37 称名正因の異安心とはどんなことなのか(同書125頁)
問 称名正因の異安心というのは、どんなことをいうのでしょうか。
この問いに対する答えの中に次の表現があります。
正確に言えば、素人は、これらの言葉をちょっと聞くと、大変けっこうなありがたい、念仏さえ称えれば助かる教えのように思いましょうが、多少でも浄土真宗の学問をした者にはとんでもない邪義であり、異安心だということが分かります。
またこのようなことを認めますと、浄土真宗の安心は根本から転覆するのです。なぜなら、真宗の教義の骨格は、「信心正因、称名報恩」であり、信心一つで助かるのであって、称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。
(中略)
わが親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人を貫く浄土真宗の教えは、十九願や二十願の教えではなく、十八願真実の教え、いわゆる、信心正因、称名報恩でありますから、信前信後を問わず、一貫してこの教えを説かねばなりません。
もちろん、人によって未熟の者もあって、信心正因を勧めても、なかなか、信心決定ということが分かってもらえな場合もありますが、だからといって「念仏称えていたら助かるのだ」といって邪義を教えてはならないのです。
東西本願寺派、興正寺派の真宗教学において「信心正因 称名報恩」は宗旨であり常教である。
と言うべきなのでしょう。
それはその通りなのですが、問題は次の「称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです」というフレーズです。
このことはすでに、苦笑の独り言にもかつて取り上げられています。
これだと「信前は称名念仏をしてはいけない」と受け取る人もいるかもしれません。
親鸞会の人が称名念仏を軽視するのはこのような教示によるものでしょう。
「信心正因 称名報恩」の意味について、『新編 安心論題綱要』(編集 勧学寮)十四称名報恩の義相(107頁)には
本願には三心(信心)と十念(念仏)が誓われているが、十念には乃至という言葉がつき、数が限定されていない。また成就文には信益同時であることが説示されている。つまり信心の開けおこる時に、往生成仏の因は満足するから、信心こそが正因であり、念仏は信心をいただいたすがたとしてたもちつづけられるもので正因ではない。称名念仏とは、その本質は正定業であるが、称える心持ちからいえば報謝の行であり、決して称名という行為を役立たせて往生成仏を期待するものではない。つまり、信心が正因だから称名は報謝行ということになる。
と書かれています。
また、親鸞聖人は尊号真像銘文に
「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。
「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。
また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。
「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。
「一切善根荘厳浄土」といふは、阿弥陀の三字に一切善根ををさめたまへるゆゑに、名号をとなふるはすなはち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。
(註釈版聖典655頁)
とおっしゃって、称名念仏の意義として「嘆仏」「懺悔」「発願回向」「荘厳浄土」の4つをあげられています。
このご文の意味はいずれあらためて書きたいと思いますが、今日はあげるだけにしておきます。
まとめて言いますと、称名念仏には、
「正定業」「報謝行」「嘆仏」「懺悔」「発願回向」「荘厳浄土」
などの意味があると親鸞聖人は教えられているのです。
多少でも浄土真宗を勉強したことがある人ならば分かることです。
他力の称名念仏は、名号(南無阿弥陀仏)が私の口を通してはたらいておられるすがたである正定業であり、往生に役立たせようという心のない報謝の行である。
と言うべきなのです。
いずれにせよ、
「称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです」
という表現はよくありません。
もし、どうしてもこう言いたいのならば、
「諸善万行も、すべて信後報謝に限ります」
ということもあわせて言えばいいでしょう。
(浄土真宗には「諸行報恩」という教えはありませんが・・・)
それにしても、昔は
「浄土真宗の教えは、十九願や二十願の教えではなく、十八願真実の教えである」
と言われていたのですね。
(先月の新聞ですが、会員はたぶん気づいていないでしょう)
昭和は遠くなりにけり。
と感じます。