないことです。
「称」を単に「言う」と説明されているからこうなるのではないかと思います。
念仏は一言一言が、阿弥陀仏の呼び声であり、説法なのです。
そして、自分の声を聞くのですが、聴聞になるのです。
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